第六十二話 紙は馬より速い
休息所の扉が、激しく叩かれた。
「開けてくれ! グランフェル家の騎兵だ!」
クラウディアが剣へ手を掛け、護衛が扉の左右へ立つ。
合図を確かめてから扉を開くと、冷たい夜気とともに一人の騎兵が転がり込んできた。
外套の肩が裂け、血が滲んでいる。
「何があった」
クラウディアが身体を支えた。
「北の街道で、白い鳥の印をつけた荷馬車を見つけました。声を掛けたところ、いきなり矢を……」
「連れは?」
「追跡を続けています。ですが、相手の馬が速い。黒松の分かれ道を北へ向かいました」
ミレイユが壁に掛けられた街道図へ駆け寄る。
「北なら、次はラウエン村です」
「ここからどれくらいだ」
「荷馬車で二刻ほど。夜明け前には着きます」
修司は、机に並んだ四十七枚の偽手引きを見た。
改訂第三版。
まだ見つかっていない第一版と第二版がある。
そして、白い鳥の荷馬車が次の村へ向かっている。
「追います」
修司が言うと、エヴァが負傷した騎兵の肩から顔を上げた。
「駄目です」
「即答ですね」
「右腕を吊った人に、ほかにどんな返事があると思いますか」
「戦うつもりはありません」
「タカセさんがそう言ったあと、本当に戦わずに済んだことが何度ありました?」
答えに詰まった。
クラウディアとミレイユまで、こちらを見ている。
「……多くはありません」
「一度でもあったように言わないでください」
エヴァは負傷した騎兵の傷を確かめながら、きっぱりと言った。
「私はオットーさんと、ほかの負傷者から離れられません。あなたまで怪我を増やして戻ってきても、治療の手は足りませんよ」
「分かっています」
修司は、今度は迷わず答えた。
「だから、大勢では行きません。速い馬車を一台。護衛も最小限にします」
「止めても行く顔ですね」
「はい」
以前なら、心配をかけることが申し訳なくて、曖昧に笑っていたかもしれない。
だが今は、行く理由も、残る人の役割も分かっている。
「エヴァ先生は、ここをお願いします。オットーさんの状態と、ほかに偽手引きを試した人がいないか確認してほしい」
次に、ミレイユを見る。
「ミレイユは訂正文を作ってくれ。朝までに、できるだけ多く。文章はさっき決めたものでいい」
「タカセさんは?」
「偽物の次の版を止める」
修司は街道図のラウエン村を指した。
「第三版で人を傷つけた連中が、次も同じ内容を配るとは思えない。俺たちが訂正を始めることくらい、向こうも考えているはずだ」
「さらに強い嘘を用意している、と?」
「たぶん」
偽手引きは、ただ間違った知識を広めるためのものではない。
自分の名前を使って人を傷つける。
訂正すれば、その訂正さえ疑わせる。
信じる基準そのものを壊すつもりなのだ。
「俺たちより先に、ラウエン村へ入れたくない」
修司はクラウディアへ向き直った。
「行けるか、クラウディア」
「私へ尋ねるまでもありません」
彼女はすでに外套の留め具を締め直していた。
「ただし、条件があります」
「右腕は使わない」
「もう一つ」
「あなたから離れない」
クラウディアの口元が、わずかに緩んだ。
「覚えていたのですね」
「何度も言われたからな」
自然に出た言葉だった。
クラウディアは目を細めたが、今度は何も言わなかった。
◇
四頭立ての軽馬車が、夜の街道を北へ駆けた。
御者台には、道を知る二人の騎兵。
その後ろに、修司とクラウディアが乗っている。
荷台には縄、毛布、水、消火用の砂袋。それから、ミレイユが最初に書き上げた訂正文が十枚だけ積まれていた。
月は雲に隠れ、前方を照らすのは御者台の魔導灯だけだ。
車輪が石を踏むたび、荷台が跳ねる。
吊った右腕へ振動が響いた。
「痛みますか」
クラウディアが尋ねた。
「少し。でも、動かさなければ大丈夫だ」
「大丈夫という言葉も、信用しないことにしました」
「厳しくなったな」
「誰のせいでしょう」
修司は返す言葉を探したが、見つからなかった。
暗い街道へ目を戻す。
風が強くなっていた。
北から吹き下ろす風に、枯れ葉が流されていく。
「修司殿」
「何だ?」
「先ほど、また私を名前で呼びましたね」
今はそれを言うのか。
そう思って隣を見ると、クラウディアは真っ直ぐ前を向いていた。
月明かりのない夜では、表情までは分からない。
「嫌だったか?」
「いいえ」
返事はすぐだった。
「次は、危険が迫っていないときにも呼んでください」
「……分かった」
「今の間は何ですか」
「危険が迫っているときより、難しい注文だと思っただけだ」
隣から、小さな笑い声が聞こえた。
その瞬間、前方の騎兵が手を上げた。
「止めます!」
手綱が引かれ、馬車が大きく揺れる。
修司は左手で側板をつかんだ。
街道の中央に、馬が一頭倒れていた。
追跡を続けていた騎兵の馬だ。
鞍は空だった。
「人がいない」
クラウディアが先に降りる。
修司も続こうとすると、彼女の手が差し出された。
「自分で降りられる」
「知っています」
「なら――」
「一人でできることと、一人でするべきことは違うのでしょう?」
自分がベルンハルトへ何度も言った言葉だった。
修司は苦笑し、差し出された手を取った。
「その通りだ」
街道には争った跡が残っている。
土を深く削った馬の蹄。
折れた矢。
路肩の草には、誰かを引きずった跡があった。
「こちらです!」
騎兵が声を上げる。
倒れた木の陰に、男が横たわっていた。
意識はある。
脚から血を流しているが、剣は手放していなかった。
「申し訳ありません。馬車に追いついたのですが、荷台から術を……」
「喋るな。止血を」
クラウディアが騎兵へ命じる。
修司は路面へ目を向けた。
幅の違う二本の車輪跡が、北へ続いている。
右側の跡だけが、ところどころ深い。
「荷が右へ偏っている」
「紙を積んだ箱でしょうか」
「それだけじゃない」
修司はしゃがみ、地面へ落ちた黒い粒を左手で拾った。
指で潰すと、油を含んだ煤がつく。
「何かを燃やす準備をしている」
クラウディアが北を見た。
「追いつかれたとき、証拠を焼くためでしょうか」
「それなら、紙だけ燃やせばいい。こんなに油は要らない」
風は北から南へ吹いている。
ラウエン村の手前には、小さな森と木橋がある。
街道図に描かれた地形が、頭の中で重なった。
「橋だ」
修司は立ち上がる。
「俺たちを橋の上で止めて、火をつけるつもりかもしれない」
「分かっていて進むのですか」
「いや。相手が待っている道は通らない」
街道の西には、古い水車道がある。
今は荷運びに使われていない細い道だが、軽馬車なら通れる幅がある。
「水車道から橋の北へ回る。追うんじゃない」
修司は地図の一点を指した。
「先へ出る」
◇
水車道は、道と呼ぶには狭すぎた。
枝が幌を叩き、車輪が何度も泥へ沈みかける。
それでも、軽馬車は止まらなかった。
修司たちが森を抜けたとき、街道の木橋が斜め後ろに見えた。
橋の南側に、白い鳥の印をつけた荷馬車が止まっている。
男たちが樽から油を撒いていた。
「やはり、橋を焼くつもりだったのですね」
クラウディアが剣を抜く。
白い鳥の荷馬車の御者が、こちらに気づいた。
短い笛の音が夜に響く。
「行け!」
修司が叫ぶ。
軽馬車が北側から橋へ入った。
相手の荷馬車も動き出す。
二台の馬車が、木橋の中央へ向かって走った。
「退く気がありません!」
御者台の騎兵が叫ぶ。
「ぶつけるつもりだ!」
「右へ寄せろ! ぎりぎりまですれ違う!」
「修司殿!」
「相手の荷は右に偏っている。急に左へ切れば、車体が傾く!」
白い鳥の荷馬車が迫る。
御者の顔まで見えた。
その後ろで、白い羽根の仮面をつけた女が立っている。
深紅の外套が、夜風に大きくはためいていた。
「面白い」
女の唇が笑う。
軽馬車と白い荷馬車が衝突する寸前、こちらの御者が手綱を切った。
馬が右へ寄る。
二台の側板が激しく擦れ、火花が散った。
女の乗る荷馬車が左へ避けようとする。
右へ偏った荷が、外側へ引かれる。
車輪が浮いた。
大きな木箱が一つ、荷台から橋へ落ちる。
だが、横転はしなかった。
女は片手を振り上げた。
「《風よ、運べ》」
緑色の魔法陣が夜空へ開く。
荷台の布が、一斉に剥がれた。
その下に積まれていたのは、何百枚もの紙だった。
「まさか――」
紙の束が風に巻き上げられる。
白い鳥の群れのように夜空へ広がり、そのまま北へ飛んでいく。
ラウエン村の方角へ。
「配るのに、村まで行く必要はないのか」
修司の背筋に冷たいものが走った。
女の声が、風に乗って届く。
「紙は馬より速いわ、生活支援士」
白い荷馬車が橋を渡り切る。
「待て!」
クラウディアが側板へ足を掛けた。
だが、その前に黒い影が頭上から降ってきた。
軽馬車の屋根に潜んでいた男だった。
男の短剣が、御者の背へ向かう。
「左だ!」
修司の声に、御者が身体を伏せる。
刃が空を切った。
クラウディアが踏み込む。
その足元へ、橋に落ちた油樽から黒い液体が流れた。
白い荷馬車の御者が、後ろ手に火のついた瓶を投げる。
「クラウディア、火を!」
彼女は一瞬だけ修司を見る。
「この男を頼めるか」と、その目が問うていた。
「任せろ!」
返事を聞いたクラウディアが向きを変える。
剣が闇に銀の弧を描いた。
火の瓶が空中で二つに割れる。
燃えた油が橋の外へ散り、川面で赤く弾けた。
黒衣の男が、今度は修司へ短剣を向ける。
「腕を吊ったおっさんが、何を任されるんだ?」
男の両脚へ、赤い強化の光が走った。
速い。
だが、真っ直ぐだった。
「《生活動作把握》」
淡い光が、修司の左目の前で広がる。
短剣。
右肩。
踏み込む左足。
男の身体をつなぐ線が、一瞬だけ見えた。
修司は右腕を身体へ寄せ、半歩だけ前へ出た。
逃げると思っていた男の目が見開かれる。
短剣を持つ手首へ、左手を添える。
止めない。
つかまない。
刃の進む方向を、自分の身体の外へ変える。
短剣が外套を裂いた。
男の肩が、修司の胸の横を通り過ぎる。
強化された脚は、急には止まれない。
修司は左手を男の肘へ滑らせ、腰を回した。
前へ出た力が、円を描いて下へ向かう。
男の上体が崩れた。
だが、相手も橋の欄干へ左手をつき、倒れる寸前で耐える。
「舐めるな!」
男が肘を振り上げた。
右腕では受けられない。
修司は後ろへ下がらず、さらに男の懐へ入った。
肘が頭上を通り過ぎる。
左肩を男の胸へつけ、足を入れ替える。
合気道の稽古で、何千回も繰り返した動き。
だが、今の身体は五十二歳で、片腕を痛めている。
だから、投げ切ろうとはしない。
「そこで止まれ!」
技能の光が、修司自身の足元へ集まる。
《個別支援》。
強くなるためではない。
今、自分に残っている力を、必要な一歩へまとめる。
左足が橋板を踏む。
腰が回る。
男の身体が、浮いた。
「なっ――」
黒衣の男は橋の外へ落ちなかった。
修司が導いた先は、軽馬車の幌だった。
男の背が布へ沈み、張っていた縄が衝撃を受け止める。
短剣が手から離れ、橋板へ転がった。
修司は追いかけて押さえ込まない。
「左を頼む!」
護衛へ叫ぶ。
二人の騎兵が左右から男の腕を取り、幌から引きずり下ろした。
黒衣の男が起き上がろうとする。
修司は、その前へ立った。
「今度動けば、次は幌じゃ済まない」
呼吸は乱れていた。
右肩も痛い。
それでも、声は震えなかった。
男の目から、侮りが消える。
その間にも、白い鳥の荷馬車は北へ遠ざかっていた。
白い羽根の仮面の女が、荷台からこちらを見ている。
追いつけない距離だった。
女が指先を唇へ当てる。
まるで、次の舞台で待っていると告げるように。
そして荷馬車は、夜の中へ消えた。
◇
「動かさないでください」
戦いが終わるなり、クラウディアが修司の右肩を押さえた。
「右腕は使っていない」
「肩は身体の一部です」
「短剣も受けていない」
「外套は裂けています」
「布だけだ」
「そういう問題ではありません」
叱りながら、彼女の指が傷のないことを確かめていく。
やがて大きく息を吐いた。
「まったく……」
「心配をかけた」
「ええ。ですが――」
クラウディアは、縛られた黒衣の男へ目を向けた。
「見事でした、修司殿」
「そっちもな」
川面には、落ちた油がまだ燃えている。
橋そのものへは燃え移っていない。
護衛が砂を撒き、残った火種を消していた。
「箱を開けます」
騎兵の一人が、橋へ落ちた木箱の前へ膝をつく。
「待ってください。仕掛けがあるかもしれない」
修司は箱の周囲を見た。
蓋を留める釘。
縄の結び目。
白い鳥の焼き印。
油の匂いはしない。
代わりに、新しいインクの匂いがした。
箱を横へ倒し、長い棒で留め金を外す。
中には、紙束が詰められていた。
一番上の紙には、赤い文字で大きな見出しがある。
『生活防衛手引き 改訂第四版』
「第四版……」
クラウディアが低く呟いた。
修司は紙を左手で持ち上げた。
そこに書かれていたのは、治癒後の身体についてではなかった。
『王都大治癒陣の崩壊により、北方へ送られた薬と食料に腐敗魔力が付着した』
『異世界人タカセ・シュウジは、生活支援の名を騙り、汚染された物資をグランフェルへ運んでいる』
『街道沿いの村は門を閉ざし、荷を焼却せよ』
『一行が抵抗した場合、感染拡大を防ぐため武力による拘束を認める』
最後には、また修司の名前があった。
『王立治癒院生活支援部 緊急布告』
その下に、偽造された署名。
『生活支援士タカセ・シュウジ』
「自分で自分を捕らえろと書いたのか」
騎兵が困惑した声を上げる。
「違います」
クラウディアの表情が険しくなる。
「前の手引きを信じた者には、タカセ殿が自ら危険を告げたように見えるのです。名を騙る偽物が物資を運んでいる、と」
「俺たちが訂正を配っても、それさえ偽物だと思わせられる」
修司は紙の下部へ目を落とした。
六台の荷馬車。
護衛の人数。
積み荷の種類。
王都を出た時刻。
修司の右腕が負傷していることまで書かれている。
「この情報は、街道で見ただけでは分かりません」
「王都を発つ前から、私たちの隊列を知る者がいた」
クラウディアが紙を握りしめる。
「内側に、敵がいます」
修司は、夜空を舞う紙を見上げた。
緑色の風に乗った紙は、すでにほとんど見えない。
いくら馬を急がせても、全部を拾うことはできない。
敵の言った通りだった。
紙は馬より速い。
だが、紙だけで人が動くわけではない。
それを読んだ人が信じ、隣の人へ伝えたとき、嘘は力を持つ。
ならば、止めるべきものは紙ではない。
「ラウエン村へ行く」
修司は第四版を畳み、懐へ入れた。
「まだ行くのですか」
「今度は、俺たちを追い返すための紙だ。俺が行かなければ、あの紙に書かれた俺だけが村人の中に残る」
クラウディアが修司を見る。
「矢を向けられるかもしれません」
「それでも行く」
「私も行きます」
「分かってる」
修司は軽馬車へ乗り込んだ。
白い鳥の女は逃した。
だが、襲撃者を一人捕らえ、第四版も手に入れた。
何より、相手が次に何を起こすつもりか分かった。
「夜明けまでに村へ着く。飛ばしてくれ」
「はっ!」
馬車が走り出す。
夜空から、一枚の紙が落ちてきた。
御者台へ張りついたそれを、騎兵が払い落とす。
同じ第四版だった。
◇
ラウエン村が見えたのは、空の端が薄く白み始めた頃だった。
街道の先に、木造の見張り塔がある。
その下の門は、固く閉ざされていた。
門の前には荷車と樽が積まれ、急ごしらえの壁が作られている。
「間に合わなかったか」
修司が呟く。
見張り塔の鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
襲撃を知らせる音だった。
門の上へ、村人たちが現れる。
兵士ではない。
農具を持った男。
狩り弓を構えた女。
まだ少年に見える者まで、石を抱えている。
その中央に、赤い文字の紙が掲げられた。
『異世界人タカセ・シュウジを村へ入れるな』
「我々はグランフェル家の者だ!」
騎兵が声を張る。
「偽の布告に騙されるな! 門を開けて話を聞いてくれ!」
「近づくな!」
門の上から、震える男の声が返ってきた。
「本物の生活支援士様が警告してくださった! お前たちは名を騙る汚染者だ!」
弓の弦が、一斉に引かれる。
クラウディアが修司の前へ出た。
「修司殿、下がってください」
修司は退かなかった。
自分の名前を信じた人々が、自分へ武器を向けている。
怒鳴っても駄目だ。
領主家の威光で従わせても、恐怖までは消えない。
まず、何を見ている。
誰の声を聞いている。
何を恐れている。
人の身体を見るときと同じだ。
できないことではなく、今できる動きを探す。
「クラウディア」
「はい」
「剣をしまってくれ」
「しかし――」
「この村の人たちは、敵じゃない」
修司は馬車の上へ立った。
吊った右腕も、裂けた外套も、隠さない。
偽の第四版を左手に掲げる。
「俺が、タカセ・シュウジだ!」
門の上がざわめいた。
その瞬間。
見張り塔の陰から、火のついた矢が放たれた。
矢が向かった先は、修司ではない。
村人たちの足元に積まれた、油樽だった。
敵は、村人に修司を襲わせるだけではなかった。
修司たちが着いた瞬間に、村ごと燃やすつもりだった。
「伏せろ!」
修司の叫びと同時に、火矢が赤い軌跡を描いた。




