第七十話 百を数える前に
「四」
ヴァルターの声が、風に乗って第二関門へ届く。
修司は、城壁の上から五人の捕虜を見つめた。
門は開けない。
五人も死なせない。
言うだけなら簡単だ。
敵は三百。
こちらは城壁の内側。
人質までは七十歩以上あり、その間を黒い杭の兵が幾重にも囲んでいる。
「五」
「リーゼ。あの合図は間違いないんだな」
「ええ。二度踏むのは、足が動くって意味」
リーゼの声は震えていた。
だが、弓を握る指は止まっていない。
「なら、もう一つ聞く。獲物に囲まれたとき、左右のどちらへ逃げるかはどう伝える?」
「つま先を向ける。けど、どうして――」
「六」
若い猟師の右足が、ほんのわずかに外を向いた。
関門から見て、東。
ヴァルターの左側だった。
修司は、五人の後ろへ渡された一本の縄を見る。
それぞれの手首を縛った短い縄が、その一本へ結ばれている。
両端を黒い杭の兵が握り、誰か一人が立てば全員の腕が引かれる仕組みだ。
逃走を防ぐための拘束。
だが、五人が同時に同じ方向へ動けばどうなる。
両端の兵に、五人分の体重がかかる。
「七」
五人は、まだ立てる。
そして、つながっている。
「五人目の班だ」
修司は呟いた。
「何ですか?」
「あの人たちも、救助を待つだけじゃない。自分たちで逃げられる」
クラウディアが敵陣を見た。
「ですが、合図を送る方法がありません」
「リーゼなら送れる。それに――敵が、合図を見えやすくしてくれた」
捕虜の首から下げられた、赤い手の紙。
人質を目立たせ、こちらの恐怖を煽るための印だ。
白い服や鎧が並ぶ中で、赤だけが強く目へ飛び込んでくる。
ヴァルターは、人の視線を中央へ集めた。
ならば、その視線を逆に利用する。
「八」
修司はエルマーを振り返った。
「この門に、兵が外へ出るための小さな通路はないか」
「東塔の下に排水用の点検路がある。だが、人が一人ずつ這って通れる程度だ。外の空堀へ出るぞ」
「出口は敵から見える?」
「街道からは死角だ。しかし、出た後が続かん。人質までは三十歩以上ある」
「十分だ」
「九」
クラウディアが修司の前へ立つ。
「まさか、ご自分も行くつもりですか」
「俺が行かなきゃ、五人の動きを合わせられない」
「右腕も、先ほどの技能の反動も残っています」
「分かってる」
「分かっている人は、そんな顔をしません」
修司は、吊った右腕を見た。
怖くないわけではない。
門の外には三百の敵がいる。
一歩間違えば、自分が六人目の人質になる。
それでも、城壁の上から指示を出すだけでは届かないものがある。
「あの五人は、俺たちの紙を届けるために走ってくれた」
修司はクラウディアをまっすぐ見た。
「今度は俺が、あの人たちのところまで行く」
「十」
クラウディアは一度だけ目を閉じた。
そして、剣を抜く。
「では、私が道を開きます。私より前へは出ないでください」
「それは努力する」
「約束してください」
「……分かった。約束する」
「今、間がありました」
「十一」
数える声が、容赦なく続く。
◇
修司は左手を上げた。
「《連携支援――班別展開》」
光が四方へ伸びる。
エルマー。
城壁の若い水術士。
リーゼ。
クラウディア。
四人を中心に、守備兵たちの動きが枝分かれして見えた。
広げすぎるな。
必要な目的だけを渡せ。
修司は、息を一度整えた。
「エルマー隊長。白い布を門の中央に掲げてくれ。降伏の使者を出すように見せる」
「時間を稼ぐのか」
「違う。敵の目を、中央へ集める」
「二十三」
「水術士。白布が上がったら《水壁》を人質へ向けて放ってくれ。ただし、低く撃つな。セラフィナの頭上を狙うんだ」
若い術士が目を丸くする。
「届きません! それに、あの風術士なら散らします!」
「散らさせるんだ」
先ほど、火球と水壁がぶつかったとき、細かな水滴が関門中へ広がった。
強い風は、水の塊を壊す。
だが、消すわけではない。
「霧になれば、敵の視界を奪える。それに風の流れも見える」
リーゼが意図を悟った。
「見えない風が見えれば、矢を曲げられる」
「一射だけでいい。狙うのは人じゃない」
修司は、捕虜をつないだ長い縄を指す。
「東側の端。五人が引いて、縄が一直線に張った瞬間だ」
「……やってみせる」
「三十一」
修司は最後にエルマーへ言った。
「城壁の弓兵は、霧が晴れた直後に俺たちの退路を守ってくれ」
「待て。お前たちは、いつ外へ出る」
「もう出る」
修司はクラウディアと護衛二人を連れ、東塔へ走った。
◇
「四十二」
石の点検路は狭く、湿っていた。
吊った右腕が壁へ触れるたび、鈍い痛みが走る。
前を行くクラウディアが鉄格子を押し上げた。
土と草の匂いが流れ込む。
出口は、街道から一段低くなった空堀の底だった。
頭上には黒い杭の兵が並んでいる。
まだ、こちらには気づいていない。
「四十七」
修司たちは身を低くして、崩れた石積みに沿って進んだ。
人質まで、三十歩。
間にいる敵は七人。
処刑役が二人。
縄の両端を持つ兵が二人。
槍兵が三人。
その奥に、ヴァルターとセラフィナ。
「五十二」
捕虜の一人、粉挽きの兄がわずかに身体を傾けた。
左脚へ体重をかけられていない。
捕まるときに痛めたのだろう。
走らせれば転ぶ。
だが、弟が右隣にいる。
五人をばらばらに逃がすのではない。
つながったまま、互いを支えさせる。
「《生活動作把握》」
痛みが、こめかみの奥を刺した。
修司は歯を食いしばる。
五人の足の位置。
立ち上がる方向。
支えられる者と、支える者。
縄が張った瞬間に生まれる力の流れ。
視界の中で、一本の道筋になった。
「五十八」
「修司、鼻血が」
「まだ動ける」
「それを合図にしないでください」
クラウディアが布で修司の鼻元を乱暴に拭った。
「戻ったら、エヴァに叱ってもらいます」
「俺より君の方が怒ってないか」
「六十一」
「ええ。かなり」
その返事を聞いて、修司の呼吸が少しだけ落ち着いた。
◇
「六十九」
第二関門の中央に、白い布が上がった。
黒い杭の兵たちが、どよめく。
ヴァルターが片手を上げ、数えるのを止めた。
「ようやく、賢明な判断をなさいましたか」
セラフィナは城壁を見上げた。
その視線が、東から外れている。
「今だ」
修司は低く言った。
城壁で、若い水術士が杖を振り上げる。
「《水壁》!」
青い水の塊が、高い弧を描いた。
人質の頭上を越え、セラフィナへ落ちていく。
「こんなものを」
紅い外套が翻った。
「《風断》!」
風の刃が、水壁を切り裂く。
巨大な水の塊が、無数の粒へ砕けた。
セラフィナの風が、それを捕虜と兵たちの間へ吹き戻す。
白い霧が、一気に広がった。
「何も見えん!」
「風術を止めろ!」
「馬鹿者、止めれば水が落ちる!」
黒い杭の隊列が乱れる。
修司の目には、霧の流れが見えた。
右から左。
強い風が二度。
その後、一瞬だけ弱まる。
同じものを、城壁のリーゼも見ている。
「七十」
ヴァルターは数えるのを再開した。
「小細工で、私の決定は変わりません」
若い猟師の右足が、地面を二度打つ。
次に、つま先を東へ向けた。
リーゼが城壁から、甲高い鳥の声をまねた。
森で仲間を呼ぶ合図。
若い猟師が顔を上げる。
「七十一」
二度目の鳥の声。
五人が同時に息を吸った。
「七十二」
三度目。
五人が、一斉に立ち上がった。
粉挽きの兄の身体を、弟と騎兵隊長が左右から支える。
全員が東へ駆けた。
長い縄が一直線に張る。
「止めろ!」
両端の兵が踏ん張った。
五人分の体重が、一度に腕へかかる。
西側の兵が前のめりに倒れた。
東側の兵は、かろうじて縄を離さない。
白い霧の中を、一筋の矢が走った。
風に押され、左へ流れる。
だがリーゼは、その流れまで読んでいた。
矢が縄の結び目へ突き刺さる。
張り詰めた繊維が弾けた。
「走れ!」
修司が空堀から飛び出した。
「東だ! 声の方へ!」
「いたぞ! タカセだ!」
槍兵三人が、こちらを向く。
クラウディアが修司を追い越した。
一人目の槍を剣で外へ弾く。
返した柄で顎を打ち、身体を沈めて二人目の足を払う。
三人目がクラウディアの背へ槍を突き出した。
「右後ろ!」
修司の声と同時に、彼女が身をひねる。
槍先が外套を裂いた。
クラウディアは振り向かない。
剣の鞘を後ろへ突き、兵の鳩尾を正確に打ち抜いた。
「七十八」
霧が薄くなる。
五人の捕虜が見えた。
粉挽きの兄が足をもつれさせる。
「止まるな! 弟さんは兄さんの腰を持て! 隊長は肩を!」
修司の《個別支援》が三人を包む。
「一、二、一、二! 兄さん、左脚で進もうとしなくていい。右へ体重を預けろ!」
乱れていた三人の歩調がそろう。
残る二人も、切れた縄を引きながら続く。
そこへ、処刑役の男が回り込んだ。
大剣が若い猟師へ振り下ろされる。
「伏せろ!」
猟師が身を投げた。
刃が頭上を通る。
修司は処刑役の懐へ踏み込んだ。
右腕は使えない。
左手で男の手首へ触れる。
大剣を止めようとはしない。
振り抜く力を、そのまま斜め下へ導く。
刃が地面へ食い込んだ。
男の肩が落ち、重心が前へ流れる。
修司は左足を軸に身体を回した。
肩と背を男の胸へ沿わせる。
大きな身体が、修司の横を越えて地面へ転がった。
「この、おっさんが!」
もう一人の兵が、短剣を抜いて修司へ飛びかかる。
迎え撃ったのは、若い猟師だった。
縛られた両手のまま兵の膝へ体当たりする。
体勢を崩した男を、護衛二人が左右から押さえ込んだ。
「俺たちも動ける!」
若い猟師が叫んだ。
「助けられるだけじゃない!」
「そのとおりだ!」
修司は、思わず笑った。
◇
「八十六」
ヴァルターの声が近づく。
霧の中から、灰色の上着が現れた。
商人の手には、細身の短剣が握られている。
その腕が、粉挽きの兄の首へ伸びた。
「あなたは、本当に計算を狂わせる」
修司は、男と捕虜の間へ入った。
「人を数字でしか見ていないからだ」
「数字は裏切りませんよ。百まで数えれば、一人死ぬ」
ヴァルターが踏み込む。
短剣の切っ先は、修司の動く左腕を狙っていた。
合気道を警戒している。
修司は下がらなかった。
左半身を前へ出す。
「九十」
刃が走る。
左手で受ければ、手首を切られる。
修司は、吊った右腕を支える布の端を左手で引いた。
緩んだ布が短剣へ絡む。
一瞬だけ、切っ先が鈍った。
その一瞬で十分だった。
刃の外側へ踏み込む。
左肘でヴァルターの腕を押し上げ、肩を胸へ当てた。
「人は――」
腰を沈める。
「数えたとおりには、倒れない!」
ヴァルターの足が地面を離れた。
灰色の上着が宙を舞い、男は背中から泥へ落ちる。
短剣が転がった。
同時に、銀色の小さなものが胸元からこぼれる。
銀狼の留め具だった。
修司は左足でそれを踏み、ヴァルターから隠した。
「九十――」
ヴァルターの声が、初めて止まった。
紅い影が霧を裂く。
「ヴァルター!」
セラフィナが杖を向けた。
風が一点へ集まる。
修司たち全員を、空堀の外へ吹き飛ばすつもりだ。
「修司、伏せて!」
クラウディアが前へ出る。
だが、剣で風は防げない。
修司の視界を、残った水滴が横切った。
風は正面からではない。
右側へ渦を巻いている。
「左へ三歩! 全員、石積みの陰へ!」
《連携支援》が、言葉より早く方向を伝える。
五人と護衛が、一斉に左へ動く。
粉挽きの兄だけが遅れる。
修司が腰を抱え、クラウディアが肩を引いた。
全員が石積みの陰へ飛び込む。
「《風槍》!」
圧縮された風が、直前まで修司たちのいた地面を抉った。
土と石が高く舞い上がる。
「今だ! 退路を守れ!」
城壁の上で、エルマーが剣を振り下ろす。
矢が一斉に降った。
人を射るためではない。
追撃しようとした兵たちの足元へ、隙間なく突き立つ。
黒い杭の隊列が止まった。
「全員、点検路へ!」
クラウディアが五人を先に走らせる。
「タカセ殿、先に!」
「俺は最後でいい!」
「約束が違います!」
「君より前には出てない!」
「そういう意味ではありません!」
怒鳴りながら、クラウディアは追ってきた兵の剣を受け流した。
修司は粉挽きの兄を点検路へ押し込む。
その後へ弟。
騎兵二人。
若い猟師。
護衛二人が続く。
敵の矢が、修司の足元へ刺さった。
次は外さない。
「クラウディア!」
「先に入ってください!」
「一緒に戻るんだ!」
修司は左手を差し出した。
クラウディアがその手をつかむ。
二人は同時に空堀へ飛び降りた。
直後、風の刃が石積みの上を削り取った。
◇
鉄格子が閉まる。
エルマーが内側から太い閂を落とした。
五人全員が、そこにいた。
粉挽きの兄は座り込んでいるが、意識はある。
騎兵たちは互いの縄を解き、若い猟師は泥だらけの顔で笑っている。
城壁の上から歓声が降ってきた。
「五人とも戻ったぞ!」
「百より先だ!」
「タカセが、取り返した!」
リーゼが階段を駆け下りてきた。
若い猟師の胸を、拳で強く打つ。
「馬鹿! 捕まってんじゃないわよ!」
「助けに来てくれると思ってた」
「来なかったらどうするつもりだったの!」
「そのときは、俺があいつらを森に連れ込んで――痛い、痛いって!」
リーゼはもう一度殴り、それから若者を抱きしめた。
修司は足元に目を落とす。
泥のついた銀狼の留め具を拾い、クラウディアへ差し出した。
「これも戻ってきた」
クラウディアは留め具を受け取らず、修司の外套へ手を伸ばした。
銀狼を、彼の胸元へ留める。
「これは、もう少しあなたが持っていてください」
「でも、君の家のものだろ」
「だからです」
クラウディアの指が、わずかに震えていた。
「二度と、敵の手へ渡さないでください」
「……分かった」
修司が答えた直後、外で角笛が鳴った。
敵の総攻撃かと、兵たちが再び武器を取る。
だが、音は門の正面からではない。
黒い杭の軍勢の、さらに後方。
一度。
二度。
三度。
騎兵隊長が顔を上げた。
「グランフェルの角笛だ」
修司たちは城壁へ駆け上がる。
街道の彼方から、騎馬の一団が現れていた。
先頭に掲げられているのは、銀狼の旗。
その隣で、何十枚もの紙が槍へ結ばれ、風にはためいている。
赤い手の警告紙だった。
「どうして……俺たちは全員、捕まったはずだ」
騎兵隊長が呟く。
粉挽きの弟が、痛む兄を支えながら首を振った。
「全員じゃない」
「川辺の洗濯場で、一枚だけ女の子に渡した。文字は読めなかったが、次の水車小屋へ持っていけと言ったんだ」
一枚が、人から人へ渡った。
名も知らない誰かが、途中で止めなかった。
その一枚が、騎兵をここまで連れてきた。
黒い杭の軍勢に動揺が走る。
閉じた第二関門。
城壁の弓兵。
そして背後から迫るグランフェル騎兵。
ヴァルターの計算から、完全に逃れた一枚だった。
灰色の上着の男が馬車へ乗り込む。
セラフィナの風が土煙を巻き上げ、黒い杭の兵たちは南へ退き始めた。
逃げる馬車の窓から、ヴァルターがこちらを見上げる。
いつもの余裕ある笑みは、もうなかった。
修司は銀狼の留め具へ触れた。
門は守った。
五人も取り戻した。
そして、彼らがつないだ紙は、援軍まで連れてきた。
完全な勝利のはずだった。
そのとき、救出されたもう一人の騎兵が、息を切らして城壁へ上がってきた。
「タカセ殿。喜ぶのは、まだ早い」
男は、懐から折り畳まれた紙を取り出した。
赤い手の警告紙ではない。
王国救恤院の印が押された、新しい手引きだった。
「奴らに捕まったとき、荷車の中で見つけた。第六版の次に配るものらしい」
表紙には、こう記されていた。
『王国救護手引き・第七版』
その下にある挿絵を見て、修司の背筋が冷えた。
描かれていたのは、第二関門を襲う黒い杭の兵ではない。
剣を持たない老人と、幼い子どもたち。
そして見出しには、大きな赤い文字で――
『北部に発生した疫病患者を、王都へ入れてはならない』
と書かれていた。
修司は紙を握りしめた。
ヴァルターの次の戦場は、門ではない。
人々の恐怖、そのものだった。




