第四十三話 介護士の戦い方
男の右手が、灰色の外套から抜かれた。
朝の光を受け、短剣の刃が白く光る。
修司は刃ではなく、男の肩を見ていた。
右肩が沈み、肘が身体の後ろへ引かれる。短剣を見てから動いたのでは間に合わない。腕が出てくる前に、その軌道から身体を外す。
《生活動作把握――自己適用》。
石畳を踏む自分の足と、迫る男の身体が、淡い線で結ばれた。
「邪魔だ!」
男が踏み込む。
修司は左斜め前へ足を運んだ。
短剣が脇腹の横を通り、上着を浅く切り裂く。
冷たいものが腹のすぐそばを走った。
怖い。
その感覚を消そうとはしなかった。刃物を怖がらなくなったら、次は身体の方が動かなくなる。
通り過ぎようとした男の手首へ右手を添え、左手で肘を支える。短剣を奪おうと引っ張らず、男が進もうとする方向へ腕を導いた。
「なっ――」
男の足が、身体に追いつかなくなる。
修司が腰の向きを変えると、男は馬車の側板へ肩からぶつかった。
鈍い音が裏庭へ響く。
短剣が石畳へ落ちた。
いける。
そう思った瞬間、男の腕に赤い光が走った。
袖の下から幾何学模様が浮かび上がり、肩まで一気に広がっていく。
身体強化術。
王都の門で、重い横木を持ち上げた衛兵たちに使われていたものと同じ種類の魔法だった。
「こんな術まで使えるのか」
「使えるんじゃねえ。使わせてもらってるんだよ!」
男が腕を振り上げた。
修司は手首を制していたはずだった。だが、力だけで腕が持ち上げられ、身体ごと馬車から引き剥がされる。
男の裏拳が頬をかすめた。
視界が揺れる。
続いて胸を押され、修司は二歩、三歩と後退した。背中が石壁へぶつかり、肺の空気が押し出される。
「タカセ!」
クラウディアが振り向いた。
その隙を、もう一人の男は逃さなかった。
灰色の外套の下から短い杖を出し、赤く光る先端を彼女へ向ける。
「前を見てください!」
修司が叫んだ。
火の塊が放たれた。
クラウディアは横へ跳びながら剣を抜いた。炎が白い石壁へぶつかり、乾いた破裂音とともに黒い焦げ跡を残す。
剣と短杖がぶつかる。
男は杖を失わなかった。空いた手で細身の剣を抜き、クラウディアへ斬りかかる。
火術を使える剣士。
彼女一人に任せても、すぐには終わらない。
その向こうで、御者台にいた三人目の男が手綱をつかんだ。
「馬車を出せ!」
鞭が鳴る。
馬が前脚を上げ、担架を載せた荷台が大きく揺れた。
「オルテさん!」
ルチアが馬車へ駆け寄ろうとする。
「正面へ出ないで!」
修司の声に、少女の足が止まった。
馬車と裏門の間に立てば、馬か車輪に巻き込まれる。だが、このままではオルテが連れ去られる。
短剣を落とした男が、赤い光をまとったまま修司へ迫る。
「よそ見してる暇があるのか、おっさん!」
拳が飛んでくる。
修司は両腕で顔を守りながら身をひねった。拳は腕をかすめ、背後の壁へ当たる。
白い石の表面が砕けた。
人間の腕力ではない。
まともに受ければ、骨ごと折られる。
それでも、男の動きが見えないわけではなかった。
赤い光は力を増している。だが、身体の使い方までは変えていない。
強く踏み込み、強く殴る。そのたびに右の踵が浮き、肩が先へ流れる。強くなった自分の力を、男自身が持て余していた。
修司は、息を吐いた。
若いころなら、自分も力で投げようとしたかもしれない。
五十二歳の身体では無理だった。
だからこそ、相手の力を使う。
男が三度目の拳を引いた。
修司はすぐには動かなかった。
拳が届く直前に、半歩だけ内側へ入る。
頬の横を風が抜けた。
男の手首へ触れ、腕を押さえ込まず、そのまま前へ送る。自分の身体は男の脇を通り、足を円を描くように運んだ。
男の視線が、修司を追う。
だが、赤い光に押し出された拳は止まらない。
肩が回りすぎ、腰が遅れ、踵が石畳から離れた。
修司は、伸びきった腕を両手で導いた。
振り向こうとした男の身体が、自分の拳に引かれるように宙へ浮く。
「おおっ――!」
大きな背中が回った。
次の瞬間、男は石畳へ叩きつけられていた。
腹の底まで響く音がした。
赤い光が弾け、男の腕から消える。
修司はその場で膝をつき、男の手首を背へ回した。肘を壊す位置までは曲げず、肩と手首が同時に動けない角度で止める。
「動かないでください」
「この……離せ!」
「強化術は切れています。今、無理に動けば肩を痛めます」
「知るか!」
男が暴れ、修司の腕が持ち上がりかける。
まだ、押さえ続けるだけの力が残っている。
だが、その力がどこへ向かうかは見えた。
修司は腕で争わず、自分の膝と身体の位置を変えた。男が起きようとするたび、力が地面へ戻っていく。
後ろから、馬の嘶きが聞こえた。
馬車が動き始めている。
敵を押さえたままでは、オルテを救えない。
かといって手を離せば、短剣を拾われる。
修司は裏庭を見た。
クラウディア。ルチア。東階段から駆けてくる二人の衛兵。
全員の位置と、進もうとしている方向が、光の線になって重なった。
自分一人で、すべてをする必要はない。
「力を貸してください!」
《連携支援》。
修司を中心に淡い光が広がった。
一本はクラウディアへ。
一本はルチアへ。
さらに二本が、駆けつけた衛兵たちへ伸びる。
これまでより多い。
こめかみの奥で鋭い痛みが走ったが、光は途切れなかった。
「衛兵のお二人は、俺が押さえている男を!」
二人が左右から入る。一人が落ちた短剣を蹴り飛ばし、もう一人が男の両腕を引き受けた。
修司は手を離すと同時に立ち上がった。
「ルチアさんは馬車の左側へ! オルテさんの担架を押さえてください!」
「はい!」
ルチアは馬の前へ出ず、荷台の横へ回り込んだ。走り出そうとする馬車に手を掛けるのではなく、半ば外れかけた担架の留め具を握る。
「クラウディアさん、右へ二歩!」
彼女は理由を尋ねなかった。
剣を合わせたまま右へ動く。
火術の男も追う。
それによって、馬車へ続く道が一瞬だけ開いた。
男はクラウディアを追い込んだつもりだった。
だが、二歩先には洗濯物を入れた大籠が置かれている。男はそれを避けるため、踏み込む足を外へ開いた。
クラウディアの剣が、短杖を下から打ち上げた。
火が空へ逸れる。返す刃が細身の剣を弾き、そのまま男の喉元で止まった。
「武器を捨てなさい」
背後で短杖と剣が石畳へ落ちる音を聞きながら、修司は走った。
若いころのような速さは出ない。壁へ打ちつけた背中が痛み、息も上がっている。
それでも、馬車の後ろではなく、前輪が向かう先へ斜めに走った。
御者台の男が鞭を振り上げる。
「どけ!」
狙われたのは、担架を押さえるルチアだった。
「頭を下げて!」
光の線を通じて声が届く。
ルチアが身を伏せ、鞭が空を切る。
修司は馬車の側面へ追いついた。
荷台の縁へ左手を掛け、足を踏み板へ載せる。揺れに身体を逆らわせず、一度沈んでから御者台へ上がった。
「この野郎!」
御者が鞭の柄を振り下ろす。
修司は右腕で頭を守った。硬い柄が腕へ当たり、指先まで痺れる。
次を振り上げる前に、その手首へ両手を添えた。
御者は修司を突き落とそうと腕を押す。
修司は押し返さなかった。
腕を外へ回しながら、自分の身体を御者台の内側へ入れる。男の胸が前へ向き、尻が座面から浮いた。
手綱を握る左手が伸びきる。
「ルチアさん、担架から離れて!」
少女が手を放すのを確かめ、修司は御者の右手を下へ導いた。
男の身体が御者台から落ちる。
ただし、石畳へ頭から落とすことはしなかった。
最後に外套の背をつかみ、身体の向きを変える。男は肩から地面へ転がり、勢いのまま二度回って止まった。
修司自身も御者台へ膝をついた。
目の前で、門が近づいてくる。
手綱を取らなければならない。
だが、馬の扱いなど分からない。
「引くだけでは止まりません!」
ルチアの声がした。
「左の手綱を短く持って、声を掛けてください! その馬は『止まれ』で止まります!」
修司は左右の手綱を見た。
《連携支援》の光が、ルチアの指し示す左の革紐へ重なった。
左を短く持ち、両手を低く引いた。
「止まれ!」
馬の首がわずかに左へ向く。
蹄が石畳を削り、馬車が大きく揺れた。
裏門まで、あと数歩。
車輪が止まった。
門の詰所から衛兵が飛び出し、石畳に転がっていた御者を取り押さえる。男が起き上がろうとしたときには、槍の穂先が胸元へ向けられていた。
◇
「オルテさん!」
ルチアが荷台へ駆け寄る。
修司は御者台から飛び下りようとして、思い直した。痺れた右腕と揺れる足で跳べば、自分が転ぶ。
踏み板へ足を下ろし、一段ずつ地面へ降りた。
頭の奥が脈打っている。
《連携支援》を解くと、張りつめていた光が一斉に消えた。
「タカセ、大丈夫ですか!」
クラウディアが駆けてくる。
火術の男は、剣を失って石畳へ伏せていた。衛兵の一人が背へ膝を当て、腕を縛っている。
「俺より、オルテさんを」
修司は荷台へ上がった。
老人の口元から布を外す。すぐに水を飲ませるようなことはせず、まず呼吸と意識を確かめた。
「オルテさん。聞こえますか。ここは王立治癒院の裏庭です」
老人の瞼が動いた。
「……ルチア」
「います。ここにいます!」
返事はできている。だが、声が弱く、息も浅い。
修司は毛布の下を確かめた。両手首は革紐で縛られ、担架にも固定されている。右脚は留め具の外へずれ、足首が不自然に曲がっていた。
「脚を動かさないでください。治療師の確認を待ちます」
「エヴァ先生を呼んできます!」
ルチアが走り出す。
「衛兵さん、一人ついてください。まだ仲間がいるかもしれません」
修司の指示に、衛兵がうなずいた。
クラウディアは捕らえた男たちを見た。
「三人とも、生かして押さえました。逃げた者はいません」
「よかった」
「あなたは、よくありません」
彼女の指が、修司の頬へ伸びる。裏拳がかすめた場所に、細い血の筋ができていた。
「また、自分のけがを後回しにしています」
「オルテさんより先に診てもらうほどではありません」
「それを決めるのは、エヴァでしょう」
以前、自分がマルガレーテに言われたことと同じだった。
修司は反論できず、短くうなずいた。
◇
エヴァとマルガレーテが到着し、オルテの状態を確認した。
「眠り薬の反応があります」
マルガレーテが老人の瞼と魔力の流れを調べながら言った。
「量は分かりません。療養室へ戻し、呼吸と意識を見ます。右足首も確認が必要です」
「担架のまま運んでよいですか」
「ええ。ただし、留め具を外す前に足の位置を戻します。タカセさん、動かし方を」
院長から初めて、患者の移動について意見を求められた。
修司はうなずき、衛兵と下働きたちの立つ位置を決めた。
オルテを運び出したあと、荷台には一つの革鞄が残った。
ミレイユが衛兵とともに裏庭へ来て、鞄の中身を確かめる。
「転院命令書です。一枚ではありません」
取り出された紙は、四枚あった。
すべてに王国救恤局の印があり、患者の名前、年齢、病室、転院先が記されている。
一番上が、オルテ・ハイム。
残る三人の名前を見たルチアが、息をのんだ。
「この人たち、知っています」
「治癒院の患者ですか」
「そうです。でも、もう退院したと聞きました。家族のところへ帰ったと……」
三枚には、すでに赤い線が引かれていた。
移送済み。
その文字が、修司の目へ刺さった。
「転院先は、すべて同じです」
ミレイユが紙を並べる。
聖ラウレンツ施療院。
聞き覚えのない名前だった。
「その書類を、こちらへ」
裏門の方から、冷静な女性の声がした。
濃紺の長衣が朝の風に揺れる。
特務監察官ヴェラ・クロイツが、監察局員を連れて立っていた。
捕らえられた男たち、石壁の焦げ跡、修司の切れた上着を順に見てから、ヴェラは書類へ目を落とした。
「また、ずいぶん派手に出迎えてくださいましたね」
「俺たちが始めたわけではありません」
「それは調べます。あなたの言葉ではなく、残った証拠から」
ヴェラは手袋を外し、転院命令書の一枚を受け取った。
転院先を見た瞬間、灰青色の瞳から皮肉が消えた。
「おかしいですね」
「何がですか」
修司が尋ねる。
ヴェラは四枚の紙を重ねた。
「聖ラウレンツ施療院は、十年前に閉鎖されています」
ルチアの顔が青ざめる。
「では、あの三人は……どこへ連れていかれたんですか」
誰も答えられなかった。
白い治癒院の朝に、三人の患者が消えていたことだけが残った。




