↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
国を立たせる介護士 ~52歳で異世界召喚された外れ職《生活支援士》、寝たきりの老将から滅びかけた王国まで再建する~  作者: 狼賀亮一郎
第二部 白き王都と傷なき聖女編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
55/71

第五十五話 帰る場所は、俺が決める

「高瀬さん……?」


 懐かしい声が、裂けた世界の向こうから届いた。


 白い壁。夜間照明だけがついた廊下。三〇七号室の前に立つ、小柄な老女。


 篠原フミだった。


 床用洗剤と消毒液の混じった匂いまで、鼻の奥によみがえる。


 つい先ほどまで、修司が夜勤をしていた有料老人ホーム。


 壁時計は午前二時十四分。


 こちらの世界で何日も過ごしたというのに、向こうでは一分しか経っていない。


「篠原さん……」


 声にした途端、胸の奥へ押し込めていたものがあふれそうになった。


 帰れる。


 家へ帰れば、なじんだ道がある。


 コンビニの明かりがあり、冷蔵庫には昨日買った総菜があり、職場には書きかけの夜勤記録が残っている。


 もう剣を向けられることもない。


 魔法陣に人間をつながれることもない。


『六十』


 ゲルハルトの声が、召喚殿へ響いた。


『五十九、五十八――門が開いている間だけ、拘束は帰還方向へ緩みます。一歩ずつ進めばよい。元の世界へ戻れば、あなたを追う者はいない』


 数字が一つ減る間に、床の魔法陣が三度脈打った。


 秒を数えているのではない。それでも、残された時間が長くないことだけは分かった。


 修司の両脚へ巻きついた白い帯が、わずかに前へ伸びた。


 後ろへは動けない。


 だが、門へ向かうことだけは許している。


 これは拘束ではない。


 道筋を一つに限定した誘導だった。


「タカセ殿、耳を貸してはいけません!」


 クラウディアが黒い線へ剣を振り下ろす。


 再び火花が散り、刃が弾かれた。


『それとも、残りますか』


 ゲルハルトの声は穏やかだった。


『門が閉じれば、あなたは大治癒陣の中央制御因子として固定される。帰るか、王国を救う礎になるか。どちらを選んでも、多くの人間が助かります』


「人を道具にしておいて、救うなんて言わないでください」


『道具であろうと、救われた者には関係のないことです』


『五十』


 門の向こうで、フミが一歩近づいた。


「高瀬さん、そこはどこなんですか。今、戻ってこられるんですか」


 裂け目の縁が波打つ。


 彼女の履いた室内履きの先が、光へ触れかけた。


「そこで止まってください!」


 修司の声に、フミの足が止まった。


 考えるより先に、介護士の言葉が出ていた。


「その光には触らないで。廊下の手すりを持って、ゆっくり三〇七号室へ戻ってください」


「でも、高瀬さんが……」


「俺は大丈夫です。部屋へ戻ったら、枕元の呼び出しボタンを押してください。職員が来るまで、立ち上がらないでください」


 いつもの夜勤と同じ声で伝える。


 短く、具体的に。一度にいくつも言わない。


 フミは戸惑いながらも、手すりを握った。


 その視線が、修司の後ろへ動く。


 クラウディアに支えられたリディア。


 術杖を構えるイレーネ。


 壊れた扉の向こうで揺れる炎。


「そちらにも、困っている人がいるんですね」


 フミが言った。


 修司は答えられなかった。


『四十』


「帰りたいです」


 ようやく出た声は、震えていた。


 この世界で必要とされているから、元の世界などどうでもよい。


 そんな立派な人間ではない。


 帰りたい。


 ずっと、帰れる方法を探していた。


「ですが――今ではありません」


 振り返る。


 リディアは自分の足で立つこともできず、クラウディアの肩へ体重を預けている。


 回廊の向こうからは、ダリオが炎を破る音が聞こえる。


 ここで背を向ければ、助けられるかもしれない命を置き去りにする。


 そして、その選択をした自分を、元の世界へ戻ったあとも許せない。


「帰るか残るかを、あなたに決められるのは嫌なんです」


 修司は門ではなく、床の魔法陣を見た。


「俺が帰る場所も、帰る時も、俺が決めます」


 向こう側で、フミが小さくうなずいた。


「そうですか」


 手すりを持ち、ゆっくりと三〇七号室へ戻っていく。


 扉の前で、一度だけ振り返った。


「それなら――行ってらっしゃい、高瀬さん」


「行ってきます」


 修司は答えた。


 帰れないのではない。


 自分で、今は帰らないと決めた。


 その違いが、足元へ一本の芯を通した。


     ◇


『三十五』


「イレーネさん。床へ灰を広げてください」


「灰?」


「《残火印》の燃えかすがあるでしょう。薄く、召喚陣全体へ」


 イレーネは一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに術杖を返した。


「《流転風》」


 壊れた扉の前に残っていた灰が、細い風に乗って広間へ流れ込む。


 黒い床。


 青緑、赤紫、黄の線。


 そして、灰が付着せず白く残る一本の道筋。


 白い床に白で描かれていたため、正面からは見えなかった線だ。


 線は帰還の門から修司の足元を通り、リディアが拘束されていた透明な枠へ続いている。


「見えました」


 修司は言った。


「黒い線は制御の枠です。中央は白い方だ」


 昔、白い紙へ入ったわずかな傷や糊の跡を見つけるため、斜めから光を当てたり、色のついた紙を重ねたりした。


 見えないのなら、見える条件を作ればいい。


「線の先に、何かありませんか」


 クラウディアが床を見渡す。


「ここに、小さなくぼみが」


 透明な枠の根元。


 灰の中に浮かんだ白い印は、五枚の花弁を持つ百合の形をしていた。


「殿下の髪飾り……」


 イレーネが、白百合をかたどった銀の髪飾りを取り出す。


 リディアの紫紺の瞳に、光が戻った。


「王家の認証鍵よ。儀式の際、術者本人の意思を確認するために使うものだわ」


「ゲルハルトは、殿下が持っていないと思っている」


「移送中に落としたものを、私が拾ったからですね」


 イレーネが髪飾りを見つめる。


 自分を救うために拾った小さな証拠が、今は罠を破る鍵になっている。


『三十』


 回廊の炎が、左右へ裂けた。


「見つけたぞ!」


 ダリオが炎の中から姿を現す。


 赤黒い右腕で鎖を振り、燃えた外套を投げ捨てた。


「おっさんは門へ入れ! 女どもはここで潰す!」


 鉄球が飛ぶ。


「伏せて!」


 クラウディアがリディアを抱えるように身を低くした。


 鉄球が石柱へ衝突し、白い破片が降る。


「髪飾りを、あのくぼみへ入れればいいのですね」


「入れるだけでは駄目です」


 リディアが苦しい息の下で言った。


「認証には、わたくし自身がそこへ立たなければならない」


 くぼみまでは、四歩。


 今の彼女には、あまりにも遠い。


「殿下」


 修司は白い帯に左腕を縛られたまま、リディアを見た。


「四歩を歩こうとしないでください。まず、一歩だけです」


「この状況で、ずいぶん悠長なことを言うのね」


「一歩できなければ、四歩はできません」


 リディアの口元が、かすかに上がった。


「本当に、王女へ遠慮がない男」


「クラウディアさん。殿下の右側へ。腰を持ち上げず、倒れないよう支えるだけで」


「分かりました」


「イレーネさんはダリオを止めてください。倒さなくていい。こちらへ来させないでください」


「簡単に言ってくれますね」


「あなたならできます」


 イレーネの灰色の目が細くなる。


「その言い方は、嫌いではありません」


 ダリオが鎖を引いた。


 柱から跳ね返った鉄球が、今度は横からリディアを狙う。


 修司の視界へ、二本の淡い線が浮かんだ。


 クラウディアの足。


 イレーネの術杖。


 《動作同調》。


 頭の奥に、鋭い痛みが走る。


 先ほど六人の衛兵を相手に使ったばかりだ。


 それでも、今は止めない。


「イレーネさん、下から!」


「《風圧槌》!」


 下方から突き上げた風が、鉄球をわずかに浮かせる。


「クラウディアさん、剣の腹で!」


 青銀の刃が鉄球へ触れ、軌道を外へ滑らせた。


 風と剣。


 二つの力が、同じ瞬間に同じ方向へ働く。


 鉄球はリディアの肩先を通り過ぎ、反対側の柱へめり込んだ。


「一歩です!」


 リディアが息を吸う。


 右足へ体重を移し、左足を前へ出した。


 膝が揺れる。


 クラウディアは持ち上げない。


 倒れないよう支えながら、リディア自身の足が床を捉えるのを待つ。


 一歩。


『二十』


「まだだ!」


 ダリオが鎖を捨てた。


 赤黒い腕で床を殴り、反動をつけて突進する。


 イレーネが風を正面からぶつけるが、巨体は止まらない。


「力を受け止めないでください! 左へ流して!」


 風の向きが変わる。


 ダリオの上体が、わずかに左へ傾いた。


 クラウディアがリディアから右手だけを離し、剣の鍔で巨漢の肘を押す。


 正面から止めない。


 進みたい力へ、別の出口を与える。


 修司が合気道で何度も身につけた身体の理屈を、二人の力で再現する。


 ダリオは修司の横を通り過ぎ、透明な枠へ肩から激突した。


「二歩目!」


 リディアの右足が動く。


 視界の端が黒く欠ける。


 修司のこめかみを、汗が伝った。


「タカセ殿、限界です!」


 クラウディアの声が遠い。


「まだ、二歩あります」


「あなたのことです!」


「俺は倒れても運べます。殿下は、今ここでしか鍵を使えない」


「勝手なことを――」


 クラウディアが歯を食いしばる。


「あとで必ず怒りますからね」


「受け付けます」


『十』


 三歩目。


 リディアの呼吸が乱れる。


「殿下、髪飾りを見てください。足元ではなく、行く先を」


 人は不安になると、自分の足ばかりを見る。


 だが、うつむけば身体は前へ折れ、次の一歩が出にくくなる。


 リディアが顔を上げた。


 白百合のくぼみを見る。


「四歩目!」


 左足が白い印を踏んだ。


 クラウディアに支えられながら、リディアは髪飾りをくぼみへ差し込む。


『五』


 銀の百合が、紫色に輝いた。


「召喚主たるレーヴァルト王家の名において命じます」


 弱かったリディアの声が、召喚殿全体へ通った。


「招かれた者の意思を奪う契約を、認めません。帰還門への強制接続を解除しなさい!」


『三』


 白い線が激しく明滅する。


 修司を縛っていた帯が、一本ずつ床へ落ちた。


 帰還の門が急速に細くなる。


 向こう側で、フミが三〇七号室の扉から手を振っていた。


 修司も、動く左手を上げた。


『一』


 白い裂け目が閉じる。


 介護施設の廊下も、フミの姿も消えた。


 静寂。


 次の瞬間、召喚陣から白い光が噴き上がった。


「殿下を伏せて!」


 修司はリディアとクラウディアの前へ身体を入れた。


 光の衝撃が背中を打つ。


 床へ投げ出され、肺から息が抜けた。


 それでも、門へ飛び込んだことへの後悔はなかった。


     ◇


「くそが……!」


 ダリオが瓦礫の中から立ち上がる。


 だが、赤黒かった右腕の色が薄れていた。


 召喚陣の停止とともに、強化術への魔力供給も切れたのだ。


 イレーネが術杖を向ける。


「まだ続けますか」


 ダリオは三人を見回した。


 クラウディアは剣を構え、リディアも銀の百合から手を離していない。


 そして修司は、痛む右腕をかばいながら立ち上がった。


「割に合わねえ」


 ダリオは床の鎖を引いた。


 天井近くの環へつながっていた鎖が張り、側壁の石板が外れる。


 その向こうには、狭い退避路があった。


「次は殺すぞ、おっさん!」


「次も、させません」


 修司が答えると、ダリオは舌打ちして暗闇へ消えた。


 イレーネが追おうとする。


「待ってください」


 修司は止めた。


「殿下の安全が先です。それに――もう来ています」


 無数の軍靴が、回廊を揺らしていた。


 外れた青銅扉の向こうへ、白い大盾が並ぶ。


「王国救恤騎士団! 武器を捨てろ!」


 先頭に立つ金髪の男が、大盾を床へ打ちつけた。


「《固定領域》」


 空気が重くなった。


 修司の両脚へ、見えない重りが巻きつく。


 クラウディアとイレーネも動きを止められた。


 《白盾》カシウス・ローゼン。


 王都で幾度も人々を救い、今はゲルハルトの正義を信じて立つ男。


 カシウスの視線が、倒れかけたリディアへ向く。


「殿下!」


「カシウス。領域を解きなさい。この者たちは、わたくしを救いました」


「失礼いたします。殿下は禁術による精神干渉を受けている可能性があります」


「わたくしの言葉が信じられないと?」


「お言葉を疑っているのではありません。お身体の状態を疑っております」


 カシウスは背後の治癒師へ手を上げた。


「担架を。殿下を歩かせるな」


 少なくとも、弱った人間を立たせたまま連行する男ではない。


 だからこそ厄介だった。


 自分が人を救っていると、本気で信じている。


「タカセ・シュウジ」


 カシウスが修司を見た。


「第二王女誘拐、王宮への不法侵入、宮廷衛兵への襲撃、国家召喚陣の破壊。その容疑により、身柄を拘束する」


「誘拐ではありません!」


 クラウディアが叫ぶ。


「偽の移送命令で殿下を連れ去ったのは、ゲルハルトです!」


「その主張は法廷で聞く」


「その法廷を、ゲルハルトが用意するのでしょう!」


 剣を握るクラウディアの手に力が入る。


 イレーネの術杖にも、小さな火が灯った。


「二人とも、武器を下ろしてください」


 修司が言った。


「タカセ殿」


「ここで戦えば、殿下が巻き込まれます」


 カシウスが続けた。


「旧施療院の患者、および辺境から同行した者たちの滞在場所は、すでに騎士団が保護している」


 保護。


 抵抗すれば、いつでも拘束へ言い換えられる言葉だった。


 ゲルハルトは、修司が仲間を置いて逃げられないことを知っている。


 帰還の門でも、今度の包囲でも、同じところを狙ってきた。


 だが、修司はもう迷わなかった。


「分かりました。俺は行きます」


「タカセ!」


 リディアが担架の上から身を起こそうとする。


「殿下は横になっていてください。今、無理をすれば、せっかくご自分で歩いた四歩が無駄になります」


「そのようなことを言っている場合では――」


「大丈夫です」


 修司は、はっきりと言った。


「逃げるのは、ここまでです。次は俺の方から、隠されたものを表へ引きずり出します」


 騎士が拘束具を持って近づく。


 修司は自分から左手を差し出した。


 右腕は傷めている。それに金属の輪を掛ければ、さらに悪化する。


「右腕は負傷しています。固定するなら左だけにしてください。逃げません」


 騎士がカシウスを見る。


 彼は短くうなずいた。


 左手首へ、冷たい拘束具が閉じる。


 そのとき、修司の視界の隅で、床の線が光った。


 帰還門を失った白い線。


 行き場をなくした魔力が、召喚殿の外へ流れていく。


 王宮の上層へ。


 そして、王都全体へ張り巡らされた巨大な術式へ。


 青緑、赤紫、黄、黒。


 四つの線が、ほんのわずかにずれている。


 印刷物なら、見過ごせないほどの版ずれ。


 重ねる力が大きいほど、その小さなずれは最後に大きな破綻となる。


「カシウスさん」


「団長と呼べ」


「この魔法陣を、近いうちに使う予定がありますか」


 カシウスの足が止まった。


「なぜ、それを聞く」


「白い線の接続が外れ、ほかの三色もずれ始めています。このまま大きな魔力を流せば、治癒ではなく逆流が起きる」


 カシウスの表情から、わずかに色が消えた。


 それだけで、答えは分かった。


「いつですか」


「黙れ」


「明日の王国護持祭ですね」


 召喚殿が、低く震えた。


 白い線の奥で、何か巨大なものが目を覚ますように、王都の地下から脈動が返ってくる。


 カシウスは修司を見た。


 今度の目には、敵意だけではない。


 一瞬の迷いがあった。


「連れていけ」


 それでも、命令は変わらなかった。


 騎士たちに囲まれ、修司は召喚殿を出る。


 背後で、白い線がもう一度強く明滅した。


 王都最大の治癒魔法が使われるまで、あと一日。


 そして、それを止められる男は今、王宮の地下牢へ連れていかれようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。