↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
国を立たせる介護士 ~52歳で異世界召喚された外れ職《生活支援士》、寝たきりの老将から滅びかけた王国まで再建する~  作者: 狼賀亮一郎
第二部 白き王都と傷なき聖女編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
42/72

第四十二話 王女が選んだ朝食

翌朝、王立治癒院の鐘が鳴る前に、修司はリディアの療養室へ向かった。

 扉の前には、朝食を載せた配膳台が置かれている。

 蓋のついた器が五つ。焼きたてのパン。銀の水差し。王女へ出すものらしく美しく整えられていたが、香草と焼いた卵の匂いが、閉じた蓋の隙間から漂っていた。

「いつもでしたら、鐘と同時に殿下をお起こしします」

 侍女が声を落として言った。

「身支度にも時間がかかりますので」

「今朝は、自然に目が覚めるまで待てませんか」

「ですが、お食事が冷めてしまいます」

「冷めたら温め直すことはできますか」

「厨房へ戻せば可能です」

「では、そうしましょう」

 侍女は戸惑いながら、寝台のそばに立つマルガレーテを見た。

 院長は夜番の記録を閉じた。

「昨夜は二度、お目覚めになっています。今は眠れているのですから、急いで起こす必要はありません」

 その一言で、朝食は隣室へ戻された。

 王女の朝は、鐘と予定表によって決められてきた。

 今朝だけは、本人が目を開けるところから始める。

     ◇

 鐘が鳴ってから半刻ほど過ぎたころ、リディアがゆっくり目を開けた。

 しばらく天井を見つめ、それから顔を窓の方へ向ける。

「朝なのですね」

「おはようございます、殿下」

 修司が頭を下げると、リディアはわずかに目を細めた。

「本当に来たのですね、タカセ」

「何を召し上がりたいか、伺う約束でしたから」

「その前に診察です」

 マルガレーテが間へ入った。

 脈、熱、呼吸、魔力の流れ。院長が一つずつ確認し、エヴァも顔色と受け答えを確かめる。

「昨夜より脈は落ち着いています。熱もありません。上体を起こして食事をすることは認めます。ただし、立つことと歩くことは許可できません」

「分かっています」

 不満そうではあったが、リディアは反論しなかった。

 修司は、前日に作った記録用紙を卓へ置いた。

「では、最初に時間を決めましょう。今すぐ召し上がりますか。それとも、顔を洗って少し休んでからにしますか」

 リディアは少し考えた。

「顔を洗い、髪を整えてからにします」

「場所はどうされますか」

「窓辺の卓で、と言えば、院長が止めるのでしょうね」

「今朝は寝台でお願いします」

 マルガレーテは譲らない。

 リディアは部屋を見回し、窓辺に置かれた丸卓を指した。

「では、あの卓をこちらへ。わたくしが窓辺へ行けないなら、窓辺の朝をここへ持ってきてください」

 侍女たちが一瞬、顔を見合わせる。

「できませんか?」

「いいえ。すぐに」

 丸卓が寝台のそばへ移され、窓の薄布が開かれた。朝の光が差し込み、卓上の花瓶を淡く照らす。

 それだけで、昨日までの療養室とは違って見えた。

 公務の続きを待つ部屋ではない。

 リディアが自分の朝を迎えるための場所になっていた。

     ◇

 身支度を終えたリディアの前へ、温め直された料理が運ばれた。

「すべてを食べる必要はありません」

 修司は言った。

「食べられそうなものと、その量を殿下が決めてください」

 侍女が最初の蓋へ手を掛ける。

「あの、その卵は……」

 配膳台の後ろから、小さな声がした。

 灰色の前掛けをつけた少女が立っていた。短い栗色の髪に、大きな茶色の瞳。料理を運んできた下働きらしく、両手に布を抱えている。

「何です、ルチア」

 年長の侍女が振り返った。

「殿下は、大きな祝福をなさった次の朝には、焼いた卵の匂いで気分を悪くされることが多いです」

「勝手なことを申してはいけません」

「でも、五日前も、その前も――」

「少し待ってください」

 修司が二人の間へ声を入れた。

 リディアを見ると、まだ開けられていない蓋から、わずかに顔を遠ざけている。

「殿下。卵の匂いは、今はつらいですか」

「ええ。あまり嗅ぎたくありません」

 マルガレーテがすぐに指示した。

「蓋を開けず、そのまま下げてください」

 卵料理が隣室へ運ばれる。

 少女は叱られると思ったのか、布を抱えたまま身体を縮めていた。

「ルチアさん。どうして知っていたんですか」

 修司が尋ねると、少女はおそるおそる顔を上げた。

「食器を下げるのが、私の仕事だからです。大きな祝福の次の日は、卵と濃い肉汁にはほとんど手をつけられません。でも、冷ました麦粥と煮た林檎なら、少し多く召し上がります」

「何回くらい見ましたか」

「少なくとも六回です」

 治癒師の診察ではない。病名を決める言葉でもない。

 それでも、毎日同じ食器を運び、残されたものを見てきた者にしか気づけない変化だった。

 マルガレーテはしばらくルチアを見つめたあと、記録用紙を引き寄せた。

「今の話は、確認できる範囲で記録します。推測は加えないように」

「はい」

「よく知らせてくれました」

 ルチアの大きな瞳が、さらに見開かれた。

 残った料理の蓋が、一つずつ開けられる。

 リディアは香りを確かめ、麦粥と煮た林檎を選んだ。

「麦粥は、この器の半分。林檎は三切れ。飲み物は香草茶ではなく、水を」

「昨日の軽い器でよろしいですか」

 修司が尋ねる。

「ええ。あれなら、自分で持てます」

 小さな取っ手付きの器へ、選んだ量だけが盛られた。

 修司は背中へ重ねた枕の高さを整え、器を手の届く位置へ置いた。

「食器を取る動きを見るため、技能を使ってもよろしいですか」

「今日は役に立つ奇跡を見せてください」

「奇跡ではありません」

 《生活動作把握》。

 淡い光の線が、リディアの肩と肘、器の取っ手を結んだ。

 視界へ入ってくる情報を、必要な動きだけに絞る。以前のような頭痛は起こらず、足元も揺れなかった。

「器を、もう少し手前へ。はい、そこです」

 リディアは片手で取っ手を持ち、もう片方を底へ添えた。

 一口目を飲み込む。

 室内にいた全員が、王女の口元を見つめていた。

「これほど大勢に見守られては、食欲も逃げてしまいます」

 リディアが呟くと、クラウディアが口元を押さえた。

「確かに、落ち着きませんね」

 マルガレーテは侍女を一人だけ残し、ほかの者を扉の外へ下げた。院長自身も少し離れ、エヴァと記録を確かめる。

 誰も急かさなかった。

 麦粥を一口。水を少し。煮た林檎を一切れ。

 途中で手を止めて休み、呼吸が整うと、自分からもう一度器へ手を伸ばす。

 やがて、選んだ器が空になった。

「終わりました」

 リディアが言った。

 侍女の顔に笑みが浮かぶ。

「殿下が朝食をすべて召し上がったのは、いつ以来でしょう」

「すべてではありません」

 修司は空の器を見た。

「殿下が選んだ分を、召し上がったんです」

 多すぎる一人前を残したのではない。

 自分で決めた一人前を、自分の手で終えた。

 リディアは空になった器を見つめた。

「昨日までより少ないのに、今日は残した気がしません」

「殿下が、ご自分で終わりを決められたからだと思います」

 マルガレーテが近づき、脈と顔色を確かめる。

「吐き気も、呼吸の乱れもありません。今朝のところは、ですが」

 最後まで慎重な言葉だった。

 それでも院長は、修司の作った用紙へ自分の手で書き加えた。

 朝食後、体調の悪化なし。

     ◇

 ルチアが空の食器を配膳台へ戻していると、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。

「ルチア、ここにいたの」

 灰色の制服を着た年長の女性が、扉の前で息を整えた。腰にいくつもの鍵を下げ、下働きたちをまとめているらしい。

「東病室の朝食が一つ残っています。オルテさんの分です」

「すぐにお持ちします」

「必要ありません。夜明け前に転院されたそうです」

 ルチアの手が止まった。

「転院?」

「救恤局の方が迎えに来ました。正式な命令書もあったそうです」

「でも、オルテさんは明日まで動かないはずです」

「治療師が決めたことです。あなたが口を挟む話ではありません」

「違います。娘さんが明日、南の村から迎えに来るから、それまでは絶対に移らないと――」

 マルガレーテが顔を上げた。

「私は、東病室の患者に転院許可を出していません」

 部屋の空気が変わった。

 年長の女性から血の気が引く。

「ですが、夜番の者は院長印があったと」

「命令書はどこにあります」

「東病室の記録係が……」

 修司はルチアへ尋ねた。

「オルテさんは、自分で歩ける方ですか」

「寝台の柵を持てば身体を起こせます。でも、右脚に力が入りにくくて、長い距離は歩けません。階段は無理です」

「救恤局の方は、どの道から?」

「裏門へ近い東階段だと思います。患者を運ぶときは、いつもあそこを――」

 言い終わる前に、遠くで扉の閉まる重い音がした。

 修司は窓へ向かった。

 眼下に、治癒院の裏庭が見える。洗濯物を運ぶ使用人たちの向こうで、灰色の外套を着た二人の男が担架を運んでいた。

 裏門の外には、幌をかけた小さな馬車が待っている。

「あの人たちです!」

 ルチアが叫んだ。

 マルガレーテは扉へ向き直った。

「衛兵へ知らせます。エヴァ治療師は殿下のそばに」

「私が行きます」

 修司が言った。

「命令書の確認が先です」

「確認している間に、門を出ます」

「タカセさん。あなたに彼らを拘束する権限はありません」

「拘束はしません。ただ、本人へ確かめます」

 修司は寝台のリディアを見た。

 朝食支援は、まだ院長の管理下にある。自分だけの判断で部屋を離れてよいのか、一瞬迷った。

 それを見抜いたように、リディアが言った。

「わたくしの朝食は終わりました」

 紫紺の瞳が、裏庭へ向けられる。

「今、あなたを必要としている人のところへ行きなさい、タカセ」

「はい」

 修司は一礼し、扉へ向かった。

「私も行きます」

 クラウディアが続く。

「ルチアさん。東階段まで案内してください。ミレイユさんは衛兵に、裏門を閉めるよう伝えてください」

 修司の口から、考えるより先に指示が出ていた。

「はい!」

 廊下へ飛び出したルチアを追い、修司とクラウディアが走る。

     ◇

 東階段には、薬草と濡れた布の匂いがこもっていた。

 狭い石段を二階分下りる。五十二歳の身体では、若いルチアと同じ速さでは走れない。それでも、踊り場で壁へ手をつき、息を乱さないよう足を運んだ。

 下から男たちの声が聞こえる。

「急げ。鐘が三度鳴る前に出るぞ」

「裏門が閉まる」

 正式な転院なら、門が閉まることを恐れる必要はない。

 修司たちは一階へ下り、裏庭へ出た。

 男たちは、担架を馬車の荷台へ滑り込ませようとしていた。

「待ってください!」

 修司の声に、二人が振り向く。

 灰色の外套の胸元には、王国救恤局の印が縫いつけられていた。

「何だ」

「その方に、転院の意思を確認させてください」

「院長の命令だ。部外者は下がれ」

「院長は、許可を出していないと言っています」

 男たちの目つきが変わった。

 クラウディアが修司の半歩前へ出る。

「担架から手を離しなさい」

 低い声とともに、剣の鯉口が切られた。

 一人が舌打ちし、担架へ掛けていた毛布を乱暴に引き上げる。

 その下に、痩せた老人の顔が見えた。

「オルテさん!」

 ルチアが叫ぶ。

 老人の目は開いていた。

 だが返事はない。口元には布が巻かれ、両腕は毛布の下へ不自然に押し込まれている。

 オルテは修司を見た。

 震える指が、毛布の端を一度だけ叩いた。

 修司の目に、老人の身体を縛る淡い線が浮かぶ。

 《生活動作把握》。

 肩は動かせない。右脚は担架の外へずれかけている。自分で横になった姿勢ではない。

 そして、布の奥で唇が動いた。

 声にならない二文字だった。

 たすけて。

 男の一人が外套の内側へ手を入れる。

 肩が引かれ、肘がわずかに後ろへ下がった。

 武器を抜く動きだった。

 修司は息を吐き、右足を半歩引いた。

 逃げるためではない。

 相手の力を受け流せる位置へ立つためだった。

「クラウディアさん。後ろの男をお願いします」

「前はどうするのです」

「俺が止めます」

 男の手が、外套の中で短剣の柄を握った。

「五十二のおっさんが、何を止める」

 修司は、男の目から視線をそらさなかった。

「その人は、助けてほしいと言いました」

 右手を身体の前へ上げ、重心を静かに落とす。

「なら、介護士が見過ごすわけにはいきません」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。