第四十二話 王女が選んだ朝食
翌朝、王立治癒院の鐘が鳴る前に、修司はリディアの療養室へ向かった。
扉の前には、朝食を載せた配膳台が置かれている。
蓋のついた器が五つ。焼きたてのパン。銀の水差し。王女へ出すものらしく美しく整えられていたが、香草と焼いた卵の匂いが、閉じた蓋の隙間から漂っていた。
「いつもでしたら、鐘と同時に殿下をお起こしします」
侍女が声を落として言った。
「身支度にも時間がかかりますので」
「今朝は、自然に目が覚めるまで待てませんか」
「ですが、お食事が冷めてしまいます」
「冷めたら温め直すことはできますか」
「厨房へ戻せば可能です」
「では、そうしましょう」
侍女は戸惑いながら、寝台のそばに立つマルガレーテを見た。
院長は夜番の記録を閉じた。
「昨夜は二度、お目覚めになっています。今は眠れているのですから、急いで起こす必要はありません」
その一言で、朝食は隣室へ戻された。
王女の朝は、鐘と予定表によって決められてきた。
今朝だけは、本人が目を開けるところから始める。
◇
鐘が鳴ってから半刻ほど過ぎたころ、リディアがゆっくり目を開けた。
しばらく天井を見つめ、それから顔を窓の方へ向ける。
「朝なのですね」
「おはようございます、殿下」
修司が頭を下げると、リディアはわずかに目を細めた。
「本当に来たのですね、タカセ」
「何を召し上がりたいか、伺う約束でしたから」
「その前に診察です」
マルガレーテが間へ入った。
脈、熱、呼吸、魔力の流れ。院長が一つずつ確認し、エヴァも顔色と受け答えを確かめる。
「昨夜より脈は落ち着いています。熱もありません。上体を起こして食事をすることは認めます。ただし、立つことと歩くことは許可できません」
「分かっています」
不満そうではあったが、リディアは反論しなかった。
修司は、前日に作った記録用紙を卓へ置いた。
「では、最初に時間を決めましょう。今すぐ召し上がりますか。それとも、顔を洗って少し休んでからにしますか」
リディアは少し考えた。
「顔を洗い、髪を整えてからにします」
「場所はどうされますか」
「窓辺の卓で、と言えば、院長が止めるのでしょうね」
「今朝は寝台でお願いします」
マルガレーテは譲らない。
リディアは部屋を見回し、窓辺に置かれた丸卓を指した。
「では、あの卓をこちらへ。わたくしが窓辺へ行けないなら、窓辺の朝をここへ持ってきてください」
侍女たちが一瞬、顔を見合わせる。
「できませんか?」
「いいえ。すぐに」
丸卓が寝台のそばへ移され、窓の薄布が開かれた。朝の光が差し込み、卓上の花瓶を淡く照らす。
それだけで、昨日までの療養室とは違って見えた。
公務の続きを待つ部屋ではない。
リディアが自分の朝を迎えるための場所になっていた。
◇
身支度を終えたリディアの前へ、温め直された料理が運ばれた。
「すべてを食べる必要はありません」
修司は言った。
「食べられそうなものと、その量を殿下が決めてください」
侍女が最初の蓋へ手を掛ける。
「あの、その卵は……」
配膳台の後ろから、小さな声がした。
灰色の前掛けをつけた少女が立っていた。短い栗色の髪に、大きな茶色の瞳。料理を運んできた下働きらしく、両手に布を抱えている。
「何です、ルチア」
年長の侍女が振り返った。
「殿下は、大きな祝福をなさった次の朝には、焼いた卵の匂いで気分を悪くされることが多いです」
「勝手なことを申してはいけません」
「でも、五日前も、その前も――」
「少し待ってください」
修司が二人の間へ声を入れた。
リディアを見ると、まだ開けられていない蓋から、わずかに顔を遠ざけている。
「殿下。卵の匂いは、今はつらいですか」
「ええ。あまり嗅ぎたくありません」
マルガレーテがすぐに指示した。
「蓋を開けず、そのまま下げてください」
卵料理が隣室へ運ばれる。
少女は叱られると思ったのか、布を抱えたまま身体を縮めていた。
「ルチアさん。どうして知っていたんですか」
修司が尋ねると、少女はおそるおそる顔を上げた。
「食器を下げるのが、私の仕事だからです。大きな祝福の次の日は、卵と濃い肉汁にはほとんど手をつけられません。でも、冷ました麦粥と煮た林檎なら、少し多く召し上がります」
「何回くらい見ましたか」
「少なくとも六回です」
治癒師の診察ではない。病名を決める言葉でもない。
それでも、毎日同じ食器を運び、残されたものを見てきた者にしか気づけない変化だった。
マルガレーテはしばらくルチアを見つめたあと、記録用紙を引き寄せた。
「今の話は、確認できる範囲で記録します。推測は加えないように」
「はい」
「よく知らせてくれました」
ルチアの大きな瞳が、さらに見開かれた。
残った料理の蓋が、一つずつ開けられる。
リディアは香りを確かめ、麦粥と煮た林檎を選んだ。
「麦粥は、この器の半分。林檎は三切れ。飲み物は香草茶ではなく、水を」
「昨日の軽い器でよろしいですか」
修司が尋ねる。
「ええ。あれなら、自分で持てます」
小さな取っ手付きの器へ、選んだ量だけが盛られた。
修司は背中へ重ねた枕の高さを整え、器を手の届く位置へ置いた。
「食器を取る動きを見るため、技能を使ってもよろしいですか」
「今日は役に立つ奇跡を見せてください」
「奇跡ではありません」
《生活動作把握》。
淡い光の線が、リディアの肩と肘、器の取っ手を結んだ。
視界へ入ってくる情報を、必要な動きだけに絞る。以前のような頭痛は起こらず、足元も揺れなかった。
「器を、もう少し手前へ。はい、そこです」
リディアは片手で取っ手を持ち、もう片方を底へ添えた。
一口目を飲み込む。
室内にいた全員が、王女の口元を見つめていた。
「これほど大勢に見守られては、食欲も逃げてしまいます」
リディアが呟くと、クラウディアが口元を押さえた。
「確かに、落ち着きませんね」
マルガレーテは侍女を一人だけ残し、ほかの者を扉の外へ下げた。院長自身も少し離れ、エヴァと記録を確かめる。
誰も急かさなかった。
麦粥を一口。水を少し。煮た林檎を一切れ。
途中で手を止めて休み、呼吸が整うと、自分からもう一度器へ手を伸ばす。
やがて、選んだ器が空になった。
「終わりました」
リディアが言った。
侍女の顔に笑みが浮かぶ。
「殿下が朝食をすべて召し上がったのは、いつ以来でしょう」
「すべてではありません」
修司は空の器を見た。
「殿下が選んだ分を、召し上がったんです」
多すぎる一人前を残したのではない。
自分で決めた一人前を、自分の手で終えた。
リディアは空になった器を見つめた。
「昨日までより少ないのに、今日は残した気がしません」
「殿下が、ご自分で終わりを決められたからだと思います」
マルガレーテが近づき、脈と顔色を確かめる。
「吐き気も、呼吸の乱れもありません。今朝のところは、ですが」
最後まで慎重な言葉だった。
それでも院長は、修司の作った用紙へ自分の手で書き加えた。
朝食後、体調の悪化なし。
◇
ルチアが空の食器を配膳台へ戻していると、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。
「ルチア、ここにいたの」
灰色の制服を着た年長の女性が、扉の前で息を整えた。腰にいくつもの鍵を下げ、下働きたちをまとめているらしい。
「東病室の朝食が一つ残っています。オルテさんの分です」
「すぐにお持ちします」
「必要ありません。夜明け前に転院されたそうです」
ルチアの手が止まった。
「転院?」
「救恤局の方が迎えに来ました。正式な命令書もあったそうです」
「でも、オルテさんは明日まで動かないはずです」
「治療師が決めたことです。あなたが口を挟む話ではありません」
「違います。娘さんが明日、南の村から迎えに来るから、それまでは絶対に移らないと――」
マルガレーテが顔を上げた。
「私は、東病室の患者に転院許可を出していません」
部屋の空気が変わった。
年長の女性から血の気が引く。
「ですが、夜番の者は院長印があったと」
「命令書はどこにあります」
「東病室の記録係が……」
修司はルチアへ尋ねた。
「オルテさんは、自分で歩ける方ですか」
「寝台の柵を持てば身体を起こせます。でも、右脚に力が入りにくくて、長い距離は歩けません。階段は無理です」
「救恤局の方は、どの道から?」
「裏門へ近い東階段だと思います。患者を運ぶときは、いつもあそこを――」
言い終わる前に、遠くで扉の閉まる重い音がした。
修司は窓へ向かった。
眼下に、治癒院の裏庭が見える。洗濯物を運ぶ使用人たちの向こうで、灰色の外套を着た二人の男が担架を運んでいた。
裏門の外には、幌をかけた小さな馬車が待っている。
「あの人たちです!」
ルチアが叫んだ。
マルガレーテは扉へ向き直った。
「衛兵へ知らせます。エヴァ治療師は殿下のそばに」
「私が行きます」
修司が言った。
「命令書の確認が先です」
「確認している間に、門を出ます」
「タカセさん。あなたに彼らを拘束する権限はありません」
「拘束はしません。ただ、本人へ確かめます」
修司は寝台のリディアを見た。
朝食支援は、まだ院長の管理下にある。自分だけの判断で部屋を離れてよいのか、一瞬迷った。
それを見抜いたように、リディアが言った。
「わたくしの朝食は終わりました」
紫紺の瞳が、裏庭へ向けられる。
「今、あなたを必要としている人のところへ行きなさい、タカセ」
「はい」
修司は一礼し、扉へ向かった。
「私も行きます」
クラウディアが続く。
「ルチアさん。東階段まで案内してください。ミレイユさんは衛兵に、裏門を閉めるよう伝えてください」
修司の口から、考えるより先に指示が出ていた。
「はい!」
廊下へ飛び出したルチアを追い、修司とクラウディアが走る。
◇
東階段には、薬草と濡れた布の匂いがこもっていた。
狭い石段を二階分下りる。五十二歳の身体では、若いルチアと同じ速さでは走れない。それでも、踊り場で壁へ手をつき、息を乱さないよう足を運んだ。
下から男たちの声が聞こえる。
「急げ。鐘が三度鳴る前に出るぞ」
「裏門が閉まる」
正式な転院なら、門が閉まることを恐れる必要はない。
修司たちは一階へ下り、裏庭へ出た。
男たちは、担架を馬車の荷台へ滑り込ませようとしていた。
「待ってください!」
修司の声に、二人が振り向く。
灰色の外套の胸元には、王国救恤局の印が縫いつけられていた。
「何だ」
「その方に、転院の意思を確認させてください」
「院長の命令だ。部外者は下がれ」
「院長は、許可を出していないと言っています」
男たちの目つきが変わった。
クラウディアが修司の半歩前へ出る。
「担架から手を離しなさい」
低い声とともに、剣の鯉口が切られた。
一人が舌打ちし、担架へ掛けていた毛布を乱暴に引き上げる。
その下に、痩せた老人の顔が見えた。
「オルテさん!」
ルチアが叫ぶ。
老人の目は開いていた。
だが返事はない。口元には布が巻かれ、両腕は毛布の下へ不自然に押し込まれている。
オルテは修司を見た。
震える指が、毛布の端を一度だけ叩いた。
修司の目に、老人の身体を縛る淡い線が浮かぶ。
《生活動作把握》。
肩は動かせない。右脚は担架の外へずれかけている。自分で横になった姿勢ではない。
そして、布の奥で唇が動いた。
声にならない二文字だった。
たすけて。
男の一人が外套の内側へ手を入れる。
肩が引かれ、肘がわずかに後ろへ下がった。
武器を抜く動きだった。
修司は息を吐き、右足を半歩引いた。
逃げるためではない。
相手の力を受け流せる位置へ立つためだった。
「クラウディアさん。後ろの男をお願いします」
「前はどうするのです」
「俺が止めます」
男の手が、外套の中で短剣の柄を握った。
「五十二のおっさんが、何を止める」
修司は、男の目から視線をそらさなかった。
「その人は、助けてほしいと言いました」
右手を身体の前へ上げ、重心を静かに落とす。
「なら、介護士が見過ごすわけにはいきません」




