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国を立たせる介護士 ~52歳で異世界召喚された外れ職《生活支援士》、寝たきりの老将から滅びかけた王国まで再建する~  作者: 狼賀亮一郎
第三部 偽りの手引きと紙の戦争編

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第六十七話 一人では、勝たない

《骨砕き》が大地を蹴った。

 石床が砕ける。

 巨体が、消えたように見えた。

「伏せろ!」

 修司が叫ぶ。

 次の瞬間、ダリオの拳とクラウディアの剣が正面からぶつかった。

 金属同士ではない。

 それでも、鐘を打ち鳴らしたような音が製版所に響いた。

 クラウディアの長剣が大きくたわむ。

 彼女の靴底が石床を滑り、二本の跡を刻んだ。

「くっ……!」

「軽いな、銀狼!」

 ダリオが、受け止められた拳をそのまま振り抜く。

 クラウディアの身体が宙へ浮いた。

 紙束の崩れた荷台へ、背中から叩きつけられる。

「クラウディア!」

「来ないでください!」

 彼女はすぐに起き上がった。

 唇の端に血がにじんでいる。

 だが、剣を握る手は離していない。

「そいつは、あなたを狙っています!」

「分かってる」

 だからこそ、修司は彼女へ駆け寄らなかった。

 右腕は動かない。

 広域展開を使った直後で、頭の奥にはまだ鈍い痛みが残っている。

 今の修司が前へ出れば、クラウディアは彼を守るために動きを制限される。

 それは支援ではない。

 守る者へ、さらに荷物を背負わせるだけだ。

「ミレイユ。負傷者を裏口へ。護衛二人をつけてくれ」

「タカセは?」

「俺はここに残る」

「また一人で――」

「違う」

 修司は、はっきりと首を振った。

「一人でやらないために、ここに残るんだ」

 中庭にはクラウディア。

 護衛が四人。

 製版所の構造を知る職人たち。

 記録と状況整理に長けたミレイユ。

 そして修司がいる。

 誰か一人で、あの怪物より強くなる必要はない。

 全員の力が、同じ目的へ向けばいい。

     ◇

 クラウディアが踏み込む。

 銀色の剣閃が、ダリオの首筋を狙った。

 ダリオは左腕を上げ、刃を受ける。

 皮膚の表面で赤黒い魔力が弾けた。

 刃は食い込まない。

「剣まで軽い!」

 ダリオが笑う。

 右拳がクラウディアの胴へ走った。

 彼女は剣を引き、身体を沈めてかわす。

 拳は背後の石柱へ突き刺さった。

 石が砕け、天井から細かな砂が降った。

 製版所全体が、低く軋む。

 修司は石柱を見上げた。

 天井を支える横木。

 水車から伸びる太い回転軸。

 二階に残された活字棚。

 もう一度、同じ柱へ打ち込まれれば危ない。

 それに気づいたのは、修司だけではなかった。

 ダリオが、砕けた柱を見て口角を上げる。

「なるほど。全員まとめて潰す方が早えな」

「させません!」

 クラウディアが進路を塞ぐ。

「なら、お前ごとだ!」

 ダリオの連打が始まった。

 右。

 左。

 肘。

 蹴り。

 一撃ごとに空気が震える。

 クラウディアは剣の腹で受け、流し、紙一重でかわしていく。

 しかし、受けるたびに腕が痺れ、足が下がる。

 純粋な速さなら、クラウディアが上だ。

 技量でも負けていない。

 それでも、一度でもまともに受ければ終わる。

 その恐怖が、少しずつ彼女の選択肢を削っていた。

「右へ!」

 修司が叫ぶ。

 クラウディアが迷わず右へ跳ぶ。

 直後、ダリオの足がそれまで彼女のいた場所を薙いだ。

「左肩が上がったら蹴りだ! 拳を見るな、肩を見ろ!」

「承知!」

 ダリオが修司を睨む。

「鬱陶しい爺さんだ」

「五十二歳は、爺さんじゃない」

「俺から見りゃ同じだ!」

 足元の石片を、ダリオが蹴り上げた。

 拳ほどの石が、修司の顔へ飛ぶ。

 護衛が割って入り、盾で受けた。

 石片が砕け、護衛の身体がよろめく。

「タカセ様を守れ!」

「俺だけを見るな! 柱と負傷者を優先してくれ!」

 守られることへ、まだ慣れてはいない。

 だが、拒むのはやめた。

 盾を受け入れたうえで、自分にしかできない仕事をする。

 修司は、ダリオの動きを追った。

 魔法の光ではない。

 十年の介護で見てきた、人間の身体だ。

 立ち上がる前に、どこへ重心を移すのか。

 痛みをかばうとき、どちらの足へ負担が集まるのか。

 倒れそうな身体が、何を支えにしようとするのか。

 そして、合気道で向かい合ってきた相手の呼吸。

 どれほど魔力で強化しても、ダリオは人間だった。

 強い攻撃の直前には、必ず息を吸う。

 全身を固める瞬間、右足の踵が止まる。

 打ち終えた直後、短く息を吐く。

 その一瞬だけ、赤黒い光が弱くなる。

「クラウディア! 三撃目のあとだ!」

 一撃。

 剣と拳がぶつかる。

 二撃。

 クラウディアの髪が風圧で舞う。

 三撃。

 ダリオの拳が空を切った。

 息が漏れる。

 赤黒い光が揺らぐ。

 クラウディアの剣が翻り、ダリオの脇腹を斬った。

 初めて、血が飛ぶ。

「やった!」

 職人の一人が声を上げた。

 だが、傷は浅い。

 ダリオは流れた血を指で拭い、舌でなめた。

「呼吸まで見るか」

 笑っていなかった。

「だったら、呼吸しなけりゃいい」

 大きく息を吸う。

 止める。

 赤黒い光が、さらに濃くなった。

 ダリオは一言も発さず、クラウディアへ突進した。

     ◇

 攻撃の間隔が変わった。

 呼吸を読ませないまま、ダリオが拳を振り続ける。

 クラウディアの頬を拳がかすめた。

 次の一撃が剣の鍔へ当たり、彼女の手から長剣が飛ぶ。

 石床を滑った剣が、修司の足元で止まった。

「終わりだ!」

 ダリオの拳が振り上がる。

 クラウディアは素手だった。

 修司の足が、前へ出かける。

 だが、止めた。

 自分が飛び込んでも、間に合わない。

 今できることを選べ。

 修司は落ちた剣を蹴った。

 石床の上を滑り、剣がクラウディアの右手へ届く。

 彼女が柄をつかむ。

 同時に、修司は左手を彼女へ向けた。

 広くつなぐ必要はない。

 今、支えるべき相手は一人。

「《個別支援》――クラウディア!」

 視界が白く明滅した。

 クラウディアの足元から、一本の光が伸びる。

 ダリオの拳を受ける線ではない。

 半歩、内側へ入る線。

 彼女はその線を信じた。

 拳が届く寸前、前へ出る。

 肩と肩が触れそうなほど近くへ。

 長剣の柄頭が、ダリオのみぞおちへ突き上がった。

 止めていた息が、強制的に吐き出される。

「がっ――!」

 赤黒い光が大きく揺らいだ。

「今です!」

 ミレイユの声が飛ぶ。

 裏口へ避難したはずの職人たちが、入口の左右に立っていた。

 細い老人は、水門の鉄輪を握っている。

 若い植字工は、床を走る太い鎖を引いている。

「何をしている、逃げろ!」

 修司が叫ぶ。

「ここは、わしらの仕事場だ!」

 老人が怒鳴り返した。

「壊し方も、止め方も、あんたより知っとる!」

 職人たちは逃げなかった。

 修司が彼らを動ける人間として見たように、彼らも自分で役割を選んだ。

 老人が鉄輪を押し戻す。

 防火溝へ落ちていた水が、再び木製の樋へ流れた。

 水車が回る。

 止まっていた回転軸が、低い唸りを上げる。

 製版所の中央で、巨大な版圧し機が動き出した。

「クラウディア、奥へ下がれ!」

 修司には、職人たちの狙いが分かった。

 ダリオには分からない。

 息を吐かされ、怒りに目を血走らせた男は、退くクラウディアを追った。

「逃がすか!」

 版圧し機の下へ、一歩。

 二歩。

 だが、三歩目で止まった。

 ダリオが床を見た。

 太い鎖。

 頭上の圧板。

「こんな見え透いた罠に――」

「そうだ。あんたは入らない」

 修司の声に、ダリオが振り向く。

「俺が入れる」

 修司は走った。

「修司!」

 クラウディアの制止を振り切り、ダリオの正面へ踏み込む。

 右腕は使えない。

 個別支援の負荷で、視界も揺れている。

 それでも、ダリオの目には修司しか映っていなかった。

「自分から来たか!」

 巨腕が伸びる。

 修司は逃げなかった。

 左手で手首へ触れる。

 ダリオは、先ほどまでと逆方向へ力を入れた。

「二度は通じねえ!」

「同じ技じゃない」

 流そうとすれば、逆らう。

 だから修司は、流さなかった。

 ダリオが逆らった方向へ、自分から一歩入る。

 引くのではなく、押す。

 ダリオ自身が生み出した力へ、ほんの少しだけ修司の体重を足した。

「ぬっ!」

 踵が鎖へ乗る。

 巨体が傾いた。

 そこへ、クラウディアが飛び込む。

 剣は使わない。

 肩からダリオの脇へぶつかり、修司と同じ方向へ押した。

 一人では動かせない身体。

 二人でも、力だけなら足りない。

 だが、ダリオ自身の力まで加われば別だった。

 《骨砕き》の両足が、版圧し機の台へ入った。

「落とせ!」

 若い植字工が鎖を放す。

 巨大な圧板が落下した。

 ダリオは両腕を上げ、圧板を受け止める。

 轟音が響いた。

 石床が沈む。

「こんなもの――!」

 赤黒い光が燃え上がる。

 圧板が、少しずつ持ち上がった。

「嘘だろ……」

 護衛が呆然とする。

「見てる場合か!」

 修司が叫んだ。

「鎖を固定! 左右から巻け! 足元にも一本!」

 職人と護衛が一斉に動く。

 版圧し機の鎖を柱へ巻きつける者。

 ダリオの足へ、荷締め縄を通す者。

 水車の歯車へ、予備の留め具を打ち込む者。

 一人の力では、圧板を支えられない。

 しかし、一人が一つずつ留めれば、怪力でもすべてを同時には外せない。

「支えるってのはな」

 修司は荒い呼吸の合間に言った。

「弱い人間を、強い一人にすることじゃない」

 最後の鎖を、クラウディアが剣の柄で締め上げる。

「一人じゃ出せない力を、全員で出すことだ」

 ダリオの腕が震え始めた。

 止めていた呼吸には限界がある。

 息を吐くたび、赤黒い光が弱まっていく。

 片膝が石床へ落ちた。

 圧板が下がる。

「俺が……紙を押す道具なんかに……!」

「紙を甘く見るな」

 細い老人が言った。

「何千枚と重ねりゃ、人より重い」

 今度こそ、職人たちから笑いが起きた。

     ◇

 ダリオは、両膝をついた。

 赤黒い光が消える。

 クラウディアが剣先を男の喉元へ向けた。

「終わりです」

「殺せよ」

「その必要はありません」

「甘えな。次に会ったら、そこの男から潰すぞ」

 ダリオの視線が修司を射抜く。

 修司は、目をそらさなかった。

「その次も、一人では相手をしない」

「……気に入らねえ」

 ダリオが低く唸る。

 次の瞬間、消えたはずの赤黒い光が、男の右脚だけに集まった。

 荷締め縄が弾け飛ぶ。

 解放された右足が、版圧し機の支柱を蹴った。

 全身に残っていた魔力を、その一撃だけに注ぎ込んだのだ。

 ひび割れていた支柱が折れる。

 圧板が大きく傾いた。

「下がれ!」

 クラウディアが修司を抱えて跳ぶ。

 護衛たちが職人を引き倒す。

 巨大な圧板と回転軸が、石床へ崩れ落ちた。

 土煙。

 飛び散る木片。

 水車の軸が外れ、樋からあふれた水が中庭へ噴き出す。

 視界が戻ったとき、ダリオの姿はなかった。

 川へ続く外壁に、大きな穴が開いている。

 その先の水面に、赤黒い光が一度だけ見えた。

「追いますか」

 護衛が問う。

 クラウディアは首を振った。

「負傷者と証拠の確保が先です。川下には村があります。動ける者を伝令へ」

 修司は彼女を見た。

「俺より、よほど支援士らしい判断だ」

「誰の影響だと思っているのですか」

 答えながらも、クラウディアの手は修司の背中から離れなかった。

「それと、技能を使わないというお話は終わっていません」

「勝ったあとにする話か?」

「勝ったからできる話です」

「……それもそうだな」

 修司は観念した。

 その横で、ミレイユが泥の中から第六版を拾い上げる。

 文字は大半が流れていた。

 だが、版を組んだ職人も、生きた証人も残っている。

 ヴァルターが描いた事件は、現実にならなかった。

 第三製版所での戦いは、修司たちの勝利だった。

 少なくとも、そのときはそう思えた。

     ◇

「なくなっている」

 版圧し機を操作していた老人が、奥の保管室で立ち尽くしていた。

 名をハンネスという。

 白鷺商会の時代から、この製版所で働いていた版工だった。

「何がですか」

 ミレイユが尋ねる。

 ハンネスは、開いた鉄箱を指した。

 中は空だった。

「公印版だ。北方十二関門の通行証へ、王国の印を刷るための版だよ」

 クラウディアの顔色が変わる。

「それは、十年前に王都へ返されたはずです」

「返したさ。だが、あいつらは本物から写しを作った」

 ハンネスが、床へ落ちた金属片を拾う。

 王国の紋章、その端だけが刻まれていた。

「第六版は囮だ。あんたらをここへ呼び、騒ぎを起こしている間に、出来上がった公印版を運び出した」

「いつですか」

「あの黒い馬車が来るより前だ。小さな早馬車で、北へ向かった」

 修司は息を呑んだ。

 第五版で辺境伯の死とクラウディアの拘束を広める。

 第六版で、修司たちを反逆者に仕立てる。

 そして、本物と見分けのつかない通行証。

 目的は、噂を信じさせることだけではない。

「偽の王命で、何を通すつもりだ」

 誰も答えなかった。

 答えは、すでに北へ走っていた。

     ◇

 同じ頃。

 北方第一関門の前に、白い旗を掲げた軍勢が到着していた。

 先頭の騎士が、一枚の通行証を差し出す。

 王国の紋章。

 軍務卿の署名。

 北方救援軍へ、すべての関門を開き、食料と馬を供出せよとの命令。

 門番は紙を灯りへ透かした。

 印にも、紙にも、不審な点はない。

「開門!」

 重い鎖が巻き上げられる。

 城門が、ゆっくりと開いた。

 白い旗の軍勢が動き出す。

 その一人の外套が風にめくれた。

 鎧の胸に刻まれていたのは、王国の紋章ではない。

 地面へ打ち込まれた、一本の黒い杭だった。

 偽りの紙が、ついに本物の軍隊を動かした。

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