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国を立たせる介護士 ~52歳で異世界召喚された外れ職《生活支援士》、寝たきりの老将から滅びかけた王国まで再建する~  作者: 狼賀亮一郎
第三部 偽りの手引きと紙の戦争編

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第七十一話 疫病は、紙から始まる

「触るな!」

 修司の声が、第二関門の城壁へ響いた。

 だが、遅かった。

 救出された騎兵が持つ『王国救護手引き・第七版』を、エルマーが受け取っていた。

「何だ、この臭いは」

 エルマーが顔をしかめる。

 次の瞬間、激しく咳き込んだ。

「隊長!」

 隣にいた兵が背を支える。

 その兵も二度、三度と咳をした。

 騎兵の目が赤くなる。

 城壁にいた別の兵まで、喉を押さえた。

「疫病だ!」

 誰かが叫んだ。

 その一言で、歓声に包まれていた関門が凍りつく。

「第七版に書いてあったとおりだ!」

「北から来た連中を近づけるな!」

「門の外へ出せ!」

 守備兵たちが後ずさる。

 剣を抜く音が、あちこちで重なった。

 つい先ほどまで命を懸けて共に戦ったグランフェルの騎兵へ、切っ先が向けられる。

「待ってくれ! 俺たちは病人じゃない!」

「なら、なぜ咳をしている!」

 問い返した兵自身も咳き込んだ。

 恐怖が、一気に広がる。

 ヴァルターは、ただ嘘を書いたのではない。

 嘘を信じるための光景まで作っていた。

「全員、その場から離れろ!」

 修司は第七版の周囲を指した。

「風上へ! 咳をしている人には触らない。剣も下ろせ!」

「タカセ! 疫病患者を関門の中へ置いておけと言うのか!」

「疫病かどうか、まだ誰にも分からない!」

 修司は怒鳴り返した。

「分からないから、離して観察するんだ! 外へ追い出すのも、全員で取り囲むのも違う!」

 強い口調に、兵たちの動きが一瞬止まる。

 その間に、クラウディアが修司の前へ出た。

「剣を収めてください!」

 銀狼の紋章を見せる。

「ここで味方同士が争えば、ヴァルターの思うままです!」

 エルマーが咳をこらえながら、手を上げた。

「全員……剣を下ろせ。タカセの指示に従え」

 守備兵たちが、ゆっくりと剣先を下げる。

 修司は第七版から距離を取り、周囲を見た。

 最初に咳をしたのはエルマー。

 次が、その背へ触れた兵。

 そして、紙を渡した騎兵。

 北から来た騎兵が最初ではない。

 紙へ近づいた順だ。

「リーゼ。君は咳が出ているか」

「出てない。あたし、紙には近づいてないもの」

「クラウディアは?」

「何ともありません」

 同じ場所にいるのに、二人には症状がない。

 修司は鼻と口を布で覆った。

「《生活動作把握》」

 淡い光が、咳き込む三人を順に包む。

 呼吸は速い。

 涙が止まらず、喉と鼻に強い刺激がある。

 皮膚も赤くなっている。

 だが、三人の症状はあまりにも似すぎていた。

 発症までの時間まで、ほとんど同じだ。

 感染する病なら、同じ瞬間、同じ強さで現れるだろうか。

「熱を見てくれ」

 修司は近くにいた衛生兵へ言った。

「ですが……」

「布を当てて、素手では触れない。額だけで決めず、脈と意識も確認する。俺は治療師じゃない。断定するには、あんたの知識が必要だ」

 衛生兵は頷き、口元を覆ってエルマーへ近づいた。

「脈は速い。しかし、熱はそれほど高くありません」

「ほかの二人も頼む。咳をしていない人とは離しておいてくれ」

 修司は紙を見た。

 城壁の石床へ落ちた第七版。

 風がページをめくるたび、赤い見出しの表面から、ごく細かな粉が舞っている。

「水術士!」

 若い術士が杖を握って走ってきた。

「《水壁》は使うな。風で粉が広がる。弱い水を、真上から紙だけに落とせるか」

「やってみます」

 杖の先から、細い水の糸が落ちる。

 第七版の表紙が濡れた。

 赤い文字がにじみ、その周囲から血のような色が広がっていく。

 修司は目を細めた。

「これは、印刷した色じゃない」

「分かるんですか?」

 クラウディアが尋ねる。

「印刷された色なら、こんなふうに表面だけが塊になって流れない。赤い粉を、刷った後から振りかけてある」

 デザイナー時代、印刷所から届く色校正を何度も見た。

 紙へ染みた色。

 表面へ乗った色。

 乾ききらず、指へ移る色。

 わずかな違いでも、商品写真の色が変われば刷り直しになった。

 二十年近く見続けたものを、修司の目は忘れていない。

 若い水術士が、濡れた紙から流れた赤い液を見て息を呑む。

「炎棘草です」

「知っているのか」

「乾かして粉にし、倉庫で焚く薬草です。鼠や虫を追い出すために使います。吸えば咳と涙が出て、肌が熱を持つ。軍では、煙で敵を穴から追い出すのにも……」

「治るのか?」

「少量なら、水で洗って新しい空気を吸えば。ただ、多く吸えば呼吸が止まることもあります」

 周囲の兵がざわめく。

「疫病ではないのか」

「少なくとも、今ここで一斉に出た咳は、この粉の可能性が高い」

 修司は言葉を切った。

「だが、本当の病人がいないとは言い切れない。咳をしている三人は分けて休ませ、治療師に診てもらう。顔と手を水で洗い、使った布はほかの物と混ぜないでくれ」

「すぐにやらせる」

 エルマーは苦しそうに答えた。

 剣を向けられていた騎兵たちの肩から、力が抜ける。

 しかし、修司は安堵できなかった。

 第七版は一冊ではない。

「この紙を、どこで見つけた」

 修司は騎兵へ尋ねた。

「黒い杭の荷車だ。捕まった俺たちは、幌の中へ押し込まれた。そこに同じ束が積んであった」

「何束だ」

「分からん。荷車一台ではない。俺が見ただけで六台はあった」

「行き先は?」

「すべて南だ。王都へ向かっていた」

 クラウディアの顔色が変わる。

 六台分の第七版。

 人が集まる場所で紙を開けば、周囲の者が咳き込み、目を赤くする。

 そこへ『北部で疫病が発生した』という文章がある。

 誰もが、目の前の光景を証拠だと思う。

「最初から、これが狙いだったんだ」

 修司は濡れた第七版を見下ろした。

「黒い杭が門を破れなくても、王都の人間が自分で門を閉ざすように」

     ◇

 南の空で、鐘が鳴った。

 一度ではない。

 短く、激しく、何度も。

 エルマーが城壁の南端へ走る。

「王都北区の火災鐘だ!」

 白い城壁の向こうから、黒い煙が一本、上がっていた。

 続いて二本目。

 場所は、王都北門に近い救護所の方角だった。

「もう配られてる」

 リーゼが呟いた。

 関門の南側から、一頭の馬が駆けてくる。

 騎手は王都守備隊の外套を着ていた。

 馬体は汗に濡れ、男の額から血が流れている。

「第二関門へ急報!」

 男は馬から転げるように降りた。

「北区救護所で疫病が発生! 市民が建物を取り囲み、焼き払おうとしている!」

「中には誰がいる」

 修司が駆け寄る。

「北部から避難してきた老人と子どもだ。三十人ほどいる。守備兵が止めているが、群衆は二百を超えた!」

「火災鐘は?」

「投げ込まれた松明が、隣の物置へ燃え移った!」

 修司はクラウディアを見る。

 彼女はすでに、自分と修司の馬を用意するよう兵へ命じていた。

「行くんでしょう?」

「ああ」

「今度こそ、私より前へ出ないでください」

「今度は努力じゃなく、約束する」

「信用してよいのか迷います」

「俺も、少しは学ぶ」

 リーゼが弓を背負う。

「あたしも行く。あの赤い紙、全部射落としてやる」

「紙じゃなく、火を持つ手を狙ってくれ」

「分かってるわよ!」

 三人は南門から馬を走らせた。

     ◇

 王都へ近づくほど、街道を逆方向へ逃げる人が増えた。

「北の人間に近づくな!」

「咳をした者は殺されるぞ!」

「救護所から病人が逃げた!」

 事実ではない言葉が、人から人へ渡るたびに形を変えている。

 家の扉が閉まり、二階の窓から家具が落とされ、道を塞いでいた。

 馬を進められない。

「降りるぞ!」

 修司たちは馬を守備兵へ預け、人の流れへ逆らって走った。

 曲がり角を抜けた瞬間、熱風が顔へ当たる。

 北区救護所は、古い穀物倉を改装した二階建ての建物だった。

 隣の物置から炎が上がり、救護所の軒へ燃え移ろうとしている。

 正面には、市民が押し寄せていた。

 棍棒。

 農具。

 油壺。

 恐怖に引きつった顔。

 入口を守る十数人の兵へ、怒号と石が浴びせられている。

「病人を出せ!」

「王都まで皆殺しにする気か!」

「陛下の手引きに書いてある! 北の者を入れるな!」

 建物の二階窓に、小さな顔が見えた。

 少女が泣きながら、閉じた窓を叩いている。

 だが、正面扉には外側から太い鎖が巻かれていた。

 中の人間を逃がさないためだ。

「誰が鎖をかけた!」

 クラウディアが守備兵へ問う。

「分かりません! 群衆が押し寄せたときには、すでに!」

 周囲の壁には、第七版から破った紙が何十枚も貼られている。

 赤い文字。

 赤い手形。

 風が吹くたび、目に見えない粉が群衆へ降りかかる。

 前列の男が咳き込んだ。

 それを見た後ろの者が、さらに恐怖で叫ぶ。

 咳が、疫病の証拠になる。

 叫びが、次の咳を呼ぶ。

 恐怖が自分自身を増やしていた。

「クラウディア。正面を頼む。誰も建物へ近づけるな」

「修司は?」

「鎖を外して、中の人を出す」

「私より前へ出ないという約束は?」

「今、君が前にいる」

「そういう言葉の問題では――」

 群衆の中から、油壺が飛んだ。

「危ない!」

 クラウディアが修司を抱えて横へ跳ぶ。

 壺が石畳で割れ、油が広がった。

 別の男が、その場所へ松明を投げようとしている。

 弦が鳴った。

 リーゼの矢が松明の柄を弾き飛ばす。

「次は手を射るわよ!」

 リーゼが屋根の低い庇へ駆け上がる。

「その赤い紙が、咳を起こしてる! 火をつけたら粉まで舞い上がるわ!」

「嘘をつけ!」

「北の人間を守るための出まかせだ!」

 群衆は止まらない。

 正しいことを叫ぶだけでは、恐怖に負ける。

 見える形にしなければならない。

 修司は近くの露店から、白い布をつかんだ。

「水を!」

 桶の水へ布を浸し、口元へ巻く。

 次に、壁から第七版の紙を一枚剥がした。

「修司、素手で触らないで!」

「端だけだ!」

 紙を白い布で挟み、強くこする。

 布の中央へ、赤い粉がべったりと移った。

 それを、群衆へ高く掲げる。

「見ろ! これは刷られた文字じゃない!」

 修司は声を張った。

「紙の表面に、咳を起こす炎棘草の粉が塗られている! この紙を触った人間から先に咳をしているんだ!」

「そんなもの、証拠になるか!」

 群衆の奥で、灰色の頭巾をかぶった男が叫ぶ。

 周囲を煽っているのは、市民だけではない。

 男の手には、まだ開かれていない第七版の束があった。

「リーゼ! 灰色の頭巾!」

 男が束を群衆へ投げようとする。

 リーゼの矢が飛ぶ。

 紙束を縛っていた紐だけを断ち切った。

 第七版が男の足元へ散らばる。

 踏みつけられた表紙から、赤い粉が舞った。

「げほっ! ごほっ!」

 灰色頭巾の男が激しく咳き込み、目を押さえる。

 すぐ隣にいた者たちも、同じように咳き込んだ。

 一方、数歩離れた市民には何も起きない。

 群衆の声が、わずかに小さくなった。

「紙から離れろ!」

 修司は続けた。

「風上へ移動して、目と顔を水で洗え! 咳をしている人を殴るな! まず紙から離せ!」

 今度は、数人が修司の言葉に従った。

 それを見た者が、さらに後ろへ下がる。

 群衆の前に、細い隙間ができた。

 クラウディアが守備兵二人へ目で合図する。

 灰色頭巾の男は逃げようとしたが、両腕をつかまれ、石畳へ押さえ込まれた。

 懐から短剣と、黒い杭を刻んだ銅札が転がり落ちる。

 自分たちを煽っていた者の正体を見て、市民の足がさらに止まった。

「クラウディア、今だ!」

 彼女の剣が、救護所の鎖へ振り下ろされる。

 火花が散った。

 一度。

 二度。

 三度目で、錠前が砕けた。

 扉を開けた瞬間、黒い煙が噴き出す。

 クラウディアが修司の肩をつかんだ。

「私が先です」

「分かってる」

「本当に?」

「今回は本当だ!」

 二人は身を低くして、煙の中へ入った。

     ◇

 救護所の中は、泣き声と咳で満ちていた。

「火が来る!」

「扉へ近づくなって言われた!」

「外へ出たら殺される!」

 老人と子どもたちが、階段の周囲へ固まっている。

 誰もが逃げたいのに、どこへ動けばよいか分からない。

 煙は天井から下がり、すでに大人の頭の高さまで来ていた。

「俺を見てくれ!」

 修司は左手を上げた。

「外の人たちは下がり始めている! 扉も開いた! 走らなくていい、一緒に出るぞ!」

「嘘だ! 外には松明を持った奴らがいる!」

 老人の一人が叫ぶ。

「怖いのは分かる。でも、ここに残れば煙で動けなくなる」

 修司はしゃがみ、老人と目線を合わせた。

「子どもを真ん中に。歩ける人は二人一組で、歩けない人の脇を支えてくれ。口は濡れた布で覆う。姿勢を低くするんだ」

 返事はない。

 恐怖で身体が動かない。

 修司は、右腕の痛みをこらえて息を吸った。

「《連携支援――班別展開》」

 頭の奥へ、鋭い痛みが走る。

 視界が一瞬暗くなった。

「修司!」

「大丈夫だ。全員とはつながない」

 選んだのは四人。

 杖を持つ老人。

 小さな子を抱いた母親。

 比較的元気な少年。

 そして、クラウディア。

「あなたたち四人が、周りへ伝えてくれ。全員を四つに分ける」

 淡い光が枝分かれする。

 ただ逃げろと命じるのではない。

 誰が誰を支えるか。

 どの順番で歩くか。

 出口まで何歩か。

 今、何をすればよいか。

 四人の理解が、周囲へ言葉となって広がる。

「子どもは私の近くへ!」

「歩ける者は、壁際の老人を支えろ!」

「布を濡らせ! 水はこっちだ!」

 固まっていた人々が動き始めた。

「一班、クラウディアについて外へ! 二班は五歩空ける! 三班と四班はまだ動くな!」

 最初の一団が、低い姿勢で扉へ向かう。

 そのとき、二階から少女の声がした。

「おばあちゃんが、動かないの!」

 窓を叩いていた少女だった。

 階段の上から、濃い煙が降りてくる。

「私が行きます!」

 クラウディアが振り返る。

「駄目だ! 君は出口を守ってくれ!」

「ですが――」

「ここにいる全員を外へ出せるのは、君だけだ!」

 修司は近くの水桶へ布を浸した。

 口元を覆い、階段へ向かう。

「約束はどうするんですか!」

「あとでいくらでも怒られる!」

「修司!」

 クラウディアの声を背に、修司は煙の中へ踏み込んだ。

     ◇

 二階は、ほとんど何も見えなかった。

 立てば煙を吸う。

 修司は床へ左手をつき、低い姿勢で進む。

「声を出してくれ!」

「こっち!」

 少女の返事が、奥から聞こえた。

 部屋の配置を頭へ入れる。

 穀物倉だった建物だ。

 中央に通路。

 左右に保管室。

 窓は正面だけ。

 煙の中でも、壁際をたどれば迷わない。

 元デザイナーとして身につけたのは、紙面を整える力だけではない。

 複雑な情報を、位置と順序へ変えること。

 今は、この建物そのものを一枚の図として考える。

 左の壁を三歩。

 扉。

 さらに五歩。

「ここか!」

 修司は扉を押した。

 開かない。

 内側で何かが倒れ、塞いでいる。

「下がっていろ!」

 右腕は使えない。

 左肩を扉へ当て、足を踏ん張る。

 一度では動かない。

 煙を吸い、咳が出た。

 頭痛で足元が揺れる。

 それでも、もう一度ぶつかる。

 隙間が開いた。

 修司は身体を滑り込ませた。

 床に倒れた棚の向こうで、少女が老女を抱いている。

 老女は動かない。

「おじさん、おばあちゃんを助けて!」

「大丈夫だ。まず君からだ」

「嫌! おばあちゃんも一緒!」

 少女の目は、煙と涙で真っ赤になっている。

 修司は老女の首元へ左手を当てた。

 脈はある。

 呼吸も弱いが、止まっていない。

「《生活動作把握》」

 老女の身体が淡い光に包まれる。

 意識低下。

 煙を吸っている。

 自力歩行は不可能。

 右腕の使えない修司一人では、抱えて階段を下ろせない。

 だが、少女を置いて助けを呼びに戻る時間もない。

 天井で、太い木材が割れる音がした。

 火が、すぐそこまで来ている。

 少女が修司の外套を握る。

「おじさん……」

 そのとき、床の上を強い風が走った。

 窓が外側から吹き飛ぶ。

 煙が一気に渦を巻いた。

 窓枠に、紅い外套が降り立つ。

 白い羽根の仮面。

 セラフィナだった。

「見つけましたよ、タカセ」

 風の刃が、彼女の杖の周囲へ集まる。

「今度は、守る門も、剣を持つ女もいません」

 修司は少女と老女を背にかばった。

 使えるのは左腕だけ。

 逃げ道は、炎に塞がれている。

 それでも、修司は立った。

「二人いる」

「何です?」

「俺が守る人は、ここに二人いる」

 修司は半身になり、左手を前へ出した。

「それで、立つ理由は十分だ」

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