第四十六話 水路区の第七倉庫
夜の王都を流れる運河は、油を溶かしたように黒かった。
両岸に並ぶ倉庫の灯が、水面で細長く揺れている。荷を積んだ小舟が行き交い、船頭の怒鳴り声と、荷車の車輪が石畳を削る音が闇の中へ響いていた。
修司は麻袋を肩へ載せたふりをして、平底船の舳先に立っていた。
袋の中身は乾いた藁だ。右腕を痛めている修司に、本物の荷を持たせることをエヴァが許さなかった。
「本当に、腕は上がりますか」
背後から、小さな声で尋ねられる。
振り向くと、荷運び人の粗末な外套を着た少女が修司の右腕を見ていた。
灰褐色の短い髪。暗がりでも目立つ琥珀色の瞳。十八歳の強化術師、テオドラ・ヴァイス――テアは、王都へ着いてからヴェラがひそかに呼び寄せた協力者だった。
「肩までは上がります。力を入れると痛みますが」
「では、今夜は右腕を強化しません。傷めた場所へ力だけ足せば、本人が壊れます」
「強くしてもらえば動ける、というものではないんですね」
「そんな便利な術なら、強化術師はもっと長生きしています」
率直な物言いだった。
テアの《身体賦活》は、筋力、反応、平衡感覚のどれを高めるか、細かく選べる。その代わり、精密に支えられるのは原則として一人だけ。しかも、限界を越えた身体まで無事にしてくれる術ではない。
「戦いになれば、私はクラウディア様につきます」
「その方がいいです」
修司が即答すると、テアはわずかに眉を上げた。
「自分を強くしてほしいとは言わないのですね」
「俺の仕事は、強い人が力を出せるようにすることですから」
前方で、荷運び人に扮したクラウディアが振り返った。
「二人とも、もうすぐです」
その隣にはエヴァがいる。治療鞄を麻布で包んでいたが、中身は今夜も変わらない。
船尾で櫂を握るのは、ナディアが手配した商人だった。
ヴェラと二人の監察局員は、積荷を装った木箱の陰へ身を伏せている。救恤局の内部にまで敵がいる以上、大人数を動かせば、こちらの動きが先に漏れる。信用できる者だけで来るしかなかった。
「水門を越えたら、七つ目の倉庫です」
商人が囁く。
「この三晩、人を寝かせたような長い荷を積んだ舟が、夜の鐘のあとに出ています。行き先は旧市街の地下水路。そこから先は、俺も追えませんでした」
修司は懐に入れた紙へ、服の上から触れた。
二十七人の名前。
治療が終わったあとも、一人で歩けない人。食事に手助けが要る人。大きな声を出せない人。身寄りのない人。
出発前、腫れた脚を冷やしていたルチアは寝台の上で、その一人一人について覚えていることを話した。
フィーデルという老人は、言葉が出にくい代わりに、用があると寝台の縁を三回叩く。
片目の見えないマルタは、暗い場所では右側から声を掛けると怯える。
食事を急がせるとむせる人。肩へ急に触れられると身を固くする人。
帳面には残らない、小さな生活の癖だった。
だが、それを知っているかどうかで、助け方は変わる。
「夜の鐘です」
クラウディアが言った。
低い鐘の音が、水路区の空気を震わせた。
そのとき、七つ目の倉庫の扉が開いた。
◇
「止まれ。どこの荷だ」
船着き場にいた男が、鉤のついた棒で船縁を引き寄せた。
灰色の外套の下に、短剣が見える。
船頭役の商人が、荷札を差し出した。
「救恤局の第八便だ。西棟から、古布と寝具を運べと言われた」
男は荷札を灯火へかざし、船の上を見回した。
視線が修司で止まる。
「ずいぶん年を食った荷運びだな」
「若い者は昼の火事へ駆り出されました」
修司は腰を少し曲げ、疲れた声で答えた。
「年寄りまで働かせるとは、救恤局は慈悲深いことで」
男は鼻で笑い、荷札を返した。
「入れ。鐘が二つ鳴るまでに、全部下ろせ」
倉庫の中には、灯りが三つしかなかった。
壁際へ木箱が積み上げられ、中央に細長い荷車が二台置かれている。その荷台には、藁を敷いた担架が何段にも重ねられていた。
修司たちは無言で麻袋を運び始めた。
クラウディアが入口を確かめ、エヴァは担架へ近づく。テアは外套の下で指を組み、いつでも術を使える姿勢を取っていた。
修司は担架に触れた。
藁は新しい。
だが、木枠には爪で引っかいたような傷があり、革帯の内側には乾いていない汗が残っている。
「ここにいました」
声を落として言う。
エヴァが革帯を調べた。
「拘束に使ったのね。それも、一度ではないわ」
患者の姿はない。
遅かったのか。
修司が周囲へ目を向けたとき、積み上げられた木箱の印に違和感を覚えた。
どの箱にも、救援用の毛布を示す青い布が貼られている。
だが、布の大きさも、貼る位置も、不自然なほど揃っていた。
印刷会社にいたころ、不都合な文字の上へ紙を貼り、修正した版下を何度も見た。
隠したいものがあるとき、人は上から何かを重ねる。
修司は青い布の端へ爪を掛けた。
糊はまだ柔らかい。
布を剥がすと、その下から灰色の王冠をかたどった焼き印が現れた。
「灰冠領……」
クラウディアの声が低くなる。
箱の蓋を外す。
中に詰められていたのは、毛布ではなかった。
拳ほどの魔石が、黒い砂の中へ幾つも埋められている。石の奥では、濁った紫色の光が脈を打っていた。
「これだけあれば、言い逃れはできません」
木箱の陰からヴェラが立ち上がる。
「灰冠領からの魔石搬入は、王命で止められている。しかも救援物資に偽装している」
「言い逃れなんざ、する気はねえよ」
倉庫の奥から、太い声がした。
◇
暗闇から現れた男は、頭一つ分、クラウディアより大きかった。
剃り上げた頭。厚い首。袖を切り落とした革鎧から、丸太のような腕が伸びている。
男が一歩進むたび、床板が軋んだ。
「証拠を見つけて、めでたしめでたし。そういう顔だな」
男は笑った。
「だがな。見つけた証拠を持って帰れなきゃ、知らなかったのと同じだ」
入口の扉が閉まった。
船着き場にいた見張りたちが短剣を抜き、二階の足場には火術杖を持った男が二人現れる。
ヴェラの両手から、青白い魔導糸が伸びた。
「王国監察局です。武器を捨てなさい」
「法の犬が、倉庫泥棒の真似か」
「ダリオ・グランツ。《骨砕き》の通り名で、傷害、恐喝、護送隊襲撃の手配が出ています」
「そいつはありがたい。名前を覚えてくれてたか」
ダリオが拳を握る。
首から両腕へ、赤黒い幾何学模様が浮かび上がった。皮膚の下で筋肉が膨れ、革鎧の留め具が弾け飛ぶ。
「《剛躯》」
テアが息を呑んだ。
「あれは強化ではありません。壊れるまで身体を燃やす術です」
「壊れる前に、相手を壊せばいいんだよ!」
ダリオが床を蹴った。
巨体からは想像できない速さで、修司との間を一気に詰める。
狙われたのは、剣を持つクラウディアでも、魔導糸を構えたヴェラでもなかった。
「まずは、よく見てるその目からだ!」
修司の顔へ、拳が迫る。
その前へクラウディアが滑り込んだ。
剣の腹で拳を受ける。
金属が鳴り、クラウディアの靴が床を削った。
「テア!」
「《身体賦活》――脚力、体幹、平衡!」
琥珀色の光が、クラウディアの背から両脚へ走る。
押されていた足が止まった。
クラウディアが剣を返し、ダリオの脇腹を狙う。男は腕で刃を受けた。強化された革籠手から火花が散る。
その頭上で、火術杖が赤く光った。
「上です!」
修司が叫ぶ。
ヴェラの糸が走り、一人目の手首を足場の柱へ縫い留める。だが、もう一人の杖から火球が放たれた。
狙いは人ではない。
灰冠の魔石を収めた木箱だった。
「爆発させるつもりです!」
テアがクラウディアを強化している。
精密に支えられるのは、一人だけ。
修司は足元にあった空の担架を蹴り上げた。
火球が木枠へ当たり、藁が燃え上がる。軌道はそれたが、燃えた担架が魔石の箱へ倒れかかった。
エヴァが外套を叩きつけて火を覆う。
「消火は私がします! 戦う人は前を見て!」
クラウディアとダリオが、倉庫の中央で激突する。
剣技ではクラウディアが上だった。
しかし、ダリオは刃を恐れない。傷を負うことも構わず、力だけで距離を潰してくる。
太い腕が剣を外へ払い、反対の拳がクラウディアの腹へ向かった。
修司には見えた。
クラウディアの踵が、割れた床板へ掛かっている。
このまま受ければ、強化された脚でも踏ん張れない。
「右ではなく、左へ!」
《連携支援》。
淡い光が修司とクラウディアを結ぶ。
クラウディアは迷わず、修司の声へ身体を預けた。拳へ逆らわず左へ回り、ダリオの力を外へ流す。
巨体が半歩、前へ泳いだ。
だが、倒れない。
「小細工が!」
ダリオは向きを変え、そのまま修司へ腕を振り抜いた。
避け切れない。
「タカセさん、三呼吸だけです!」
テアがクラウディアへの術を切った。
次の瞬間、琥珀色の光が修司の腰と両脚を包む。
「《瞬間賦活》――反応、平衡!」
世界が、わずかに遅くなった。
若返ったわけではない。痛めた右腕も治っていない。
ただ、五十二年間使ってきた身体が、修司の意図へ一度も遅れず応えた。
一呼吸。
修司は右拳の軌道から半歩外れ、左手でダリオの手首へ触れた。
二呼吸。
腕を引かない。押さえ込まない。前へ進もうとする力へ、自分の腰の回転を重ねる。
三呼吸。
修司の左手と肩、腰、足が一本につながった。
「進みたいなら――そちらです」
ダリオの巨体が、初めて宙へ浮いた。
床へ投げ落とすのではない。
進む方向を変えられた男は、自分の勢いのまま魔石の木箱へ突っ込んだ。
箱が砕け、黒い砂と紫色の魔石が床へ飛び散る。
倉庫の全員が、一瞬だけ動きを止めた。
最初に笑ったのは、倒されたダリオだった。
「いいな、おっさん」
口の端から血を流しながら、楽しそうに歯を見せる。
「次は、その左腕も折ってやる」
ダリオが床板の下から、太い鎖を引いた。
倉庫の奥で、重い歯車が回り始める。
「何をした!」
クラウディアが踏み込むより先に、床の一部が持ち上がった。
隠されていた水路から冷たい風が噴き上がり、床板の隙間が急速に広がっていく。
ダリオは開いた穴へ身を投げた。
ヴェラの糸が腕をかすめたが、男の姿は闇の下へ消える。
「逃げました!」
監察局員が叫ぶ。
「待ってください」
修司は耳を澄ませた。
歯車の音。水が流れ込む音。下を走る舟の軋み。
その中に、別の音が混じっている。
硬いものを叩く、小さな音。
こつ。
こつ。
こつ。
三回。
「フィーデルさんです」
ルチアから聞いた癖と同じだった。
「二十七人は、下にいます!」
◇
持ち上がった床の下には、地下水路があった。
倉庫の真下を、細長い平底船が通り過ぎようとしている。
船上には、担架と粗末な椅子が隙間なく並べられていた。
横たわる者。縄で椅子へ固定された者。口へ布を噛まされた者。
そのすべてが、紙に記された二十七人だった。
「船を止めなさい!」
ヴェラが叫ぶ。
監察局員が係留綱へ手を伸ばす。
だが、その直前、水路の奥で水門が開いた。
押し寄せた水が船尾を打つ。
綱が張り、杭が根元から抜けた。
船が暗い隧道へ向かって動き始める。
「患者さんの上へ飛び降りれば危険です!」
エヴァが叫ぶ。
修司は船上を見た。
空いている場所は、船尾に積まれた麻袋の上だけ。距離はおよそ二間。迷っている間にも、船は穴の下から離れていく。
「テアさん!」
「一人分なら!」
テアの両手が光る。
「《衝撃緩和》!」
修司は床を蹴った。
「タカセ!」
クラウディアの手が、外套の端へ触れる。
届かない。
身体が暗い水路の上へ投げ出された。
次の瞬間、修司は船尾の麻袋へ背中から落ちた。
衝撃が琥珀色の光へ吸われる。
息を詰まらせながら起き上がった修司の前で、鉄格子が轟音とともに落ちた。
倉庫と地下水路が分断される。
「タカセ殿!」
格子の向こうで、クラウディアが剣を叩きつけた。
「二十七人をお願いします! 俺は、この船を止めます!」
自分でも、無茶な言葉だと思った。
こちら側にいる味方は、立つことも声を上げることも難しい二十七人だけだった。
船の前方で、誰かが手を叩いた。
ゆっくりとした拍手だった。
ダリオが、舳先の上に立っている。
赤黒い術式を両腕へ残したまま、楽しそうに修司を見ていた。
「ようこそ、介護士」
男の背後で、暗い隧道の門が開く。
「今度は二十七人を抱えて、俺と戦ってみろ」
鉄格子の向こうの灯が遠ざかる。
修司を乗せた船は、王都の地下深くへ呑み込まれていった。




