第五十五話 帰る場所は、俺が決める
「高瀬さん……?」
懐かしい声が、裂けた世界の向こうから届いた。
白い壁。夜間照明だけがついた廊下。三〇七号室の前に立つ、小柄な老女。
篠原フミだった。
床用洗剤と消毒液の混じった匂いまで、鼻の奥によみがえる。
つい先ほどまで、修司が夜勤をしていた有料老人ホーム。
壁時計は午前二時十四分。
こちらの世界で何日も過ごしたというのに、向こうでは一分しか経っていない。
「篠原さん……」
声にした途端、胸の奥へ押し込めていたものがあふれそうになった。
帰れる。
家へ帰れば、なじんだ道がある。
コンビニの明かりがあり、冷蔵庫には昨日買った総菜があり、職場には書きかけの夜勤記録が残っている。
もう剣を向けられることもない。
魔法陣に人間をつながれることもない。
『六十』
ゲルハルトの声が、召喚殿へ響いた。
『五十九、五十八――門が開いている間だけ、拘束は帰還方向へ緩みます。一歩ずつ進めばよい。元の世界へ戻れば、あなたを追う者はいない』
数字が一つ減る間に、床の魔法陣が三度脈打った。
秒を数えているのではない。それでも、残された時間が長くないことだけは分かった。
修司の両脚へ巻きついた白い帯が、わずかに前へ伸びた。
後ろへは動けない。
だが、門へ向かうことだけは許している。
これは拘束ではない。
道筋を一つに限定した誘導だった。
「タカセ殿、耳を貸してはいけません!」
クラウディアが黒い線へ剣を振り下ろす。
再び火花が散り、刃が弾かれた。
『それとも、残りますか』
ゲルハルトの声は穏やかだった。
『門が閉じれば、あなたは大治癒陣の中央制御因子として固定される。帰るか、王国を救う礎になるか。どちらを選んでも、多くの人間が助かります』
「人を道具にしておいて、救うなんて言わないでください」
『道具であろうと、救われた者には関係のないことです』
『五十』
門の向こうで、フミが一歩近づいた。
「高瀬さん、そこはどこなんですか。今、戻ってこられるんですか」
裂け目の縁が波打つ。
彼女の履いた室内履きの先が、光へ触れかけた。
「そこで止まってください!」
修司の声に、フミの足が止まった。
考えるより先に、介護士の言葉が出ていた。
「その光には触らないで。廊下の手すりを持って、ゆっくり三〇七号室へ戻ってください」
「でも、高瀬さんが……」
「俺は大丈夫です。部屋へ戻ったら、枕元の呼び出しボタンを押してください。職員が来るまで、立ち上がらないでください」
いつもの夜勤と同じ声で伝える。
短く、具体的に。一度にいくつも言わない。
フミは戸惑いながらも、手すりを握った。
その視線が、修司の後ろへ動く。
クラウディアに支えられたリディア。
術杖を構えるイレーネ。
壊れた扉の向こうで揺れる炎。
「そちらにも、困っている人がいるんですね」
フミが言った。
修司は答えられなかった。
『四十』
「帰りたいです」
ようやく出た声は、震えていた。
この世界で必要とされているから、元の世界などどうでもよい。
そんな立派な人間ではない。
帰りたい。
ずっと、帰れる方法を探していた。
「ですが――今ではありません」
振り返る。
リディアは自分の足で立つこともできず、クラウディアの肩へ体重を預けている。
回廊の向こうからは、ダリオが炎を破る音が聞こえる。
ここで背を向ければ、助けられるかもしれない命を置き去りにする。
そして、その選択をした自分を、元の世界へ戻ったあとも許せない。
「帰るか残るかを、あなたに決められるのは嫌なんです」
修司は門ではなく、床の魔法陣を見た。
「俺が帰る場所も、帰る時も、俺が決めます」
向こう側で、フミが小さくうなずいた。
「そうですか」
手すりを持ち、ゆっくりと三〇七号室へ戻っていく。
扉の前で、一度だけ振り返った。
「それなら――行ってらっしゃい、高瀬さん」
「行ってきます」
修司は答えた。
帰れないのではない。
自分で、今は帰らないと決めた。
その違いが、足元へ一本の芯を通した。
◇
『三十五』
「イレーネさん。床へ灰を広げてください」
「灰?」
「《残火印》の燃えかすがあるでしょう。薄く、召喚陣全体へ」
イレーネは一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに術杖を返した。
「《流転風》」
壊れた扉の前に残っていた灰が、細い風に乗って広間へ流れ込む。
黒い床。
青緑、赤紫、黄の線。
そして、灰が付着せず白く残る一本の道筋。
白い床に白で描かれていたため、正面からは見えなかった線だ。
線は帰還の門から修司の足元を通り、リディアが拘束されていた透明な枠へ続いている。
「見えました」
修司は言った。
「黒い線は制御の枠です。中央は白い方だ」
昔、白い紙へ入ったわずかな傷や糊の跡を見つけるため、斜めから光を当てたり、色のついた紙を重ねたりした。
見えないのなら、見える条件を作ればいい。
「線の先に、何かありませんか」
クラウディアが床を見渡す。
「ここに、小さなくぼみが」
透明な枠の根元。
灰の中に浮かんだ白い印は、五枚の花弁を持つ百合の形をしていた。
「殿下の髪飾り……」
イレーネが、白百合をかたどった銀の髪飾りを取り出す。
リディアの紫紺の瞳に、光が戻った。
「王家の認証鍵よ。儀式の際、術者本人の意思を確認するために使うものだわ」
「ゲルハルトは、殿下が持っていないと思っている」
「移送中に落としたものを、私が拾ったからですね」
イレーネが髪飾りを見つめる。
自分を救うために拾った小さな証拠が、今は罠を破る鍵になっている。
『三十』
回廊の炎が、左右へ裂けた。
「見つけたぞ!」
ダリオが炎の中から姿を現す。
赤黒い右腕で鎖を振り、燃えた外套を投げ捨てた。
「おっさんは門へ入れ! 女どもはここで潰す!」
鉄球が飛ぶ。
「伏せて!」
クラウディアがリディアを抱えるように身を低くした。
鉄球が石柱へ衝突し、白い破片が降る。
「髪飾りを、あのくぼみへ入れればいいのですね」
「入れるだけでは駄目です」
リディアが苦しい息の下で言った。
「認証には、わたくし自身がそこへ立たなければならない」
くぼみまでは、四歩。
今の彼女には、あまりにも遠い。
「殿下」
修司は白い帯に左腕を縛られたまま、リディアを見た。
「四歩を歩こうとしないでください。まず、一歩だけです」
「この状況で、ずいぶん悠長なことを言うのね」
「一歩できなければ、四歩はできません」
リディアの口元が、かすかに上がった。
「本当に、王女へ遠慮がない男」
「クラウディアさん。殿下の右側へ。腰を持ち上げず、倒れないよう支えるだけで」
「分かりました」
「イレーネさんはダリオを止めてください。倒さなくていい。こちらへ来させないでください」
「簡単に言ってくれますね」
「あなたならできます」
イレーネの灰色の目が細くなる。
「その言い方は、嫌いではありません」
ダリオが鎖を引いた。
柱から跳ね返った鉄球が、今度は横からリディアを狙う。
修司の視界へ、二本の淡い線が浮かんだ。
クラウディアの足。
イレーネの術杖。
《動作同調》。
頭の奥に、鋭い痛みが走る。
先ほど六人の衛兵を相手に使ったばかりだ。
それでも、今は止めない。
「イレーネさん、下から!」
「《風圧槌》!」
下方から突き上げた風が、鉄球をわずかに浮かせる。
「クラウディアさん、剣の腹で!」
青銀の刃が鉄球へ触れ、軌道を外へ滑らせた。
風と剣。
二つの力が、同じ瞬間に同じ方向へ働く。
鉄球はリディアの肩先を通り過ぎ、反対側の柱へめり込んだ。
「一歩です!」
リディアが息を吸う。
右足へ体重を移し、左足を前へ出した。
膝が揺れる。
クラウディアは持ち上げない。
倒れないよう支えながら、リディア自身の足が床を捉えるのを待つ。
一歩。
『二十』
「まだだ!」
ダリオが鎖を捨てた。
赤黒い腕で床を殴り、反動をつけて突進する。
イレーネが風を正面からぶつけるが、巨体は止まらない。
「力を受け止めないでください! 左へ流して!」
風の向きが変わる。
ダリオの上体が、わずかに左へ傾いた。
クラウディアがリディアから右手だけを離し、剣の鍔で巨漢の肘を押す。
正面から止めない。
進みたい力へ、別の出口を与える。
修司が合気道で何度も身につけた身体の理屈を、二人の力で再現する。
ダリオは修司の横を通り過ぎ、透明な枠へ肩から激突した。
「二歩目!」
リディアの右足が動く。
視界の端が黒く欠ける。
修司のこめかみを、汗が伝った。
「タカセ殿、限界です!」
クラウディアの声が遠い。
「まだ、二歩あります」
「あなたのことです!」
「俺は倒れても運べます。殿下は、今ここでしか鍵を使えない」
「勝手なことを――」
クラウディアが歯を食いしばる。
「あとで必ず怒りますからね」
「受け付けます」
『十』
三歩目。
リディアの呼吸が乱れる。
「殿下、髪飾りを見てください。足元ではなく、行く先を」
人は不安になると、自分の足ばかりを見る。
だが、うつむけば身体は前へ折れ、次の一歩が出にくくなる。
リディアが顔を上げた。
白百合のくぼみを見る。
「四歩目!」
左足が白い印を踏んだ。
クラウディアに支えられながら、リディアは髪飾りをくぼみへ差し込む。
『五』
銀の百合が、紫色に輝いた。
「召喚主たるレーヴァルト王家の名において命じます」
弱かったリディアの声が、召喚殿全体へ通った。
「招かれた者の意思を奪う契約を、認めません。帰還門への強制接続を解除しなさい!」
『三』
白い線が激しく明滅する。
修司を縛っていた帯が、一本ずつ床へ落ちた。
帰還の門が急速に細くなる。
向こう側で、フミが三〇七号室の扉から手を振っていた。
修司も、動く左手を上げた。
『一』
白い裂け目が閉じる。
介護施設の廊下も、フミの姿も消えた。
静寂。
次の瞬間、召喚陣から白い光が噴き上がった。
「殿下を伏せて!」
修司はリディアとクラウディアの前へ身体を入れた。
光の衝撃が背中を打つ。
床へ投げ出され、肺から息が抜けた。
それでも、門へ飛び込んだことへの後悔はなかった。
◇
「くそが……!」
ダリオが瓦礫の中から立ち上がる。
だが、赤黒かった右腕の色が薄れていた。
召喚陣の停止とともに、強化術への魔力供給も切れたのだ。
イレーネが術杖を向ける。
「まだ続けますか」
ダリオは三人を見回した。
クラウディアは剣を構え、リディアも銀の百合から手を離していない。
そして修司は、痛む右腕をかばいながら立ち上がった。
「割に合わねえ」
ダリオは床の鎖を引いた。
天井近くの環へつながっていた鎖が張り、側壁の石板が外れる。
その向こうには、狭い退避路があった。
「次は殺すぞ、おっさん!」
「次も、させません」
修司が答えると、ダリオは舌打ちして暗闇へ消えた。
イレーネが追おうとする。
「待ってください」
修司は止めた。
「殿下の安全が先です。それに――もう来ています」
無数の軍靴が、回廊を揺らしていた。
外れた青銅扉の向こうへ、白い大盾が並ぶ。
「王国救恤騎士団! 武器を捨てろ!」
先頭に立つ金髪の男が、大盾を床へ打ちつけた。
「《固定領域》」
空気が重くなった。
修司の両脚へ、見えない重りが巻きつく。
クラウディアとイレーネも動きを止められた。
《白盾》カシウス・ローゼン。
王都で幾度も人々を救い、今はゲルハルトの正義を信じて立つ男。
カシウスの視線が、倒れかけたリディアへ向く。
「殿下!」
「カシウス。領域を解きなさい。この者たちは、わたくしを救いました」
「失礼いたします。殿下は禁術による精神干渉を受けている可能性があります」
「わたくしの言葉が信じられないと?」
「お言葉を疑っているのではありません。お身体の状態を疑っております」
カシウスは背後の治癒師へ手を上げた。
「担架を。殿下を歩かせるな」
少なくとも、弱った人間を立たせたまま連行する男ではない。
だからこそ厄介だった。
自分が人を救っていると、本気で信じている。
「タカセ・シュウジ」
カシウスが修司を見た。
「第二王女誘拐、王宮への不法侵入、宮廷衛兵への襲撃、国家召喚陣の破壊。その容疑により、身柄を拘束する」
「誘拐ではありません!」
クラウディアが叫ぶ。
「偽の移送命令で殿下を連れ去ったのは、ゲルハルトです!」
「その主張は法廷で聞く」
「その法廷を、ゲルハルトが用意するのでしょう!」
剣を握るクラウディアの手に力が入る。
イレーネの術杖にも、小さな火が灯った。
「二人とも、武器を下ろしてください」
修司が言った。
「タカセ殿」
「ここで戦えば、殿下が巻き込まれます」
カシウスが続けた。
「旧施療院の患者、および辺境から同行した者たちの滞在場所は、すでに騎士団が保護している」
保護。
抵抗すれば、いつでも拘束へ言い換えられる言葉だった。
ゲルハルトは、修司が仲間を置いて逃げられないことを知っている。
帰還の門でも、今度の包囲でも、同じところを狙ってきた。
だが、修司はもう迷わなかった。
「分かりました。俺は行きます」
「タカセ!」
リディアが担架の上から身を起こそうとする。
「殿下は横になっていてください。今、無理をすれば、せっかくご自分で歩いた四歩が無駄になります」
「そのようなことを言っている場合では――」
「大丈夫です」
修司は、はっきりと言った。
「逃げるのは、ここまでです。次は俺の方から、隠されたものを表へ引きずり出します」
騎士が拘束具を持って近づく。
修司は自分から左手を差し出した。
右腕は傷めている。それに金属の輪を掛ければ、さらに悪化する。
「右腕は負傷しています。固定するなら左だけにしてください。逃げません」
騎士がカシウスを見る。
彼は短くうなずいた。
左手首へ、冷たい拘束具が閉じる。
そのとき、修司の視界の隅で、床の線が光った。
帰還門を失った白い線。
行き場をなくした魔力が、召喚殿の外へ流れていく。
王宮の上層へ。
そして、王都全体へ張り巡らされた巨大な術式へ。
青緑、赤紫、黄、黒。
四つの線が、ほんのわずかにずれている。
印刷物なら、見過ごせないほどの版ずれ。
重ねる力が大きいほど、その小さなずれは最後に大きな破綻となる。
「カシウスさん」
「団長と呼べ」
「この魔法陣を、近いうちに使う予定がありますか」
カシウスの足が止まった。
「なぜ、それを聞く」
「白い線の接続が外れ、ほかの三色もずれ始めています。このまま大きな魔力を流せば、治癒ではなく逆流が起きる」
カシウスの表情から、わずかに色が消えた。
それだけで、答えは分かった。
「いつですか」
「黙れ」
「明日の王国護持祭ですね」
召喚殿が、低く震えた。
白い線の奥で、何か巨大なものが目を覚ますように、王都の地下から脈動が返ってくる。
カシウスは修司を見た。
今度の目には、敵意だけではない。
一瞬の迷いがあった。
「連れていけ」
それでも、命令は変わらなかった。
騎士たちに囲まれ、修司は召喚殿を出る。
背後で、白い線がもう一度強く明滅した。
王都最大の治癒魔法が使われるまで、あと一日。
そして、それを止められる男は今、王宮の地下牢へ連れていかれようとしていた。




