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国を立たせる介護士 ~52歳で異世界召喚された外れ職《生活支援士》、寝たきりの老将から滅びかけた王国まで再建する~  作者: 狼賀亮一郎
第二部 白き王都と傷なき聖女編

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第五十四話 三度目の鐘が鳴る前に

二度目の鐘が、旧市街の屋根を震わせた。

 残された鐘は、あと一つ。

「召喚殿まで、どれくらいですか」

 修司が尋ねると、イレーネは閉鎖された礼拝所の奥へ向かった。

「地上から王宮へ入れば間に合いません。ですが、この下には古い祭礼用の通路があります」

 祭壇の前で膝をつき、床石の隙間へ術杖を差し込む。

「《風圧槌》」

 鈍い音とともに石板が浮き上がり、地下へ続く暗い階段が現れた。

 クラウディアは剣を抜いたまま、イレーネの背へ切っ先を向けている。

「なぜ私たちを助けるのです」

「助けているつもりはありません」

 イレーネは振り返らなかった。

「地下施療院の証拠抹消命令には、私たち職員の脱出手順がありませんでした。ゲルハルトにとって、私も処分される記録の一部だった。それだけです」

「では、その髪飾りは」

 白百合をかたどった銀の飾りが、イレーネの手の中で光る。

「上部通路から逃げたあと、中央中継室を通りました。そこで、殿下を運ぶ担架とすれ違った。床へ落ちたこれを拾ったのです」

「救おうとは思わなかったのですか」

「一人で王宮の護衛を破り、王女を担いで逃げろと?」

 冷たい灰色の目が、初めて修司を見た。

「不可能な善意より、実行できる裏切りを選びました」

 信用できる言葉ではない。

 だが、少なくとも嘘で美しく飾ろうとはしていなかった。

「案内してください」

 修司は言った。

「信用するのですか」

「いいえ。けれど、王女殿下の居場所を知っているのはあなたです」

 イレーネの口元がわずかに動く。

「合理的ですね。嫌いではありません」

 三人は地下へ降りた。

     ◇

 階段の先には、二人が並ぶのがやっとの石造りの通路が延びていた。

 天井から落ちる水滴が、一定の間隔で床を打つ。

 修司は濡れた壁へ左手を添えながら進んだ。右腕は布で吊ったまま。地下施療院から一睡もせず動き続けた脚は、階段を下りるたび重くなっている。

 それでも、止まるわけにはいかなかった。

「この先です」

 イレーネが足を止めた。

 行く手を、一枚の白い壁が塞いでいる。

 表面には、青緑、赤紫、黄、そして黒の細い線が幾重にも描かれていた。

 修司をこの世界へ呼び出した召喚陣と同じ色。

「封印回廊です。王宮側の認証がなければ開きません。壊そうとすれば、通路全体へ火術が流れます」

「ほかの道は」

「ありません」

 クラウディアが背後を振り返る。

 遠くから、複数の足音が近づいていた。

 追手は、もう礼拝所の入口を見つけている。

「イレーネ。開けられない場所へ、私たちを連れてきたのですか」

「私が知る限り、ここが最短でした」

 修司は白い壁へ近づいた。

 四つの色が重なって一つの紋様を作っている。

 いや、一つではない。

「これは、別々に描かれたものを重ねています」

「何が違うのです」

「黒は輪郭。ほかの三色は、それぞれ別の機能です」

 二十年近く前。

 一枚の印刷物を作るため、文字と写真と色指定を別々の紙へ載せ、ずれないよう重ねていた。

 位置を合わせるため、版下の端には小さな印を置く。

 完成品では断ち落とされ、見えなくなる印。

 だが、この壁では四隅の一つだけ、黒い線がわずかに外へ伸びていた。

「ここを照らしてください」

 イレーネが術杖の先へ火を灯す。

 斜めから光が当たると、黒い線の下に細い継ぎ目が浮かび上がった。

「壁ではありません。整備用の板です」

 クラウディアが剣先を継ぎ目へ入れる。

「三つ数えたら、黒い印の位置へ風を。強く押すのではなく、板を浮かせてください」

「術師へ細かい注文をしますね」

「できませんか」

「できます」

 足音が迫る。

 一。

 二。

「三!」

 風が継ぎ目へ入り、クラウディアが剣を返す。

 白い壁の一部が手前へ浮いた。

 修司は左手を隙間へ入れ、身体の重さを後ろへ預ける。

 三人で板を引き外した。

 壁の向こうに、人一人が通れる黒い空間が開く。

「中へ!」

 最後にクラウディアが滑り込んだ直後、追手の火球が通路を走った。

 修司たちは板を戻す。

 炎が白い壁へぶつかり、向こう側で爆ぜた。

「今のも、介護の技術ですか」

 イレーネが尋ねる。

「元デザイナーの方です」

「あなたの前職は、いったい何と戦う仕事だったのです」

「締め切りです」

 クラウディアが小さく息を漏らした。

 笑ったのだと気づいたときには、彼女は先へ進んでいた。

     ◇

 整備口の先は、王宮地下の封印回廊へつながっていた。

 白い柱が等間隔に並び、床には召喚陣の線が細い川のように走っている。

 出口まで、五十歩ほど。

 その中ほどで、六人の宮廷衛兵が待ち受けていた。

「侵入者だ!」

 二人が槍を構え、後ろの術師が杖を上げる。

 逃げ場のない直線。

「殺してはいけません」

 修司が言った。

「向こうは、そのつもりかもしれませんよ」

 イレーネの術杖に赤い印が浮かぶ。

「それでもです。クラウディアさんは武器を。イレーネさんは、人ではなく足元へ風を」

「私へ命令を?」

「一緒に行くと決めたのなら、合わせてください」

 修司は二人の間へ立った。

「俺が合図します」

 衛兵が走る。

 槍の穂先が迫った。

「今です!」

 イレーネの風が、先頭の衛兵の右足を外側へ払う。

 身体が傾いた瞬間、クラウディアの剣が槍の柄を斬り落とした。

 二人目。

「風を低く!」

 足首へ風。

 剣が短杖を弾く。

 だが、二人の動きはわずかにずれていた。

 イレーネが次の風を放つ前に、クラウディアが踏み込む。三人目の槍が彼女の脇腹へ向いた。

 修司の視界に、淡い光の線が現れる。

 クラウディアの足。

 イレーネの指。

 二人の呼吸。

 《連携支援》。

 これまでは、役割と判断をつないでいた。

 今、光は一つ一つの動作へ重なっていく。

 ――派生技能《動作同調》。

「クラウディアさん、半歩待って!」

 彼女の踏み込みが止まる。

「イレーネさん、左へ!」

 風が衛兵の肩を押す。

「今!」

 クラウディアの剣が、脇腹へ迫っていた槍だけを下から跳ね上げた。

 風と剣が、一つの動きになる。

 イレーネが崩し、クラウディアが武器を奪う。

 クラウディアが開けた空間へ、イレーネの風が次の敵を押し出す。

 六人の衛兵が、次々と床へ膝をついた。

 誰一人、斬られていない。

「これは……」

 イレーネが自分の指を見る。

「考える前に、次の位置が分かりました」

「私もです」

 クラウディアが剣を返す。

 修司は壁へ左手をついた。

 以前のような激しい頭痛はない。

 だが、二人の動作を細かく重ねた負担で、視界の端が暗くなっている。

「何人まで使えるのです」

「今は、二人を数呼吸だけです」

 修司は息を整え、再び歩き出した。

「十分です。先へ行きましょう」

     ◇

 召喚殿へ続く青銅の扉まで、あと十歩。

 その前に、大きな影が立っていた。

 片腕を赤黒く変色させた巨漢。

 床には、太い鎖が幾重にも這っている。

「遅かったな、おっさん」

 ダリオ・グランツが笑った。

「今度は触らせねえ」

 鎖が床を打った。

 先端についた鉄球が、白い柱を砕く。

 破片が回廊へ降り注いだ。

「近づかなければ、投げられねえだろ」

 ダリオは学んでいる。

 力任せに突進せず、十歩の距離を保つ。鎖の一端は腰へ巻き、もう一端は青銅扉の取っ手へ通していた。

 修司たちが左右へ動けば、鎖が回廊全体を薙ぎ払う。

「鐘まで、もう時間がありません」

 クラウディアが剣を構える。

「分かっています」

 修司はダリオではなく、鎖を見た。

 床を這い、柱を回り、扉の取っ手へ通っている。

 相手は、自分の身体を重くするために扉を支点として使っている。

 ならば、その力はすべて扉にも伝わる。

「イレーネさん。鉄球を右の柱へ流してください」

「正面の男ではなく?」

「鎖を張らせます」

 ダリオが鉄球を投げた。

「《風圧槌》!」

 横から風を受け、鉄球が右の柱へ巻きつく。

 鎖がぴんと張った。

「クラウディアさん、扉の左の留め具を!」

 剣が走り、青銅扉を固定していた金具が一つ飛ぶ。

 ダリオが腰を落とした。

「小細工が!」

 鎖を力任せに引く。

「もっと強く引いてください!」

「何だと?」

「あなたの力は、その程度ですか!」

 ダリオの額へ血管が浮いた。

 赤黒い腕が膨れ上がり、鎖が軋む。

 柱に巻きついた鉄球。

 腰へ巻いた鎖。

 その中間にある青銅扉の取っ手。

 すべてへ、巨漢の怪力が掛かった。

 青銅扉が内側へ大きくたわむ。

「今です! 二人とも伏せて!」

 修司たちが床へ身を落とす。

 轟音。

 残った留め具が千切れ、巨大な扉が回廊側へ倒れた。

「な――」

 ダリオの身体が鎖に引かれ、倒れた扉の下へ転がる。

 修司は立ち上がり、扉の外れた入口へ走った。

「待ちやがれ!」

 背後でダリオが青銅板を持ち上げ始める。

「《残火印》」

 イレーネが床へ三つの赤い印を置いた。

 炎が壁となって回廊を塞ぐ。

「長くはもちません」

「それで十分です!」

 三人は召喚殿へ飛び込んだ。

     ◇

 広間は、修司がこの世界へ呼び出されたときのままだった。

 高い天井。

 円形に並ぶ石柱。

 床を埋め尽くす、青緑、赤紫、黄、黒の巨大な紋様。

 ただ一つ違うのは、中央にリディアがいることだった。

 白い長衣のまま、透明な枠へ立った姿勢で固定されている。

 両手首、足首、胸元から伸びた白い光の帯が、床の召喚陣へつながっていた。

 顔は青白く、目を閉じている。

「リディア殿下!」

 クラウディアが駆け寄る。

「待ってください!」

 修司は床の線を見た。

 白い帯を切ればよいわけではない。

 五本の帯は別々の色の線へ接続され、光が一定の順番で流れている。

「イレーネさん。どれから外せますか」

「胸元が主経路です。ですが、先に切れば四肢から逆流する」

「なら、身体を支えてから、足、手、最後に胸です」

 修司はリディアの正面へ立った。

「殿下。タカセです。聞こえますか」

 返事はない。

 近づいて見れば、唇がかすかに動いている。

 呼吸している。

「クラウディアさん、右側から身体を支えてください。首が後ろへ倒れないように。イレーネさんは帯を外す準備を」

「分かりました」

 修司は左手でリディアの手に触れた。

 《生活動作把握》。

 淡い線が、彼女の左手から肩、胸、足へ広がる。

 治す力ではない。

 彼女の中に残っている、動こうとする力を探す。

「殿下。動かせる指があれば、俺の手を押してください」

 一度では動かなかった。

「急がなくていい。ほんの少しで十分です」

 左の人差し指が、修司の手のひらをかすかに押した。

「分かりました。一緒に外します」

 修司の技能が、一人だけへ細く集中する。

 《個別支援》。

「左足から。三、二、一」

 イレーネが光の帯を外す。

 リディアの膝が崩れかけ、クラウディアが腰を支えた。

「右足」

 二本目。

「左手、右手」

 三本目。四本目。

 床の紋様が激しく明滅する。

 広間の外から、炎を破るダリオの怒声が聞こえた。

 そして、王都全体が息を吸い込むような静寂が訪れる。

 三度目の鐘が、鳴り始めた。

「胸元を!」

 イレーネが最後の帯へ術杖を振り下ろす。

 白い光が弾けた。

 リディアの身体が前へ倒れる。

 修司とクラウディアが両側から受け止めた。

 鐘の余韻が、召喚殿を震わせる。

 リディアの睫毛が動いた。

 紫紺の瞳が、ゆっくり開く。

「……遅いわ、タカセ」

「申し訳ありません」

「本当にね」

 声は弱い。

 それでも、いつもの皮肉が戻っていた。

 間に合った。

 そう思った瞬間だった。

 床の黒い線が、修司の足元へ集まった。

「タカセ殿、離れて!」

 クラウディアが手を伸ばす。

 白い帯が床から立ち上がり、修司の両脚と左腕へ巻きついた。

 地下施療院で百七十人とつながれたときと同じ拘束。

『中央制御因子を確認』

 ゲルハルトの声が、広間全体から響いた。

『よく戻ってきてくれました、タカセ殿』

「最初から、俺をここへ呼ぶつもりだったんですね」

『あなたは命を見捨てられない。殿下を置けば、必ず来ると信じていました』

 クラウディアが黒い線へ剣を振り下ろす。

 火花が散り、刃が弾かれた。

「タカセ殿!」

「黒い線ではありません! 中央の白を探してください!」

 修司は叫んだ。

 罠に掛かったままでも、指示を止めない。

 召喚陣の中央で、空間が縦に裂けた。

 裂け目の向こうに、見覚えのある白い壁が映る。

 手すりのついた廊下。

 並んだ居室の扉。

 介護施設だった。

 壁時計は、午前二時十四分を指している。

 修司が消えてから、まだ一分しか経っていない。

『帰還の研究は、すべてが嘘ではないと申し上げたでしょう』

 ゲルハルトの声が穏やかに告げる。

『門が安定するのは、六十数です。その間なら、あなたは元の世界へ帰れる』

 裂け目の向こうで、三〇七号室の扉が開いた。

 篠原フミが、不安そうに廊下へ顔を出す。

 視線が、こちらを向いた。

「高瀬さん……?」

 懐かしい声が、世界を越えて修司の耳へ届いた。

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