第四十八話 百四十三人を選べ
「そして明日の朝までに、半数が不要になります」
イレーネは、天気の話でもするような声で言った。
地下施療院の奥で、百四十三人が寝台へ縛られている。
その身体から伸びた管は、灰冠領の魔石へつながっていた。
「不要というのは、どういう意味ですか」
修司は尋ねた。
「言葉どおりです」
イレーネが片手を上げる。
二十七人を乗せた船の上で、三本の《残火印》が赤く脈打った。
「ここにいる百四十三人から、次の実験へ進める者を七十二人選びなさい。残りの七十一人は、施設の記録とともに処分します」
「俺に、死ぬ人を選べと」
「生き残る人を選ぶのです」
「同じことです」
修司が言い切っても、イレーネの表情は変わらなかった。
「あなたには、人の身体を見分ける力がある。魔力の強さではなく、食事、睡眠、呼吸、日々の動きから、その人間に残された力を見抜く」
細身の術杖が、船上の患者たちへ向けられる。
「協力すれば、少なくとも七十二人は今夜を越えられます。拒めば、全員がここで終わる」
百四十三人。
船上の二十七人を加えれば、百七十人。
修司一人では運べない。戦って勝てる人数でもない。
しかも、クラウディアたちとは鉄格子によって分断されている。
ここで拒絶するだけなら簡単だった。
だが、その結果を受けるのは修司ではない。
「条件があります」
イレーネの眉が、初めてわずかに動いた。
「聞きましょう」
「船の二十七人を、安全に寝台へ移してください。口を塞ぐ布は外す。きつすぎる拘束は緩める。水を飲める人には水を。身体の向きを変える必要がある人には、人手をつけてください」
「選別に必要ですか」
「必要かどうかを判断するために必要です。今の状態では、弱っているのか、拘束されて苦しいのかさえ分かりません」
イレーネは数秒、修司を見つめた。
「夜明けまで、処分を始めないことも約束してください」
「あなたが時間を稼ぐ可能性があります」
「時間は稼ぎます」
修司は否定しなかった。
「百四十三人全員を見るには、時間が必要です」
「百七十人です」
イレーネは船上へ視線を向けた。
「今、二十七人増えました」
「なら、なおさらです」
沈黙のあと、イレーネが指を開いた。
三本の《残火印》が、宙に残ったまま光を弱める。
「認めます。ただし、夜明けまでです」
「それで十分です」
本当は、十分なはずがなかった。
それでも修司は、船を降りた。
◇
地下施療院の中には、薬の匂いがなかった。
代わりに漂っているのは、焼けた金属と湿った石の匂いだった。
寝台は七列に並べられている。
一人一人の頭上に番号札があり、その横へ赤、黄、黒の細い板が掛けられていた。
赤は次段階。
黄は保留。
黒は廃棄。
人間の名前は、どこにもない。
「この人の名前は」
修司は、入口に近い寝台を指した。
「四列十二番です」
記録板を持つ術師が答えた。
「番号ではなく、名前です」
「必要ありません」
「俺には必要です」
術師はイレーネを見た。
「記録を出しなさい」
許可が出ると、奥から分厚い帳面が運ばれてきた。
四列十二番。
ハンス・ベッカー。六十一歳。坑道崩落による負傷。治癒終了。右脚機能不全。身寄りなし。
黒い板が掛けられている。
「なぜ、この方は黒なのですか」
「魔石への同調率が三日続けて低下したためです」
修司はハンスを見た。
唇が乾いている。
左の手首は革帯に押され、赤く腫れていた。身体は寝台の中央からずれ、顎が胸元へ落ちている。呼吸のたび、喉の奥から細い音がした。
「治療師を呼んでください」
「治癒すべき傷はありません」
「呼吸の確認を頼みます。俺は診断できません」
イレーネがうなずくと、白い上着の術師が進み出た。
脈と呼吸を確認し、胸元へ淡い光を当てる。
「急を要する病変はない。衰弱はしている」
「身体を横へ向けても問題ありませんか」
「慎重に行うなら」
許可を得てから、修司は二人の術師へ動き方を伝えた。
「肩だけを引かないでください。こちらの方は骨盤を。合図をしたら一緒に向けます」
身体を少し横へ向け、顎の位置を整える。手首の革帯を指一本分緩め、濡らした布で口元を拭く。
ハンスの喉から聞こえていた音が、少しずつ小さくなった。
「水を一口だけ。飲み込みを見てから、次をお願いします」
術師が杯を口元へ運ぶ。
ハンスは時間をかけて水を飲み込んだ。
その瞬間、寝台の横に置かれた灰色の魔石が、濁った光を一度だけ強く放った。
「同調率が上がった……?」
記録係が声を漏らす。
「そんなはずはない。何の術も使っていないぞ」
「術ではありません」
修司は答えた。
「苦しい姿勢を変えて、水を飲んでもらっただけです」
イレーネの灰色の瞳が細くなる。
「次を見なさい」
◇
二列三番、エルザ・ノイマン。
黒。
長い間、同じ向きで寝かされ、背中の一部が赤くなっている。姿勢を変えると、魔石の光が安定した。
五列二十番、ルーカス・マイアー。
黄。
食事量の記録は三日続けて空欄。少量ずつ食べる時間を作ると、途切れていた魔力の波が戻った。
一列八番、ソフィア・ベル。
黒。
片耳が聞こえにくいのに、術師たちは聞こえない側から命令を繰り返し、「指示に反応しない」と記録していた。
聞こえる側から名前を呼ぶと、ソフィアは目を開き、指示どおり左手を握った。
「これは、同調に失敗した人たちではありません」
修司は言った。
「同調するための生活を奪われた人たちです」
「生活などなくても、人間は生きています」
イレーネが答える。
「呼吸をして、心臓が動いていればいいと?」
「この施設の目的には、それで足ります」
「足りていないから、失敗しているんでしょう」
地下施療院の空気が張りつめた。
六人の術師が一斉に修司を見る。
イレーネだけは怒らなかった。
「続けなさい」
その声には、先ほどまでなかった熱が混じっていた。
修司が人を助けようとするほど、この女は結果を見ようとしている。
自分の行為が、敵の実験を完成へ近づけるかもしれない。
それでも、目の前で苦しむ人を放置することはできなかった。
◇
三十人を確認したところで、修司は木炭と大きな紙を要求した。
「今度は何をするのです」
「この並べ方では、誰を見たのか分からなくなります」
紙へ、七列の寝台を簡単な四角で描く。
名前を記し、身体の向きを変える必要がある人には矢印。水分を確認する人には杯。食事の助けが必要な人には匙。声掛けの方向には耳の印。
字を読めない者でも、印を見れば次に何をするか分かる。
かつて修司が作っていたのは、商品を買ってもらうためのチラシやカタログだった。
今、紙の上に並べているのは、人が生きるために必要な情報だった。
「あなたとあなたは、身体の向きを変える班へ。こちらの二人は水と食事を。治療判断は必ず白い上着の術師へ確認してください」
「我々へ命令するのですか」
「百七十人を夜明けまでに見るのでしょう。俺一人では終わりません」
術師たちは不満を見せた。
だが、一人目のハンスに掛けられていた黒い板が、黄へ変わったのを全員が見ている。
イレーネが命じた。
「従いなさい。結果を記録し、同調率の変化を報告」
六人が動き始める。
修司は指示を出しながら、別のものも紙へ写していた。
扉。
通路。
水路へ下りる階段。
魔石から壁へ伸びる管。
七列すべての管は、施設中央の大きな円筒へ集まっている。
そして円筒の背後には、色の違う一本の管があった。
紫ではなく、白。
管は天井へ入り、王都の方角へ延びている。
「あの白い管は、どこへつながっていますか」
記録係の手が止まった。
イレーネが代わりに答える。
「あなたが知る必要はありません」
それで十分だった。
灰冠の魔石が集めた力を、どこかへ送るための管。
ここは施療院ではない。
人間の身体を使い、魔石を安定させ、力を王都へ送り出すための施設だった。
修司は紙の端へ、白い管の位置を小さく記した。
必ず、クラウディアたちへ伝える。
「タカセさん」
離れた寝台から、マルタが呼んだ。
二十七人も、施設の寝台へ移されている。
彼女は目ではなく、耳で何かを追っていた。
「床の下……音がする」
修司も動きを止めた。
石床の奥から、かすかに金属を叩く音が聞こえる。
こつ。
間を置いて、二度。
さらに、三度。
フィーデルではない。彼は修司のすぐ近くにいる。
床下の水路から、誰かが合図を送っている。
クラウディアたちが、近くまで来ている。
修司は顔を上げなかった。
紙へ印を書き足すふりをしながら、木炭で同じ回数だけ机を叩く。
一度。
二度。
三度。
床下から、すぐに一度だけ返事があった。
希望は、まだ切れていない。
◇
最初の鐘が鳴ったのは、七十一人目の黒い板が黄へ変わったときだった。
低く、不吉な音が地下施設を震わせる。
壁の魔法陣が、一斉に紫色へ光った。
「何の鐘ですか」
修司が尋ねる。
イレーネは答えなかった。
彼女自身も、天井を見上げている。
「予定時刻ではありません」
記録係が円筒の計器へ駆け寄った。
「全列の同調率が、起動条件を越えました! 中央制御から強制命令です!」
「停止しなさい」
「こちらからは止められません!」
床が震える。
寝台から伸びた百七十本の管へ、紫色の光が走った。
患者たちの身体が同時に強張る。
呻き声と悲鳴が、七つの列から上がった。
「魔石との接続を外してください!」
修司が叫ぶ。
「今外せば、逆流します!」
「では出力を下げて!」
「制御権がありません!」
イレーネが術杖を円筒へ向けた。
「《風圧槌》!」
見えない衝撃が制御盤を打つ。
だが、透明な壁のようなものに阻まれ、風が左右へ弾けた。
彼女にも止められない。
修司は一列目のハンスへ駆け寄った。
「息を吐いてください! 吸おうとしなくていい、まず吐いて!」
声を聞いたハンスが、苦しみながら息を吐く。
隣の寝台へ。
「ソフィアさん、俺の声は聞こえますか! 左手を握ってください!」
指が動く。
反応はある。
一人ずつなら、まだ戻せる。
だが、百七十人すべてを回る時間はない。
頭の奥に、再び光の線が浮かびかけた。
《連携支援》。
修司は発動を止めた。
船で二十七人をつないだだけでも、鼻血が出るほど消耗した。今、百七十人を結べば、自分が先に倒れる。
「列ごとに声をつないでください!」
修司は術師たちへ叫んだ。
「一人目ができたら、次の人の名前を呼ぶ! 呼ばれた人は、その次へ! 俺の力を使わなくても、声ならつなげられます!」
六人の術師が、それぞれの列へ走った。
「ハンスさん、エルザさんを呼んで!」
「エルザ……息を、吐け……」
「エルザさん、次の方へ!」
名前が、地下施療院を渡っていく。
番号で管理されていた人々が、互いの名前を呼び始める。
呼吸が一つ、また一つと戻る。
乱れていた魔石の光が、同じ間隔へ整っていく。
「同調率、さらに上昇!」
記録係の声に、修司は振り返った。
「違う! 上げるためにやっているんじゃない!」
中央の円筒から、白い光が噴き上がった。
天井へ続く管が、まばゆく輝く。
百七十人の呼吸が整ったことで、魔法陣まで完全に安定してしまった。
壁の奥から、男の声が響いた。
『実験体の同調を確認』
誰の声かは分からない。
だが、イレーネが初めて顔色を変えた。
『不足していた制御因子を確認。外れ職《生活支援士》を、中央核へ接続せよ』
修司の足元に、白い魔法陣が現れた。
「タカセ、そこから離れなさい!」
イレーネが叫ぶ。
遅かった。
床から白い帯が伸び、修司の両脚と左腕へ巻きつく。
右腕を避けるように拘束している。
まるで、修司の身体の状態まで見透かしているようだった。
《生活動作把握》が、修司の意思とは関係なく発動する。
百七十人の身体が、光の線となって一斉に修司へつながった。
視界が白く染まる。
「やめろ……!」
頭の中へ、百七十人分の呼吸、痛み、恐怖が流れ込んでくる。
膝をつくことさえ、白い帯が許さない。
壁の声が告げた。
『王都大治癒陣、試験起動を開始する』
修司は、ようやく理解した。
敵が自分を殺さなかった理由。
患者たちの状態を立て直させた理由。
ここに連れてこられた百四十三人も、今夜運ばれた二十七人も、完成しない術式を動かすための部品だった。
そして《生活支援士》は――。
百七十人を、一つの部品へ変えるための最後の核だった。




