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国を立たせる介護士 ~52歳で異世界召喚された外れ職《生活支援士》、寝たきりの老将から滅びかけた王国まで再建する~  作者: 狼賀亮一郎
第二部 白き王都と傷なき聖女編

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第五十話 水没まで十五分

『全水門を開放』

 壁の声と同時に、地下施療院の四方から水が噴き出した。

 初めは靴底を濡らす程度だった。

 それが数十秒もたたないうちに足首を越え、床へ落ちていた紙や革帯を押し流していく。

『施設沈降まで、九百数』

「十五分です」

 ヴェラが言った。

「それまでに、この階は完全に水没します」

 寝台は百七十。

 出口は、イレーネが逃げた上部通路と、クラウディアたちが入ってきた狭い地下水路だけ。

 水路側には段差があり、流れも強い。寝台を運ぶことはできない。

「上を使います」

 修司は、壁際の階段を指した。

「歩ける方は階段へ。歩けない方は、奥にあった搬送台を使います」

 施設へ患者を運び込んでいた以上、寝台を動かす仕組みがあるはずだった。

 修司が先ほど描いた図には、上部通路の横へ太い二本の線がある。

 ヴェラが奥の扉を魔導糸で開けると、寝台を六台載せられる大きな昇降台が現れた。天井の滑車と鉄鎖で上下させる、荷揚げ用の装置だった。

「動かせます!」

 テアが巻き上げ機を確かめる。

「ただし、一度に六台。上げ下げにも時間が掛かります」

 百七十人を順番に載せているだけでは間に合わない。

 修司は、濡れかけた大きな紙を机の上へ広げた。

「エヴァ先生。治療上、先に動かす方を決めてください。俺は移動の方法を分けます」

「分かりました。意識、呼吸、脈を治療師たちに確認させます」

 エヴァが白い上着の術師たちへ指示を出す。

 修司は寝台を回った。

「一人で歩ける方。支えがあれば歩ける方は、手を上げるか声を出してください」

 次に、身体を起こした状態を保てるか。

 立つことは難しくても、椅子へ移れば座っていられるか。

 寝たままでなければ危険な状態か。

 病気を診断するのではない。

 今、その人がどの動作をできて、どこに支えが必要かを確かめていく。

 修司は番号札を裏返し、木炭で大きな印を描いた。

 靴の印。

 椅子の印。

 寝台の印。

 文字を読めなくても、遠くから見分けられる。

「靴の方は七十人。階段から上がります。自分で歩ける方を先頭と最後尾へ。支えが必要な方を間に挟んでください」

「歩ける者を先に逃がすのですか」

 施設の術師が尋ねた。

「自分で動ける人を、ここへ留めておく理由はありません。すぐ出てもらいます。その間に、俺たちは歩けない方の搬送を始めます」

 椅子の印は五十八人。

 寝台の印は四十二人。

「最初の昇降台には、寝台の方を六人。次に椅子の方を十二人ずつ。上へ着いたら、寝台を降ろしてすぐ台を戻してください」

「寝台を十二台ずつではないのですか」

「身体だけを運びません。受け入れる場所と、介助する人も一緒に上げます」

 上へ着いても、寝台から降ろせず通路を塞げば、その次が動けない。

「クラウディアさんは上部通路の安全確認。テアさんは巻き上げ機を。ヴェラさんは人数を数えてください。名前でお願いします」

「あなたは」

 クラウディアが尋ねる。

「寝台から搬送台への移動を見ます」

「その身体で百人を動かすつもりですか」

「俺が動かすのではありません。動かし方を伝えます」

 修司は施設の術師と、歩ける患者たちを見た。

「力を貸してください。一人で持ち上げない。脇だけを抱えて引っ張らない。敷布ごと、合図に合わせて動かします」

 歩いて逃げられる者の中から、十数人が残った。

「俺たちも運ぶ」

 左腕のない男が言った。

「片腕でも、布なら引ける」

 別の女が、灯りを持ち上げた。

「私は名前を呼べます。次に運ぶ人を教えて」

 修司はうなずいた。

「お願いします。ただし、無理はしないでください」

 救われる側と、救う側。

 その境目が消えていく。

「第一便、上げます!」

 テアの声とともに、昇降台が動き始めた。

 水は、修司の脛まで達していた。

     ◇

 四便目が上がったとき、地下施設に金属の砕ける音が響いた。

 昇降台が激しく揺れ、途中で止まる。

「何が起きました!」

「巻き上げ機が動きません!」

 テアが鉄鎖を引く。

 鎖は張ったまま、びくともしない。

 上部通路の奥から、太い笑い声が聞こえた。

「ずいぶん楽しそうなことしてるじゃねえか、介護士」

 濡れた大男が、階段を下りてくる。

 ダリオ・グランツ。

 額から血を流し、左肩を壁へぶつけながらも、その両腕には赤黒い術式が浮かんでいる。

 男の手には、巻き上げ機から引き抜いた太い制動杭があった。

「ダリオ!」

 クラウディアが上部通路から剣を抜く。

 だが、止まった昇降台が二人の間を塞いでいる。その上には、椅子へ座った十二人の患者がいた。

「動くなよ」

 ダリオが制動杭を鉄鎖へ当てた。

「そこの女が飛び込んできたら、こいつを折る。台ごと落ちるぞ」

 テアが術を構えかけ、止まった。

「タカセ殿!」

「患者さんをお願いします!」

 修司は階段の下へ向かった。

「タカセさん、駄目です!」

 エヴァの声が追ってくる。

「戦うためではありません。昇降台を動かすためです」

「同じことです!」

 水は、すでに膝まで来ていた。

 寝台の印がついた人は、まだ二十四人残っている。

 ここで搬送台を失えば、全員を逃がせない。

 修司は階段を上がった。

 ダリオが口元を歪める。

「今度は魔法使いも、患者どもの手も届かねえ」

「何が望みですか」

「お前の顔が、恐怖で歪むところが見たい」

 金でも命令でもない。

 純粋な悪意だった。

 修司は息を吐いた。

「それなら、十五分前から見せていますよ」

「何?」

「怖くないわけがないでしょう」

 下では、水に追われながら人々が寝台を動かしている。

 自分が倒れれば、搬送が止まる。

 右腕は痛み、頭の奥には《個別支援》を使った熱が残っている。

 それでも、怖いことと動けないことは同じではなかった。

「怖くても、やることがあるんです」

 ダリオの笑みが消えた。

「なら、ここで終われ!」

 制動杭が横薙ぎに振られた。

 狭い階段。

 右には壁。左には昇降路。

 大きく避ける場所はない。

 修司は杭の先ではなく、ダリオの肩を見た。

 肩が先に動き、腰が遅れている。

 強化された腕力へ、傷ついた身体がついていけていない。

 修司は一段下がり、杭が来る直前に身体を内側へ入れた。

 風が頬を打つ。

 左手でダリオの肘へ触れ、そのまま階段の下へ流す。

 杭が石壁へ叩きつけられ、火花が散った。

「小細工を!」

 ダリオが肘を引き、修司の胸へ頭からぶつかってくる。

 避け切れない。

 修司は肩から壁へ押しつけられた。

 肺の空気が抜け、視界が黒くなる。

 太い手が喉元をつかんだ。

「今度は、流せねえだろ」

 足が一段ずつ、昇降路の縁へ押される。

 背後は、暗い縦穴だ。

 そのとき、上から琥珀色の光が降りてきた。

「タカセさん、三呼吸です!」

 昇降台の隙間から、テアが右手を伸ばしている。

「《瞬間賦活》――脚力、平衡!」

 一呼吸。

 修司の踵が、石段を捉えた。

 喉をつかむ腕へ逆らわず、ダリオの脇へ半歩入る。

 二呼吸。

 右腕は使わない。

 左手を相手の手首へ添え、腰を回す。

 ダリオの巨体が、修司を押していた方向へさらに進む。

 三呼吸。

 修司は男を投げなかった。

 制動杭を持つ右腕の向きだけを、階段脇の巻き上げ機へ変えた。

「その力を、借ります」

 ダリオの拳と制動杭が、巻き上げ機の非常留めへ突き刺さった。

 金属が割れる。

 詰まっていた歯車が弾け、鉄鎖が動き始めた。

 昇降台が上へ進む。

「てめえ……また俺を使いやがったな!」

 ダリオが振り返る。

 だが、その足元へヴェラの魔導糸が巻きついた。

「王国監察局です。今度こそ拘束します」

「邪魔だ!」

 ダリオが糸を力任せに引く。

 ヴェラの身体が階段側へ引かれた。

 その瞬間、ダリオの背後で石壁が崩れた。

 先ほど制動杭を叩きつけた亀裂から、水が噴き出す。

 ダリオは濁流へ足を踏ん張り、巻きついた魔導糸を赤黒い腕で引きちぎった。

「次は、こんなもんじゃ済まさねえぞ!」

 制動杭で壁際の点検扉をこじ開け、狭い通路へ身を滑り込ませる。

 ヴェラの新しい糸が届く直前、鉄扉が閉じた。

 追う余裕はない。

「搬送を再開します!」

 修司は下へ叫んだ。

     ◇

 水位は、腰まで上がっていた。

 寝台を持ち上げるたび、水の抵抗が増す。

 足元は見えず、流れてきた椅子や木片が脚へぶつかる。

「走らないでください! 転んだら立てません!」

 修司が声を張る。

「次、寝台の印! 敷布を四人で持ちます。頭側は水平に!」

 クラウディアが上で寝台を降ろす。

 テアが巻き上げ機を動かす。

 ヴェラが名前を読み上げる。

 エヴァと治療師たちが、呼吸と意識を確認する。

 患者たちは灯りを持ち、名前を呼び、動かせる手で敷布を引いた。

 誰か一人の力ではなかった。

「百五十二!」

 水が胸へ届く。

「百六十一!」

 机が浮き、壁へぶつかる。

「百六十八!」

 残っているのは、フィーデルとマルタだった。

「タカセさんが先に」

 マルタが震える声で言う。

「最後に人数を確認する人が必要です」

「また、そんなことを」

「大丈夫とは言いません。急ぎます」

 フィーデルが、昇降台の手すりを三回叩いた。

 早く乗れ、と言っているらしい。

 修司は笑い、二人と一緒に最後の台へ乗った。

「百六十九、マルタ・ケーニヒ!」

「百七十、フィーデル・ロス!」

 ヴェラの声が上から響く。

「そして、タカセ・シュウジ。全員です!」

 昇降台が水面を離れた。

 直後、地下施療院の天井が崩れた。

 灰色の魔石も、七列の寝台も、濁った水の下へ消えていく。

 昇降台が上部通路へ着く。

 クラウディアが修司の腕をつかみ、台から引き上げた。

「今度こそ、最後まで一人で残らないでください」

「二人と一緒でした」

「そういう意味ではありません」

 叱る声が震えていた。

「……すみません」

「あとで、きちんと聞きます」

 修司たちは、上部通路の坂を進んだ。

 百七十人の列が、白み始めた空の下へ出る。

 夜明けの冷たい風が、濡れた身体を吹き抜けた。

 助かった。

 そう思った瞬間、前方で無数の松明が灯った。

 白い盾を掲げた騎士たちが、出口を半円に取り囲んでいる。

 その中央に、一人の男が立っていた。

 白銀の鎧。

 人の背丈ほどもある大盾。

 王国救恤騎士団長、カシウス・ローゼン。

「生存者百七十名の救出、ご苦労だった」

 カシウスの声が、夜明けの水路区へ響く。

「以後、患者と証拠は救恤騎士団が引き受ける」

 騎士たちが槍を構えた。

「異世界人タカセ・シュウジ。王都大治癒陣を破壊した罪により、あなたを拘束する」

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