第四十七話 二十七人の反撃
「今度は二十七人を抱えて、俺と戦ってみろ」
ダリオが一歩、踏み出した。
平底船が大きく揺れる。
椅子へ縛られた女の身体が傾き、頭が船縁へぶつかりかけた。
修司はダリオから目を離し、女の肩を左手で支えた。
「マルタさんですね」
片目を閉じた女が、驚いたように修司を見た。
「俺はタカセ・シュウジです。王立治癒院から、皆さんを捜しに来ました」
「俺を前にして、よそ見かよ!」
ダリオが床を蹴った。
赤黒い術式をまとった拳が、修司の顔へ迫る。
テアの《瞬間賦活》は、もう切れている。
右腕には痛みが残り、船の床は足元で絶えず動いている。
修司はマルタの肩を支えたまま、身体を半歩だけ前へ滑らせた。
拳が耳の横を通り過ぎる。
伸びた腕へ左手を添え、腰を回す。
だが、ダリオは止まらなかった。
腕を導かれながら、肩から修司へぶつかってくる。
「ぐっ――!」
修司の身体が押し飛ばされ、空の担架へ背中から倒れた。
息が詰まる。
ダリオは笑いながら首を鳴らした。
「さっきの魔法はどうした。もう一度、俺を投げてみろよ」
修司はすぐには立たなかった。
息を吐き、船上を見る。
二十七人。
革帯や縄で身体を椅子へ固定されたまま、怯えている。
横たわる者の中には、船の揺れで担架から身体がずれ始めている者もいた。口へ布を噛まされ、苦しそうに呼吸している老人もいる。
この狭さでは、ダリオの拳だけを避ければいいわけではない。
自分がかわした先に、誰かの顔がある。
男を投げる先にも、守るべき身体がある。
「どうした、介護士」
ダリオが両腕を広げた。
「そいつらが邪魔で、戦えねえか」
「ええ」
修司は認めた。
「あなたと違って、人を荷物だとは思えませんから」
ダリオの笑みが消えた。
「なら、荷物と一緒に沈め」
男が足元の留め金を蹴り上げた。
椅子を床へ固定していた横木が外れ、三人分の椅子が船尾へ滑り始める。
「危ない!」
修司は立ち上がり、身体ごと横木へぶつかった。
左足で床の継ぎ目を踏み、腰で木を受け止める。
右肩に鋭い痛みが走った。
それでも、椅子は船縁の手前で止まった。
ダリオの拳が、無防備になった修司の脇腹へ入る。
鈍い衝撃が身体を突き抜けた。
膝が床へ落ちる。
「一人を守れば、別の一人が殴られる」
ダリオが修司の襟をつかんだ。
「全員助けるなんて言う奴はな、結局、誰も助けられねえんだよ」
太い腕が持ち上がる。
修司の足が床から離れた。
そのときだった。
こつ。
硬い音が一度、船内へ響く。
ダリオの背後にいる老人が、椅子の肘掛けを指で叩いている。
フィーデルだ。
老人は言葉の代わりに、ダリオの後ろを見ていた。
修司も視線を動かす。
船の低い天井から、太い鎖が垂れている。
水門を動かすための鎖らしい。船が進むにつれ、その輪がダリオの背後へ近づいていた。
こつ。
二度目。
修司は襟をつかまれたまま、左足をダリオの両足の間へ入れた。
こつ。
三度目。
鎖が真後ろへ来る。
修司はつま先で床を蹴り、持ち上げられた力へ逆らわず身体を回した。
襟を握っていたダリオの腕がねじれ、巨体の向きが変わる。
背中が鎖へぶつかった。
金属の輪が、男の右腕へ絡みつく。
「この爺……!」
ダリオがフィーデルをにらむ。
その隙に、修司は襟から抜けた。
フィーデルの口にも布が巻かれている。修司は腰の小刀で結び目だけを切った。
「助かりました」
老人は声を出そうとしたが、息が漏れるだけだった。
それでも、右手の指は動いている。
修司は周囲へ目を向けた。
「俺の声が聞こえる方は、瞬きをしてください」
幾つもの目が閉じ、開いた。
「無理に動く必要はありません。痛くない範囲で、動かせるところが一つでもある方は、それを教えてください」
指を曲げる者。
片足の踵を床へ打ちつける者。
首を左右へ動かす者。
わずかに声を出す者。
同じ「動けない人」ではない。
一人一人、できることも、難しいことも違っている。
それを確かめることから、支援は始まる。
「何を始めてやがる」
ダリオが鎖を引きちぎった。
赤黒い光が強まり、皮膚の下で血管が浮き上がる。
男の鼻から、一筋の血が流れた。
《剛躯》は、使う者の身体まで壊し始めている。
「そんな半死人どもを集めて、俺と戦う気か!」
「違います」
修司は小刀で、手の届く者から口の布を切っていった。
「戦うかどうかは、皆さんが決めます」
修司は二十七人へ呼び掛けた。
「このまま連れていかれたくない方。自分で帰りたいと思う方は、動かせるところだけ、俺に貸してください」
最初に返事をしたのは、マルタだった。
「……帰りたい」
擦れた声だった。
「孫に……会いたい」
フィーデルが、肘掛けを一度叩く。
別の男が左足を床へ打ちつけた。
「俺もだ」
「帰して」
「ここから出たい」
か細い声が、一つ、また一つと重なる。
修司の胸の奥で、何かが応えた。
《生活動作把握》。
淡い線が、一人一人の身体をなぞる。
動かせる指。
床を押せる踵。
握る力の残った手。
声を出せる口。
それは強さを与える光ではなかった。
すでにその人の中に残っている力を、見失わないための光だった。
修司は船の構造を見る。
椅子を固定する横木。その下を通る一本の縄。船尾にある舵。天井から垂れる水門の鎖。
ばらばらなら、小さな力にすぎない。
だが、同じ瞬間に同じ方向へ動けば、船そのものを変えられる。
「合図は、フィーデルさんの音に合わせます」
修司は短く指示を出した。
「右手が動く方は、椅子の横を通っている縄を握ってください。足で床を押せる方は、左へ。首だけ動く方は、前を見て危険を教えてください。痛みが出たら、すぐにやめてください」
「くだらねえ!」
ダリオが突進する。
修司の頭の奥に、鋭い痛みが走った。
これまで《連携支援》で結んだのは、多くても数人だった。
二十七人すべてを動かすことなどできない。
動かす必要もない。
修司が決めるのではなく、一人一人が自分で選び、自分の力で動く。
自分は、その瞬間をつなぐだけだ。
「合わせます!」
《連携支援》。
細い光が修司から広がった。
一本。
三本。
七本。
動かせる者だけではない。
動けなくても、目で危険を知らせる者。声で隣を励ます者。呼吸を整えようとする者。
光は二十七人を順につなぎ、船上に大きな輪を作った。
視界の端が暗くなる。
耳鳴りがした。
それでも、修司はダリオから目をそらさなかった。
こつ。
フィーデルが一度叩く。
ダリオの拳が引かれる。
こつ。
二度目。
修司は踏み込んだ。
「今です!」
こつ。
三度目。
動かせる手が、一斉に縄を引いた。
踵が同時に床を押す。
外れていた横木が滑り、船尾の舵へぶつかった。
舵が左へ切れる。
平底船が急に向きを変えた。
水流が横腹へ当たり、船体が大きく傾く。
椅子と担架は、皆が引いた縄によって横木へ固定されている。
ただ一人、床へ足を固定していなかったダリオだけが、体勢を崩した。
それでも男は倒れず、拳を修司へ振り下ろす。
修司は正面から受けなかった。
拳の内側へ入り、左手を肘へ添える。
相手を投げようとはしない。
傾く船。横から押す水。踏ん張ろうとする巨体。
すでに生まれている三つの力が、同じ方向へ流れるよう、ほんの少し腕の向きを変えた。
「これが――二十七人分です」
ダリオの足が、床から離れた。
巨体が船縁を越える。
「てめえ――!」
水柱が上がった。
ダリオは流れへ呑まれながらも、壁際の鉄梯子へ片手を掛けた。
修司をにらみつけ、血の混じった唾を吐く。
「覚えてろ、介護士! 次は全員、目の前で沈めてやる!」
怒声は、船の後方へ遠ざかっていった。
◇
勝った。
そう思うには、早かった。
船の向きは変わったが、止まってはいない。
修司は《連携支援》を解いた。
光が消えた途端、頭の中へ熱した杭を打ち込まれたような痛みが走る。
床へ手をつき、吐き気をこらえた。
「タカセさん!」
マルタの声が聞こえる。
「大丈夫です」
そう答えたが、鼻から落ちた血が床板へ黒い染みを作った。
「……嘘ね」
「よく言われます」
修司は左手で鼻を押さえ、どうにか立ち上がった。
まず、全員の呼吸と姿勢を確かめる。船が傾いたことで痛みが増した者はいないか。縄が身体へ食い込んでいないか。
戦いが終わっても、支援は終わらない。
「苦しい方は、声か、音で知らせてください。順番に確認します」
船首へ向かおうとしたとき、マルタが左側を見た。
「前……明るい」
暗い隧道の先に、白い光が見えた。
船は流れに押され、その光へ吸い込まれていく。
修司は腰の小刀を握った。
やがて狭い壁が途切れ、巨大な地下空間が姿を現した。
白い石造りの建物。
何列にも並ぶ寝台。
天井から垂れた管と、壁一面に組まれた魔法陣。
その中央では、灰冠領の魔石が濁った紫色の光を放っている。
施療院に似ていた。
だが、窓は一つもない。
船着き場には、濃紺の軍装をまとった女が立っていた。
年は三十に届くかどうか。黒い髪を後ろで束ね、片手に細身の術杖を持っている。
その背後には、救恤局の紋章をつけた術師が六人並んでいた。
「ダリオ・グランツは」
女が尋ねる。
「水路へ落ちました」
修司が答える。
「あなたが?」
「俺だけではありません」
修司は、船にいる二十七人を見た。
「皆さんが、自分で止めたんです」
女は患者たちへ一度だけ視線を向け、興味を失ったように修司へ戻した。
「報告どおりですね」
「報告?」
「人の動きを読み、弱い力をつなぎ、集団を一つの身体のように動かす」
術杖の先に、細い炎が灯る。
「外れ職《生活支援士》、タカセ・シュウジ」
女は初めから、修司の名を知っていた。
「私はイレーネ・ファルク。救恤局付属術師隊の実戦責任者です」
術杖が横へ振られる。
炎は修司へ飛ばなかった。
一本の細い火線となり、船着き場と船の間を横切った。
二本目が船尾へ。
三本目が、二十七人の頭上へ走る。
炎は宙へ貼りついたまま、赤く燃え続けている。
「《残火印》。私が指を閉じれば、三本すべてが船へ落ちます」
修司は動きを止めた。
水へ飛び込んでも、自分だけなら逃げられるかもしれない。
だが、二十七人は逃げられない。
「何が目的ですか」
「あなたの協力です」
「断れば」
「今度こそ、全員が沈みます」
イレーネは静かな声で告げた。
「安心してください。あなたを殺す許可は出ていません」
彼女の背後で、地下施設の大扉が開いた。
奥にあったのは、さらに多くの寝台だった。
その一つ一つに、人が縛りつけられている。
老人だけではない。
兵士。子ども。片腕を失った職人。魔力を持たない若者。
数え切れないほどの人々が、灰色の魔石へ管でつながれていた。
「二十七人では……なかったのか」
修司の声が震える。
「今夜の搬入数は、二十七人です」
イレーネは、何の感情も見せなかった。
「ここにいるのは、百四十三人」
壁の魔法陣が、一斉に紫色へ光る。
「そして明日の朝までに、半数が不要になります」
地下施療院の扉が、修司を迎え入れるように開いていた。




