第五十四話 三度目の鐘が鳴る前に
二度目の鐘が、旧市街の屋根を震わせた。
残された鐘は、あと一つ。
「召喚殿まで、どれくらいですか」
修司が尋ねると、イレーネは閉鎖された礼拝所の奥へ向かった。
「地上から王宮へ入れば間に合いません。ですが、この下には古い祭礼用の通路があります」
祭壇の前で膝をつき、床石の隙間へ術杖を差し込む。
「《風圧槌》」
鈍い音とともに石板が浮き上がり、地下へ続く暗い階段が現れた。
クラウディアは剣を抜いたまま、イレーネの背へ切っ先を向けている。
「なぜ私たちを助けるのです」
「助けているつもりはありません」
イレーネは振り返らなかった。
「地下施療院の証拠抹消命令には、私たち職員の脱出手順がありませんでした。ゲルハルトにとって、私も処分される記録の一部だった。それだけです」
「では、その髪飾りは」
白百合をかたどった銀の飾りが、イレーネの手の中で光る。
「上部通路から逃げたあと、中央中継室を通りました。そこで、殿下を運ぶ担架とすれ違った。床へ落ちたこれを拾ったのです」
「救おうとは思わなかったのですか」
「一人で王宮の護衛を破り、王女を担いで逃げろと?」
冷たい灰色の目が、初めて修司を見た。
「不可能な善意より、実行できる裏切りを選びました」
信用できる言葉ではない。
だが、少なくとも嘘で美しく飾ろうとはしていなかった。
「案内してください」
修司は言った。
「信用するのですか」
「いいえ。けれど、王女殿下の居場所を知っているのはあなたです」
イレーネの口元がわずかに動く。
「合理的ですね。嫌いではありません」
三人は地下へ降りた。
◇
階段の先には、二人が並ぶのがやっとの石造りの通路が延びていた。
天井から落ちる水滴が、一定の間隔で床を打つ。
修司は濡れた壁へ左手を添えながら進んだ。右腕は布で吊ったまま。地下施療院から一睡もせず動き続けた脚は、階段を下りるたび重くなっている。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
「この先です」
イレーネが足を止めた。
行く手を、一枚の白い壁が塞いでいる。
表面には、青緑、赤紫、黄、そして黒の細い線が幾重にも描かれていた。
修司をこの世界へ呼び出した召喚陣と同じ色。
「封印回廊です。王宮側の認証がなければ開きません。壊そうとすれば、通路全体へ火術が流れます」
「ほかの道は」
「ありません」
クラウディアが背後を振り返る。
遠くから、複数の足音が近づいていた。
追手は、もう礼拝所の入口を見つけている。
「イレーネ。開けられない場所へ、私たちを連れてきたのですか」
「私が知る限り、ここが最短でした」
修司は白い壁へ近づいた。
四つの色が重なって一つの紋様を作っている。
いや、一つではない。
「これは、別々に描かれたものを重ねています」
「何が違うのです」
「黒は輪郭。ほかの三色は、それぞれ別の機能です」
二十年近く前。
一枚の印刷物を作るため、文字と写真と色指定を別々の紙へ載せ、ずれないよう重ねていた。
位置を合わせるため、版下の端には小さな印を置く。
完成品では断ち落とされ、見えなくなる印。
だが、この壁では四隅の一つだけ、黒い線がわずかに外へ伸びていた。
「ここを照らしてください」
イレーネが術杖の先へ火を灯す。
斜めから光が当たると、黒い線の下に細い継ぎ目が浮かび上がった。
「壁ではありません。整備用の板です」
クラウディアが剣先を継ぎ目へ入れる。
「三つ数えたら、黒い印の位置へ風を。強く押すのではなく、板を浮かせてください」
「術師へ細かい注文をしますね」
「できませんか」
「できます」
足音が迫る。
一。
二。
「三!」
風が継ぎ目へ入り、クラウディアが剣を返す。
白い壁の一部が手前へ浮いた。
修司は左手を隙間へ入れ、身体の重さを後ろへ預ける。
三人で板を引き外した。
壁の向こうに、人一人が通れる黒い空間が開く。
「中へ!」
最後にクラウディアが滑り込んだ直後、追手の火球が通路を走った。
修司たちは板を戻す。
炎が白い壁へぶつかり、向こう側で爆ぜた。
「今のも、介護の技術ですか」
イレーネが尋ねる。
「元デザイナーの方です」
「あなたの前職は、いったい何と戦う仕事だったのです」
「締め切りです」
クラウディアが小さく息を漏らした。
笑ったのだと気づいたときには、彼女は先へ進んでいた。
◇
整備口の先は、王宮地下の封印回廊へつながっていた。
白い柱が等間隔に並び、床には召喚陣の線が細い川のように走っている。
出口まで、五十歩ほど。
その中ほどで、六人の宮廷衛兵が待ち受けていた。
「侵入者だ!」
二人が槍を構え、後ろの術師が杖を上げる。
逃げ場のない直線。
「殺してはいけません」
修司が言った。
「向こうは、そのつもりかもしれませんよ」
イレーネの術杖に赤い印が浮かぶ。
「それでもです。クラウディアさんは武器を。イレーネさんは、人ではなく足元へ風を」
「私へ命令を?」
「一緒に行くと決めたのなら、合わせてください」
修司は二人の間へ立った。
「俺が合図します」
衛兵が走る。
槍の穂先が迫った。
「今です!」
イレーネの風が、先頭の衛兵の右足を外側へ払う。
身体が傾いた瞬間、クラウディアの剣が槍の柄を斬り落とした。
二人目。
「風を低く!」
足首へ風。
剣が短杖を弾く。
だが、二人の動きはわずかにずれていた。
イレーネが次の風を放つ前に、クラウディアが踏み込む。三人目の槍が彼女の脇腹へ向いた。
修司の視界に、淡い光の線が現れる。
クラウディアの足。
イレーネの指。
二人の呼吸。
《連携支援》。
これまでは、役割と判断をつないでいた。
今、光は一つ一つの動作へ重なっていく。
――派生技能《動作同調》。
「クラウディアさん、半歩待って!」
彼女の踏み込みが止まる。
「イレーネさん、左へ!」
風が衛兵の肩を押す。
「今!」
クラウディアの剣が、脇腹へ迫っていた槍だけを下から跳ね上げた。
風と剣が、一つの動きになる。
イレーネが崩し、クラウディアが武器を奪う。
クラウディアが開けた空間へ、イレーネの風が次の敵を押し出す。
六人の衛兵が、次々と床へ膝をついた。
誰一人、斬られていない。
「これは……」
イレーネが自分の指を見る。
「考える前に、次の位置が分かりました」
「私もです」
クラウディアが剣を返す。
修司は壁へ左手をついた。
以前のような激しい頭痛はない。
だが、二人の動作を細かく重ねた負担で、視界の端が暗くなっている。
「何人まで使えるのです」
「今は、二人を数呼吸だけです」
修司は息を整え、再び歩き出した。
「十分です。先へ行きましょう」
◇
召喚殿へ続く青銅の扉まで、あと十歩。
その前に、大きな影が立っていた。
片腕を赤黒く変色させた巨漢。
床には、太い鎖が幾重にも這っている。
「遅かったな、おっさん」
ダリオ・グランツが笑った。
「今度は触らせねえ」
鎖が床を打った。
先端についた鉄球が、白い柱を砕く。
破片が回廊へ降り注いだ。
「近づかなければ、投げられねえだろ」
ダリオは学んでいる。
力任せに突進せず、十歩の距離を保つ。鎖の一端は腰へ巻き、もう一端は青銅扉の取っ手へ通していた。
修司たちが左右へ動けば、鎖が回廊全体を薙ぎ払う。
「鐘まで、もう時間がありません」
クラウディアが剣を構える。
「分かっています」
修司はダリオではなく、鎖を見た。
床を這い、柱を回り、扉の取っ手へ通っている。
相手は、自分の身体を重くするために扉を支点として使っている。
ならば、その力はすべて扉にも伝わる。
「イレーネさん。鉄球を右の柱へ流してください」
「正面の男ではなく?」
「鎖を張らせます」
ダリオが鉄球を投げた。
「《風圧槌》!」
横から風を受け、鉄球が右の柱へ巻きつく。
鎖がぴんと張った。
「クラウディアさん、扉の左の留め具を!」
剣が走り、青銅扉を固定していた金具が一つ飛ぶ。
ダリオが腰を落とした。
「小細工が!」
鎖を力任せに引く。
「もっと強く引いてください!」
「何だと?」
「あなたの力は、その程度ですか!」
ダリオの額へ血管が浮いた。
赤黒い腕が膨れ上がり、鎖が軋む。
柱に巻きついた鉄球。
腰へ巻いた鎖。
その中間にある青銅扉の取っ手。
すべてへ、巨漢の怪力が掛かった。
青銅扉が内側へ大きくたわむ。
「今です! 二人とも伏せて!」
修司たちが床へ身を落とす。
轟音。
残った留め具が千切れ、巨大な扉が回廊側へ倒れた。
「な――」
ダリオの身体が鎖に引かれ、倒れた扉の下へ転がる。
修司は立ち上がり、扉の外れた入口へ走った。
「待ちやがれ!」
背後でダリオが青銅板を持ち上げ始める。
「《残火印》」
イレーネが床へ三つの赤い印を置いた。
炎が壁となって回廊を塞ぐ。
「長くはもちません」
「それで十分です!」
三人は召喚殿へ飛び込んだ。
◇
広間は、修司がこの世界へ呼び出されたときのままだった。
高い天井。
円形に並ぶ石柱。
床を埋め尽くす、青緑、赤紫、黄、黒の巨大な紋様。
ただ一つ違うのは、中央にリディアがいることだった。
白い長衣のまま、透明な枠へ立った姿勢で固定されている。
両手首、足首、胸元から伸びた白い光の帯が、床の召喚陣へつながっていた。
顔は青白く、目を閉じている。
「リディア殿下!」
クラウディアが駆け寄る。
「待ってください!」
修司は床の線を見た。
白い帯を切ればよいわけではない。
五本の帯は別々の色の線へ接続され、光が一定の順番で流れている。
「イレーネさん。どれから外せますか」
「胸元が主経路です。ですが、先に切れば四肢から逆流する」
「なら、身体を支えてから、足、手、最後に胸です」
修司はリディアの正面へ立った。
「殿下。タカセです。聞こえますか」
返事はない。
近づいて見れば、唇がかすかに動いている。
呼吸している。
「クラウディアさん、右側から身体を支えてください。首が後ろへ倒れないように。イレーネさんは帯を外す準備を」
「分かりました」
修司は左手でリディアの手に触れた。
《生活動作把握》。
淡い線が、彼女の左手から肩、胸、足へ広がる。
治す力ではない。
彼女の中に残っている、動こうとする力を探す。
「殿下。動かせる指があれば、俺の手を押してください」
一度では動かなかった。
「急がなくていい。ほんの少しで十分です」
左の人差し指が、修司の手のひらをかすかに押した。
「分かりました。一緒に外します」
修司の技能が、一人だけへ細く集中する。
《個別支援》。
「左足から。三、二、一」
イレーネが光の帯を外す。
リディアの膝が崩れかけ、クラウディアが腰を支えた。
「右足」
二本目。
「左手、右手」
三本目。四本目。
床の紋様が激しく明滅する。
広間の外から、炎を破るダリオの怒声が聞こえた。
そして、王都全体が息を吸い込むような静寂が訪れる。
三度目の鐘が、鳴り始めた。
「胸元を!」
イレーネが最後の帯へ術杖を振り下ろす。
白い光が弾けた。
リディアの身体が前へ倒れる。
修司とクラウディアが両側から受け止めた。
鐘の余韻が、召喚殿を震わせる。
リディアの睫毛が動いた。
紫紺の瞳が、ゆっくり開く。
「……遅いわ、タカセ」
「申し訳ありません」
「本当にね」
声は弱い。
それでも、いつもの皮肉が戻っていた。
間に合った。
そう思った瞬間だった。
床の黒い線が、修司の足元へ集まった。
「タカセ殿、離れて!」
クラウディアが手を伸ばす。
白い帯が床から立ち上がり、修司の両脚と左腕へ巻きついた。
地下施療院で百七十人とつながれたときと同じ拘束。
『中央制御因子を確認』
ゲルハルトの声が、広間全体から響いた。
『よく戻ってきてくれました、タカセ殿』
「最初から、俺をここへ呼ぶつもりだったんですね」
『あなたは命を見捨てられない。殿下を置けば、必ず来ると信じていました』
クラウディアが黒い線へ剣を振り下ろす。
火花が散り、刃が弾かれた。
「タカセ殿!」
「黒い線ではありません! 中央の白を探してください!」
修司は叫んだ。
罠に掛かったままでも、指示を止めない。
召喚陣の中央で、空間が縦に裂けた。
裂け目の向こうに、見覚えのある白い壁が映る。
手すりのついた廊下。
並んだ居室の扉。
介護施設だった。
壁時計は、午前二時十四分を指している。
修司が消えてから、まだ一分しか経っていない。
『帰還の研究は、すべてが嘘ではないと申し上げたでしょう』
ゲルハルトの声が穏やかに告げる。
『門が安定するのは、六十数です。その間なら、あなたは元の世界へ帰れる』
裂け目の向こうで、三〇七号室の扉が開いた。
篠原フミが、不安そうに廊下へ顔を出す。
視線が、こちらを向いた。
「高瀬さん……?」
懐かしい声が、世界を越えて修司の耳へ届いた。




