第五十一話 その槍を下ろせ
「異世界人タカセ・シュウジ。王都大治癒陣を破壊した罪により、あなたを拘束する」
カシウスの宣告と同時に、白い盾の騎士たちが前へ出た。
槍の穂先が修司へ向く。
「させません」
クラウディアが剣を抜いた。
濡れた身体で修司の前へ立ち、半円を描く騎士たちを見据える。
ヴェラの指から魔導糸が伸び、テアも両手を構えた。
「クラウディアさん」
修司は彼女の肩へ左手を置いた。
「剣を収めてください」
「しかし――」
「ここは、俺が話します」
これまでなら、彼女の判断に任せていたかもしれない。
戦いはクラウディアの領分だ。法はヴェラ、治療はエヴァ。自分はそれぞれの専門を越えないよう、一歩後ろに立ってきた。
だが、百七十人をここまで連れてきたのは修司だった。
彼らの名前と、必要な支援を知っている。
ならば、今ここで進む方向を決める責任も、自分にある。
「俺を信じてください」
クラウディアは修司を見た。
やがて剣を下ろし、半歩だけ横へ退く。
「分かりました。ですが、私は隣にいます」
「お願いします」
修司は、誰にも遮られない場所へ出た。
◇
夜明けの風が、濡れた服から体温を奪っていく。
百七十人の中には、すでに歯を鳴らしている者もいた。寝台へ横たわる者。椅子へ座ったまま震える者。支え合って、どうにか立っている者。
修司はカシウスではなく、その後ろに並ぶ騎士たちを見た。
「槍を下ろしてください」
ざわめきが起こる。
「我々に命令するのか」
カシウスが低い声で尋ねた。
「はい」
修司は迷わず答えた。
「槍を持つ人手がそれだけあるなら、十人は毛布と乾いた服を。十人は水と温かい飲み物。荷車があるなら、寝たまま運ぶ必要がある方を優先して回してください」
騎士たちの間に、さらに戸惑いが広がった。
「あなたたちの団は、王国救恤騎士団なのでしょう。なら、今するべき仕事は俺を囲むことではありません」
「あなたに指揮権はない」
「ありません」
修司はカシウスをまっすぐ見た。
「ですが、この人たちを安全に移す方法を知っているのは俺です。責任は俺が取ります。まず救護を始めてください」
「あなたは拘束される立場だ」
「最後の一人が安全な場所へ入ったあとなら、事情聴取でも拘束でも受けます」
「順番を決めるのは、あなたではない」
「今は俺が決めます」
修司の声は大きくなかった。
それでも、松明の燃える音まで聞こえるほど、周囲が静まった。
「地下で、この人たちは番号で呼ばれていました。次の場所でも、勝手に運ばれ、縛られ、誰かの都合で扱われるなら、俺が助けた意味がない」
カシウスの大盾へ、朝の光が当たる。
「患者と証拠は、救恤騎士団が保護する」
「保護という言葉で地下へ連れていかれた人たちです」
修司は背後を振り返った。
「今度は、本人たちに尋ねてください」
マルタと目が合う。
「マルタさん。自分の名前を言えますか」
「……マルタ・ケーニヒ」
震えてはいたが、はっきりした声だった。
「フィーデルさん」
老人が、椅子の肘掛けを三回叩く。
「フィーデル・ロス」
隣にいた男が代わりに名前を告げた。
「俺は、ハンス・ベッカーだ」
「エルザ・ノイマン」
「ソフィア・ベル」
一人、また一人と声が上がる。
言葉を出せない人の名前は、隣にいる者が呼んだ。
意識の戻らない人の名前は、エヴァと治療師たちが帳面から読み上げた。
百七十人分の名前が、夜明けの水路区へ広がっていく。
槍を構えていた若い騎士の手が揺れた。
その穂先の正面にいるのは、敵ではない。
濡れた毛布を肩へ掛け、椅子の上で震える一人の女性だった。
「あなたの名前は」
修司が騎士へ尋ねた。
「……オスカー・ハイネ」
「オスカーさん。その槍で、誰を守るつもりですか」
若い騎士は答えられなかった。
やがて、槍の穂先を下へ向ける。
「団長命令は、まだ出ていないぞ!」
隣の騎士が声を荒らげた。
「命令が出るまで、この方たちを濡れたまま待たせるのですか」
オスカーは自分の白い外套を外し、目の前の女性へ掛けた。
もう一人が槍を下ろす。
さらに一人。
武器を持つ手が、人を支える手へ変わっていく。
「毛布を持ってこい!」
「荷車をこちらへ!」
誰からともなく声が上がり、騎士たちが動き始めた。
修司は命令を重ねる。
「歩ける方を一か所へ集めないでください。寝台と椅子の方を先に風から守る。エヴァ先生の確認を受けるまで、飲み物を一度に飲ませないでください」
「聞こえたな!」
オスカーが仲間へ伝える。
指示が、騎士団の中へ広がっていく。
カシウスだけが、動かなかった。
◇
「見事だ」
カシウスが言った。
「言葉だけで、私の部下を動かした」
「俺が動かしたのではありません。皆さんが、自分の仕事を思い出しただけです」
「それを傲慢と呼ぶ者もいる」
「構いません」
修司は答えた。
「遠慮して人が死ぬよりはいい」
クラウディアが、隣で小さく息を呑んだ。
以前の修司なら、そんな言葉を口にしなかった。
カシウスは大盾の石突きを地面へ下ろした。
重い音が響く。
盾を中心に、白い円が石畳へ広がった。
「《固定領域》」
修司の身体へ、突然、何倍もの重さが掛かった。
膝が折れかける。
濡れた靴底が、石畳へ沈み込むようだった。
白い円は修司と仲間たちだけを囲み、患者には触れていない。
「秩序は、正しさを叫ぶ者すべてへ道を譲るわけにはいかない」
カシウスの声が、上から落ちてくる。
「災害の中で、盾は守る者を選ぶ。すべてを救おうと迷えば、より多くが死ぬ」
「助ける順番を決めることと、人間を捨てることは違います」
「国を守るには、必要な犠牲もある」
「その犠牲に、自分は入っていますか」
カシウスの目がわずかに動いた。
「百七十人を地下へ送った人間は、誰も寝台へ縛られていなかった」
修司の脚が震える。
身体はもう限界に近い。
それでも、膝はつかなかった。
「テアさん」
「はい!」
「脚力はいりません。呼吸と平衡だけ、最低限に支えてください」
「できます。ですが、長くは――」
「三呼吸で十分です」
琥珀色の光が、修司の胸と足元を包む。
一呼吸。
修司は顎を引き、足の裏へ体重を均等に戻した。
二呼吸。
《生活動作把握――自己適用》。
強い力で押し返さない。
重さを骨と地面へ通し、倒れない位置へ身体を置く。
三呼吸。
修司は、白い領域の中で一歩を踏み出した。
騎士たちがどよめく。
さらに一歩。
五十二歳の身体が、王国最強の盾へ近づいていく。
「あなたの盾が本当に国を守るものなら」
修司はカシウスの正面で止まった。
「俺たちの前ではなく、あの人たちと寒さの間に立ってください」
沈黙が落ちた。
カシウスは修司を見下ろしている。
やがて、大盾がわずかに傾いた。
白い円が消える。
身体の重さが戻り、修司は大きく息を吐いた。
「全隊へ命じる」
カシウスが振り返った。
「槍を収めよ。生存者の救護を最優先とする」
騎士団が一斉に動く。
「患者は王立治癒院へ搬送する。拘束具は使用しない。氏名と本人の意思を記録せよ」
修司が示した条件を、カシウス自身の命令として出している。
「証拠は監察局が封印します」
ヴェラが前へ出た。
「救恤局は、この事件の被疑組織です。関係者へ引き渡すことはできません」
「認めよう」
カシウスはうなずき、再び修司を見た。
「ただし、タカセ・シュウジ。最後の一人を治癒院へ届けたあと、あなたには同行してもらう」
「逃げません」
修司は答えた。
「ですが、尋ねられたことだけ話して黙るつもりもありません。地下で見たことを、俺から王家へ伝えます」
「許可されると思うか」
「許可を得ます。俺一人で無理なら、ここにいる全員の証言を集めます」
カシウスは、初めてわずかに笑った。
「あなたは、ずいぶん変わったな」
「この世界で、黙っていたために失われた人を見すぎました」
◇
車輪の音が近づいてきた。
水路区の白い石畳へ、黒塗りの馬車が入ってくる。
騎士たちが道を開けた。
扉から降りたのは、灰色の礼服を着た男だった。
五十を越えた年齢。丁寧に整えられた銀混じりの髪。騒然とする現場へ似つかわしくない、穏やかな笑み。
王国救恤局長、ゲルハルト・ヴァルナー。
「これは、実に感動的な光景です」
男は、救護を始めた騎士たちと百七十人を見渡した。
「タカセ殿。地下施設からこれほど多くの命を救い出した。まずは、王国を代表して感謝を」
「あなたは、あの施設を知っていたんですか」
修司は礼を返さなかった。
ゲルハルトの笑みが、ほんの少し深くなる。
「随分と率直になられた」
「質問に答えてください」
「それは、正式な場でお話ししましょう」
ゲルハルトは懐から、白い封書を取り出した。
赤い蝋には、王国の紋章が押されている。
「非常時における救恤局の全権を認める王命です。患者、記録、関係者はすべて、私の管理下へ置かれます」
ヴェラの顔色が変わった。
「その命令は、いつ発行されたものです」
「昨夜です」
地下施設への潜入が始まるより前。
まだ百七十人が発見されてもいない時刻だった。
「初めから、この事態を想定していたんですね」
修司が言う。
「証拠のない推測です」
「証拠なら、百七十人います」
ゲルハルトの目から、笑みが消えた。
「タカセ殿。あなたは有能だ」
声だけは、変わらず穏やかだった。
「私のもとへ来なさい。《生活支援士》の力と、救恤局の資金、組織、権限があれば、百七十人ではなく、王国すべてを救える」
「救うためなら、地下へ人を縛ってもいいと?」
「大きな国を支えるには、見えない場所で重さを負う者が必要なのです」
「それを決めるのは、上に立っている人間だけですか」
「あなたも、こちら側へ来れば分かる」
ゲルハルトが右手を差し出す。
「従うなら、今夜の行為はすべて不問にしましょう。仲間も、患者たちも保護する。あなたが望む生活支援の部門も、王立治癒院へ作らせます」
修司が望んでいたものだった。
生活を支える仕組み。
治癒のあとまで人を見る部門。
それを、王国全体へ広げられる権限。
以前の修司なら、自分一人で判断してよいのか迷ったかもしれない。
今は違う。
「断ります」
修司は即答した。
「なぜです。あなたの理想を実現できる」
「人を踏み台にしなければ作れない支援なら、最初から間違っています」
「では、組織も権限も持たない介護士一人に、何ができると?」
ゲルハルトの背後で、黒い馬車から武装した局員たちが降り始める。
救恤騎士団と救恤局。
二つの武装集団の間で、百七十人が息を潜めていた。
修司は振り返らなかった。
もう、自分の後ろに誰がいるのか分かっていた。
クラウディア。
エヴァ。テア。ヴェラ。
そして、名前を取り戻した百七十人。
「あなたは、国を支えるために人を沈めた」
修司はゲルハルトの差し出した手を見た。
「その王国が、人を踏み台にしなければ立てないのなら――」
顔を上げ、黒幕の目を正面から見返す。
「俺が、立たせ直します」




