第五十話 水没まで十五分
『全水門を開放』
壁の声と同時に、地下施療院の四方から水が噴き出した。
初めは靴底を濡らす程度だった。
それが数十秒もたたないうちに足首を越え、床へ落ちていた紙や革帯を押し流していく。
『施設沈降まで、九百数』
「十五分です」
ヴェラが言った。
「それまでに、この階は完全に水没します」
寝台は百七十。
出口は、イレーネが逃げた上部通路と、クラウディアたちが入ってきた狭い地下水路だけ。
水路側には段差があり、流れも強い。寝台を運ぶことはできない。
「上を使います」
修司は、壁際の階段を指した。
「歩ける方は階段へ。歩けない方は、奥にあった搬送台を使います」
施設へ患者を運び込んでいた以上、寝台を動かす仕組みがあるはずだった。
修司が先ほど描いた図には、上部通路の横へ太い二本の線がある。
ヴェラが奥の扉を魔導糸で開けると、寝台を六台載せられる大きな昇降台が現れた。天井の滑車と鉄鎖で上下させる、荷揚げ用の装置だった。
「動かせます!」
テアが巻き上げ機を確かめる。
「ただし、一度に六台。上げ下げにも時間が掛かります」
百七十人を順番に載せているだけでは間に合わない。
修司は、濡れかけた大きな紙を机の上へ広げた。
「エヴァ先生。治療上、先に動かす方を決めてください。俺は移動の方法を分けます」
「分かりました。意識、呼吸、脈を治療師たちに確認させます」
エヴァが白い上着の術師たちへ指示を出す。
修司は寝台を回った。
「一人で歩ける方。支えがあれば歩ける方は、手を上げるか声を出してください」
次に、身体を起こした状態を保てるか。
立つことは難しくても、椅子へ移れば座っていられるか。
寝たままでなければ危険な状態か。
病気を診断するのではない。
今、その人がどの動作をできて、どこに支えが必要かを確かめていく。
修司は番号札を裏返し、木炭で大きな印を描いた。
靴の印。
椅子の印。
寝台の印。
文字を読めなくても、遠くから見分けられる。
「靴の方は七十人。階段から上がります。自分で歩ける方を先頭と最後尾へ。支えが必要な方を間に挟んでください」
「歩ける者を先に逃がすのですか」
施設の術師が尋ねた。
「自分で動ける人を、ここへ留めておく理由はありません。すぐ出てもらいます。その間に、俺たちは歩けない方の搬送を始めます」
椅子の印は五十八人。
寝台の印は四十二人。
「最初の昇降台には、寝台の方を六人。次に椅子の方を十二人ずつ。上へ着いたら、寝台を降ろしてすぐ台を戻してください」
「寝台を十二台ずつではないのですか」
「身体だけを運びません。受け入れる場所と、介助する人も一緒に上げます」
上へ着いても、寝台から降ろせず通路を塞げば、その次が動けない。
「クラウディアさんは上部通路の安全確認。テアさんは巻き上げ機を。ヴェラさんは人数を数えてください。名前でお願いします」
「あなたは」
クラウディアが尋ねる。
「寝台から搬送台への移動を見ます」
「その身体で百人を動かすつもりですか」
「俺が動かすのではありません。動かし方を伝えます」
修司は施設の術師と、歩ける患者たちを見た。
「力を貸してください。一人で持ち上げない。脇だけを抱えて引っ張らない。敷布ごと、合図に合わせて動かします」
歩いて逃げられる者の中から、十数人が残った。
「俺たちも運ぶ」
左腕のない男が言った。
「片腕でも、布なら引ける」
別の女が、灯りを持ち上げた。
「私は名前を呼べます。次に運ぶ人を教えて」
修司はうなずいた。
「お願いします。ただし、無理はしないでください」
救われる側と、救う側。
その境目が消えていく。
「第一便、上げます!」
テアの声とともに、昇降台が動き始めた。
水は、修司の脛まで達していた。
◇
四便目が上がったとき、地下施設に金属の砕ける音が響いた。
昇降台が激しく揺れ、途中で止まる。
「何が起きました!」
「巻き上げ機が動きません!」
テアが鉄鎖を引く。
鎖は張ったまま、びくともしない。
上部通路の奥から、太い笑い声が聞こえた。
「ずいぶん楽しそうなことしてるじゃねえか、介護士」
濡れた大男が、階段を下りてくる。
ダリオ・グランツ。
額から血を流し、左肩を壁へぶつけながらも、その両腕には赤黒い術式が浮かんでいる。
男の手には、巻き上げ機から引き抜いた太い制動杭があった。
「ダリオ!」
クラウディアが上部通路から剣を抜く。
だが、止まった昇降台が二人の間を塞いでいる。その上には、椅子へ座った十二人の患者がいた。
「動くなよ」
ダリオが制動杭を鉄鎖へ当てた。
「そこの女が飛び込んできたら、こいつを折る。台ごと落ちるぞ」
テアが術を構えかけ、止まった。
「タカセ殿!」
「患者さんをお願いします!」
修司は階段の下へ向かった。
「タカセさん、駄目です!」
エヴァの声が追ってくる。
「戦うためではありません。昇降台を動かすためです」
「同じことです!」
水は、すでに膝まで来ていた。
寝台の印がついた人は、まだ二十四人残っている。
ここで搬送台を失えば、全員を逃がせない。
修司は階段を上がった。
ダリオが口元を歪める。
「今度は魔法使いも、患者どもの手も届かねえ」
「何が望みですか」
「お前の顔が、恐怖で歪むところが見たい」
金でも命令でもない。
純粋な悪意だった。
修司は息を吐いた。
「それなら、十五分前から見せていますよ」
「何?」
「怖くないわけがないでしょう」
下では、水に追われながら人々が寝台を動かしている。
自分が倒れれば、搬送が止まる。
右腕は痛み、頭の奥には《個別支援》を使った熱が残っている。
それでも、怖いことと動けないことは同じではなかった。
「怖くても、やることがあるんです」
ダリオの笑みが消えた。
「なら、ここで終われ!」
制動杭が横薙ぎに振られた。
狭い階段。
右には壁。左には昇降路。
大きく避ける場所はない。
修司は杭の先ではなく、ダリオの肩を見た。
肩が先に動き、腰が遅れている。
強化された腕力へ、傷ついた身体がついていけていない。
修司は一段下がり、杭が来る直前に身体を内側へ入れた。
風が頬を打つ。
左手でダリオの肘へ触れ、そのまま階段の下へ流す。
杭が石壁へ叩きつけられ、火花が散った。
「小細工を!」
ダリオが肘を引き、修司の胸へ頭からぶつかってくる。
避け切れない。
修司は肩から壁へ押しつけられた。
肺の空気が抜け、視界が黒くなる。
太い手が喉元をつかんだ。
「今度は、流せねえだろ」
足が一段ずつ、昇降路の縁へ押される。
背後は、暗い縦穴だ。
そのとき、上から琥珀色の光が降りてきた。
「タカセさん、三呼吸です!」
昇降台の隙間から、テアが右手を伸ばしている。
「《瞬間賦活》――脚力、平衡!」
一呼吸。
修司の踵が、石段を捉えた。
喉をつかむ腕へ逆らわず、ダリオの脇へ半歩入る。
二呼吸。
右腕は使わない。
左手を相手の手首へ添え、腰を回す。
ダリオの巨体が、修司を押していた方向へさらに進む。
三呼吸。
修司は男を投げなかった。
制動杭を持つ右腕の向きだけを、階段脇の巻き上げ機へ変えた。
「その力を、借ります」
ダリオの拳と制動杭が、巻き上げ機の非常留めへ突き刺さった。
金属が割れる。
詰まっていた歯車が弾け、鉄鎖が動き始めた。
昇降台が上へ進む。
「てめえ……また俺を使いやがったな!」
ダリオが振り返る。
だが、その足元へヴェラの魔導糸が巻きついた。
「王国監察局です。今度こそ拘束します」
「邪魔だ!」
ダリオが糸を力任せに引く。
ヴェラの身体が階段側へ引かれた。
その瞬間、ダリオの背後で石壁が崩れた。
先ほど制動杭を叩きつけた亀裂から、水が噴き出す。
ダリオは濁流へ足を踏ん張り、巻きついた魔導糸を赤黒い腕で引きちぎった。
「次は、こんなもんじゃ済まさねえぞ!」
制動杭で壁際の点検扉をこじ開け、狭い通路へ身を滑り込ませる。
ヴェラの新しい糸が届く直前、鉄扉が閉じた。
追う余裕はない。
「搬送を再開します!」
修司は下へ叫んだ。
◇
水位は、腰まで上がっていた。
寝台を持ち上げるたび、水の抵抗が増す。
足元は見えず、流れてきた椅子や木片が脚へぶつかる。
「走らないでください! 転んだら立てません!」
修司が声を張る。
「次、寝台の印! 敷布を四人で持ちます。頭側は水平に!」
クラウディアが上で寝台を降ろす。
テアが巻き上げ機を動かす。
ヴェラが名前を読み上げる。
エヴァと治療師たちが、呼吸と意識を確認する。
患者たちは灯りを持ち、名前を呼び、動かせる手で敷布を引いた。
誰か一人の力ではなかった。
「百五十二!」
水が胸へ届く。
「百六十一!」
机が浮き、壁へぶつかる。
「百六十八!」
残っているのは、フィーデルとマルタだった。
「タカセさんが先に」
マルタが震える声で言う。
「最後に人数を確認する人が必要です」
「また、そんなことを」
「大丈夫とは言いません。急ぎます」
フィーデルが、昇降台の手すりを三回叩いた。
早く乗れ、と言っているらしい。
修司は笑い、二人と一緒に最後の台へ乗った。
「百六十九、マルタ・ケーニヒ!」
「百七十、フィーデル・ロス!」
ヴェラの声が上から響く。
「そして、タカセ・シュウジ。全員です!」
昇降台が水面を離れた。
直後、地下施療院の天井が崩れた。
灰色の魔石も、七列の寝台も、濁った水の下へ消えていく。
昇降台が上部通路へ着く。
クラウディアが修司の腕をつかみ、台から引き上げた。
「今度こそ、最後まで一人で残らないでください」
「二人と一緒でした」
「そういう意味ではありません」
叱る声が震えていた。
「……すみません」
「あとで、きちんと聞きます」
修司たちは、上部通路の坂を進んだ。
百七十人の列が、白み始めた空の下へ出る。
夜明けの冷たい風が、濡れた身体を吹き抜けた。
助かった。
そう思った瞬間、前方で無数の松明が灯った。
白い盾を掲げた騎士たちが、出口を半円に取り囲んでいる。
その中央に、一人の男が立っていた。
白銀の鎧。
人の背丈ほどもある大盾。
王国救恤騎士団長、カシウス・ローゼン。
「生存者百七十名の救出、ご苦労だった」
カシウスの声が、夜明けの水路区へ響く。
「以後、患者と証拠は救恤騎士団が引き受ける」
騎士たちが槍を構えた。
「異世界人タカセ・シュウジ。王都大治癒陣を破壊した罪により、あなたを拘束する」




