第六十九話 閉じない門を、立たせろ
「鎖がないなら――俺たちが鎖になる!」
修司の声が、第二関門の内側へ響いた。
門外から迫る騎馬隊まで、百五十歩。
地面を揺らす蹄の音が、急速に大きくなる。
城門は片側の鎖を失い、大きく傾いたまま石の溝へ食い込んでいた。
人二人が並んで通れる隙間が開いている。
「何を言っている!」
赤い帽子の守備隊長が怒鳴った。
「あれは百人がかりで巻き上げる門だ! 人が鎖の代わりになど――」
「全部を持ち上げる必要はない!」
修司は門の前へ走った。
右腕を吊った男が何をするのかと、守備兵たちの視線が集まる。
「下がってください!」
クラウディアの剣が閃いた。
斧を持つ内通者の手首を柄で打ち、武器を落とさせる。
男が反対の手で短剣を抜くより早く、彼女の膝が腹へ入った。
内通者は石床へ崩れ落ちる。
「縛ってください。ほかにも仲間がいるかもしれません!」
護衛二人が男を押さえる。
修司は、その間にも傾いた門を見ていた。
切られたのは西側の鎖。
支えを失った西端が先に落ち、門の下角が溝の縁へ食い込んでいる。
東側は残った鎖に引かれ、宙へ浮いていた。
だから、下にも上にも動かない。
重い人をベッドから起こすときと同じだ。
正面から腕だけで引けば、介助する側の腰が壊れる。
必要なのは、全身を持ち上げる力ではない。
重心を移し、引っかかっている場所から荷重を抜くこと。
「低い方を、手の幅一つだけ持ち上げる」
修司は西側の下角を指した。
「その間に、門の底を溝へ引き戻す。最後に残った鎖を緩めれば、自重で落ちる」
「簡単に言うな!」
「簡単じゃない。だから、役割を分ける」
騎馬隊まで、百二十歩。
城壁から守備兵が矢を放ち始める。
黒い盾が一斉に上がり、矢を弾いた。
敵は速度を落とさない。
「隊長、名前は!」
「エルマーだ!」
「エルマー隊長。残った鎖を扱える者を六人、集めてくれ。合図するまで絶対に緩めない」
修司は壁際の荷車を指した。
「荷車の長柄を外せ! 二本を門の下へ入れて梃子にする。八人ずつ!」
「縄はどうする!」
「門の中央へ二本。壁の鉄輪を通して左右へ引く。溝へ戻すためだ!」
恐怖で固まっていた守備兵たちが動き始める。
しかし、命令は多い。
残り時間は少ない。
誰がどこへ行くのか分からず、人同士がぶつかる。
「全員を一度につなぐな」
修司は自分へ言い聞かせた。
広域展開を使えば、意思は早く伝わる。
だが、製版所で限界まで使った直後だ。
ここでも同じことをすれば、門が動く前に自分が倒れる。
介護の現場でも、一人の職員が全員へ直接指示を出し続けることはできない。
看護師。
介護士。
厨房。
相談員。
それぞれに責任者がいて、必要な情報を担当者へ渡す。
デザインの仕事でも同じだった。
すべての文字を同じ大きさで並べれば、何も伝わらない。
見出しがあり、項目があり、その下に情報が続く。
「直接つなぐのは、四人だけだ」
修司は左手を上げた。
エルマー隊長。
梃子を扱う兵の中で、最も大柄な男。
縄を束ねていた年配の兵。
そして、クラウディア。
「《連携支援》」
淡い光が、四人へ伸びる。
『支援対象――四名』
『各対象の指揮下に、複数の共同動作者を確認』
『支援経路を再構成』
四本の光が、それぞれの仲間へ細く枝分かれした。
『派生技能《連携支援――班別展開》を獲得』
視界に、四つの集団が浮かび上がる。
一人一人の動きを、修司が直接支えるのではない。
四人の班長へ、動く時機と目的だけを渡す。
班長たちが、自分の言葉で仲間を動かす。
頭へかかる圧力が、広域展開のときより軽い。
「東鎖班、固定!」
修司が叫ぶより早く、エルマーが同じ命令を出した。
「梃子班、長柄を入れろ! 腰で持ち上げるな、膝を曲げろ!」
大柄な兵が八人へ伝える。
「縄班、右へ三歩! 引くのはまだだ!」
年配兵が縄の位置を直す。
「防衛班、私に続いてください!」
クラウディアが、門の隙間へ剣を向けた。
ばらばらだった守備兵が、四つの班へ変わった。
◇
騎馬隊まで、八十歩。
先頭の騎兵が長槍を伏せる。
傾いた門の隙間へ、そのまま突っ込むつもりだ。
「リーゼ!」
「分かってる!」
リーゼが城壁へ駆け上がる。
傷ついた左腕をかばいながら弓を引いた。
狙いは騎手ではない。
先頭の馬の足元。
矢が石畳の継ぎ目へ刺さり、馬が驚いて前脚を上げた。
後続の馬が避け、隊列がわずかに割れる。
「今よ! 先頭を狙わないで! 後ろを詰まらせなさい!」
城壁の弓兵たちが、リーゼの狙いをまねる。
矢が街道へ降り注ぎ、突撃の速度が落ちた。
だが、完全には止まらない。
黒い杭の騎兵三人が隊列から抜け、門へ迫る。
「梃子を上げろ!」
十六人が、二本の長柄へ体重をかける。
門は動かない。
「うおおおっ!」
兵たちの顔が赤くなる。
一人の腰が伸び、身体が前へ折れた。
「腕で持つな!」
修司は駆け寄り、その兵の背へ左手を当てた。
「足を半歩前へ。腹を引いて、膝を伸ばす力を柄へ伝えろ!」
「こうか!」
「そうだ! 全員、息を合わせろ!」
大柄な班長が息を吸う。
「一、二――三!」
長柄が、わずかに上がった。
城門の西端が石を削る。
指一本分。
まだ足りない。
門外から槍が突き込まれた。
クラウディアが剣で払う。
一本目。
二本目。
三本目を受けた瞬間、彼女の足が半歩下がった。
隙間の向こうに、馬の頭が見える。
「押し開けろ!」
騎兵が槍を捨て、門へ肩をぶつけた。
傾いた城門が揺れる。
梃子を握る兵が一人、足を滑らせた。
「まだ離すな!」
修司が叫ぶ。
クラウディアの剣が、隙間から伸びた腕の籠手を打つ。
「ここは通しません!」
敵兵が彼女の剣をつかもうとする。
その横から別の槍が入り、修司の胸を狙った。
「タカセ!」
避ければ、槍は後ろの縄班を貫く。
修司は左手を伸ばした。
穂先ではない。
槍の柄へ、掌を添える。
踏み込んできた力を止めず、身体を半回転させた。
槍先が修司の脇を通り過ぎる。
そのまま柄を下へ導く。
門の内側へ身を乗り出した敵兵の重心が崩れた。
上半身が隙間へ落ちる。
「引け!」
修司が腕を抱え、護衛二人が鎧をつかんだ。
敵兵だけが門の内側へ引きずり込まれる。
クラウディアの剣先が喉元へ突きつけられた。
「動かないでください」
敵兵の顔から血の気が引く。
「俺を守るんじゃなく、門を守れ!」
修司が護衛へ言う。
「今のは、十分ご自分で守っていました!」
護衛が叫び返す。
こんなときなのに、クラウディアの口元がわずかに緩んだ。
◇
「もう一度だ!」
梃子班が膝を沈める。
「一、二――三!」
城門の西端が、手の幅一つだけ浮いた。
「縄班、引け!」
二本の縄が張る。
年配兵を先頭に、十二人が壁を蹴って後ろへ下がる。
食い込んでいた門の下角が、石の溝へ近づいていく。
しかし、あと少しのところで止まった。
「縄がもたない!」
繊維の切れる音がする。
門外では、騎兵が次々と馬を降りていた。
盾を前へ並べ、歩兵として隙間へ殺到する。
その後方で、火術杖が掲げられた。
「火が来る!」
城壁の兵が叫ぶ。
赤い光が杖の先へ集まる。
狙いは城門ではない。
門を引く二本の縄だった。
「リーゼ、止めろ!」
「遠すぎる!」
傷ついた腕では、火術士まで矢を届かせられない。
炎が放たれた。
まっすぐ縄班へ向かってくる。
「水術士、縄を守れ!」
エルマーの命令に、城壁の若い術士が杖を振り下ろした。
「《水壁》!」
縄班の前へ、青く透ける水の膜が立ち上がる。
火球が正面からぶつかった。
水壁が破裂し、白い蒸気と熱風が修司たちを襲う。
縄の表面が一部焦げる。
だが、切れてはいない。
「今です、修司!」
「東鎖班、半分緩めろ!」
エルマーが制動棒を押す。
残った鎖が、重い音を立てて送り出される。
城門の東端が下がる。
西端を梃子で支えたまま、門全体が水平へ戻っていく。
「縄班、最後だ! 引け!」
十二人が吠える。
城門の下角が溝へ入った。
鈍い音。
傾きが消える。
「梃子を抜け! 全員、門から離れろ!」
兵たちが長柄を引き抜き、左右へ飛び退いた。
門外から、黒い杭の先頭兵が身体を滑り込ませる。
クラウディアが体当たりで押し戻した。
「落とせ!」
エルマーが制動棒を外す。
残った鎖が激しく走った。
巨大な城門が、自らの重さで落下する。
敵兵が差し込んだ槍を捨てて後ろへ跳ぶ。
黒い穂先だけが内側へ残り、石床を転がった。
轟音。
第二関門が、地面まで閉じた。
直後、外側から騎馬隊が殺到する。
最前列の馬が急停止し、後続が折り重なる。
怒号と蹄の音が城門を揺らした。
だが、門は開かない。
守備兵たちの間から、一つの歓声が上がった。
それが二つ、三つと重なり、関門全体へ広がっていく。
「閉じたぞ!」
「間に合った!」
「タカセが、門を立たせた!」
修司は、その場に立ったまま息を吐いた。
こめかみは痛い。
鼻から一筋、血も落ちている。
それでも、意識は失っていない。
四本に分けた光を、自分の意思で一つずつ消していく。
技能を使い切るのではなく、必要なところで終わらせる。
それもまた、以前にはできなかったことだった。
「修司」
クラウディアが駆け寄り、鼻血を布で押さえた。
「大丈夫だ」
「四度目です」
「今度は、少し怪しい」
「ようやく正直になりましたね」
彼女は怒っているような、安心したような顔をしていた。
◇
勝利の歓声は、長く続かなかった。
門の外で、角笛が三度鳴った。
黒い杭の軍勢が後退する。
攻撃を諦めたわけではない。
城壁の弓が届かない距離で、左右へ整列し直していく。
その中央を、黒塗りの馬車が進んできた。
修司は胸壁へ上がった。
馬車の扉が開く。
灰色の上着。
よく磨かれた靴。
ヴァルター・クレムが、何事もなかったように地面へ降りた。
その隣へ、紅い外套のセラフィナが立つ。
「追いついてきたのか」
リーゼが歯を食いしばる。
「違う。俺たちを止めるのを諦めて、先に中央街道へ戻ったんだ」
ヴァルターが片手を上げる。
セラフィナの周囲に風が集まった。
「第二関門の皆様。まずは、見事な働きに敬意を」
男の声が、風に乗って城壁まで届く。
「特にタカセ様。壊れた門さえ立たせるとは、ますます欲しくなりました」
修司は答えなかった。
敵陣の後ろから、五人の捕虜が連れ出されたからだ。
両手を縛られ、首から赤い手の紙を下げられている。
中央街道へ送ったグランフェルの騎兵。
川沿いを走った粉挽きの兄弟。
そして、リーゼと別れた若い猟師。
「そんな……」
リーゼの声が震えた。
捕虜の一人が、顔を上げる。
中央街道の騎兵隊長だった。
胸元にあるはずのものがない。
クラウディアが託した、銀狼の留め具。
それは、ヴァルターの手の中にあった。
「タカセ様は、一枚の紙を人から人へつなげました」
ヴァルターが赤い手の紙を一枚、指先で揺らす。
「紙だけを信じず、誰が渡したか確かめろ。実に優れた仕組みです」
紙を地面へ落とす。
磨かれた靴が、赤い手を踏みつけた。
「ですから、確認に必要な人間を集めました」
黒い杭の兵が、若い猟師を跪かせる。
首筋へ剣が当てられた。
「門を開け、クラウディア様とタカセ様を引き渡してください」
ヴァルターは、銀狼の留め具を掲げた。
「百を数えるたび、一人ずつ処分します」
城壁の空気が凍りついた。
門を開けば、三百の兵が入る。
開かなければ、紙を運んだ者たちが殺される。
エルマーが修司を見る。
リーゼは弓を握りしめていたが、距離が遠すぎる。
クラウディアの唇が、悔しさに震えている。
「一」
ヴァルターが数え始めた。
「二」
修司は、捕虜たちを見た。
怯えた呼吸。
縛られた手。
足の向き。
そして、若い猟師の右足が、地面を二度、わずかに叩いた。
偶然ではない。
リーゼが狩りへ出るとき、仲間へ送る合図だった。
――まだ、動ける。
「三」
修司は、門を見た。
次に、城壁の兵。
最後に、捕虜たち。
門は開けない。
人質も死なせない。
「クラウディア。リーゼ」
二人が同時に振り向く。
「今度は、あの五人を立たせる」




