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国を立たせる介護士 ~52歳で異世界召喚された外れ職《生活支援士》、寝たきりの老将から滅びかけた王国まで再建する~  作者: 狼賀亮一郎
第二部 白き王都と傷なき聖女編

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第四十六話 水路区の第七倉庫

夜の王都を流れる運河は、油を溶かしたように黒かった。

 両岸に並ぶ倉庫の灯が、水面で細長く揺れている。荷を積んだ小舟が行き交い、船頭の怒鳴り声と、荷車の車輪が石畳を削る音が闇の中へ響いていた。

 修司は麻袋を肩へ載せたふりをして、平底船の舳先に立っていた。

 袋の中身は乾いた藁だ。右腕を痛めている修司に、本物の荷を持たせることをエヴァが許さなかった。

「本当に、腕は上がりますか」

 背後から、小さな声で尋ねられる。

 振り向くと、荷運び人の粗末な外套を着た少女が修司の右腕を見ていた。

 灰褐色の短い髪。暗がりでも目立つ琥珀色の瞳。十八歳の強化術師、テオドラ・ヴァイス――テアは、王都へ着いてからヴェラがひそかに呼び寄せた協力者だった。

「肩までは上がります。力を入れると痛みますが」

「では、今夜は右腕を強化しません。傷めた場所へ力だけ足せば、本人が壊れます」

「強くしてもらえば動ける、というものではないんですね」

「そんな便利な術なら、強化術師はもっと長生きしています」

 率直な物言いだった。

 テアの《身体賦活》は、筋力、反応、平衡感覚のどれを高めるか、細かく選べる。その代わり、精密に支えられるのは原則として一人だけ。しかも、限界を越えた身体まで無事にしてくれる術ではない。

「戦いになれば、私はクラウディア様につきます」

「その方がいいです」

 修司が即答すると、テアはわずかに眉を上げた。

「自分を強くしてほしいとは言わないのですね」

「俺の仕事は、強い人が力を出せるようにすることですから」

 前方で、荷運び人に扮したクラウディアが振り返った。

「二人とも、もうすぐです」

 その隣にはエヴァがいる。治療鞄を麻布で包んでいたが、中身は今夜も変わらない。

 船尾で櫂を握るのは、ナディアが手配した商人だった。

 ヴェラと二人の監察局員は、積荷を装った木箱の陰へ身を伏せている。救恤局の内部にまで敵がいる以上、大人数を動かせば、こちらの動きが先に漏れる。信用できる者だけで来るしかなかった。

「水門を越えたら、七つ目の倉庫です」

 商人が囁く。

「この三晩、人を寝かせたような長い荷を積んだ舟が、夜の鐘のあとに出ています。行き先は旧市街の地下水路。そこから先は、俺も追えませんでした」

 修司は懐に入れた紙へ、服の上から触れた。

 二十七人の名前。

 治療が終わったあとも、一人で歩けない人。食事に手助けが要る人。大きな声を出せない人。身寄りのない人。

 出発前、腫れた脚を冷やしていたルチアは寝台の上で、その一人一人について覚えていることを話した。

 フィーデルという老人は、言葉が出にくい代わりに、用があると寝台の縁を三回叩く。

 片目の見えないマルタは、暗い場所では右側から声を掛けると怯える。

 食事を急がせるとむせる人。肩へ急に触れられると身を固くする人。

 帳面には残らない、小さな生活の癖だった。

 だが、それを知っているかどうかで、助け方は変わる。

「夜の鐘です」

 クラウディアが言った。

 低い鐘の音が、水路区の空気を震わせた。

 そのとき、七つ目の倉庫の扉が開いた。

     ◇

「止まれ。どこの荷だ」

 船着き場にいた男が、鉤のついた棒で船縁を引き寄せた。

 灰色の外套の下に、短剣が見える。

 船頭役の商人が、荷札を差し出した。

「救恤局の第八便だ。西棟から、古布と寝具を運べと言われた」

 男は荷札を灯火へかざし、船の上を見回した。

 視線が修司で止まる。

「ずいぶん年を食った荷運びだな」

「若い者は昼の火事へ駆り出されました」

 修司は腰を少し曲げ、疲れた声で答えた。

「年寄りまで働かせるとは、救恤局は慈悲深いことで」

 男は鼻で笑い、荷札を返した。

「入れ。鐘が二つ鳴るまでに、全部下ろせ」

 倉庫の中には、灯りが三つしかなかった。

 壁際へ木箱が積み上げられ、中央に細長い荷車が二台置かれている。その荷台には、藁を敷いた担架が何段にも重ねられていた。

 修司たちは無言で麻袋を運び始めた。

 クラウディアが入口を確かめ、エヴァは担架へ近づく。テアは外套の下で指を組み、いつでも術を使える姿勢を取っていた。

 修司は担架に触れた。

 藁は新しい。

 だが、木枠には爪で引っかいたような傷があり、革帯の内側には乾いていない汗が残っている。

「ここにいました」

 声を落として言う。

 エヴァが革帯を調べた。

「拘束に使ったのね。それも、一度ではないわ」

 患者の姿はない。

 遅かったのか。

 修司が周囲へ目を向けたとき、積み上げられた木箱の印に違和感を覚えた。

 どの箱にも、救援用の毛布を示す青い布が貼られている。

 だが、布の大きさも、貼る位置も、不自然なほど揃っていた。

 印刷会社にいたころ、不都合な文字の上へ紙を貼り、修正した版下を何度も見た。

 隠したいものがあるとき、人は上から何かを重ねる。

 修司は青い布の端へ爪を掛けた。

 糊はまだ柔らかい。

 布を剥がすと、その下から灰色の王冠をかたどった焼き印が現れた。

「灰冠領……」

 クラウディアの声が低くなる。

 箱の蓋を外す。

 中に詰められていたのは、毛布ではなかった。

 拳ほどの魔石が、黒い砂の中へ幾つも埋められている。石の奥では、濁った紫色の光が脈を打っていた。

「これだけあれば、言い逃れはできません」

 木箱の陰からヴェラが立ち上がる。

「灰冠領からの魔石搬入は、王命で止められている。しかも救援物資に偽装している」

「言い逃れなんざ、する気はねえよ」

 倉庫の奥から、太い声がした。

     ◇

 暗闇から現れた男は、頭一つ分、クラウディアより大きかった。

 剃り上げた頭。厚い首。袖を切り落とした革鎧から、丸太のような腕が伸びている。

 男が一歩進むたび、床板が軋んだ。

「証拠を見つけて、めでたしめでたし。そういう顔だな」

 男は笑った。

「だがな。見つけた証拠を持って帰れなきゃ、知らなかったのと同じだ」

 入口の扉が閉まった。

 船着き場にいた見張りたちが短剣を抜き、二階の足場には火術杖を持った男が二人現れる。

 ヴェラの両手から、青白い魔導糸が伸びた。

「王国監察局です。武器を捨てなさい」

「法の犬が、倉庫泥棒の真似か」

「ダリオ・グランツ。《骨砕き》の通り名で、傷害、恐喝、護送隊襲撃の手配が出ています」

「そいつはありがたい。名前を覚えてくれてたか」

 ダリオが拳を握る。

 首から両腕へ、赤黒い幾何学模様が浮かび上がった。皮膚の下で筋肉が膨れ、革鎧の留め具が弾け飛ぶ。

「《剛躯》」

 テアが息を呑んだ。

「あれは強化ではありません。壊れるまで身体を燃やす術です」

「壊れる前に、相手を壊せばいいんだよ!」

 ダリオが床を蹴った。

 巨体からは想像できない速さで、修司との間を一気に詰める。

 狙われたのは、剣を持つクラウディアでも、魔導糸を構えたヴェラでもなかった。

「まずは、よく見てるその目からだ!」

 修司の顔へ、拳が迫る。

 その前へクラウディアが滑り込んだ。

 剣の腹で拳を受ける。

 金属が鳴り、クラウディアの靴が床を削った。

「テア!」

「《身体賦活》――脚力、体幹、平衡!」

 琥珀色の光が、クラウディアの背から両脚へ走る。

 押されていた足が止まった。

 クラウディアが剣を返し、ダリオの脇腹を狙う。男は腕で刃を受けた。強化された革籠手から火花が散る。

 その頭上で、火術杖が赤く光った。

「上です!」

 修司が叫ぶ。

 ヴェラの糸が走り、一人目の手首を足場の柱へ縫い留める。だが、もう一人の杖から火球が放たれた。

 狙いは人ではない。

 灰冠の魔石を収めた木箱だった。

「爆発させるつもりです!」

 テアがクラウディアを強化している。

 精密に支えられるのは、一人だけ。

 修司は足元にあった空の担架を蹴り上げた。

 火球が木枠へ当たり、藁が燃え上がる。軌道はそれたが、燃えた担架が魔石の箱へ倒れかかった。

 エヴァが外套を叩きつけて火を覆う。

「消火は私がします! 戦う人は前を見て!」

 クラウディアとダリオが、倉庫の中央で激突する。

 剣技ではクラウディアが上だった。

 しかし、ダリオは刃を恐れない。傷を負うことも構わず、力だけで距離を潰してくる。

 太い腕が剣を外へ払い、反対の拳がクラウディアの腹へ向かった。

 修司には見えた。

 クラウディアの踵が、割れた床板へ掛かっている。

 このまま受ければ、強化された脚でも踏ん張れない。

「右ではなく、左へ!」

 《連携支援》。

 淡い光が修司とクラウディアを結ぶ。

 クラウディアは迷わず、修司の声へ身体を預けた。拳へ逆らわず左へ回り、ダリオの力を外へ流す。

 巨体が半歩、前へ泳いだ。

 だが、倒れない。

「小細工が!」

 ダリオは向きを変え、そのまま修司へ腕を振り抜いた。

 避け切れない。

「タカセさん、三呼吸だけです!」

 テアがクラウディアへの術を切った。

 次の瞬間、琥珀色の光が修司の腰と両脚を包む。

「《瞬間賦活》――反応、平衡!」

 世界が、わずかに遅くなった。

 若返ったわけではない。痛めた右腕も治っていない。

 ただ、五十二年間使ってきた身体が、修司の意図へ一度も遅れず応えた。

 一呼吸。

 修司は右拳の軌道から半歩外れ、左手でダリオの手首へ触れた。

 二呼吸。

 腕を引かない。押さえ込まない。前へ進もうとする力へ、自分の腰の回転を重ねる。

 三呼吸。

 修司の左手と肩、腰、足が一本につながった。

「進みたいなら――そちらです」

 ダリオの巨体が、初めて宙へ浮いた。

 床へ投げ落とすのではない。

 進む方向を変えられた男は、自分の勢いのまま魔石の木箱へ突っ込んだ。

 箱が砕け、黒い砂と紫色の魔石が床へ飛び散る。

 倉庫の全員が、一瞬だけ動きを止めた。

 最初に笑ったのは、倒されたダリオだった。

「いいな、おっさん」

 口の端から血を流しながら、楽しそうに歯を見せる。

「次は、その左腕も折ってやる」

 ダリオが床板の下から、太い鎖を引いた。

 倉庫の奥で、重い歯車が回り始める。

「何をした!」

 クラウディアが踏み込むより先に、床の一部が持ち上がった。

 隠されていた水路から冷たい風が噴き上がり、床板の隙間が急速に広がっていく。

 ダリオは開いた穴へ身を投げた。

 ヴェラの糸が腕をかすめたが、男の姿は闇の下へ消える。

「逃げました!」

 監察局員が叫ぶ。

「待ってください」

 修司は耳を澄ませた。

 歯車の音。水が流れ込む音。下を走る舟の軋み。

 その中に、別の音が混じっている。

 硬いものを叩く、小さな音。

 こつ。

 こつ。

 こつ。

 三回。

「フィーデルさんです」

 ルチアから聞いた癖と同じだった。

「二十七人は、下にいます!」

     ◇

 持ち上がった床の下には、地下水路があった。

 倉庫の真下を、細長い平底船が通り過ぎようとしている。

 船上には、担架と粗末な椅子が隙間なく並べられていた。

 横たわる者。縄で椅子へ固定された者。口へ布を噛まされた者。

 そのすべてが、紙に記された二十七人だった。

「船を止めなさい!」

 ヴェラが叫ぶ。

 監察局員が係留綱へ手を伸ばす。

 だが、その直前、水路の奥で水門が開いた。

 押し寄せた水が船尾を打つ。

 綱が張り、杭が根元から抜けた。

 船が暗い隧道へ向かって動き始める。

「患者さんの上へ飛び降りれば危険です!」

 エヴァが叫ぶ。

 修司は船上を見た。

 空いている場所は、船尾に積まれた麻袋の上だけ。距離はおよそ二間。迷っている間にも、船は穴の下から離れていく。

「テアさん!」

「一人分なら!」

 テアの両手が光る。

「《衝撃緩和》!」

 修司は床を蹴った。

「タカセ!」

 クラウディアの手が、外套の端へ触れる。

 届かない。

 身体が暗い水路の上へ投げ出された。

 次の瞬間、修司は船尾の麻袋へ背中から落ちた。

 衝撃が琥珀色の光へ吸われる。

 息を詰まらせながら起き上がった修司の前で、鉄格子が轟音とともに落ちた。

 倉庫と地下水路が分断される。

「タカセ殿!」

 格子の向こうで、クラウディアが剣を叩きつけた。

「二十七人をお願いします! 俺は、この船を止めます!」

 自分でも、無茶な言葉だと思った。

 こちら側にいる味方は、立つことも声を上げることも難しい二十七人だけだった。

 船の前方で、誰かが手を叩いた。

 ゆっくりとした拍手だった。

 ダリオが、舳先の上に立っている。

 赤黒い術式を両腕へ残したまま、楽しそうに修司を見ていた。

「ようこそ、介護士」

 男の背後で、暗い隧道の門が開く。

「今度は二十七人を抱えて、俺と戦ってみろ」

 鉄格子の向こうの灯が遠ざかる。

 修司を乗せた船は、王都の地下深くへ呑み込まれていった。

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