第四十九話 百七十人は一人ではない
痛い。
寒い。
喉が渇いた。
右脚が動かない。
背中が焼けるように熱い。
暗い。怖い。帰りたい。
声にならない百七十人分の訴えが、一斉に修司の中へ流れ込んできた。
「う、あ……!」
自分の口から漏れた声なのか、それさえ分からない。
白い帯が両脚と左腕を縛り、修司を中央の魔法陣へ立たせている。
百七十本の光が身体へつながり、呼吸するたびに誰かの痛みが胸の奥を通り抜けた。
『王都大治癒陣、第一段階』
壁の奥から、男の声が響く。
『出力二割。生命同調を開始』
中央の円筒が回転を始めた。
患者たちの身体から、紫色の光が吸い上げられる。
白い管を通り、王都の上へ運ばれていく。
「停止しなさい!」
イレーネが制御盤へ術杖を向ける。
「《風圧槌》!」
見えない衝撃が透明な壁へぶつかり、地下施療院の空気を震わせた。
防壁には、ひび一つ入らない。
「中央制御から切り離されています!」
記録係が叫ぶ。
「第二段階まで、あとどれだけ」
「百八十数です!」
三分。
たった三分で、出力がさらに上がる。
修司は歯を食いしばった。
誰かの鼓動が速い。
誰かの呼吸が止まりかけている。
誰かが母親を呼んでいる。
一つへ意識を向ければ、残りの百六十九が押し寄せる。
夜勤中、複数の居室から同時に呼ばれたことは何度もあった。
転倒しそうな人。トイレへ行きたい人。眠れず不安になった人。
すべて大切でも、身体は一つしかない。
だから、急ぐべき人を見極め、同僚へ頼み、順番に一人ずつ応えてきた。
百七十人を一度に背負うことなど、介護ではない。
修司は目を閉じた。
頭の中へ、先ほど描いた大きな紙を思い浮かべる。
七列の寝台。
四角の中に書いた名前。
身体の向きを示す矢印。杯。匙。耳の印。
重なっていた痛みが、紙面の上へ一つずつ配置されていく。
一列目、ハンス・ベッカー。
右脚は動きにくい。だが、左手は握れる。
一列八番、ソフィア・ベル。
聞こえるのは左側。呼び掛ければ応じられる。
二列三番、エルザ・ノイマン。
姿勢を変えれば、自分で深く息を吐ける。
マルタ。フィーデル。ルーカス。
番号ではない。
痛みの束でもない。
一人一人に名前があり、できることがあり、助けを必要とする場所が違う。
「違う……」
修司は呟いた。
「俺の力は、全員を同じにするものじゃない」
白い帯が強く光った。
乱れ始めた修司の意識を、再び一つへ押し固めようとする。
「同じ時間に起こして、同じ物を食べてもらって、同じ速さで歩かせることが支援じゃない」
頭の奥で、何かが割れた。
《生活動作把握》から伸びていた百七十本の線が、色を変える。
太い一束ではなく、細さも明るさも異なる一本ずつの光へ。
新しい言葉が、修司の意識へ浮かんだ。
《個別支援》。
「ハンスさん!」
声に出したのは、一人の名前だけだった。
離れた寝台で、ハンスの左手が動く。
「握れますか!」
指が、ゆっくりと拳を作った。
「そのまま、自分の速さで呼吸してください。周りに合わせなくていい!」
ハンスの呼吸が、魔法陣の刻む一定の間から外れる。
一本の光が紫から青へ変わった。
「ソフィアさん、聞こえますか!」
左耳へ届くよう意識して呼び掛ける。
「俺ではなく、隣にいる人の声を聞いてください!」
ソフィアが顔を動かした。
二本目の光が青へ変わる。
「エルザさん。苦しくない向きでいい。皆と同じ方向を向かなくていいんです!」
三本目。
一本、また一本。
百七十人が、同じ呼吸から外れていく。
中央の円筒が不規則に揺れ始めた。
「同調率、低下!」
記録係が叫ぶ。
「六割、五割――まだ下がります!」
「タカセ、何をしているのです!」
イレーネが修司を見る。
「一人ずつに、戻しています」
「急激に同調を崩せば、灰冠の魔石が耐えられない!」
「なら、先に人から外してください!」
「接続を外せば逆流すると言ったはずです!」
「それを止めるのが、あなたたち術師の仕事でしょう!」
地下施設の壁が鳴った。
灰色の魔石の一つに、細い亀裂が入る。
止めなければ、人が力を吸い尽くされる。
急に壊せば、魔石が爆発する。
修司は百七十人を一人ずつに分けながら、壊れないぎりぎりの速さを探した。
額から汗が流れる。
鼻血が唇へ落ちた。
『第二段階まで、百二十数』
残り、二分。
◇
「もう一度です!」
地下水路の鉄扉へ、クラウディアの剣が食い込んだ。
扉の向こうでは、魔力の唸りが急速に大きくなっている。
「テア!」
「強化箇所は、脚と腰! 三呼吸だけです!」
琥珀色の光がクラウディアの下半身を包む。
一呼吸目。
クラウディアが足を踏み込み、剣を横へねじる。
二呼吸目。
ヴェラの魔導糸が、扉の蝶番を内側から締め上げる。
三呼吸目。
「開けます!」
剣と糸が同時に動いた。
蝶番が弾け、厚い鉄扉が水路側へ倒れる。
「タカセ殿!」
クラウディアが真っ先に通路へ飛び込んだ。
「待ちなさい!」
ヴェラが叫ぶ。
倒れた扉の先へ、三本の赤い線が浮かび上がった。
《残火印》。
一本目が床。
二本目が胸の高さ。
三本目が、その間を斜めに塞いでいる。
「触れれば燃えます」
エヴァが熱へ顔をしかめた。
「消せないのですか」
「術者とのつながりを切れば消えます。ただし、今この瞬間、術者は別の何かへ意識を取られている」
ヴェラの糸が、三本の炎の間を探る。
「三本を同時に乱せば、一呼吸だけ隙ができる」
「十分です」
クラウディアが答えた。
「私には十分ではありません」
エヴァが治療鞄を抱え直す。
「この先に患者がいるなら、私も行きます」
「なら、全員で行きます」
テアが両手を構えた。
ヴェラの三本の糸が、それぞれの炎へ絡みつく。
「今です!」
炎が揺らいだ。
クラウディア、エヴァ、テアが駆け抜ける。
最後にヴェラが通過した直後、三本の火線が背後で燃え上がり、赤い火の粉となって消えた。
「前だけ見なさい」
ヴェラは振り返らなかった。
◇
『第二段階まで、六十数』
残り、一分。
修司の視界は、半分以上が白く霞んでいた。
それでも、光の線は見える。
百七十本。
一人も消えていない。
「現在の同調率、三割二分!」
記録係が報告する。
「これ以上下がれば、中央円筒が崩壊します!」
イレーネは円筒と修司を交互に見た。
「分岐管を切ります」
「ファルク隊長! 中央命令への反逆です!」
「ここで全員死ねば、実験記録も残りません」
冷静な声だった。
だが、術杖を握る手には力が入っている。
「切れるのは三本だけです。それ以上は《残火印》を維持できない」
イレーネは修司へ向き直った。
「どれを切れば、逆流を抑えられますか」
敵が、修司へ判断を求めている。
修司は頭の中の図を見た。
七列の寝台から中央円筒へ集まる管。
ただ三本を選んでも、残り四列へ負担が集中する。
切るべきなのは列ではない。
「円筒の根元。白い管を囲む、三つの留め具です」
「あれを切れば、王都への出力が止まります」
「だから切るんです!」
『第二段階まで、三十数』
イレーネが術杖を構えた。
三つの赤い印が、円筒の根元へ現れる。
その瞬間、施設の横扉が吹き飛んだ。
「タカセ殿!」
クラウディアの声が響く。
白い帯に拘束された修司を見て、彼女の表情が変わった。
剣を抜き、イレーネへ走る。
「待ってください!」
修司が叫んだ。
クラウディアの刃が、イレーネの術杖の寸前で止まった。
「彼女の火術が必要です!」
「この女が修司殿を――」
「俺ではなく、百七十人を見てください!」
クラウディアが周囲を見る。
七列の寝台。光る管。苦しむ人々。
怒りを飲み込み、剣を下ろした。
「何をすればいいですか」
「円筒の左にある黒い取っ手を、俺の合図で下げてください!」
ヴェラが魔導糸を放ち、右側の取っ手へ絡める。
「こちらは私が」
エヴァは患者たちのもとへ走った。
「施設の治療師は全員、私に状態を報告! 管には触れないで!」
テアだけが修司を見上げていた。
「タカセさん、今のあなたを強化すれば身体が持ちません」
「分かっています」
「ですから、加わる衝撃だけを減らします。三呼吸です」
琥珀色の光が、修司の頭と胸を薄く包む。
「《衝撃緩和》!」
『十』
壁の声が数え始めた。
イレーネの三つの《残火印》。
クラウディアの剣。
ヴェラの糸。
テアの光。
エヴァと治療師たちの声。
そして、百七十人の異なる呼吸。
修司の視界に、すべての動きが線となって重なった。
『九』
「まだです!」
『八』
三つの火線が、白い管の留め具へ近づく。
『七』
クラウディアが黒い取っ手へ手を掛ける。
『六』
ヴェラの糸が張る。
『五』
中央円筒の亀裂が広がった。
『四』
百七十本の光が、激しく明滅する。
『三』
修司は息を吸った。
『二』
「今です!」
三本の火線が、留め具を同時に焼き切った。
クラウディアとヴェラが、左右の取っ手を引く。
白い管が円筒から外れ、天井へ伸びていた光が途切れた。
『一――』
クラウディアの剣が、中央の固定具を断ち切る。
円筒の回転が止まった。
百七十本の紫色の光が消える。
修司を縛っていた白い帯が砕けた。
膝から力が抜ける。
「タカセ殿!」
床へ倒れる前に、クラウディアの腕が修司を抱き止めた。
「間に……合いましたか」
「全員、生きています!」
エヴァの声が返る。
修司は、クラウディアの腕の中で息を吐いた。
百七十本の線は消えている。
それでも、名前は一人も忘れていなかった。
◇
低い警報音が鳴った。
停止したはずの魔法陣が、今度は青く光る。
「何ですか」
クラウディアがイレーネへ剣を向けた。
イレーネは返事をせず、床へ目を落とした。
石の継ぎ目から、水が染み出している。
『試験起動の失敗を確認』
壁の声が告げる。
『証拠抹消手順へ移行。全水門を開放』
地下の奥から、幾つもの閂が外れる音がした。
イレーネの顔から血の気が引く。
「この施設を、水路へ沈めるつもりです」
水が床の排出口から噴き上がった。
あっという間に、靴底が沈む。
出口は、クラウディアたちが通ってきた狭い水路だけ。
寝台は百七十。
自分で歩けない者。支えが必要な者。意識が戻らない者。
イレーネが奥の階段へ走った。
「上部通路なら外へ出られます!」
クラウディアが追おうとする。
「待ってください」
修司は彼女の腕をつかんだ。
「逃がすのですか」
「今は、こちらが先です」
修司は百七十人を見た。
敵を追えば、真相へ近づけるかもしれない。
だが、その間にも水は増えていく。
「歩けない人から逃がします」
水はすでに、一列目の寝台の脚へ触れていた。




