第五十六話 聖女は沈黙しない
王宮地下牢には、朝が来ない。
窓のない石室を照らすのは、通路に置かれた青白い魔石灯だけだった。
修司は壁へ背を預け、冷たい床に座っていた。
右腕は、召喚殿へ向かう前から傷めたまま。
左手首には鉄の輪がはまり、短い鎖で壁へつながれている。
頭の奥には《動作同調》を続けて使った鈍い痛みが残り、目を閉じると元の世界の廊下が浮かんだ。
篠原フミ。
午前二時十四分。
閉じる門の向こうから聞こえた、「行ってらっしゃい」という声。
帰還の機会を、自分の意思で手放した。
後悔はない。
だが、寂しくないわけではなかった。
「今ごろ、呼び出しボタンを押しているかな……」
小さく呟いたとき、通路の奥で金属が鳴った。
一度。
少し間を置いて二度。
牢番の鍵束とは違う。
規則的だった足音も、牢の手前で急に遅くなる。
三人。
修司は立ち上がらず、顔だけを扉へ向けた。
鉄格子の前へ、白い外套を着た男たちが現れる。
王国救恤騎士団の紋章。
だが、三人とも兜の面頬を下ろしたままだった。
「タカセ・シュウジ。取り調べ場所を変更する」
先頭の男が羊皮紙を広げた。
「カシウス団長の命令だ」
牢番が戸惑った。
「そのような引き継ぎは聞いておりません」
「緊急命令だ。王国護持祭が始まる前に、直接尋問を行う」
羊皮紙の下には、白盾をかたどった赤い封蝋が押されている。
一見すれば、正式な命令書だった。
だが、修司は紙の中央を見た。
横書きされた文章は、右へ行くほどわずかに下がっている。
ところが最下段の署名と封蝋だけは、紙の縁に対して正確に水平だった。
本文とは別に作り、あとから重ねたものだ。
「その命令書、団長が書いたものではありませんね」
三人の動きが止まった。
「黙れ」
「本文と署名の基準線が違います。急いで作ったのでしょうが、貼り合わせるなら、せめて端を揃えた方がいい」
牢番が羊皮紙へ目を凝らす。
「確かに、これは――」
先頭の男が外套の内側へ手を入れた。
修司は叫んだ。
「離れて!」
短剣が閃く。
牢番の脇腹へ刃が入る寸前、修司は鎖を強く引いた。
鉄の輪が壁の金具へぶつかり、甲高い音が響く。
驚いた牢番が後ろへ倒れた。
短剣は空を切る。
「目撃者も消せ!」
二人目が牢番へ飛びかかった。
先頭の男は鍵を奪い、鉄格子を開ける。
取り調べではない。
修司を牢から連れ出し、逃亡中に殺されたことにするつもりだ。
「立て、おっさん」
短剣が修司の喉へ向けられた。
右腕は使えない。
左手は鎖につながれている。
それでも、動けないわけではない。
修司は相手の刃ではなく、肩を見た。
刺す前に上がる肘。
踏み込みへ移る体重。
狭い居室で、転びかけた入居者を支えるときも同じだった。
身体がどちらへ倒れようとしているかを、先に読む。
男が踏み込んだ。
修司は半歩だけ横へずれた。
左手の鎖を、短剣を持つ手首へ下から掛ける。
引かない。
男が進む方向へ、そのまま円を描く。
「なっ――」
短剣の切っ先が床へ向き、男の肩が回った。
勢いを失わないまま、身体だけが鉄格子へ吸い込まれる。
鈍い音。
額を打った男が膝をついた。
二人目が牢番を蹴り飛ばし、棍棒を振り上げる。
修司は鎖を両者の間へ張った。
「そんなもので――」
棍棒が振り下ろされる。
修司は鎖を緩めた。
受け止めるはずだった抵抗が消え、男の上体が前へ流れる。
修司は左肩を相手の胸へ入れ、腰を回した。
持ち上げない。
落ちようとする方向を、床まで案内する。
男の背中が石床へ落ちた。
右腕へ痛みが走り、修司の呼吸が止まりかける。
「二人掛かりで、何をしている!」
三人目が術杖を抜いた。
赤い光が先端へ集まる。
逃げ場のない牢内。
修司は倒れた男の身体を盾にはしなかった。
代わりに、鉄格子の陰へ踏み込む。
「《灼火弾》!」
炎が放たれる――その直前。
青い糸が、通路の闇を走った。
術杖を持つ手首へ巻きつき、天井方向へ引き上げる。
火球は石天井へ飛び、爆ぜた。
「許可なく地下牢で火術を使うとは、ずいぶん勇敢な騎士ね」
濃紺の長衣をまとった女が、煙の向こうから現れた。
特務監察官ヴェラ・クロイツ。
細い指を動かすたび、青い魔導糸が三人の手足へ絡みつく。
「蒼鴉……!」
「その名で呼ぶのなら、逃げ切れないことくらい知っているでしょう」
三人目が腰の毒針へ手を伸ばす。
「右腰です!」
修司の声に、ヴェラの糸が動いた。
手首を絡め取り、そのまま背後へねじ上げる。
男が床へ伏した。
「勝手に指図しないで」
「すみません」
「ただし、今のは助かりました」
ヴェラは倒れた三人を冷たく見下ろした。
「偽造命令書の運び手を追えば、口封じの実行犯まで来ると思っていたけれど――自分から牢へ入ってくれるとは、ずいぶん協力的ね」
「俺を囮にしたんですか」
「あなたが牢内でも三人相手に暴れるところまでは、予定に入れていなかったわ」
「暴れたつもりはありません」
修司は痛む右腕を押さえた。
「転んでもらっただけです」
ヴェラの口元が、ほんの少しだけ動いた。
◇
「署名なさい、殿下」
同じ頃。
リディアの私室では、ゲルハルトが一枚の文書を差し出していた。
リディアは寝台の背を起こし、枕へ身体を預けている。
召喚殿で歩いた四歩の代償は大きかった。
顔色は白く、指先にも力が入らない。
それでも、紫紺の瞳だけはゲルハルトを真っ直ぐ見ていた。
「内容を読み上げてくださる?」
「タカセ・シュウジに脅迫され、旧施療院から王宮まで連れ回された。召喚殿での証言は、彼の技能による精神干渉下で行った――その事実をご確認いただくだけです」
「ずいぶん短い文書ね。地下にいた百七十人のことは?」
「護持祭の後、適切に調査いたします」
「わたくしを魔法陣へつないだことは?」
「殿下を救出するために必要な措置でした」
「帰還門を餌に、タカセを大治癒陣の核にしようとしたことは?」
「誤解です」
ゲルハルトは微笑みを崩さない。
「署名いただければ、タカセ殿は夜明けとともに釈放されます。辺境の者たちも、旧施療院の患者たちも罪には問いません」
「署名しなければ?」
「王女誘拐と大逆の罪は、極刑に値します」
部屋の隅に立つ王立治癒院長マルガレーテが、わずかに眉を動かした。
ゲルハルトは彼女へ視線を向ける。
「院長。殿下はまだ混乱しておられる。静養が必要でしょう」
「身体の静養は必要です」
マルガレーテは答えた。
「ですが、ご自分の意思を失ってはおられません。それを判断するのは、治癒院長である私です」
「医療の話をしているのではありません」
「だから困るのです。あなた方はいつも、都合が悪くなると患者の意思まで病気にする」
ゲルハルトの笑みが、初めて薄くなった。
リディアは文書を手に取った。
ゲルハルトの目に、勝利を確信した色が浮かぶ。
次の瞬間、リディアは羊皮紙を縦に裂いた。
「お断りします」
もう一度重ねて破り、寝台脇の床へ落とす。
「タカセがわたくしを操ったというのなら、あなたは王女を随分と安く見積もったものね」
「一人の異世界人のために、王都を混乱させるおつもりですか」
「いいえ」
リディアは息を整えた。
「あなたが数字へ変えた一人一人のために、沈黙しないのです」
「殿下は明日の護持祭へ出席できる状態ではありません」
ゲルハルトはマルガレーテへ念を押すように言った。
院長が口を開くより先に、リディアが答えた。
「歩けなければ、椅子で行きます」
「王国の聖女が、民衆の前へ椅子で?」
「それが何か」
リディアの声が鋭くなる。
「立てない人間は、人前へ出てはならないとでも?」
ゲルハルトが言葉を失った。
「わたくしは護持祭へ出席します。広域治癒は使いません。民衆の前で、旧施療院と大治癒陣について知っていることをすべて話します」
「そのような真似をすれば、王家そのものが傷つきます」
「傷があるのなら、白い布を被せても治りません」
それは修司が、彼女へ何度も伝えたことだった。
傷を消すことと、生活を取り戻すことは違う。
「お引き取りください、ゲルハルト」
リディアは破れた文書を見下ろした。
「次に会うのは、民衆の前です」
◇
牢内へ、髪を乱したミレイユが駆け込んできた。
胸には、何冊もの記録簿を抱えている。
「タカセさん!」
「ミレイユさん。無事だったんですね」
「私は大丈夫です。それより、これを」
彼女は床へ三枚の命令書を並べた。
旧施療院への偽の転院命令。
リディアを召喚殿へ移した命令。
そして先ほど、修司を牢から連れ出そうとした命令。
「全部、別の日に書かれた文書です。でも、印の左下に同じ欠けがあります」
白盾をかたどった封蝋の、盾の縁。
肉眼では見落としそうな小さな傷が、三枚すべて同じ位置にある。
「本物の印章ではありません」
ミレイユが言った。
「本物なら、押す強さや角度で毎回少しずつ形が変わります。でもこれは、傷の周りについた蝋の盛り上がりまで同じです」
「複製した印影を、毎回転写している」
修司が言うと、ミレイユは力強くうなずいた。
「前にタカセさんが教えてくれました。同じに見えるものほど、重ねて比べろって」
ヴェラが三枚を見比べる。
「加えて、偽命令で動いた三人を現行犯で確保した。これで少なくとも、あなたを拘束した命令の正当性は停止できる」
「停止?」
「無罪になったとは言っていないわ」
青い糸が走り、修司の左手首にあった鉄の輪を解いた。
「特務監察局の権限により、違法な身柄移送と証拠隠滅のおそれがあるため、救恤騎士団から拘束権を取り上げます」
そこへ、マルガレーテが入ってきた。
「そして私は、負傷した重要参考人に治療と休息が必要であると診断します。王立治癒院の医療保護下へ移します」
「俺は釈放されるんですか」
「正確には、治癒院内での行動を認められた保護対象ね」
ヴェラが答える。
「正式な手続きを踏んだうえでの移送よ。ゲルハルトが中央記録で知るのは、朝の更新後。それまで約一刻ある」
「一刻で、何をするんです」
「あなたが言ったのでしょう」
ヴェラの灰青色の瞳が、修司を捉えた。
「隠されたものを、今度は自分から表へ引きずり出すと」
◇
修司が連れていかれたのは、王立治癒院の空き治療室だった。
扉を開けると、最初にクラウディアが立ち上がった。
「タカセ殿!」
駆け寄りかけ、修司の右腕を見て足を止める。
「また、無理をしましたね」
「三人ほど、転んでもらっただけです」
「その言い方で誤魔化せると思わないでください」
「思っていません」
「では、あとでまとめて怒ります」
「約束していましたね」
短いやり取りだった。
それでも、互いが無事であることを確かめるには十分だった。
部屋にはイレーネ、ミレイユ、ヴェラ、マルガレーテもいる。
中央には大きな王都の地図が広げられていた。
やがて、車輪の音とともにリディアが入ってくる。
背もたれの高い移動椅子に座り、毛布を膝へ掛けていた。
「遅いわ、タカセ」
「今日は、その言葉をよく聞きます」
「ならば、次から早く来なさい」
リディアは王都の地図を指した。
「護持祭へ出ます。そして、すべて話します」
「お身体は」
「歩けないだけです。口は動くわ」
マルガレーテが厳しい目を向ける。
「長時間の公務は認めません。広域治癒の使用も禁止です。移動は椅子、休息場所と水分を確保し、途中で脈や呼吸に異常があれば中止します」
「分かっています」
「本当に?」
「……努力します」
「それなら結構」
王女と治癒院長の間に、奇妙な力関係ができていた。
修司は地図を見た。
護持祭の会場は王宮前の大広場。
中央に大治癒陣があり、その周囲を貴族席、一般参列者、出店、衛兵の列が囲む。
数千人が集まる。
もし魔力が逆流すれば、倒れた人へ後ろの群衆が押し寄せる。
火災が起きれば、狭い門へ人が集中する。
「大治癒陣を止めるだけでは足りません」
修司は言った。
「ゲルハルトが予定を変えて起動する可能性があります。止められなかった場合にも、人を逃がせる準備が必要です」
「最初から失敗を考えるの?」
リディアが尋ねる。
「失敗しないために、失敗したときの道を作るんです」
修司は地図の上へ四色の小石を置いた。
青は治療場所。
黄は避難路。
赤は火術と魔法陣の危険区域。
黒は通行を止める場所。
「治癒師だけでは人数が足りません。荷運び人には担架と水を。侍女には休息場所の管理を。市場の商人には荷車を空けてもらう。衛兵は人を押し戻すのではなく、流れを二つに分けます」
ミレイユが修司の言葉を書き留める。
クラウディアは地図を見ながら、護衛の配置を修正する。
イレーネが地下の魔力路を描き足した。
「この準備を、大勢へ知られずに?」
ヴェラが聞く。
「護持祭の準備として頼めば、不自然ではありません。治療場所も水も、本来あって困るものではない」
「なるほど。反乱の準備ではなく、祭礼の安全管理というわけね」
「嘘はつきません。全部、本当に必要な準備です」
ヴェラが小さく息を吐く。
「あなたを法の外へ出す気はないけれど、法の内側で好きに動かすと、これはこれで面倒ね」
「褒め言葉として受け取ります」
修司は新しい紙を地図の横へ置いた。
「まず、全員が同じ印を理解できる一枚を作ります。文章を読めない人でも、色と形で動けるように」
以前なら、自分一人で何とかしようとしていた。
今は違う。
修司が作るのは、英雄一人の作戦ではない。
一人一人が、自分にできる役割で誰かを助けられる仕組みだった。
クラウディアが修司の隣へ立つ。
「私は何を」
「殿下の護衛を。もしものときは、俺ではなく殿下を優先してください」
「お断りします」
即答だった。
「両方、連れて帰ります」
修司が答える前に、治療室の扉が勢いよく開いた。
若い衛兵が、息を切らして立っている。
「ヴェラ監察官! 大変です!」
「何があったの」
「護持祭の開始が変更されました。ゲルハルト救恤局長の命令で、夜明けの第一鐘と同時に大治癒陣を起動すると!」
室内の全員が、窓を見た。
東の空が白み始めている。
「第一鐘まで、あとどれくらいですか」
修司が尋ねる。
衛兵の顔から血の気が引いた。
「四半刻もありません」
準備に使えるはずだった一刻が、消えた。
そのとき。
王都の地下から、低い脈動が響いた。
一度。
二度。
地図の上に置いた四色の小石が、かすかに跳ねる。
大治癒陣は、すでに動き始めていた。




