第六十一話 俺の名で、人を傷つけるな
王都を発って、二日目の朝。
街道の両側から、白い石造りの建物が少しずつ消えていた。
代わりに広がるのは、刈り入れを終えた畑と、葉を赤く染め始めた森だった。
北へ進むほど空気が冷たくなる。
修司は馬車の窓を細く開け、その風を吸い込んだ。
王都の煙と香料が混じった匂いではない。
乾いた土と、枯れ草の匂い。
グランフェルへ帰る道の匂いだった。
「寒いのでしたら、閉めてください」
向かいに座るクラウディアが言った。
「寒くはありません。少し、外の空気を吸いたかっただけです」
「そう言いながら、また書類を読んでいますね」
修司の膝には、王都から持ち帰った手引きが載っていた。
青い丸は救護所。
黄色い矢印は避難路。
赤い三角は危険な場所。
黒い交差線は通行止め。
王都で急ごしらえした一枚を、ミレイユと書記官たちが十二部まで書き写してくれた。
修司はそのうちの一枚へ、細かな修正を書き込んでいた。
「読んでいるだけです。右手は使っていません」
「左手で書き込んでいるように見えますが」
「……少しだけです」
「その『少し』も信用できません」
王都を発つ前夜と同じことを言われ、修司は苦笑した。
右腕はまだ布で吊っている。
治癒魔法で傷口は塞がっていても、動かせる範囲は狭い。エヴァからは、グランフェルへ戻るまで荷物を持つなと念を押されていた。
「タカセさん。私からもお願いします」
隣に座るミレイユが、修司の左手からペンを抜き取った。
「訂正箇所は、私が記録します」
「まだ何も言っていませんよ」
「先ほどから同じ行を三度見ています。文字を一つ小さくして、隣の図を広げたいのでしょう」
図星だった。
「よく分かりましたね」
「王都で何十枚、一緒に作ったと思っているんですか」
ミレイユは涼しい顔で、修司が直そうとしていた箇所へ印をつけた。
仕事を任せられる人がいる。
自分が手を動かさなくても、考えたことを形にしてくれる。
以前なら、申し訳なさの方が先に立ったかもしれない。
今は素直に頼ればいいと思える。
「ありがとう。そこを直したら、余白へ――」
修司は言葉を止めた。
開けた窓から入る風に、別の匂いが混じった。
焦げた木。
油。
そして、紙の焼ける匂い。
前方の丘の向こうから、細い黒煙が上がっている。
「クラウディア、馬車を止めてくれ」
自分でも考えるより先に、名前を呼んでいた。
クラウディアの青灰色の瞳が、ほんの一瞬だけ修司を見る。
だが、何も聞き返さなかった。
「全車停止!」
扉を開け、御者と護衛へ鋭く命じる。
「前方に煙! 騎兵二名、確認へ。残りは馬車を囲め!」
王都からグランフェルへ向かう一行は、六台の荷馬車で編成されていた。
食料。
薬草。
復旧用の金具と工具。
ようやく再開された、辺境への支援物資だった。
これを失うわけにはいかない。
「私も行きます」
修司が立ち上がると、クラウディアが入り口を塞いだ。
「腕の状態を忘れたのですか」
「忘れていません。だから戦いには行きません」
「では、何をしに?」
「煙の近くに、人がいるかもしれない」
今度は丁寧な言葉へ戻らなかった。
クラウディアは修司の顔を見たあと、小さく息を吐いた。
「私から離れないでください」
「分かった」
返事をしてから、修司は自分の口調に気づいた。
クラウディアも気づいたはずだった。
だが彼女は口元をわずかに緩めただけで、先に馬車を降りた。
◇
丘を越えた先で、二台の荷馬車が焼けていた。
一台は道の中央で横倒しになり、車輪が外れている。
もう一台は街道脇の石壁へ突っ込み、荷台から赤い炎を上げていた。
近くに魔物の姿はない。
積み荷の小麦袋が切り裂かれ、白い粒が地面へ流れ出している。
だが、すべて奪われたわけではなかった。
革袋も、工具箱も、御者台の下に落ちた銅貨も残っている。
「盗賊ではありません」
クラウディアが焼けた荷台へ目を走らせる。
「荷を奪うのが目的なら、火をつける前に運び出すはずです」
「では、何を狙ったんでしょう」
ミレイユが周囲を見た。
修司は地面へ膝をついた。
車輪のそばに、焦げた紙片が散っている。
灰になったものもあれば、端だけを焼かれたものもある。
右手は使えない。
左手で一枚を拾い上げようとしたとき、近くの建物から叫び声が聞こえた。
「誰か! また倒れた!」
街道沿いの小さな休息所だった。
扉の前に、血のついた外套が落ちている。
「エヴァ先生を!」
修司が叫ぶ。
「もう来ています!」
後ろの馬車から、エヴァが治療鞄を抱えて走ってきた。
「タカセさんは走らないでください!」
「走っていません!」
「その速さは走っています!」
言い返しながらも、エヴァは修司を追い越して休息所へ飛び込んだ。
◇
床に、若い男が倒れていた。
二十代の半ばほどだろう。
左の太腿に、治癒魔法を使ったあとの淡い光が残っている。傷は塞がっているが、顔から血の気が失せ、額には冷たい汗が浮かんでいた。
呼吸は浅く、速い。
そばにいた年配の男が、倒れた男の腕を引こうとしている。
「もう一度立たせるぞ。百歩まで、あと三十歩だ」
「待ってください!」
修司は二人の間へ入った。
「今は立たせないでください」
「だが、立たせて歩かせろと書いてある!」
年配の男が、床に落ちた紙を指した。
「治癒後すぐに歩かせなければ、魔力が傷口へ固まると。王都を救った生活支援士の教えだ!」
エヴァが若者の首元へ指を当てる。
「脈が弱い。傷を負ってから、どれくらい血を失いましたか」
「分からん。俺たちが見つけたときには、荷台の陰で倒れていた。治癒術師が傷を塞いでくれたから、もう大丈夫だと思って……」
「傷口を塞いでも、失った血や体力まで元へ戻るわけではありません」
エヴァの声が厳しくなる。
「毛布を。床からの冷えを防ぎます。無理に水を飲ませないでください。意識を確認します」
修司は周囲を見た。
怪我人は一人ではない。
壁際には頭へ包帯を巻いた御者が座り、奥の寝台では女性がうめいている。村人と護衛が入り乱れ、誰が何をしているのか分からなくなっていた。
「ミレイユ、紙と炭を出してくれ。怪我人の名前と、受けた治療を分けて記録する」
「はい」
「クラウディアは、外に残っている人がいないか確認してくれ。動かす前に、エヴァ先生へ状態を伝えてほしい」
「分かりました」
「護衛の方は入り口を空けてください。治療が必要な人と、歩ける人を同じ場所へ集めないで」
修司の声に、部屋の動きが変わる。
王都で何百人を動かした光は出ていない。
頭痛もない。
それでも、何を見るべきかを知った人間が声を掛け合えば、混乱は少しずつほどけていく。
「タカセさん」
エヴァが若者のそばから呼んだ。
「右脚は傷ついていません。ですが、意識が途切れかけています。呼び掛けへの反応を見てもらえますか」
「分かりました」
修司は若者の左側へ膝をついた。
「聞こえますか。名前を教えてください」
まぶたがわずかに動く。
「……オットー」
「オットーさん。俺はタカセです。身体の動きを見る技能を使ってもいいですか」
若者は、かすかにうなずいた。
「《生活動作把握》」
淡い光が、修司の左手から伸びた。
オットーの身体へ触れた光は、これまでのように全身を一度に包まなかった。
呼吸。
意識。
左手の指。
今、確かめる必要のある動きだけが、細い線となって浮かぶ。
立ち上がるための線は暗い。
歩くための線も、途中で途切れている。
それでも、呼び掛けに応じて指を動かす力は残っていた。
「オットーさん。左手を握れますか」
指が少しだけ曲がる。
「それでいい。俺の速さに合わせなくていいから、自分で息をしてください」
淡い光が一本、胸元から左手へつながった。
「《個別支援》」
技能が呼吸を強くするわけではない。
失った血を戻すことも、傷を治すこともできない。
ただ、恐怖と周囲の声に乱されかけていたオットーの意識を、自分の呼吸と指先へ戻していく。
エヴァが魔力を細く流し、傷口の奥を確かめる。
「出血は止まっています。脈も、先ほどより拾えます」
「毛布をもう一枚」
修司が言うと、年配の男がすぐに動いた。
「俺が持ってくる!」
「走らなくて大丈夫です。転ばないようにお願いします」
少し前まで無理に歩かせようとしていた男が、今度は足元を確かめながら毛布を運ぶ。
オットーの呼吸は、まだ浅い。
だが、先ほどのように急速には乱れていない。
「ここから先は、先生に任せます」
修司が光を解く。
立ち上がろうとすると、左膝が軋んだ。
背後から、クラウディアの手が肘を支える。
「人には無理をさせないのに、ご自分には相変わらずですね」
「今のは立ち上がっただけです」
「その言い訳も聞き飽きました」
声は呆れていたが、支える手は離れなかった。
◇
「これを読んだんです」
年配の男が、床に落ちていた紙を修司へ差し出した。
見出しには、大きくこう書かれていた。
『治癒後の身体を立て直すための手引き』
その下には、椅子から立ち上がる人間の図がある。
足の位置。
身体を前へ傾ける方向。
支える者が立つ場所。
一目見ただけで、修司には分かった。
自分が描いた図だった。
ベルンハルトの起き上がりを説明するため、グランフェルで作ったもの。
王都では、治癒後の患者を立たせる際の参考として描き直した。
だが、細部が違う。
本来、図の横にはこう書いていた。
『先に引き上げない。立つ人の力を待つ』
目の前の紙では、その一文が削られていた。
代わりに、赤い枠で別の文章が加えられている。
『治癒後は、本人の意思にかかわらず百歩歩かせること。停滞した魔力が巡り、身体機能は完全に回復する』
そんなことを、修司は一度も書いていない。
さらに紙の最下部には、名前があった。
『王立治癒院生活支援部監修 生活支援士タカセ・シュウジ』
「誰から受け取ったんですか」
声が低くなった。
「夜明け前に来た旅商人だ。王都から新しい救護法が出たから、街道沿いへ配っていると言っていた。金も取らなかった」
「顔は?」
「深く帽子をかぶっていた。荷馬車には、白い鳥の印があったと思う」
クラウディアが護衛隊長へ振り返る。
「騎兵を二組出せ。南と北の街道を捜索。見つけても一人で近づくな」
「はっ!」
「もう一組は周辺の村へ。同じ紙を受け取った者がいないか確認し、見つけたら回収してください」
「待ってくれ」
修司が止めた。
クラウディアが振り向く。
「回収するだけでは駄目だ。紙だけ取り上げたら、何が間違っていたのか分からないままになる」
「では、どうします」
「正しい内容を、その場で伝える。紙を受け取った人の名前と場所も記録する。すでに試した人がいないか、一人ずつ確認してくれ」
護衛隊長が修司を見る。
王都へ向かう前なら、命令を出すクラウディアと、説明する修司を交互に見ていたかもしれない。
今は一度うなずき、そのまま部下へ指示を飛ばした。
「ミレイユ」
「訂正文を作ります」
言われる前に、彼女は机代わりの木箱へ紙を広げていた。
「長い説明は要りませんね」
「ああ。一番上に大きく、『治癒後に無理に歩かせない』。その下に、意識、呼吸、出血を確認して、治癒師の判断を待つ。文字を読めない人にも分かるように、赤い手と止まる足の絵を入れてくれ」
「発行元は?」
修司は答えかけて、止まった。
目の前の偽物にも、自分の名前がある。
名前を書くだけでは、本物の証明にならない。
「グランフェル家の銀狼印を使います」
クラウディアが言った。
「領主家の印なら、勝手に使った者を処罰できます」
「それでも、写される可能性はあります」
「では、ほかに何が必要ですか」
修司は偽の手引きを見た。
どこから読むか。
何を最初に見るか。
どの色を危険と感じるか。
人の視線を導くために、自分が使ってきた技術が、そのまま悪用されている。
伝わる形にすることは、人を救うとは限らない。
間違ったこともまた、分かりやすければ広がってしまう。
「本物だと、一目で分かる形が必要です」
修司は左手で、訂正文の四隅へ小さな十字を描いた。
「四つの印を、決めた位置へ置きます。紙、色、文章、発行した順番も記録する。同じものを作るだけでは足りない。どれが正しい最新版なのか、遠くにいる人にも分かる仕組みにしないといけない」
「今、この場で全部決めるつもりですか」
クラウディアが尋ねる。
「無理だ」
修司は、はっきり答えた。
「俺一人では作れない。紙を知る人、印を彫る人、色を作る人、遠くへ運ぶ人が必要になる」
王都を発つとき、できる人たちを探すと言った。
だが、いつか探せばいいと思っていた。
グランフェルへ帰り、皆と相談し、試しながら少しずつ始めればいいと。
敵は、待ってくれなかった。
修司の名前を使い、修司より先に紙を配った。
その結果、オットーは傷が治った身体で、もう一度倒れた。
「タカセさん」
ミレイユが、偽の紙を光へ透かしていた。
「これ、手で書き写したものではありません」
同じ形の文字が、何度も並んでいる。
線の太さも、傾きも、インクのかすれ方まで同じだった。
「一枚の版から、同じものをいくつも作っています」
修司は紙を受け取った。
自分たちは、八人が一日かけて十二部しか作れなかった。
だが敵は、すでに複製する方法を持っている。
しかも、修司がこれから作ろうとしていたものを、先に武器として使った。
胸の奥に、冷たい怒りが広がる。
大声を上げたいわけではない。
目の前の誰かを殴りたいわけでもない。
ただ、これだけは許せなかった。
「俺の名で、人を傷つけるな」
低い声が、静かになった休息所へ落ちた。
クラウディアも、ミレイユも、何も言わなかった。
修司は偽の手引きを机へ置いた。
「偽物より早く、正しいものを届ける」
四隅の十字を、一本ずつ濃く描く。
「誰が見ても本物だと分かり、間違いがあれば直したものをすぐ配れる。俺がいない場所でも、人を守れる仕組みを作る」
それは、誰かに頼まれた仕事ではなかった。
王命でも、領主家から与えられた役割でもない。
高瀬修司が、自分で選んだ仕事だった。
「力を貸してくれ、クラウディア」
修司は正面から彼女を見た。
クラウディアは、少しだけ目を見開いた。
名前を呼ばれたことに驚いたのか。
言葉遣いが変わったことに驚いたのか。
やがて、青灰色の瞳が柔らかくなる。
「もちろんです、タカセ殿」
そう答えてから、彼女は小さく首を振った。
「いいえ」
一歩、修司の近くへ来る。
「あなたが自分で選んだ仕事なら、私にも選ばせてください」
クラウディアの手が、四隅に十字のある紙へ重なった。
「私も、それを作りたい」
◇
夕方までに、周辺の三つの村から偽手引きが回収された。
合計、四十七枚。
幸い、実際に負傷者を歩かせたのは休息所の一件だけだった。
オットーはエヴァの治療を受け、意識を取り戻している。
夜は動かさず、翌朝まで状態を見ることになった。
襲われた荷馬車の積み荷からは、焼け残った紙束も見つかった。
修司たちは休息所へ泊まり、机の上へ偽手引きを並べた。
四十七枚すべてが、同じ文字、同じ図、同じかすれ方をしている。
「少なくとも、四十七枚を一つの版から作った」
ミレイユが記録する。
「配った者は複数です。三つの村で、旅商人の特徴が違います。ただし、全員の荷馬車に白い鳥の印があった」
「組織的ですね」
エヴァが顔を曇らせた。
修司は一枚ずつ、紙の差を確かめていた。
端の切り方。
紙の厚さ。
インクの乗り方。
四十六枚目まで、違いはなかった。
最後の一枚を裏返したとき、左下に小さな文字があることに気づいた。
本文よりもさらに細い文字だった。
修司は灯りを近づけた。
「どうしました」
クラウディアが隣から覗き込む。
そこには、発行した版を示す言葉が刻まれていた。
『改訂第三版』
「第三版……」
ミレイユが呟く。
修司は、まだ第一版すら作っていない。
それなのに敵は、もう三度目の偽物を刷っていた。




