第四十四話 紙の下の命令
「聖ラウレンツ施療院は、十年前に閉鎖されています」
ヴェラの言葉に、裏庭から音が消えた。
拘束された男たちが身じろぎする革紐の音だけが聞こえる。
「閉鎖された、というのは」
修司が尋ねた。
「文字どおりです。十年前の火災で建物の一部が焼け、その後は使われていません。施療院としての認可も取り消されています」
ヴェラは四枚の転院命令書を重ねた。
「少なくとも、患者を受け入れられる場所ではありません」
「では、この命令書は偽物なのですか」
ミレイユが紙をのぞき込む。
「それほど簡単なら助かるのですが」
ヴェラは紙の下部を指した。
青い蝋に、王国救恤局の紋章が押されている。翼を広げた鳥と、その下に置かれた杯。細い羽根の一本まで潰れずに残っていた。
「印章は、私の知る限り本物です」
「押した人間が、正しい命令を出したとは限りません」
クラウディアが言った。
「ええ。ですから調べます」
ヴェラの灰青色の目が、捕らえられた三人へ向いた。
「局員の証票も確認しました。二人は救恤局に登録された搬送人。火術を使った男は、災害時の護衛として雇われた傭兵です。盗んだ制服を着た、ただの誘拐犯ではありません」
治癒院の中へ、正式な身分で入ってきた。
本物の印を押した命令書を持ち、患者を縛り、眠り薬を使って連れ出そうとした。
裏門で捕らえられなければ、オルテも「転院した患者」として処理されていたのだろう。
「三人を別々に監察局へ運びなさい」
ヴェラが部下へ命じる。
「身体強化術の術式は消さずに保全を。火術杖、証票、衣服、馬車のすべてを押収します。救恤局には、まだ連絡しないように」
「局員が関わっているのにですか」
マルガレーテが尋ねる。
「関わっているからです。今知らせれば、命令書を出した者が先に証拠を消します」
ヴェラは転院命令書を革張りの板へ載せ、部下に持たせた。
「関係者から事情を聴きます。院長、治療師、発見者。それから――」
視線が修司で止まる。
「救恤局の人間を二人投げ、走る馬車から御者を落とした異世界人にも」
「患者を助けるためです」
「その主張も含めて聴取します」
クラウディアが修司の前へ出かけた。
修司は小さく首を横へ振る。
「分かりました。ただ、オルテさんの状態を確認してからにしてください」
「あなたの聴取に、患者の状態が関係ありますか」
「あります。俺たちが止めた行為が搬送だったのか、誘拐だったのか。それを一番知っているのは、連れ去られかけた本人です」
ヴェラは修司を見つめた。
「あなたは、戦いのあとでも介護士なのですね」
「戦うことが、本職ではありませんから」
◇
聴取は、王立治癒院の会議室で行われた。
修司の頬には細い保護布が貼られ、右腕には冷やした布が巻かれている。
「痛みは?」
エヴァが尋ねた。
「動かすと少し」
「少し、では分かりません」
修司が右腕を肩の高さまで上げると、途中で鈍い痛みが走った。
「そこまで。骨に異常はないけれど、今日は重いものを持たないで」
「分かりました」
「合気道も禁止です」
「もう襲われなければ」
「襲われてもです」
エヴァが言い切ると、クラウディアが隣で深くうなずいた。
向かいに座るヴェラだけが、表情を変えず書面へ目を落としていた。
「では、最初から確認します。タカセ・シュウジ。あなたは第二王女殿下の療養室で朝食支援を行っていた」
「はい」
「そこで下働きのルチア・ベルが、患者オルテ・ハイムの予定外の転院を知った」
「そうです」
「院長が許可していないと分かり、あなたは衛兵を待たずに裏庭へ向かった」
「待てば、馬車が門を出ると思いました」
「そして、武器を抜くと予測して先に構えた」
「男の手が外套の中へ入るのを見ました」
「偶然にしては、随分よく見えていますね」
「仕事で、人の動きを見ることに慣れていますから」
ヴェラの筆が止まった。
「市場の盗人も、街道の偽装負傷者も、同じように見抜いた」
「はい」
「あなたが王都へ来てから、事件がよく起こります」
「俺も、そう思います」
修司が答えると、ヴェラの片眉がわずかに動いた。
「否定しないのですか」
「起きていないとは言えません。ただ、俺が来る前に連れ去られた三人まで、俺が仕組むことはできません」
「その三人が実在し、本当に連れ去られたと確認できれば、ですが」
「クロイツ監察官」
クラウディアの声が低くなる。
「タカセは刃物と火術を向けられながら、患者を救ったのです。疑う相手を間違えていませんか」
「誰を疑うか先に決める方が、監察官としては間違いです」
ヴェラは視線を返した。
「私は彼を犯人だと決めていません。善人だとも決めていないだけです」
二人の間に、冷たい空気が張る。
修司は机の端に置かれた四枚の命令書を見た。
先ほどは、書かれている内容だけを追っていた。
今は窓から斜めに差し込む光が、紙の表面を照らしている。
一枚目の中央に、細い影があった。
「監察官。その書類を、もう少し窓の方へ動かしていただけますか」
「なぜです」
「確認したいことがあります。触りません」
ヴェラは警戒したまま、革張りの板を窓辺へ寄せた。
修司は立ち上がり、紙面と同じ高さまで目線を下げる。
「何が見えるのですか」
ミレイユが隣から尋ねた。
「転院先の文字の下だけ、光り方が違います」
聖ラウレンツ施療院。
その一行の周囲だけ、紙の表面がわずかに盛り上がっている。
正面から見れば、ほとんど分からない。
だが、斜めの光では、文字の上下に髪の毛ほどの影ができていた。
「紙の上に、もっと薄い紙を貼っています」
「貼る?」
マルガレーテが命令書へ顔を近づける。
「上から文字を書き足したのではありません。別の紙へ書いた一行を切り、元の文字の上へ貼ったんです」
修司の指が、紙へ触れない位置で端をたどった。
印刷会社へ入ったころ、文字は画面の中になかった。
暗室で印画紙へ焼きつけた文字を、カッターと定規で必要な大きさに切る。糊で台紙へ貼り、行間と位置を揃える。修正が入れば、貼った文字を剥がし、新しいものへ差し替えた。
わずかに傾いた行。糊の厚み。切り口が作る細い影。
二十年近く前に毎日見ていたものが、異世界の正式文書に残っていた。
「そのような細工で、印章まで本物にできるのですか」
ヴェラが尋ねる。
「逆です。印が押された本物の書類だから、文字だけを変えたんだと思います」
ミレイユが四枚を見比べる。
「すべて、転院先の一行だけがわずかに高いです。日付も……二枚は貼られています」
「剥がせば、下に元の文字が残っている可能性があります」
「証拠を傷つけます」
ヴェラはすぐに言った。
「俺は触りません。ですが、その糸ならできませんか」
修司は、彼女の右手を見た。
中央市場で修司と盗人を同時に縛った、細い魔導糸。
ヴェラはしばらく黙ったあと、右手の手袋を外した。
「本当に、人の使い方までよく見ている」
指先から、青い光の糸が伸びた。
糸は命令書の表面をなぞり、貼られた紙の角へ潜り込む。ヴェラが指をわずかに持ち上げると、薄い紙片が音もなく浮いた。
下から、別の文字が現れる。
家族引き渡し――南門第三詰所。
ルチアが小さく息をのんだ。
「オルテさんが話していた場所です。娘さんと、南門で待ち合わせると」
ヴェラは部下の一人を呼んだ。
「ルチア・ベル。オルテと、先に移送された三人の退院台帳を探してください。この者を護衛につけます。見つけても、頁を抜いたり書き加えたりしないように」
「はい」
「記録室の保管係にも、監察局の確認だと伝えなさい」
ルチアは監察局員とともに会議室を出ていった。
命令書は、初めから偽物だったのではない。
オルテを家族へ返すために作られ、正規の印を押された書類だった。
その行き先だけが消され、存在しない施療院へ置き換えられている。
「ほかの三枚も」
ヴェラが、順番に紙片を浮かせていく。
一枚目は、家族の住む西区。
二枚目は、職人組合の療養所。
三枚目は、教会付属の共同住宅。
いずれも、本来なら患者を待つ者がいる場所だった。
「家族は、予定どおり帰ってこなければ治癒院へ問い合わせるはずです」
エヴァが言った。
「問い合わせが来ていないのなら、家族側にも別の知らせが届いている可能性があります」
「患者は予定どおり引き渡した、と治癒院へ。受け入れ先には、転院が決まったと伝える」
ミレイユの顔が強張る。
「両方へ違う書類を送れば、その間で人が消えても、すぐには分からない」
ヴェラは、剥がした紙片を一枚ずつ透明な薄板へ挟んだ。
「この加工には、正規書類の原本へ触れる必要があります。患者の退院予定と、家族への引き渡し場所も知っていなければならない」
「院内の記録と、救恤局の搬送予定。その両方を見られる人間です」
修司が言った。
ヴェラは否定しなかった。
先ほどまで修司へ向けられていた疑いが、別の場所へ向かい始めている。
そのとき、廊下の鐘が激しく鳴った。
一度、二度、間を置かず三度。
治癒院内で火災が起きたときの警鐘だった。
◇
「火です!」
扉が開き、灰色の制服を着た下働きが転がり込んできた。
「西棟の記録室から煙が!」
マルガレーテが立ち上がる。
「記録室には誰がいます」
「保管係が二人と、監察官様の命令で帳面を探しに行ったルチアが――」
「護衛を一人つけたはずです」
ヴェラの声から、初めて余裕が消えた。
「記録室の前で倒れています。頭から血が……扉も、外から閂を掛けられていて!」
修司は椅子を引いた。
「右腕を使わないでと言ったでしょう!」
エヴァの声が飛ぶ。
「分かっています。だから、一人では行きません」
クラウディアを見る。
彼女はすでに剣を手にしていた。
「一緒に行きます」
「私は外から逃げた者を追います」
ヴェラが監察局員へ合図する。
「院長は避難を。証拠より人命を優先してください」
「言われるまでもありません」
会議室を飛び出すと、廊下の先に黒い煙が見えた。
西棟へ近づくほど、薬草の匂いが焦げた紙の臭いへ変わっていく。
治癒師と下働きたちが、患者を東側へ誘導していた。歩ける者、支えが必要な者、寝台ごと運ばれる者。廊下はたちまち人で詰まり始めている。
「走らないでください! 右側を空けて!」
修司は声を上げながら、人の流れを壁際へ寄せた。
今は技能を広げない。
先ほどの戦いで頭の奥に痛みが残っている。ここで無理に使えば、火の前へ着く前に倒れる。
曲がり角を越えた瞬間、熱い風が顔へ当たった。
記録室の扉から、黒煙が噴き出している。
太い閂が、外側から掛けられていた。
中にいる者を逃がさず、記録ごと焼くために。
「ルチア!」
クラウディアが扉へ駆け寄る。
返事はない。
修司は扉へ手を触れる前に、甲で熱を確かめた。熱い。正面から開ければ、炎と煙が一気に廊下へ出るかもしれない。
「水を! それから、ほかの入口がないか確認してください!」
下働きたちが走り出す。
扉の奥で、何か重いものが倒れた。
続いて、咳き込む声が聞こえる。
「タカセ……様……!」
「ルチアさん! 扉から離れてください!」
「帳面が……ありました……!」
煙に途切れながら、少女の声が届く。
「三人だけじゃ、ありません……同じ印の人が、もっと……」
「帳面は置いてください! まず扉から離れて!」
「でも、名前が……!」
扉の下から、一枚の紙が滑り出てきた。
端に火がつき、赤く縮れ始めている。
修司は靴底で火を消し、紙を拾った。
縦に並んだ患者の名前。その横に、同じ印が繰り返されている。
移送済み。
四人ではなかった。
紙に残っているだけで、二十七人。
その瞬間、記録室の内側で天井の一部が崩れた。
轟音とともに炎が立ち上がり、ルチアの悲鳴が途切れる。




