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国を立たせる介護士 ~52歳で異世界召喚された外れ職《生活支援士》、寝たきりの老将から滅びかけた王国まで再建する~  作者: 狼賀亮一郎
第三部 偽りの手引きと紙の戦争編

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第六十八話 偽りの王命を、射抜け

「その金属片を、もう一度見せてくれ」

 修司は、ハンネスから公印版の欠片を受け取った。

 右腕は吊ったまま動かせない。

 左手の指先で泥を拭い、窓から差し込む光へかざす。

 王国の紋章を囲む細い線。

 中央には、剣を抱いた王狼。

 欠けているのは、その右目の部分だった。

「写しを作るところは見たのか」

「ああ。正規の通行証から印影を取り、それをもとに新しい版を彫らされた」

 ハンネスが答える。

「わしらは拒んだ。だが、一人拒むたびに、別の一人が殴られた」

 床には、破壊された版圧し機が横たわっている。

 その周囲で手当てを受ける職人たちの顔には、打撲や切り傷が残っていた。

「責めてるんじゃない。違いが残るはずなんだ」

「違い?」

「一度、紙になったものから、もう一度版を起こしたんだろ」

 修司は、かつての仕事を思い出した。

 得意先から届いた、古いチラシ。

 元の写真も原稿も残っていないから、これと同じものを作ってほしいと言われる。

 印刷された紙を撮り直し、さらに印刷へ回せば、細い線は潰れ、黒い部分は太くなる。

 見た目は似せられても、世代を重ねた痕跡までは消せない。

「ミレイユ。第六版に押された印を」

 ミレイユが、泥を免れた紙を探す。

 端の濡れていない一枚を机へ広げた。

 修司は、公印版の欠片と紙の印を見比べる。

 狼の右目。

 ほんのわずかな白い隙間が、偽の印では黒く塞がっていた。

「ここだ」

 修司は指で示した。

「本物の王狼には、右目に白い点が残る。写しから起こした版は線が太くなって、その点が潰れている」

 ハンネスが顔を近づける。

「本当だ……。彫っているときには気づかなかった」

「作った本人ほど、全体が正しいかを見るからな。小さな違いは、かえって見えなくなる」

 ミレイユは新しい紙へ、狼の顔を二つ描いた。

 一つには白い右目。

 もう一つには、黒く潰れた右目。

 その下へ、大きく書く。

『王狼の右目が黒い命令書は、偽物』

「これなら、字が読めない人にも伝わります」

「同じ図を作って、残りの関門へ送る。文章は一つだけでいい」

「しかし、間に合うのですか」

 クラウディアの声は硬かった。

 ここから最も近い北方第一関門まで、中央街道を馬で一刻半。

 ヴァルターの早馬車には、すでに大きく先行されている。

 偽の通行証が門へ届いてから警告を出したのでは遅い。

 答えを探す前に、製版所の外から馬の蹄が聞こえた。

 一頭だけ。

 速い。

 護衛が剣を抜き、壊れた正門へ走る。

 飛び込んできた馬の背から、小柄な人影が転がり落ちた。

「リーゼ!」

 修司は駆け寄った。

 リーゼは地面へ片膝をつき、荒い呼吸を繰り返している。

 左袖が裂け、上腕から血が流れていた。

「かすっただけよ。それより、門が――」

「座って話せ」

「そんな暇ない!」

「倒れたら、もっと時間を失う。傷を押さえろ」

 修司の口調に、リーゼが渋々その場へ座る。

 ミレイユが布を巻く間に、彼女は言葉を続けた。

「巡礼路の尾根から見えた。白い旗を立てた軍勢が、第一関門を通ったわ」

 クラウディアの顔が青ざめる。

「軍勢の規模は」

「三百前後。騎馬が八十。残りは荷車に兵を隠していた。門が開いた途端、見張りを制圧して北へ抜けた」

「関門の兵は?」

「生きている人もいた。でも、門も狼煙台も奪われた」

 修司は拳を握った。

 偽の紙は、もう人を動かしている。

 しかも、恐れや噂だけではない。

 本物の門を開け、本物の武装集団を領内へ入れた。

「一緒に行った猟師はどうした」

「最初の村へ警告文を届けて、そのまま巡礼路を北へ走らせた。あの紙は、まだ止まってない」

 七十八枚から始まった伝達は生きている。

 敵より遅れていても、道は一本ではない。

「第二関門まで、敵はどれくらいだ」

「中央街道なら一刻。私たちが普通に追っても間に合わない」

「普通の道ならな」

 ハンネスが、古い壁地図を指した。

 第三製版所から川沿いに伸びる細い線。

 街道図には載っていない。

「昔、刷り上がった地図を北の砦へ運んだ版紙道だ。水路に沿って尾根を抜ける。荷馬車は無理だが、馬なら通れる」

「どれくらい短くなる」

「第二関門まで、半刻と少し」

「行く」

 修司は即答した。

「修司、その身体で馬を走らせるつもりですか」

「走らせるのは馬だ」

「そういう話ではありません」

 クラウディアが正面から修司を見据える。

「一人では乗せません。私の馬に乗ってください」

「だが――」

「これは相談ではありません」

 拒める声ではなかった。

 修司は一瞬だけ迷い、うなずいた。

「分かった。任せる」

 以前なら、ここでも意地を張ったかもしれない。

 今は、人に支えられることも役割の一つだと分かり始めている。

 ミレイユには、ハンネスたちと警告文を増やして各道へ送る仕事を任せた。

 第二関門へ向かうのは、修司、クラウディア、リーゼ、護衛二人。

 紙は三枚。

 描かれた王狼の右目が、三百の兵を止める唯一の武器だった。

     ◇

 版紙道は、道と呼ぶには細すぎた。

 右には切り立った岩壁。

 左には、白く泡立つエルン川。

 馬一頭がようやく通れる幅しかない。

 修司はクラウディアの前へ乗り、左手で鞍をつかんでいた。

 彼女の両腕が修司の左右から伸び、手綱を握っている。

「傷へ響いていませんか」

「大丈夫だ」

「先ほどから三度、同じ答えです」

「三度とも、本当に大丈夫だった」

「四度目も同じとは限りません」

 言葉は厳しいが、馬の速度は修司の身体が揺れすぎない限界に保たれていた。

 後方を走るリーゼが、呆れた声を上げる。

「仲がいいのは分かったけど、前を見て! 吊り橋よ!」

 谷をまたぐ古い吊り橋が現れた。

 幅は馬一頭分。

 床板はところどころ白く腐り、支柱へ渡された縄も毛羽立っている。

「馬を下りる!」

 クラウディアが先に降り、修司へ左手を差し出す。

 一行は馬を引いて、一頭ずつ橋へ入った。

 下では、激流が岩へぶつかっている。

 半分を渡ったところで、白いものが空から落ちてきた。

 羽根だった。

「止まって!」

 リーゼが叫ぶ。

 対岸の岩棚に、紅い外套の女が立っている。

 白い羽根の仮面。

 セラフィナ。

「さすがですね、タカセ様」

 風に乗った声が谷間へ届く。

「中央街道を追わないところまで、ヴァルター様の予想どおりです」

「だったら、ここで待ってたのも予想どおりか」

「ええ」

「嘘だな」

 修司が即座に言うと、仮面がわずかに傾いた。

「俺たちが版紙道を使うと知っていたなら、橋を先に落としておけばいい。あんたは俺たちを見つけて、急いで先回りした」

「何が言いたいのです」

「ヴァルターは、全部を読めるわけじゃない」

 修司は対岸を見据えた。

「それが分かっただけで十分だ」

 セラフィナの外套が大きく膨らむ。

「では、ここで止まっていただきます。《風刃》」

 空気の刃が橋を走った。

 右側の吊り縄が弾け飛ぶ。

 橋が激しく傾いた。

 馬がいななき、護衛の一人が床板から足を滑らせる。

「つかめ!」

 修司は腹ばいになり、左手を伸ばした。

 護衛の手首をつかむ。

 右肩に激痛が走る。

 片腕だけでは引き上げられない。

「修司、離して!」

「離せるか!」

 クラウディアが修司の腰をつかむ。

 リーゼがクラウディアの帯を握る。

 もう一人の護衛が、リーゼを支柱へつないだ。

 一人が一人を支える鎖が、橋の上にできる。

 セラフィナが再び手を上げた。

「もう一度です」

 その手へ向かって、リーゼの矢が飛ぶ。

 突風が矢を弾いた。

 だが、リーゼは続けて二本目を放っていた。

 狙ったのはセラフィナではない。

 女の頭上に張り出した岩だった。

 亀裂へ矢が突き刺さる。

 乾いた音とともに、拳大の石が岩棚へ降り注いだ。

 セラフィナが後ろへ跳ぶ。

 風が途切れた。

「今よ! 引いて!」

 四人が同時に身体を引く。

 護衛の胸が橋の縁へ上がった。

 修司は手首を離さず、そのまま床板の上へ転がる。

「全員、対岸へ!」

 クラウディアが馬の手綱をつかみ、走り出した。

 切れた縄が一本ずつほつれていく。

 最後の護衛が対岸へ跳んだ直後、吊り橋の中央が谷底へ落ちた。

 セラフィナの姿は、岩棚から消えていた。

「追う?」

 リーゼが弓へ次の矢をつがえる。

「いや。あの人の仕事は、俺たちを止めることだ」

 修司は息を整えながら立ち上がった。

「追えば、それこそ思いどおりになる。門へ行く」

     ◇

 第二関門が見えたとき、門はすでに動き始めていた。

 二つの石塔に挟まれた巨大な城門。

 太い鎖が巻き上げられ、中央に人二人が通れるほどの隙間が開いている。

 門前には、白い外套を着た十数名の先遣隊。

 そのさらに南、街道を埋めるように砂煙が上がっていた。

 三百の軍勢が来る。

「間に合わなかった……」

 護衛が呟く。

「まだ全部は開いてない」

 修司は門の上を見た。

 胸壁には守備兵が並んでいる。

 だが、弓を先遣隊へ向ける者はいない。

 偽の通行証を、本物だと信じている。

「正門へ近づけば、あいつらに止められる」

 リーゼが先遣隊を睨む。

「紙だけ、先に入れる」

 修司は懐から警告文を取り出した。

「できるか?」

「誰に聞いてるの」

 リーゼが不敵に笑う。

 紙を細く巻き、鏃の後ろへ結びつける。

「門の内側、巻き上げ台の前。赤い帽子の男が責任者だ」

「見えた」

 弓が引き絞られる。

 先遣隊の一人が、こちらへ気づいた。

「あそこだ! 反逆者どもを射ろ!」

 敵の弓兵が振り向く。

 その一瞬前に、リーゼが放った。

 矢は城壁を越え、門の内側へ消える。

     ◇

 第二関門守備隊長は、足元へ突き刺さった矢を見た。

 赤い手が描かれた紙。

 二つの王狼。

 白い右目と、黒く潰れた右目。

『王狼の右目が黒い命令書は、偽物』

「巻き上げを止めろ!」

 隊長が叫ぶ。

「何をなさる!」

 白い外套の使者が、門の隙間から怒鳴った。

「その紙こそ、反逆者タカセが広めた偽文書です! 王命へ背くおつもりか!」

 守備隊長は、受け取った通行証を灯りへかざした。

 中央の王狼。

 右目が、黒い。

 ほんの小さな違いだった。

 知らなければ、決して疑わなかった。

「閉門! 先遣隊を入れるな!」

 警鐘が鳴る。

 城壁の弓兵たちが、一斉に白い外套へ矢を向けた。

「くそっ、やれ!」

 使者が外套を脱ぎ捨てる。

 黒い杭の紋章が現れた。

 先遣隊が武器を抜く。

 門の外で、クラウディアも剣を抜いた。

「タカセ、私から離れないで!」

「分かってる!」

 五人は敵の背後へ突っ込んだ。

 クラウディアの剣が、先頭の槍を跳ね上げる。

 リーゼの矢が、巻き上げ台を狙った敵の手を射抜く。

 護衛二人が左右から修司を守り、門へ道を作る。

 城門が下がり始めた。

 開いていた隙間が狭くなる。

「中へ!」

 守備隊長が叫ぶ。

 修司たちは、人一人分まで縮まった隙間を滑り抜けた。

 最後に入った護衛の外套を、敵の剣が裂く。

 門が重い音を立てて閉じ――なかった。

 激しい金属音。

 城門が途中で止まる。

「何が起きた!」

 巻き上げ台から悲鳴が上がった。

 守備兵の服を着た男が、血のついた斧を手に立っている。

 足元には、倒れた巻き上げ係。

「内通者だ!」

 男が斧を振り下ろす。

 城門をつるす片側の鎖が切断された。

 門が大きく傾き、石の溝へ食い込む。

 巻き上げても、下ろしても動かない。

 外から地響きが迫ってくる。

 修司が門の隙間を振り返る。

 白い旗を投げ捨てた騎兵たちが、黒い槍を伏せていた。

 距離、三百歩。

 半分開いた城門へ向かい、一斉に速度を上げる。

「閉まりません!」

 守備兵が叫ぶ。

「鎖が切られています!」

 二百歩。

 修司は、傾いた門を見た。

 負傷した巻き上げ係。

 残った一本の鎖。

 壁際に積まれた荷車と縄。

 恐怖で動けなくなりかけた守備兵たち。

 一人では、どうにもならない。

 だからこそ、修司の仕事だった。

「全員、俺の声を聞け!」

 百五十歩。

 修司は左手を、食い込んだ城門へ向けた。

「鎖がないなら――俺たちが鎖になる!」

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