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国を立たせる介護士 ~52歳で異世界召喚された外れ職《生活支援士》、寝たきりの老将から滅びかけた王国まで再建する~  作者: 狼賀亮一郎
第三部 偽りの手引きと紙の戦争編

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第六十一話 俺の名で、人を傷つけるな

王都を発って、二日目の朝。

 街道の両側から、白い石造りの建物が少しずつ消えていた。

 代わりに広がるのは、刈り入れを終えた畑と、葉を赤く染め始めた森だった。

 北へ進むほど空気が冷たくなる。

 修司は馬車の窓を細く開け、その風を吸い込んだ。

 王都の煙と香料が混じった匂いではない。

 乾いた土と、枯れ草の匂い。

 グランフェルへ帰る道の匂いだった。

「寒いのでしたら、閉めてください」

 向かいに座るクラウディアが言った。

「寒くはありません。少し、外の空気を吸いたかっただけです」

「そう言いながら、また書類を読んでいますね」

 修司の膝には、王都から持ち帰った手引きが載っていた。

 青い丸は救護所。

 黄色い矢印は避難路。

 赤い三角は危険な場所。

 黒い交差線は通行止め。

 王都で急ごしらえした一枚を、ミレイユと書記官たちが十二部まで書き写してくれた。

 修司はそのうちの一枚へ、細かな修正を書き込んでいた。

「読んでいるだけです。右手は使っていません」

「左手で書き込んでいるように見えますが」

「……少しだけです」

「その『少し』も信用できません」

 王都を発つ前夜と同じことを言われ、修司は苦笑した。

 右腕はまだ布で吊っている。

 治癒魔法で傷口は塞がっていても、動かせる範囲は狭い。エヴァからは、グランフェルへ戻るまで荷物を持つなと念を押されていた。

「タカセさん。私からもお願いします」

 隣に座るミレイユが、修司の左手からペンを抜き取った。

「訂正箇所は、私が記録します」

「まだ何も言っていませんよ」

「先ほどから同じ行を三度見ています。文字を一つ小さくして、隣の図を広げたいのでしょう」

 図星だった。

「よく分かりましたね」

「王都で何十枚、一緒に作ったと思っているんですか」

 ミレイユは涼しい顔で、修司が直そうとしていた箇所へ印をつけた。

 仕事を任せられる人がいる。

 自分が手を動かさなくても、考えたことを形にしてくれる。

 以前なら、申し訳なさの方が先に立ったかもしれない。

 今は素直に頼ればいいと思える。

「ありがとう。そこを直したら、余白へ――」

 修司は言葉を止めた。

 開けた窓から入る風に、別の匂いが混じった。

 焦げた木。

 油。

 そして、紙の焼ける匂い。

 前方の丘の向こうから、細い黒煙が上がっている。

「クラウディア、馬車を止めてくれ」

 自分でも考えるより先に、名前を呼んでいた。

 クラウディアの青灰色の瞳が、ほんの一瞬だけ修司を見る。

 だが、何も聞き返さなかった。

「全車停止!」

 扉を開け、御者と護衛へ鋭く命じる。

「前方に煙! 騎兵二名、確認へ。残りは馬車を囲め!」

 王都からグランフェルへ向かう一行は、六台の荷馬車で編成されていた。

 食料。

 薬草。

 復旧用の金具と工具。

 ようやく再開された、辺境への支援物資だった。

 これを失うわけにはいかない。

「私も行きます」

 修司が立ち上がると、クラウディアが入り口を塞いだ。

「腕の状態を忘れたのですか」

「忘れていません。だから戦いには行きません」

「では、何をしに?」

「煙の近くに、人がいるかもしれない」

 今度は丁寧な言葉へ戻らなかった。

 クラウディアは修司の顔を見たあと、小さく息を吐いた。

「私から離れないでください」

「分かった」

 返事をしてから、修司は自分の口調に気づいた。

 クラウディアも気づいたはずだった。

 だが彼女は口元をわずかに緩めただけで、先に馬車を降りた。

     ◇

 丘を越えた先で、二台の荷馬車が焼けていた。

 一台は道の中央で横倒しになり、車輪が外れている。

 もう一台は街道脇の石壁へ突っ込み、荷台から赤い炎を上げていた。

 近くに魔物の姿はない。

 積み荷の小麦袋が切り裂かれ、白い粒が地面へ流れ出している。

 だが、すべて奪われたわけではなかった。

 革袋も、工具箱も、御者台の下に落ちた銅貨も残っている。

「盗賊ではありません」

 クラウディアが焼けた荷台へ目を走らせる。

「荷を奪うのが目的なら、火をつける前に運び出すはずです」

「では、何を狙ったんでしょう」

 ミレイユが周囲を見た。

 修司は地面へ膝をついた。

 車輪のそばに、焦げた紙片が散っている。

 灰になったものもあれば、端だけを焼かれたものもある。

 右手は使えない。

 左手で一枚を拾い上げようとしたとき、近くの建物から叫び声が聞こえた。

「誰か! また倒れた!」

 街道沿いの小さな休息所だった。

 扉の前に、血のついた外套が落ちている。

「エヴァ先生を!」

 修司が叫ぶ。

「もう来ています!」

 後ろの馬車から、エヴァが治療鞄を抱えて走ってきた。

「タカセさんは走らないでください!」

「走っていません!」

「その速さは走っています!」

 言い返しながらも、エヴァは修司を追い越して休息所へ飛び込んだ。

     ◇

 床に、若い男が倒れていた。

 二十代の半ばほどだろう。

 左の太腿に、治癒魔法を使ったあとの淡い光が残っている。傷は塞がっているが、顔から血の気が失せ、額には冷たい汗が浮かんでいた。

 呼吸は浅く、速い。

 そばにいた年配の男が、倒れた男の腕を引こうとしている。

「もう一度立たせるぞ。百歩まで、あと三十歩だ」

「待ってください!」

 修司は二人の間へ入った。

「今は立たせないでください」

「だが、立たせて歩かせろと書いてある!」

 年配の男が、床に落ちた紙を指した。

「治癒後すぐに歩かせなければ、魔力が傷口へ固まると。王都を救った生活支援士の教えだ!」

 エヴァが若者の首元へ指を当てる。

「脈が弱い。傷を負ってから、どれくらい血を失いましたか」

「分からん。俺たちが見つけたときには、荷台の陰で倒れていた。治癒術師が傷を塞いでくれたから、もう大丈夫だと思って……」

「傷口を塞いでも、失った血や体力まで元へ戻るわけではありません」

 エヴァの声が厳しくなる。

「毛布を。床からの冷えを防ぎます。無理に水を飲ませないでください。意識を確認します」

 修司は周囲を見た。

 怪我人は一人ではない。

 壁際には頭へ包帯を巻いた御者が座り、奥の寝台では女性がうめいている。村人と護衛が入り乱れ、誰が何をしているのか分からなくなっていた。

「ミレイユ、紙と炭を出してくれ。怪我人の名前と、受けた治療を分けて記録する」

「はい」

「クラウディアは、外に残っている人がいないか確認してくれ。動かす前に、エヴァ先生へ状態を伝えてほしい」

「分かりました」

「護衛の方は入り口を空けてください。治療が必要な人と、歩ける人を同じ場所へ集めないで」

 修司の声に、部屋の動きが変わる。

 王都で何百人を動かした光は出ていない。

 頭痛もない。

 それでも、何を見るべきかを知った人間が声を掛け合えば、混乱は少しずつほどけていく。

「タカセさん」

 エヴァが若者のそばから呼んだ。

「右脚は傷ついていません。ですが、意識が途切れかけています。呼び掛けへの反応を見てもらえますか」

「分かりました」

 修司は若者の左側へ膝をついた。

「聞こえますか。名前を教えてください」

 まぶたがわずかに動く。

「……オットー」

「オットーさん。俺はタカセです。身体の動きを見る技能を使ってもいいですか」

 若者は、かすかにうなずいた。

「《生活動作把握》」

 淡い光が、修司の左手から伸びた。

 オットーの身体へ触れた光は、これまでのように全身を一度に包まなかった。

 呼吸。

 意識。

 左手の指。

 今、確かめる必要のある動きだけが、細い線となって浮かぶ。

 立ち上がるための線は暗い。

 歩くための線も、途中で途切れている。

 それでも、呼び掛けに応じて指を動かす力は残っていた。

「オットーさん。左手を握れますか」

 指が少しだけ曲がる。

「それでいい。俺の速さに合わせなくていいから、自分で息をしてください」

 淡い光が一本、胸元から左手へつながった。

「《個別支援》」

 技能が呼吸を強くするわけではない。

 失った血を戻すことも、傷を治すこともできない。

 ただ、恐怖と周囲の声に乱されかけていたオットーの意識を、自分の呼吸と指先へ戻していく。

 エヴァが魔力を細く流し、傷口の奥を確かめる。

「出血は止まっています。脈も、先ほどより拾えます」

「毛布をもう一枚」

 修司が言うと、年配の男がすぐに動いた。

「俺が持ってくる!」

「走らなくて大丈夫です。転ばないようにお願いします」

 少し前まで無理に歩かせようとしていた男が、今度は足元を確かめながら毛布を運ぶ。

 オットーの呼吸は、まだ浅い。

 だが、先ほどのように急速には乱れていない。

「ここから先は、先生に任せます」

 修司が光を解く。

 立ち上がろうとすると、左膝が軋んだ。

 背後から、クラウディアの手が肘を支える。

「人には無理をさせないのに、ご自分には相変わらずですね」

「今のは立ち上がっただけです」

「その言い訳も聞き飽きました」

 声は呆れていたが、支える手は離れなかった。

     ◇

「これを読んだんです」

 年配の男が、床に落ちていた紙を修司へ差し出した。

 見出しには、大きくこう書かれていた。

『治癒後の身体を立て直すための手引き』

 その下には、椅子から立ち上がる人間の図がある。

 足の位置。

 身体を前へ傾ける方向。

 支える者が立つ場所。

 一目見ただけで、修司には分かった。

 自分が描いた図だった。

 ベルンハルトの起き上がりを説明するため、グランフェルで作ったもの。

 王都では、治癒後の患者を立たせる際の参考として描き直した。

 だが、細部が違う。

 本来、図の横にはこう書いていた。

『先に引き上げない。立つ人の力を待つ』

 目の前の紙では、その一文が削られていた。

 代わりに、赤い枠で別の文章が加えられている。

『治癒後は、本人の意思にかかわらず百歩歩かせること。停滞した魔力が巡り、身体機能は完全に回復する』

 そんなことを、修司は一度も書いていない。

 さらに紙の最下部には、名前があった。

『王立治癒院生活支援部監修 生活支援士タカセ・シュウジ』

「誰から受け取ったんですか」

 声が低くなった。

「夜明け前に来た旅商人だ。王都から新しい救護法が出たから、街道沿いへ配っていると言っていた。金も取らなかった」

「顔は?」

「深く帽子をかぶっていた。荷馬車には、白い鳥の印があったと思う」

 クラウディアが護衛隊長へ振り返る。

「騎兵を二組出せ。南と北の街道を捜索。見つけても一人で近づくな」

「はっ!」

「もう一組は周辺の村へ。同じ紙を受け取った者がいないか確認し、見つけたら回収してください」

「待ってくれ」

 修司が止めた。

 クラウディアが振り向く。

「回収するだけでは駄目だ。紙だけ取り上げたら、何が間違っていたのか分からないままになる」

「では、どうします」

「正しい内容を、その場で伝える。紙を受け取った人の名前と場所も記録する。すでに試した人がいないか、一人ずつ確認してくれ」

 護衛隊長が修司を見る。

 王都へ向かう前なら、命令を出すクラウディアと、説明する修司を交互に見ていたかもしれない。

 今は一度うなずき、そのまま部下へ指示を飛ばした。

「ミレイユ」

「訂正文を作ります」

 言われる前に、彼女は机代わりの木箱へ紙を広げていた。

「長い説明は要りませんね」

「ああ。一番上に大きく、『治癒後に無理に歩かせない』。その下に、意識、呼吸、出血を確認して、治癒師の判断を待つ。文字を読めない人にも分かるように、赤い手と止まる足の絵を入れてくれ」

「発行元は?」

 修司は答えかけて、止まった。

 目の前の偽物にも、自分の名前がある。

 名前を書くだけでは、本物の証明にならない。

「グランフェル家の銀狼印を使います」

 クラウディアが言った。

「領主家の印なら、勝手に使った者を処罰できます」

「それでも、写される可能性はあります」

「では、ほかに何が必要ですか」

 修司は偽の手引きを見た。

 どこから読むか。

 何を最初に見るか。

 どの色を危険と感じるか。

 人の視線を導くために、自分が使ってきた技術が、そのまま悪用されている。

 伝わる形にすることは、人を救うとは限らない。

 間違ったこともまた、分かりやすければ広がってしまう。

「本物だと、一目で分かる形が必要です」

 修司は左手で、訂正文の四隅へ小さな十字を描いた。

「四つの印を、決めた位置へ置きます。紙、色、文章、発行した順番も記録する。同じものを作るだけでは足りない。どれが正しい最新版なのか、遠くにいる人にも分かる仕組みにしないといけない」

「今、この場で全部決めるつもりですか」

 クラウディアが尋ねる。

「無理だ」

 修司は、はっきり答えた。

「俺一人では作れない。紙を知る人、印を彫る人、色を作る人、遠くへ運ぶ人が必要になる」

 王都を発つとき、できる人たちを探すと言った。

 だが、いつか探せばいいと思っていた。

 グランフェルへ帰り、皆と相談し、試しながら少しずつ始めればいいと。

 敵は、待ってくれなかった。

 修司の名前を使い、修司より先に紙を配った。

 その結果、オットーは傷が治った身体で、もう一度倒れた。

「タカセさん」

 ミレイユが、偽の紙を光へ透かしていた。

「これ、手で書き写したものではありません」

 同じ形の文字が、何度も並んでいる。

 線の太さも、傾きも、インクのかすれ方まで同じだった。

「一枚の版から、同じものをいくつも作っています」

 修司は紙を受け取った。

 自分たちは、八人が一日かけて十二部しか作れなかった。

 だが敵は、すでに複製する方法を持っている。

 しかも、修司がこれから作ろうとしていたものを、先に武器として使った。

 胸の奥に、冷たい怒りが広がる。

 大声を上げたいわけではない。

 目の前の誰かを殴りたいわけでもない。

 ただ、これだけは許せなかった。

「俺の名で、人を傷つけるな」

 低い声が、静かになった休息所へ落ちた。

 クラウディアも、ミレイユも、何も言わなかった。

 修司は偽の手引きを机へ置いた。

「偽物より早く、正しいものを届ける」

 四隅の十字を、一本ずつ濃く描く。

「誰が見ても本物だと分かり、間違いがあれば直したものをすぐ配れる。俺がいない場所でも、人を守れる仕組みを作る」

 それは、誰かに頼まれた仕事ではなかった。

 王命でも、領主家から与えられた役割でもない。

 高瀬修司が、自分で選んだ仕事だった。

「力を貸してくれ、クラウディア」

 修司は正面から彼女を見た。

 クラウディアは、少しだけ目を見開いた。

 名前を呼ばれたことに驚いたのか。

 言葉遣いが変わったことに驚いたのか。

 やがて、青灰色の瞳が柔らかくなる。

「もちろんです、タカセ殿」

 そう答えてから、彼女は小さく首を振った。

「いいえ」

 一歩、修司の近くへ来る。

「あなたが自分で選んだ仕事なら、私にも選ばせてください」

 クラウディアの手が、四隅に十字のある紙へ重なった。

「私も、それを作りたい」

     ◇

 夕方までに、周辺の三つの村から偽手引きが回収された。

 合計、四十七枚。

 幸い、実際に負傷者を歩かせたのは休息所の一件だけだった。

 オットーはエヴァの治療を受け、意識を取り戻している。

 夜は動かさず、翌朝まで状態を見ることになった。

 襲われた荷馬車の積み荷からは、焼け残った紙束も見つかった。

 修司たちは休息所へ泊まり、机の上へ偽手引きを並べた。

 四十七枚すべてが、同じ文字、同じ図、同じかすれ方をしている。

「少なくとも、四十七枚を一つの版から作った」

 ミレイユが記録する。

「配った者は複数です。三つの村で、旅商人の特徴が違います。ただし、全員の荷馬車に白い鳥の印があった」

「組織的ですね」

 エヴァが顔を曇らせた。

 修司は一枚ずつ、紙の差を確かめていた。

 端の切り方。

 紙の厚さ。

 インクの乗り方。

 四十六枚目まで、違いはなかった。

 最後の一枚を裏返したとき、左下に小さな文字があることに気づいた。

 本文よりもさらに細い文字だった。

 修司は灯りを近づけた。

「どうしました」

 クラウディアが隣から覗き込む。

 そこには、発行した版を示す言葉が刻まれていた。

『改訂第三版』

「第三版……」

 ミレイユが呟く。

 修司は、まだ第一版すら作っていない。

 それなのに敵は、もう三度目の偽物を刷っていた。

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