第六十六話 罠ごと、ひっくり返せ
「あなたがここへ来ることまで、第五版に書いてありますよ」
ヴァルター・クレムは、穏やかに笑っていた。
製版所の二階には、火術杖を構えた男が六人。
正門は閉ざされ、背後の林からも武装した足音が近づいてくる。
修司たちは、完全に囲まれていた。
「私たちを、最初からここへ誘い込んだのですね」
クラウディアが修司の前へ出る。
「正確には、紙面ではなく第五版の進行表に、ですが。誘い出したかったのは、タカセ様です」
ヴァルターは上着の袖口を整えた。
「焼け残った製版所の名。白鷺の受取証。わざわざ追いやすい方向へ逃げたセラフィナ。どれも、あなたなら見落とさないと思っていました」
セラフィナが逃げたのではない。
追わせたのだ。
「ずいぶん高く買ってくれたんだな」
「ええ。あなたは役人より速く間違いを見つけ、騎士より先に人を救う。そして、救えない者を見つければ、危険と分かっていても近づく」
柔らかな声音のまま、ヴァルターは製版所を振り返った。
「実に、動かしやすい方です」
クラウディアの手が剣の柄へかかる。
その瞬間、二階の火術杖が一斉に下を向いた。
狙いは修司たちではない。
紙を積み上げた乾燥棚。
油の染みた床。
そして、職人たちが閉じ込められている建物の内側だった。
「剣から手を離してください、クラウディア様。火というものは、紙より人によく燃えます」
「外道が」
「商人ですよ」
ヴァルターは少しも顔色を変えなかった。
「人が欲しがるものを、必要な場所へ運んでいるだけです」
「嘘まで商品にするのか」
修司が言うと、男の笑みがわずかに深くなった。
「真実だから売れるのではありません。人が信じたいから売れるのです。辺境伯は死んだ。令嬢は捕らえられた。王都は北を見捨てた――その方が、飢えと恐怖に苦しむ者には分かりやすい」
「分かりやすくしてるんじゃない。考えられなくなるまで怖がらせてるだけだ」
「結果は同じです」
「違う」
修司は、はっきりと言った。
「介護の現場じゃ、言葉一つで人は立てなくなる。『危ないから座っていろ』『もう無理だ』って周りが決めれば、本当に動けなくなるんだ。だから、本人を見て、確かめて、一緒にできることを探す」
一歩、木陰から出る。
「あんたは、人を転ばせてから杖を売ってる」
ヴァルターの笑みが消えた。
「なるほど。あなたは安く買えそうにない」
「買うつもりだったのか」
「今でも、そのつもりですよ」
ヴァルターが指を鳴らした。
二階から、折り畳まれた紙が落ちてくる。
風に揺れたそれを、ミレイユが拾った。
大きな見出しを読み、息を呑む。
『異界の扇動者、王命に背き第三製版所を襲撃』
その下には、まだ起きていない事件が整然と並んでいた。
タカセ・シュウジが私兵を率いて製版所を襲った。
王国の命令書を焼き、罪のない職人を殺害した。
クラウディア・フォン・グランフェルも反乱へ加担した。
二人を見つけた者は、直ちに拘束せよ。
これが、第六版だった。
「私たちをここで焼き、あの紙を事実にするつもりですか」
ミレイユの手が震えている。
「順序が逆です」
ヴァルターが答えた。
「紙に書かれた以上、すでに事実なのですよ。あとは、それらしい灰と遺体があればよい」
林の奥で、太い枝が折れた。
いや、折れたのではない。
男が片手で握り潰していた。
短く刈った黒髪。
厚い首と、革鎧の上からでも分かる異様な肩幅。
両手には、手首まで覆う黒い革帯が巻かれている。
男が歩くたび、落ち葉の下で小枝が砕けた。
「ダリオ・グランツ」
クラウディアが低く名を呼んだ。
「傭兵団《黒い杭》の元頭領。《骨砕き》のダリオです」
「元、じゃねえ」
ダリオは歯を見せた。
「金を払う旗がなくなったから、畳んだだけだ」
ヴァルターが修司へ片手を差し出す。
「私の下で働いてください。王都で作った手引きも、各地へ確認をつなぐ発想も見事でした。人を動かす方法を、あなたは知っている」
修司の背筋に冷たいものが走った。
「訂正の紙を運ぶ者まで、狙うつもりか」
「街道に、私の目はいくつもありますから」
十二人の伝達役。
中央街道、川沿い、巡礼路。
彼らの姿が、修司の頭に浮かんだ。
「安心してください。まだ殺してはいません。あなたが私の側へ来るなら、ですが」
クラウディアが振り返りかける。
「見るな」
修司は小さく言った。
「それも揺さぶりだ。確かめてないことまで信じたら、俺たちも同じになる」
先ほど、自分で紙に書いたばかりだった。
紙一枚で、門を開けるな。
ならば、言葉一つで心の門を明け渡してもいけない。
クラウディアが正面へ向き直る。
「では、返事を伺いましょう」
修司は息を吐いた。
敵は多い。
右腕は吊られたまま。
技能を使えば、まだ頭痛が残る。
それでも、不思議と迷いはなかった。
「断る」
「理由を聞いても?」
「人を動かすんじゃない。動けるように支える。それが分からないあんたとは、同じ仕事はできない」
「残念です」
ヴァルターが手を下ろした。
「ダリオ。右腕は商品になりません。左を折りなさい」
◇
地面が爆ぜた。
ダリオの巨体が、一息で間合いを詰めてくる。
「《剛躯》」
男の両腕に、赤黒い光が走った。
魔力で筋力と骨格を強化する身体強化術。
振り抜かれた拳が、修司の顔へ迫る。
「修司!」
クラウディアが剣を抜く。
火術杖の先に炎が灯った。
彼女が動けば、製版所が燃える。
「動くな!」
修司は自分から拳へ踏み込んだ。
遠ざかれば、長い腕の先で打ち抜かれる。
ならば、力が伸び切る前へ入る。
左手をダリオの手首へ添え、身体を半歩だけ回した。
受け止めない。
拳の向きを、わずかに外へずらす。
風圧が頬を打った。
ダリオの拳は修司の耳をかすめ、背後の木へ突き刺さる。
幹が大きく裂けた。
「ほう」
ダリオの目が輝く。
「爺さんの踊りかと思ったが、面白え」
引き戻された肘が、今度は胸を狙う。
速い。
修司は左腕で軌道をそらしたが、完全には逃がせなかった。
鈍い衝撃が肩から胸へ抜ける。
身体が地面を転がった。
「タカセ!」
ミレイユの叫びが聞こえる。
息が入らない。
右肩の傷が熱を持つ。
ダリオは、力任せに殴るだけの男ではなかった。
一度目で、修司が力を流す方向を見ている。
二度目は、途中で軌道を変えてきた。
「一度見せた技が、二度も通じると思うなよ」
ダリオが近づいてくる。
だが、修司は倒れながら、製版所の全体を見ていた。
二階の火術士。
乾燥棚の陰で身を縮める職人。
正門脇の護衛。
建物の横を流れる水路。
水車へ水を送る木製の樋。
その根元にある、大きな鉄の輪。
職人の一人が、先ほどから何度もそこを見ている。
細い老人だった。
指先は黒いインクで染まり、左脚を引きずっている。
逃げる場所を探しているのではない。
何かを動かす機会を待っている。
修司は左手を地面についた。
「《生活動作把握》」
視界の中で、人の動きが線になる。
火術士が杖を向け直す線。
護衛が剣を抜く線。
クラウディアが踏み込もうとする線。
ミレイユが傷ついた修司へ駆け寄ろうとする線。
そして、閉じ込められた職人たちの線。
怯えて、ばらばらに見えた動き。
違う。
彼らは全員、仕事場のどこに何があるか知っている。
老人は水門。
痩せた女性は乾燥棚の留め具。
若い植字工は、二階へ上がる巻き上げ縄。
助けを待つだけの人間ではない。
動けるのだ。
動くきっかけがないだけだ。
「皆さん、聞こえますか!」
修司は製版所へ向かって叫んだ。
「俺たちは、皆さんを置いて逃げません!」
ヴァルターが小さく息を吐く。
「無意味な励ましです」
「違う。頼んでるんだ」
修司は立ち上がった。
「俺たちに、力を貸してください!」
老人が顔を上げた。
女性の手が、乾燥棚の陰で動く。
若い植字工が巻き上げ縄を握った。
自分たちを、哀れな人質として見る者。
まだ働ける職人として見る者。
その違いは、届いた。
修司の視界に、淡い光が広がった。
『支援対象を確認』
『共通目標――生存、救出、製版停止』
『《連携支援》対象上限を超過』
こめかみに、鋭い痛みが走る。
ここで広域展開を使えば、また倒れるかもしれない。
クラウディアと交わした約束もある。
それでも、使わずに守れる状況ではなかった。
「修司、まさか――」
「ごめん。今だけだ」
修司は、痛む右腕を身体へ押しつけた。
「《連携支援――広域展開》」
◇
世界から、音が消えた。
正確には、余計な音だけが遠のいた。
水車の回転。
火術杖へ魔力が集まる音。
職人たちの呼吸。
味方が地面を踏む音。
一つ一つが、同じ紙面へ置かれた要素のように見える。
狭すぎる場所へ、情報を詰め込めば読めなくなる。
大事なものを残し、不要なものを捨てる。
そして、人が動くための余白を作る。
「今だ!」
老人が鉄の輪へ飛びついた。
全体重をかけて引く。
水門の留め金が外れ、木製の樋が大きく傾いた。
水車へ流れていた水が、石床の脇に掘られた防火溝へ落ちる。
大量の水が製版所の一階を走った。
「火を放て!」
ヴァルターの声が初めて荒くなる。
六本の火術杖から、炎が放たれた。
同時に、痩せた女性が乾燥棚の留め具を外す。
紙を載せた大きな木枠が、二階の窓の前へ連続して倒れた。
炎の三つが木枠へ当たり、紙を燃やす。
だが、残る炎へクラウディアと護衛が動いた。
連携支援によって、誰がどれを止めるべきか迷わない。
クラウディアの剣が、一つ目の炎を斜めに断つ。
護衛二人が外套を広げ、二つ目を床へ叩き落とす。
三つ目は油へ届く寸前、防火溝からあふれた水に呑まれた。
白い蒸気が噴き上がる。
「階段を!」
修司が叫ぶ。
若い植字工が巻き上げ縄を切った。
二階へ積み荷を運ぶ木製の昇降台が、一気に落ちる。
轟音。
床が揺れ、火術士たちが体勢を崩した。
クラウディアと護衛が建物へ駆け込む。
ミレイユは職人たちを裏口へ導いた。
「水路沿いへ! 走れない人を真ん中にしてください!」
命令を待つだけだった職人たちが、互いの肩を支え合って走り出す。
「ふざけた真似を!」
ダリオの拳が、再び赤黒く光った。
狙いは修司ではない。
水門を開いた老人だった。
修司は二人の間へ踏み込む。
「邪魔だ!」
打ち下ろされる拳。
受ければ、左腕まで折れる。
修司は老人の肩を押して進路から外し、自分も身体を回した。
拳へ添えるのは、左手の指先だけ。
ダリオは一度見た動きへ逆らい、腕を途中で止めようとした。
その瞬間を待っていた。
力を流すのではない。
止めようとした身体へ、修司が肩から入る。
ダリオの重心が、ほんのわずかに浮いた。
「ぬっ――」
巨体が二歩、前へ出る。
そこには、第六版を満載した荷馬車があった。
修司は左手でダリオの革帯をつかみ、全身を沈めた。
投げられない。
だが、向きは変えられる。
ダリオの拳が、荷馬車の車止めを粉砕した。
「何っ!」
傾斜に置かれていた荷馬車が動き出す。
一台目が二台目へぶつかり、二台目が三台目を押した。
三台の荷馬車が、連なって石床を下る。
「止めろ!」
ヴァルターの怒声。
だが、遅い。
三台は防火溝を越え、そのまま川沿いの泥濘へ横倒しになった。
幌が外れ、何千枚もの第六版が宙を舞う。
火ではない。
水と泥が、偽りの文字を呑み込んだ。
黒いインクが流れ、修司を罪人に仕立てる文章が崩れていく。
「俺の腕を折るんじゃなかったのか」
修司は息を切らしながら言った。
「自分で商品を潰してどうする」
一瞬の沈黙。
救出された職人の誰かが、吹き出した。
続いて、別の誰かが笑った。
恐怖に押し潰されていた人々の間へ、笑いが広がる。
ダリオの顔から、笑みが消えた。
◇
「撤収します」
ヴァルターだけが、冷静さを取り戻していた。
黒塗りの馬車へ向かって歩き出す。
「逃がすと思いますか!」
クラウディアが二階の火術士を蹴り倒し、窓から中庭へ飛び降りる。
ヴァルターへ駆ける彼女の前で、白い羽根が舞った。
「《風幕》」
セラフィナの声。
製版所の屋根から、突風が中庭へ叩きつけられた。
水と泥と紙が巻き上がり、白い壁となって視界を塞ぐ。
修司は左腕で顔をかばった。
頭の奥が焼けるように痛い。
広域展開の光が、一つ、また一つと消えていく。
「修司、技能を切って!」
クラウディアの声が遠い。
「まだ……全員、外へ出てない」
「私が見ます。もう十分です!」
最後の職人が裏口を越えた。
修司は技能を解いた。
膝が崩れる。
地面へ落ちる前に、クラウディアの腕が身体を支えた。
「今だけと、おっしゃいましたね」
「今だけだった」
「限界まで、とは聞いていません」
「それは……言ってなかったな」
「あとで、お話があります」
怒っている。
だが、修司を抱える腕は震えていた。
風幕が晴れる。
黒塗りの馬車は、正門から姿を消していた。
屋根にいたセラフィナもいない。
「追います!」
護衛の一人が走り出そうとする。
「待て!」
修司はクラウディアに支えられたまま叫んだ。
製版所の内側では、まだ紙が燃えている。
倒れた火術士。
負傷した職人。
そして、中庭の中央には――ダリオが残っていた。
「旦那だけ逃げるのか」
ダリオは首を左右へ鳴らした。
「俺は、まだ商品を壊した落とし前をもらってねえぞ」
「ダリオ、契約は終わりです!」
遠ざかる馬車から、ヴァルターの声が飛ぶ。
「知るかよ!」
ダリオが吠えた。
両腕だけだった赤黒い光が、肩、胸、脚へ広がっていく。
革鎧の留め具が弾け飛んだ。
膨れ上がった筋肉の上に、魔力の筋が獣の縞のように走る。
先ほどまでの強化とは、桁が違う。
「まずい」
クラウディアが修司をミレイユへ預け、剣を構えた。
「あれが《骨砕き》と呼ばれる理由です。あの男は、強化を二段階に分けて隠す」
ダリオが地面を踏んだ。
石床に、蜘蛛の巣状の亀裂が走る。
「一度見た技は、二度は食わねえ」
獣のような目が、まっすぐ修司を捉えた。
「次は、あんたごと砕く」
修司の右腕は動かない。
技能も、すぐには使えない。
それでも、ミレイユの肩を借りながら立ち上がった。
「クラウディア」
「はい」
「今度は、一人で相手をするつもりはない」
クラウディアが、わずかに笑った。
「ようやく学ばれましたね」
剣を構える騎士。
片腕の使えない生活支援士。
その正面で、《骨砕き》が大地を蹴った。




