第五十三話 旅商人の夫婦
蹄の音が、水路区の石畳を震わせていた。
通りの向こうから現れた騎馬隊は、三十騎を越えている。
先頭の騎士が、空に浮かぶ赤い光文字と修司の顔を見比べた。
「異世界人タカセ・シュウジ、ならびにクラウディア・フォン・グランフェル!」
抜き放たれた剣が朝日を鋭く返す。
「王女誘拐および王都大治癒陣破壊の容疑により、両名を拘束する! 抵抗する者は共犯とみなす!」
馬が速度を上げた。
その先には、百七十人を乗せた荷車の列がある。
「止まれ!」
カシウスが大盾を石畳へ突き立てた。
「《固定領域》!」
白い光が通りいっぱいに広がる。
先頭の馬がいななき、急に重くなった脚を踏ん張った。後続の騎馬も次々と速度を落とす。
「カシウス団長、これは反逆ですぞ!」
「ここは百七十名の傷病者を収容する救護現場だ。騎乗したまま踏み込ませるわけにはいかん」
「勅命が出ている!」
「ならば下馬し、武器を収めて来い。患者を一人でも傷つける者は、私の盾が止める」
カシウスの声に、白盾の騎士たちが並んだ。
反逆ではない。
救恤騎士団として、患者を守っているだけだ。
だが、その盾が修司たちと追撃隊の間に壁を作っていた。
「長くはもちません」
ヴェラが小声で言った。
「ここであなた方を逃がしたとなれば、私たちにも拘束命令が出ます」
「ヴェラさんは残ってください」
修司は即答した。
「証拠と百七十人を守れるのは、法の中にいるあなたです」
「自分だけ逃げる男の台詞とは思えませんね」
「逃げるために逃げるわけではありません」
エヴァが修司の前へ立った。
「その身体で、まだ動くつもりなの」
「王女殿下を見つけたら、先生が必要になります。ですが今は、この方たちをお願いします」
エヴァは言い返しかけ、百七十人の荷車を見た。
寝台の上で震えている人。水を求める人。まだ意識の戻らない人。
治療師が離れられる状況ではない。
「……必ず、生きた状態で私のところへ連れてきなさい。あなたも含めてよ」
「はい」
「テアさんは、ヴェラさんとエヴァ先生を」
「私も行けます」
「だから、残ってほしいんです。追撃隊が力を使えば、患者を守る人が要る」
テアは唇を結んだ。
やがて両手を胸の前で組み、カシウスへ琥珀色の光を送る。
「十分です。団長の左脚と、盾を支える肩を補助します」
白い領域が安定した。
修司は三人へ頭を下げた。
それからクラウディアを見る。
「クラウディアさんも、ここに残れば――」
「その先を言えば、担いででも連れていきます」
「……分かりました」
「私は共犯者なのでしょう。今さら別行動を取る理由がありません」
緊迫した状況なのに、その言葉にはわずかな笑みがあった。
◇
「タカセ!」
カシウスが修司を呼んだ。
「私は、あなたを逃がすために盾を構えたのではない」
「分かっています」
「患者の収容が終われば、私もあなたを追う。次に会ったときは拘束する」
修司は白い盾の向こうを見た。
騎馬隊が下馬し、領域を回り込もうと左右へ分かれ始めている。
「そのときまでに、王女殿下を連れて戻ります」
「大言を吐くようになったな」
「遠慮している時間がなくなりました」
カシウスの口元が、ほんの少し動いた。
「北側の船着き場は、まだ封鎖されていない」
「それは、逃走を助ける発言では?」
「現場の状況を述べただけだ。早く行け」
修司とクラウディアは同時に走り出した。
◇
北側の船着き場では、一艘の平底船が岸を離れかけていた。
櫂を握っている男には見覚えがある。
第七倉庫へ潜入した夜、ナディアが手配した商人だった。
「こっちだ!」
男が船を石段へ寄せる。
「ナディア様から、王都で困ったらあんたたちを乗せろと言われてる!」
「ずいぶん先を読んでいますね」
「あの人は、商売相手が捕まる可能性まで勘定に入れるんだよ!」
クラウディアが先に飛び乗り、修司の左腕をつかむ。
船が岸を離れた直後、背後の石段へ矢が刺さった。
「いたぞ! 運河だ!」
追撃隊の一部が、白盾の領域を大きく迂回してきた。
平底船が狭い水路へ入る。
両側の倉庫が迫り、頭上を何本もの石橋が横切る。騎士たちは橋を渡りながら、船の進路を先回りしようとしていた。
「旧市街まで行けますか!」
「東水門が閉じる前ならな!」
船頭が櫂を強く押す。
前方から、金属の軋む音が聞こえた。
水路を塞ぐ鉄格子が、ゆっくり下り始めている。
「間に合わない!」
船頭が叫んだ。
船には雨よけの高い骨組みがある。このままでは、船体が通れても骨組みが格子へ引っ掛かる。
修司は鉄格子と水面、船の速度を見た。
全部を壊す時間はない。
「前の支柱は残してください! 後ろの二本だけ外す!」
「屋根が落ちるぞ!」
「落とすんです。クラウディアさん、右側を!」
修司は左側の留め縄へ手を掛けた。
右腕は使えない。
クラウディアが剣を抜き、反対側の縄を一息に切る。
「今です!」
二人で後ろの支柱を内側へ倒す。
布屋根が崩れ、三人の背中へ覆いかぶさった。
「全員、左へ!」
重心が移り、船体がわずかに傾く。
鉄格子の先端が、水面すれすれまで下りてくる。
平底船は崩れた骨組みを石へ擦りながら、最後の隙間へ滑り込んだ。
頭上で火花が散る。
格子の一本が修司の背をかすめた。
次の瞬間、船は門の向こうへ抜ける。
鉄格子が水底へ落ち、追ってきた小舟の進路を完全に塞いだ。
「通った……」
船頭が呆然と呟く。
「あんた、本当に介護士なのか」
「今のは元デザイナーの方です」
「どんな仕事だ、それは!」
答える間もなく、頭上の橋から一人の男が飛び降りてきた。
救恤局の黒い外套。
男は船縁へ着地し、短剣を修司へ突き出す。
足場が揺れる。
修司は刃を避けようとせず、男が着地した右足を見た。
船が左へ傾いた瞬間、その手首へ左手を添える。
前へ進む力を横へ流す。
男の身体が半回転し、短剣だけが水へ落ちた。
クラウディアが襟首をつかみ、そのまま男を船底へ叩き伏せる。
「船へ飛び込む相手を投げ返す必要はありません」
「なるほど。捕まえてしまえばよいのですね」
クラウディアは男の両手を背中へ回し、切った縄で縛り上げた。
修司は息を整えながら尋ねる。
「王女殿下は、どこへ運ばれましたか」
男は口を閉ざした。
だが、視線だけが水路の北西へ動いた。
白塔区の方角だった。
「答えてもらいました」
修司が言うと、男の顔色が変わった。
◇
旧市街の船着き場へ着くころには、王都中へ修司たちの似顔絵が回り始めていた。
鐘の下に設けられた掲示板へ、兵士が新しい手配書を貼っている。
白髪交じりの異世界人。
赤銅色の髪と剣を持つ辺境伯令嬢。
顔立ちだけでなく、服装と武器まで大きく描かれていた。
「隠れ家まで、この姿では行けないな」
船頭役の商人――ヨナスと名乗った男が、古い織物店の裏口を開けた。
埃をかぶった店内には、色も形も違う衣服が積まれている。
捕らえた救恤局員は店の地下倉へ移し、ヨナスの仲間が見張ることになった。ヴェラへ知らせも送るという。
「ナディア様が、必要になれば好きに使えと。まさか本当に必要になるとは思わなかったが」
修司は手配書を思い出しながら、衣服を選んだ。
「顔を隠すだけでは足りません」
「どういうことですか」
「遠くから人を見分けるとき、先に目へ入るのは顔より輪郭と色です」
クラウディアの赤銅色の髪を茶色い頭巾の中へ収める。肩を大きく見せていた外套と胸当てを外し、くすんだ赤の上着を選ぶ。剣は布を巻いた長い商品見本に見せかけた。
修司は濃茶の帽子で髪を隠し、腹の前へ帳面と小さな算盤を下げる。右腕を吊る布も、白ではなく上着と同じ色へ替えた。
二人が並ぶと、剣士と異世界人ではなく、荷を失った旅商人に見える。
「これで、どういう関係に見えますか」
クラウディアが尋ねる。
ヨナスは二人を見比べた。
「王都へ布を売りに来た夫婦だな」
「夫婦ですか」
クラウディアと修司の声が重なった。
「親子にしては、互いを気にしすぎる。主従では、そっちの奥方が亭主の言うことを聞きそうにない」
「否定はできませんね」
「タカセ殿?」
「いえ、何でもありません」
ヨナスが肩をすくめる。
「夫婦なら、少しは腕を組め。そんなに間を空けて歩く夫婦があるか」
クラウディアが修司の左腕を取った。
剣を握るときと同じ力が入っている。
「クラウディアさん。それでは夫婦というより護送です」
「これは、加減が難しいですね」
少しだけ力が緩んだ。
こんな状況でなければ、笑えたかもしれない。
◇
旧市街へ入る石門にも、すでに兵士が立っていた。
通行人を一人ずつ止め、手配書と見比べている。
引き返せば、かえって目立つ。
修司とクラウディアは速度を変えず、列へ並んだ。
「次!」
兵士が修司の顔を見る。
心臓が強く鳴った。
「名前と商売は」
「オットー・フェルナー。妻のアンナと、北部の町を回って布を売っています」
ヨナスが用意した通行証を差し出す。
兵士は文字を確かめ、今度はクラウディアを見た。
「奥方。頭巾を外せ」
クラウディアの腕に、わずかに力が入る。
外せば、赤銅色の髪が見える。
修司は彼女より先に、疲れた声でため息をついた。
「勘弁してください。朝からずっと機嫌が悪いんです。髪を直す場所もないのに王都へ入ったのは、あなたでしょうと言われ続けていまして」
「あなたが近道だとおっしゃったからです」
クラウディアが即座に返した。
怒っている演技ではない。
半分ほど、本当に腹を立てている声だった。
「ほら、この調子です」
兵士が修司を見て、同情するように鼻を鳴らした。
「行け。王都の門は全部閉じた。今日中には出られんぞ」
「妻と二人で、もう一晩過ごせということですか」
「諦めろ。夫婦になった時点で逃げ道はない」
後ろに並んでいた男たちから、小さな笑いが起きた。
修司たちは石門を抜けた。
角を二つ曲がるまで、腕を組んだまま歩く。
「……機嫌が悪いのですか」
クラウディアが尋ねた。
「説得力が必要でした」
「あとで、その近道について詳しく聞きましょう」
「覚えておきます」
追われていることを忘れたわけではない。
それでも二人の足取りは、ほんの少しだけ軽くなった。
◇
三つ目の角を曲がったところで、修司は店先の銅皿を見た。
磨かれた表面に、通りの後ろが映っている。
灰色の頭巾をかぶった細身の人物。
石門を抜けてから、同じ距離を保ってついてきている。
「後ろを見ないでください」
修司は小声で言った。
「つけられています」
「兵士ですか」
「違います。兵士なら顔と手配書を見比べる。あの人は一度も俺たちの顔を見ていません」
「では、何を」
「歩き方です。俺の右腕と、クラウディアさんの剣を隠した側を見ている」
顔や服を変えても、身体の癖までは消えない。
しかも、修司の傷とクラウディアの剣を知っている者だ。
「捕らえますか」
「いいえ。俺たちを見失ったと思わせます」
修司は通りの先を見た。
染物職人の店が並び、色とりどりの長布が二階の窓から渡されている。風が吹くたび、布が通りを横切って視界を遮った。
「あの青い布が下がったら、右の路地へ。次の赤で、反対側へ戻ります」
「追われているのに、戻るのですか」
「今度はこちらが、ついていく番です」
青い布が風を受けた。
二人は右の路地へ入る。
灰色の人物が足を速めた。
赤い布が通りを覆う。
その一瞬に、修司とクラウディアは職人の作業台の間を抜け、反対側の狭い通路へ回り込んだ。
灰色の人物だけが、二人の消えた路地へ走っていく。
修司たちは、今度はその背中を追った。
人物は追跡に失敗したと判断したのか、何度か後ろを確かめながら旧市街の奥へ向かう。
崩れた城壁。
閉鎖された礼拝所。
人のいない中庭へ入ったところで、その足が止まった。
「そこまでです」
クラウディアが布を解き、剣を抜いた。
灰色の人物が振り返る。
頭巾の下から現れたのは、冷たい灰色の瞳だった。
「イレーネ……」
地下施療院で百七十人を選別し、最後には中央命令へ逆らった女。
イレーネは驚かなかった。
「追跡を逆にたどりましたか。やはり、あなたを顔だけで探すべきではありませんね」
「王女殿下はどこです」
修司が一歩前へ出る。
「質問は一つずつにしましょう」
「これが一つ目です」
イレーネの目が細くなった。
やがて懐から、銀色の飾りを取り出す。
白百合をかたどった、リディアの髪飾りだった。
「ゲルハルトは、殿下を王都の外へ逃がすつもりではありません」
「どこへ運んだんです」
「王宮地下。封鎖された召喚殿です」
修司の脳裏に、銀の箱へ収められていた黒い欠片が浮かんだ。
「帰還の研究という話は」
「すべてが嘘ではありません。だからこそ、たちが悪い」
遠くで、新しい鐘が鳴った。
先ほどの王宮警鐘とは違う。高く澄んだ音が、一度だけ王都を渡っていく。
イレーネが白百合の髪飾りを握る。
「三度目の鐘で、殿下は王都大治癒陣の中央核へ接続されます」
「今の身体で、そんなことをすれば――」
「死ぬでしょう」
王都の空へ、二度目の鐘が響き渡った。
残された鐘は、あと一つだった。




