第五十二話 王都に残る椅子
「俺が、立たせ直します」
修司の言葉が、夜明けの水路区へ残った。
ゲルハルト・ヴァルナーは差し出していた手をゆっくり下ろした。
「立たせ直す、ですか」
嘲るでも、怒るでもない。
出来のよい答えを聞いた教師のように、静かにうなずく。
「では、そのための椅子を用意しましょう」
灰色の礼服の内側から、今度は細長い銀の箱を取り出した。
蓋が開く。
中に収められていたのは、指ほどの大きさの黒い金属片だった。表面には青緑、赤紫、黄の細い線が絡み、その外側を黒い縁取りが囲んでいる。
修司の呼吸が止まった。
見間違えるはずがない。
介護施設の廊下へ現れ、自分をこの世界へ引きずり込んだ召喚陣と同じ色だった。
「それは……」
「あなたを呼び出した召喚陣の欠片です」
ゲルハルトは箱を閉じなかった。
「王宮地下の召喚殿は、失敗の責任を問われて封鎖されました。しかし、術式の記録まで失われたわけではない。召喚が一方通行なら、逆向きに道を開けないのか。研究を続ける価値はある」
「帰る方法が、あるんですか」
自分でも驚くほど、声が乾いていた。
「今すぐ、あるとは申しません」
ゲルハルトは微笑んだ。
「ですが、調べる権限と資金なら、私が用意できる」
水路の音が遠のいた。
午前二時十三分。
照明の消えた施設の廊下。
三〇七号室で、亡くなった夫を駅へ迎えに行こうとしていた篠原フミ。
『高瀬さんが夜勤でよかったわ』
あの夜、修司は記録の入力さえ終えられないまま消えた。
朝になれば、同僚は空になったスタッフルームを見つけただろう。篠原は次の夜、修司を探したかもしれない。
自分がなぜいなくなったのか、誰にも伝えられていない。
「王立治癒院に生活支援部門を新設します」
ゲルハルトの声が、二つの世界の間へ割り込んだ。
「あなたを部門長とし、治療師、助手、予算を与える。住居も身分も保障しましょう。召喚術式の調査にも加わっていただく」
銀の箱が朝日に光る。
「王都に、あなたの椅子を用意してあるのです」
修司の隣で、クラウディアの指がわずかに動いた。
何も言わない。
引き止める言葉も、辺境へ帰る約束を求める言葉も口にせず、修司が答えるのを待っている。
その沈黙が、修司にはありがたかった。
◇
「帰れるなら、帰りたいです」
修司は言った。
クラウディアが目を伏せる。
「向こうには、俺がいなくなった理由さえ知らない人たちがいる。勤務の途中でした。あの夜の仕事も、挨拶も、何一つ終わっていません」
「ならば、迷う必要はない」
「いいえ」
修司はゲルハルトを見据えた。
「帰りたいことと、あなたに従うことは別です」
銀の箱ではなく、その向こうにいる百七十人を見る。
「帰還の研究には協力します。生活を支える仕組みを王都へ作ることにも協力する。ですが、俺がどこに住み、どこで働き、誰を支えるかは、自分で決めます」
修司は隣のクラウディアへ視線を向けた。
「俺は、この世界にいる間は、グランフェルへ帰ります」
クラウディアが顔を上げる。
紫の瞳が揺れたのは一瞬だった。
「はい」
それだけ答え、彼女は修司の隣へ半歩進んだ。
「王都に椅子を置いてやると言っているのですよ」
「人を沈めた床の上にある椅子には、座れません」
ゲルハルトの口元から、ようやく笑みが消えた。
「残念です」
右手の指輪が、赤く光った。
◇
黒い馬車の周囲にいた局員たちが、一斉に動いた。
四人は修司へ。
二人はヴェラが封印した証拠箱へ。
残る三人は、患者を乗せ始めた荷車の方へ回り込む。
逮捕のための動きではない。
修司は、先頭の男の右手を見た。
握っているのは縄でも手枷でもない。赤い液体を満たした小瓶だった。
男の視線は修司ではなく、荷車の下に積まれた乾いた藁へ向いている。
「俺ではありません!」
修司は叫んだ。
「狙いは患者と証拠です!」
男が小瓶を振りかぶる。
「カシウスさん、右です!」
白い大盾が動いた。
小瓶が盾へぶつかり、赤い炎が弾ける。
熱風が石畳を走った。
カシウスは一歩も退かず、荷車と炎の間へ立っている。
「これは、どういう命令だ」
低い声が響く。
「証拠を奪われないための、正当な措置です」
ゲルハルトは平然と答えた。
「背後の患者ごと焼くことがか」
「現場の者が加減を誤ったのでしょう」
「三人同時にですか」
ヴェラの魔導糸が走り、二人の局員の手首を絡め取った。
だが、三人目が彼女の死角から証拠箱へ迫る。
「クラウディアさん、箱を!」
「タカセ殿は!」
「自分で立ちます!」
クラウディアは迷わなかった。
修司から離れ、証拠箱へ走る。
剣の腹で局員の短杖を弾き、返す一撃で足を払った。
その間に、修司へ向かっていた一人が腰の剣を抜く。
濡れた服。痛む右腕。地下から運び続けた身体には、もう力が残っていない。
それでも、相手の肩が先に動くのは見えた。
「テアさん。右脚ではなく、左の平衡だけ!」
「はい!」
琥珀色の光が、修司の左足首へ集まる。
剣が横薙ぎに迫る。
修司は後ろへ退かなかった。
刃が速くなる前に半歩入り、左手で男の手首へ触れる。切っ先に逆らわず、円を描くように身体の外へ流した。
男は剣を止めようと足を突っ張る。
その力まで借りる。
修司は手首を返し、男の肘を自分の肩より下へ導いた。
「ぐっ――!」
局員の膝が石畳へ落ちる。
剣が手から離れた。
修司は倒れた男を押さえ込まず、すぐに顔を上げた。
まだ二人いる。
一人はオスカーへ向かい、もう一人は荷車の車輪へ火の印を刻もうとしていた。
「オスカーさん、前へ出ないで! 外套を車輪へ!」
若い騎士が白い外套を投げ、赤い印を覆う。
「エヴァ先生、患者を荷車の左側へ! ヴェラさん、地面の印を消せますか!」
「三秒ください!」
「テアさん、今度はヴェラさんの指先を!」
「切り替えます!」
琥珀色の光が修司の足から離れ、ヴェラの両手へ移った。
青白い魔導糸が一気に細くなる。
糸は外套の下へ潜り込み、石畳へ刻まれた赤い線を一本ずつ削り取った。
クラウディアが証拠箱を守る。
カシウスが炎を大盾で押し返す。
エヴァと騎士たちが患者を風上へ移す。
修司の頭の奥に、淡い光が広がった。
《連携支援》。
自分が全員を操っているのではない。
誰もが、自分の役割を理解して動いている。その間にあった一瞬の迷いだけを、光の線が埋めていく。
「火の印、消えます!」
ヴェラが糸を引いた。
赤い線が石畳から剥がれ、空中で燃え尽きる。
残る局員たちも、白盾の騎士に取り押さえられた。
誰一人、炎へ巻き込まれていない。
その向こうで、黒い馬車の扉が閉まった。
直後、鞭の音が響く。
馬車が石畳を蹴って走り出した。
修司は大きく息を吐いた。
ふらついた背中を、クラウディアの手が支える。
「自分で立つとおっしゃったでしょう」
「立つのと、支えてもらわないのは別です」
クラウディアは一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。
「ええ。そのとおりです」
◇
「ゲルハルト・ヴァルナー」
カシウスが、燃える盾を石畳へ打ちつけた。
「部下へ武器を捨てさせろ。王命の確認が済むまで、あなたにも動かずにいてもらう」
黒い馬車は、すでに通りの先へ抜けていた。
その背後で赤い油が燃え、追おうとした騎士たちの進路を塞ぐ。
後部の窓が開いた。
ゲルハルトが、召喚陣の欠片を入れていた銀の箱を放る。
箱は石畳を滑り、修司の数歩前で止まった。
帰る方法につながる、唯一の手掛かり。
修司は思わず踏み出しかけた。
箱の表面に、赤い亀裂が走る。
「触れないでください!」
カシウスが大盾をかぶせる。
爆音。
盾の下から黒煙が噴き出し、石畳の欠片が周囲へ飛び散った。
朝の空へ、一筋の赤い光が昇っていく。
信号だ。
遠く離れた白塔区から、鐘が鳴った。
一つ。
二つ。
三つ。
火災でも、襲撃でもない。
王族に異変が起きたときだけ鳴らされる、低く長い鐘だった。
クラウディアの顔色が変わる。
「王宮警鐘……」
白塔区の上空へ、巨大な光文字が浮かび上がった。
『第二王女リディア殿下、王立治癒院より消息不明』
水路区にいる全員が、空を見上げる。
光文字が変わった。
『誘拐および王都大治癒陣破壊の容疑者――異世界人タカセ・シュウジ』
修司の名前が、白い王都の空に赤く刻まれる。
『共犯者、グランフェル辺境伯令嬢クラウディア・フォン・グランフェル』
四方から、城門の閉まる音が響いた。
先ほどまで患者を助けていた騎士たちが、戸惑いながら修司を見る。
カシウスは大盾を握ったまま、動かない。
ヴェラが空の文字と、拘束された救恤局員を見比べる。
「早すぎます」
「何がですか」
「殿下が今いなくなったのなら、容疑者の名まで、もう王都全域へ出せるはずがない」
この告知は、前もって用意されていた。
ゲルハルトは、修司が誘いを断ったときのために、次の筋書きまで作っていたのだ。
通りの向こうから、騎馬隊の蹄が近づいてくる。
十騎ではない。
数十騎。
「タカセ」
クラウディアが剣を握る。
修司は、百七十人を乗せ始めた荷車の列を見た。
ここで戦えば、またこの人たちが巻き込まれる。
逃げれば、王女を誘拐した罪を認めたように見える。
どちらを選んでも、ゲルハルトの筋書きどおりになる。
ならば、用意された二つから選んではいけない。
修司はヴェラへ向き直った。
「王女殿下を見つけます」
「王都中が、あなたを探し始めますよ」
「だからです。俺たちを犯人にした人間なら、俺たちが何をするか見ている」
近づく蹄の音を聞きながら、修司は言った。
「逃げるだけでは終わらせません。追わせて、こちらから居場所を見つけます」
五十二歳の介護士を捕らえるため、王都のすべての門が閉じた。
その瞬間、修司は初めて、この巨大な都そのものを相手に反撃を始めた。




