第五十七話 壊れた大治癒陣
第一鐘は、祝福ではなく地鳴りとともに鳴り始めた。
ごおん、と低い音が王立治癒院の窓を震わせる。
治療室の地図から、四色の小石が跳ね落ちた。
「もう待てません。行きます」
修司は書きかけの紙をつかんだ。
「タカセ殿、その腕で走るつもりですか」
「走れなくても、歩けます」
「私が聞いているのは、そういうことではありません」
クラウディアが言い返す間にも、二度目の脈動が床を通った。
東の窓が紫色に染まる。
大治癒陣へ魔力が集まり始めていた。
「言い争う時間もありません。クラウディアさんは殿下を。ヴェラさんは最短の道をお願いします」
「マルガレーテ院長は、エヴァさんたち治癒師を広場の救護所へ集めてください。ミレイユさんは、四色の紙と布を持てるだけ」
「あなたはどうするの」
マルガレーテが尋ねる。
「殿下と広場へ行きます。術式が動く前に、止めます」
「命令に慣れてきたわね」
ヴェラはそう言いながら、すでに扉を開けていた。
「治癒院の南階段から祭礼用通路へ入る。大広場の東門まで四半刻――いえ、今のあなたたちなら、その倍は見ておきなさい」
「半分にします」
クラウディアがリディアの移動椅子の後ろへ回る。
「殿下、揺れます」
「転ばさなければ許すわ」
「必ず」
車輪が石床を蹴った。
修司たちは、夜明け前の王宮を走り出した。
◇
王宮前大広場には、すでに数千人が集まっていた。
病を抱えた者。古傷に苦しむ兵士。杖をつく老人を支える家族。幼い子どもを抱き、夜通し順番を待っていた母親。
皆、奇跡を信じていた。
広場の中央には、巨大な円形の祭壇が築かれている。
青緑、赤紫、黄、黒。
四色の線が白い石畳の上を幾重にも走り、王都の大通りへ枝分かれしていた。
祭壇の周囲には灰色の魔石が積まれている。
灰冠の森から、違法に掘り出された魔石。
その中心で、ゲルハルト・ヴァルナーが両手を広げていた。
『王都の皆様、お待たせしました』
拡声の魔具を通した声が、広場の隅々まで届く。
『第二王女リディア殿下は、皆様のために祈りを捧げておられます。その御力を受け、本日ここに、王国史上最大の治癒を実現いたします』
歓声が上がった。
「嘘よ」
移動椅子の上で、リディアが呟く。
「わたくしは、何も捧げていない」
東門の衛兵が一行の前へ槍を重ねた。
「祭礼中だ。通行許可のない者は入れない!」
「王女殿下が見えないの?」
ヴェラの青い糸が、二本の槍へ巻きついた。
「それとも、あなたたちの王国では王女にも通行証が必要なのかしら」
衛兵たちの顔色が変わる。
槍が開いた。
一行が広場へ入った瞬間、祭壇の上にいたゲルハルトがこちらを見た。
ほんの一瞬だけ、穏やかな顔から表情が消える。
だが、すぐに笑みを戻した。
『それでは、第一段階を開始します』
「止めなさい、ゲルハルト!」
リディアの声は、群衆の歓声にかき消された。
祭壇の前へ、白い大盾が下りる。
カシウスだった。
「ここから先へは通せない」
「殿下ご本人が、魔力を与えていないと仰っています」
修司はカシウスを見上げた。
「あの魔法陣を動かせば危険です」
「昨夜の召喚殿を破壊したのは、お前たちだ」
「壊れ始めていたから止めたんです」
「局長は、欠損した経路を予備核で補えると説明している」
祭壇を見る。
灰冠の魔石が、心臓のように明滅していた。
「補っているのではありません。無理に流しているだけです」
「すでに開始した術式を止めれば、集めた魔力が広場へ放出される」
「だから、少ないうちに止めるんです!」
カシウスの眉が動いた。
その背後で、ゲルハルトが右手を振り下ろす。
大治癒陣が輝いた。
◇
最初に広がったのは、柔らかな白い光だった。
祭壇から生まれた光が波となり、広場を通り抜ける。
修司の頬にも、温かな風が触れた。
群衆の中で、杖をついた老人が目を見開く。
「痛くない……」
恐る恐る腰を伸ばす。
古い傷を押さえていた兵士が、腕を回した。
母親に抱かれた子どもの咳が止まる。
一人、また一人と歓声を上げた。
「治った!」
「本当に、治ったぞ!」
歓声が広場を揺らした。
ゲルハルトは両腕を広げ、そのすべてを受け止める。
『ご覧ください! これこそ、限られた力を最も多くの人々へ届ける、新しい救済の形です!』
修司の胸にも、一瞬だけ迷いが生まれた。
現に、目の前で人が救われている。
一人ずつ支えるより、ずっと早い。
一度に、何千人も。
「タカセ」
リディアの声に振り返る。
彼女は自分の胸元を押さえていた。
顔色が、先ほどよりさらに白い。
「吸われているわ」
「何がですか」
「わたくしの魔力ではない。広場にいる人たちの――生命の力を、術式が少しずつ吸い上げている」
光を浴びて笑う人々の足元から、淡い粒子が立ち上っていた。
祭壇へ向かって流れている。
治癒された者からも。
健康な者からも。
「治しているのではありません」
修司は呟いた。
「広場にいる人たちから少しずつ奪い、必要な場所へ移している」
「それでも、一人から奪う量がわずかなら、多くを救える」
カシウスが言った。
だが、その声には確信よりも、自分へ言い聞かせる響きがあった。
「わずかで済めばです」
修司の目には、四色の線が見えていた。
青緑の光が先に走る。
黄が遅れて追う。
赤紫は、ところどころで外へ膨らんでいる。
黒い制御線だけが、無理に三色を一つの枠へ押し込めていた。
印刷なら、一枚目を捨てて調整し直す版ずれ。
だが、これは人の生命を流している。
「二度目を止めてください!」
修司は叫んだ。
「次は同じ場所へ重なりません!」
ゲルハルトには聞こえているはずだった。
それでも、彼は祭壇の制御石へ手を置いた。
『第二段階へ移行します』
「ゲルハルト!」
ヴェラが青い魔導糸を放つ。
糸は祭壇へ届く寸前、白い盾に弾かれた。
カシウスが立っている。
「団長、どきなさい!」
「大治癒陣の停止は許可できない」
「あなたが守っているのは民ではなく、あの男の失敗よ!」
「黙れ!」
カシウスが大盾を地面へ打ちつける。
「《固定領域》!」
重い力が東門一帯へ広がった。
修司の膝が沈む。
クラウディアの手が、剣の柄へ掛かった。
その瞬間、第二の光が放たれた。
◇
今度は、温かくなかった。
紫色の閃光が広場を薙ぎ払う。
人々の身体が、一斉に揺れた。
歓声が止まる。
次の瞬間、何十人もの膝が同時に折れた。
「息が……」
「誰か、助けてくれ!」
倒れた者へ、後ろの群衆がぶつかる。
何が起きたのか分からない者たちは、前へ進もうと押し続ける。
悲鳴。
怒号。
治癒を待っていた列が、一瞬で逃げようとする群れへ変わった。
「走らないでください!」
修司は腹の底から声を出した。
だが、数千人の恐怖に一人の声は届かない。
東門へ人が殺到する。
先頭で、杖をついた老人が転んだ。
その後ろには母親と幼い子どもがいる。
このままでは踏まれる。
「カシウス団長、領域を解いてください!」
「何を――」
「あなたの術で、逃げる人まで動けなくなっています!」
カシウスが振り返った。
固定領域の中で、群衆の足がもつれ、折り重なり始めている。
彼の顔色が変わった。
「解除する!」
身体を押さえていた重さが消える。
「クラウディアさん、門の右側を開けて! ヴェラさんは左へ! 人を止めず、二つに分けてください!」
「分かりました!」
クラウディアが剣を抜き、門を狭めていた祭礼飾りの柱を斬る。
倒れた柱を、ヴェラの魔導糸が横へ引いた。
出口が二つに広がる。
「イレーネさん、上へ風を! 声を広げられますか!」
「一度だけなら!」
風が修司の周囲から渦を巻いて立ち上がった。
「前へ押さないでください! 黄色い旗のある方へ、左右に分かれて進んでください!」
声が風に乗り、東門へ響く。
何人かが足を止めた。
だが、大半にはまだ届かない。
「タカセさん!」
人波の向こうから、ルチアの声がした。
王立治癒院の下働きだった少女が、倒れた老人のそばにしゃがみ込んでいる。
エヴァも一緒だった。
「この人を起こせません!」
「今は立たせないでください! まず周りに空間を!」
修司は人の流れへ身体を入れた。
右腕は使えない。
左手だけで、近くにあった露店の長机をつかむ。
「団長、手を貸してください!」
「俺に命令するな!」
「では、この人たちを見殺しにしますか!」
カシウスが歯を食いしばった。
大盾を背へ回し、長机の反対側を持ち上げる。
二人で机を斜めに置き、人波を左右へ分ける壁にした。
押し寄せる力が、机へぶつかる。
「《固定領域》!」
今度の術は、人ではなく机と地面だけを固定した。
即席の壁が、群衆の圧力を受け止める。
「今です! ルチアさん、頭側へ。エヴァさんの指示で動かしてください!」
「脈はあります! 呼吸もしています!」
エヴァが老人の状態を確かめる。
「ルチア、首を支えて。そちらの方、脚側をお願いします!」
居合わせた商人が手を貸した。
三人で老人を持ち上げ、机の後ろへ運ぶ。
母親と子どもも、クラウディアが開けた道へ逃れた。
「助かった……」
カシウスが息を吐く。
「まだです!」
修司は広場を見た。
赤紫の線が、露店の真下で膨らんでいる。
「火が来ます! 布を外して!」
店主たちが振り返る。
直後、石畳の隙間から紫色の炎が噴き上がった。
天幕へ燃え移る。
「《流転風》!」
イレーネが煙を上空へ押し上げた。
しかし火は一か所ではない。
広場の南側、西側でも炎が上がる。
黒煙が夜明けの空を覆い始めた。
◇
「術式を止めなさい!」
リディアは移動椅子の上から、拡声の魔具を持つ祭官へ命じた。
「第二王女リディア・レーヴァルトです! 今すぐ、その魔具をこちらへ!」
祭官はゲルハルトとリディアを見比べた。
本人が目の前にいる。
しかも、ゲルハルトが民へ語った祈りの姿ではない。
弱った身体を椅子へ預け、それでも逃げずに広場を見据えている。
祭官は決意し、壇上から魔具を投げた。
クラウディアが受け取ってリディアへ渡す。
『王都の皆、聞きなさい!』
紫紺の瞳が、炎と混乱の広場を見渡した。
『わたくしは、ここにいます。大治癒陣へ魔力を与えてはいません。この術式を、王家の名において停止しなさい!』
群衆の一部が足を止めた。
祭壇を守っていた衛兵たちも動揺する。
「殿下は禁術に操られている!」
ゲルハルトが叫んだ。
もはや穏やかな口調ではなかった。
「今止めれば、蓄積した魔力が王都へ逆流する! 第三段階まで完了させるしかない!」
「最初から危険を知っていたのね」
ヴェラの声が冷たく響く。
「違う!」
「ならば、なぜ停止した場合の危険を即答できるの?」
ゲルハルトの顔が歪んだ。
ヴェラが祭壇へ向かう。
「王国監察法に基づき、あなたを違法魔石の使用、証拠隠滅、および王都民への危険行為の容疑で拘束します」
青い魔導糸が伸びる。
その直前、祭壇の床が割れた。
ゲルハルトの身体が、制御台ごと下へ沈む。
「地下制御室!」
イレーネが叫ぶ。
「あの男、下から術式を続けるつもりです!」
カシウスが祭壇へ駆けようとする。
「待ってください!」
修司が止めた。
「今、あなたが抜ければ東門が崩れます!」
「だが局長を止めなければ!」
「ここで人を支えられるのは、あなたです!」
カシウスは祭壇と、押し寄せる群衆を見た。
大盾を握る手が震える。
やがて彼は踵を返し、長机の前へ戻った。
「第三段階が来る! 全員、身を低くしろ!」
白い大盾を地面へ立てる。
救恤騎士たちも、その左右へ盾を並べた。
「壁を作れ! 倒れた者を内側へ入れろ!」
修司は一瞬だけカシウスを見た。
この男は、敵であっても、救うべき人を前に背を向けられない。
だからゲルハルトは、その正義を利用した。
地下から、巨大な音が響いた。
三度目の脈動。
修司の視界へ、無数の淡い光が浮かび上がる。
クラウディア。
イレーネ。
ヴェラ。
マルガレーテ、エヴァ、ルチア、ミレイユ。
カシウスと救恤騎士たち。
荷運び人、商人、侍女、衛兵。
目の前で、誰かを助けようとしている人々の間に線が生まれる。
《連携支援》。
修司はすべてをつなごうとした。
だが、多すぎる。
光の線が絡まり、役割も行き先も分からない。
頭の奥へ、杭を打ち込まれたような痛みが走る。
「ぐっ……!」
膝をついた。
「タカセ殿!」
クラウディアが駆け寄る。
「無理に全員をつなごうとしてはいけません!」
「分かっています……でも、今のままでは声が届かない」
一人一人は、助けようとしている。
だが、同じ場所へ人が集まり、別の場所には誰もいない。
水を持つ者は治療場所を知らず、担架を持つ者は誰を運ぶべきか分からない。
力が足りないのではない。
情報がつながっていない。
修司は、地面へ落ちた祭礼旗を見た。
青。
黄。
赤。
黒。
治療場所。避難路。危険区域。通行止め。
言葉では届かなくても、色なら見える。
「クラウディアさん。俺を立たせてください」
「もう技能は使わせません」
「使い方を変えます」
修司はクラウディアの肩を借り、立ち上がった。
「人を直接つなぐんじゃない。全員が同じ印を見て、自分で動けるようにする」
そのとき、第三の光が祭壇から噴き上がった。
白ではない。
青緑、赤紫、黄、黒が分かれたまま、巨大な柱となって空へ突き抜ける。
四つの光が王都の上空で裂け、それぞれ別の方角へ落ちた。
北の白塔区。
東の市場区。
南の水路区。
西の旧市街。
遠くで、次々と爆発音が上がる。
広場だけではなかった。
大治癒陣の線は、最初から王都全体へつながっていたのだ。
「タカセさん!」
ミレイユが青ざめた顔で走ってくる。
「各区の救護鐘が、一斉に鳴っています!」
鐘の音が重なる。
一つ。
二つ。
数えられないほどに。
修司は四色の祭礼旗を拾い上げた。
「広場だけを救っても、間に合いません」
炎と煙の向こうで、王都中の人々が助けを待っている。
「王都全体を、一つの支援現場にします」




