第四十五話 炎の中の二十七人
記録室の内側で、天井が崩れた。
轟音とともに扉の隙間から炎が噴き出し、ルチアの声が途切れる。
「ルチアさん!」
修司は扉へ近づきかけ、足を止めた。
助けなければならない。
だが、何も考えずに扉を開けば、廊下へ煙と炎を広げる。自分たちが倒れれば、部屋の中にいる者を救う人間までいなくなる。
振り返ると、西棟から避難してきた患者たちで廊下が詰まり始めていた。
自分で歩ける者。杖を使う者。治療師へ肩を預ける者。寝台ごと運ばれてくる者。
火から遠ざかろうとする人と、水桶を持って火元へ向かう人が、同じ通路でぶつかっている。
「マルガレーテ院長!」
「聞こえています!」
「歩ける方は東階段へ。支えが必要な方は、手前の食堂へいったん移してください。寝台は廊下へ並べず、二部屋ごとに一つへまとめられますか」
院長は一瞬だけ周囲を見た。
「できます。エヴァ治療師、患者の振り分けを。西棟の治療師は全員、指示に従いなさい!」
「ミレイユさん、白い布を東階段まで結んでください。煙の中でも、進む方向が分かるように」
「赤い布は?」
「西棟へ戻らないよう、曲がり角に」
「分かりました」
ミレイユが下働きたちを連れて走る。
白は出口。赤は危険。
文字が読めなくても、一目で分かる。
「タカセ、こちらは任せて」
エヴァが言った。
「ただし、あなたまで患者にならないで」
「努力します」
「努力では困るのだけれど」
返事を待たず、エヴァは息苦しさを訴える老人のもとへ向かった。
修司は、記録室の前へ戻った。
◇
太い閂には、すでにクラウディアと二人の衛兵が手を掛けていた。
「外します」
「待ってください。扉の正面に立たないで。開いたら、すぐには中へ入らないでください」
水桶が届き、厚い毛布へ水が掛けられる。修司は自分の肩にも濡れた布を載せた。
右腕には、先ほどの戦いで受けた痛みが残っている。
それでも左手は動く。足も動く。一人で誰かを抱え上げるのでなければ、まだできることはある。
「外します!」
衛兵たちが閂を持ち上げた。
クラウディアが扉を少しだけ引く。
黒煙が隙間から流れ出し、廊下の高い位置へ広がった。熱に追われて全員が顔を背ける。
「ルチアさん! 返事をしてください!」
すぐには聞こえなかった。
炎が木を噛む音。その奥から、かすかな咳が返ってくる。
「……ここ、です……!」
「扉から、どちら側ですか!」
「奥の……左……書架が……」
生きている。
修司は煙の下へ身を沈めた。
「俺とクラウディアさんが入ります。衛兵のお二人は入口を確保してください。中から人を渡したら、すぐ外へ」
「あなたの腕で入るつもりですか」
クラウディアが修司を見た。
「抱えて運ぶのは任せます。俺は、中で場所と動きを見ます」
「必ず私より前へ出ないでください」
「はい」
濡れた布で口元を覆い、二人は記録室へ入った。
◇
部屋の中は、別の場所になっていた。
壁一面に並んでいた書架が傾き、帳面と紙が床を埋めている。奥の棚から上がった炎が天井を這い、落ちた火の粉が新しい紙へ燃え移っていた。
「誰かいますか!」
床近くで声を掛ける。
右手から呻き声が聞こえた。
保管係の男が机の陰に倒れている。頭から血を流していたが、呼び掛けると瞼が動いた。
「一人、ここです!」
クラウディアが男を脇から支え、入口へ引いた。
修司はその場に残らず、彼女と一緒に扉まで戻った。意識の鈍い人間を煙の中で一人にするわけにはいかない。
入口の衛兵へ引き渡す。
「もう一人の保管係は!」
「先に……窓から……外へ……」
男が途切れ途切れに答えた。
残っているのは、ルチアだけだ。
修司とクラウディアは、もう一度中へ入った。
「タカセ様……!」
左奥から声がする。
倒れた書架の向こうで、栗色の髪が見えた。
ルチアは床へ伏せ、両腕で一冊の厚い帳面を抱えている。倒れた書架の下に、右脚が挟まれていた。
「帳面を離してください。まず、身体をこちらへ」
「引けません。脚が……」
修司は書架の下を見た。
足首の位置。膝の向き。板と床の間へ挟まれた前掛け。
力任せに身体を引けば、膝をひねる。書架を持ち上げようとしても、帳面を詰めたままでは二人の力で足りない。
《生活動作把握》。
淡い線がルチアの脚と、床へ倒れた書架をなぞる。
一本だけ、ほかより太い横板があった。
そこへ力を掛ければ、書架全体を持ち上げなくても、脚の上にある部分だけを浮かせられる。
「クラウディアさん、入口から長い棒を。折れていないものをお願いします」
「すぐに」
クラウディアが戻る間に、修司はルチアの呼吸を確かめた。
「頭を打っていませんか」
「大丈夫です。脚が痛いだけで」
「大丈夫かどうかは、あとでエヴァ先生に診てもらいます。今は息をゆっくり。帳面は床へ置いてください」
「でも、二十七人の名前が」
「名前は逃げません。あなたは逃げないといけない」
ルチアは迷いながら、帳面を胸元から床へ下ろした。
天井から、火のついた木片が落ちる。
修司は濡れた布で払い、ルチアの頭へ自分の外套を掛けた。
「持ってきました!」
クラウディアが、折れた机の太い脚を持って戻る。後ろには衛兵が二人続いていた。
修司は机の脚を、横板と床の間へ差し込んだ。支点にするため、厚い帳面を束ねたものを下へ置く。
「持ち上げ続ける必要はありません。俺が合図したときだけ、こちらへ体重を掛けてください」
「タカセは?」
「俺はルチアさんの脚を抜きます」
「右腕は使わない約束です」
「左手と、ルチアさん自身の力を使います」
修司はルチアへ向き直った。
「書架が浮いたら、左の踵で床を押せますか」
ルチアが試し、うなずく。
「では、俺が膝の向きを守ります。引っ張りません。自分で身体を後ろへずらしてください」
炎が近づき、四人の影が赤く揺れる。
煙の中で、それぞれの手と足の位置が光の線になった。
クラウディア。二人の衛兵。ルチア。
修司は、必要な四人だけへ意識を絞った。
「合わせます」
《連携支援》。
淡い光が、机の脚を握る三人の腕へ走る。
ばらばらだった呼吸が、一つの間へ重なった。
「今です!」
三人が同時に体重を掛ける。
太い横板が軋み、書架の端が持ち上がった。
「ルチアさん、踵で押して!」
少女の身体が、床の上をわずかに下がる。
まだ、前掛けが引っ掛かっている。
修司は布を引かず、腰の小刀で挟まれた部分だけを切った。
「もう一度!」
頭の奥に、鋭い痛みが走る。
光が揺れた。
修司は息を吐き、線を四人だけに戻す。
「今!」
書架がもう一度浮く。
ルチアが左脚で床を押し、修司は右膝が内側へ倒れないよう左手で支えた。
挟まれていた脚が抜けた。
「離してください!」
三人が机の脚から手を放し、書架が床へ落ちる。
その衝撃で、燃えていた奥の棚が大きく傾いた。
「出ます!」
クラウディアがルチアを抱き上げる。
修司は床の帳面を見た。
取るべきではない。
そう判断したとき、ルチアが手を伸ばした。
「表紙の裏だけ! 紙が挟んであります!」
修司は帳面そのものではなく、半ば外へ出ていた折り畳み紙だけを左手で抜いた。
衛兵たちを先にし、修司が最後に続く。
入口まで数歩。
天井から梁が落ち、扉との間へ炎の壁を作った。
◇
「下がって!」
クラウディアが叫ぶ。
正面の扉は見えている。
だが、燃えた梁が道を塞ぎ、その向こうから衛兵たちの声だけが聞こえる。
「窓はどこです!」
「右の壁、奥です!」
ルチアが咳き込みながら答える。
煙でほとんど見えない。
修司は、先ほど保管係が言った言葉を思い出した。
もう一人は、窓から外へ出た。
ならば、開けられる窓がある。
「右の壁に沿って! 俺の肩から手を離さないでください!」
《生活動線把握》。
地図が現れるわけではない。
床へ落ちた机。先ほど通った書架の端。壁に沿って並んでいた保管箱。その位置が、煙に隠れた部屋の中でつながっていく。
修司は左手で壁を確かめながら進んだ。
指先に、冷たい金属の留め具が触れる。
「ここです!」
窓を押したが、動かない。
「外側の鎧戸が閉められています!」
火を放った者が、逃げ道まで塞いでいた。
クラウディアはルチアを衛兵へ預け、剣を逆手に持ち替えた。
「全員、顔を伏せてください」
柄頭が窓へ叩き込まれる。
一度。二度。
留め具が曲がり、三度目で鎧戸が外へ開いた。
朝の光と冷たい空気が、煙の中へ差し込む。
「こちらです!」
外から声が上がった。
ヴェラが回り込ませた監察局員たちが、窓の下へ荷布を広げている。
衛兵が先に外へ出て、ルチアを受け取る。もう一人、クラウディア、そして修司の順に窓を越えた。
修司の足が地面へ着いた瞬間、背後で記録室の窓から炎が噴き出した。
白い壁が赤く染まる。
間に合った。
そう思ったところで、膝から力が抜けた。
「タカセ!」
クラウディアが身体を支える。
「意識はあります」
「それは見れば分かります!」
怒った声なのに、修司の背へ回った腕は震えていた。
◇
火は、西棟へ駆けつけた水術師と、職員たちの消火によって食い止められた。
記録室の内部は大きく焼けたが、隣接する病室への延焼は免れた。患者と職員にも、死者はいなかった。
煙を吸ったルチアと保管係は、エヴァたちの治療を受けている。ルチアの右脚に骨折はなかったが、腫れがあり、その日は動かさないよう言い渡された。
修司も寝台へ座らされ、頭痛が治まるまで立つことを禁じられた。
「結局、患者になっているではありませんか」
マルガレーテが言った。
「すみません」
「謝る相手が違います」
院長の視線の先で、クラウディアが腕を組んでいた。
「あとで、きちんと叱られてください」
「はい」
その返事を聞き、ルチアが寝台の上で小さく笑った。すぐに咳き込み、エヴァから叱られる。
笑える程度には戻っている。
それを確かめてから、修司は炎の中で抜き取った折り畳み紙をヴェラへ渡した。
「濡れていますが、文字は残っています」
紙には、二十七人の名前が並んでいた。
その横には年齢、元の病室、歩行の可否、身寄りの有無。さらに、治癒を終えたあとの身体に残った不自由が記されている。
長く歩けない。
片腕が動きにくい。
視力が戻らない。
一人では食事を取れない。
「治療が終わったあとも、支援を必要とする人ばかりです」
修司は言った。
「行方を捜してくれる家族がいない者も多い」
ヴェラの声が低くなる。
「消しても、騒ぎになりにくい人間を選んでいる」
ルチアが唇を噛んだ。
「この人たちは、治ったから退院したんじゃありません。治癒師にできることが終わったから、病室を出されたんです」
マルガレーテは反論しなかった。
紙の裏側には、王都の水路を簡略化した図が描かれていた。
運河沿いの一か所に、青い印がある。
その横に短い文字が残っていた。
第七倉庫。
夜の鐘。移送。
「今夜、また人を動かすつもりです」
ミレイユが言った。
「あるいは、私たちをおびき出すために残した偽の情報です」
ヴェラは紙を光へ透かした。
「記録室へ火を放った者は逃げています。こちらがこの紙を持ち出したことも、見られている可能性がある」
「それでも、二十七人がそこにいる可能性はあります」
修司は、紙に並ぶ名前を見た。
誰かにとっては、病名と処置が終わった人間。
働けず、歩けず、助けを求めても大きな声を出せない人間。
だが、一人一人に、治療のあとも続く生活があった。
「行くつもりですか」
ヴェラが尋ねた。
「はい」
「罠かもしれません」
「だから、一人では行きません。戦う人、治療する人、逃がす人。それぞれ必要です」
修司は、まだ痛む右腕を見た。
「それに、俺の仕事は戦うことではありません」
紙の上で、二十七人の名前が並んでいる。
「連れ帰った人たちを、もう一度生活へ戻すことです」
遠くで、昼の鐘が鳴った。
夜まで、残された時間は半日しかなかった。




