第四十一話 治療師と介護士
リディアの療養室を出ると、マルガレーテは修司たちを廊下の奥へ案内した。
「こちらへ。殿下のお部屋の前で話す内容ではありません」
通されたのは、治療師たちが申し送りに使う小部屋だった。
中央に長机があり、壁には人体図と魔力脈の図が掛けられている。棚には厚い記録簿が隙間なく並び、薬草の見本を入れた小瓶には、一つずつ日付と効能が書かれていた。
王立治癒院を預かる者の部屋らしく、すべてが整然としている。
マルガレーテは扉を閉めると、修司と向かい合った。
「最初に、私の判断を申し上げます」
白い長髪の院長は、迷いなく告げた。
「タカセさん。現時点で、あなたは無資格の危険人物です」
クラウディアの表情が険しくなる。
「院長。言葉を選んでいただけますか」
「王女殿下のお身体に関わることです。曖昧な表現をする方が無責任でしょう」
マルガレーテは修司から目をそらさなかった。
「あなたが元の世界で、どのような教育を受け、どれほどの経験を積んだのか。私には確かめる方法がありません。《生活支援士》という職能も、この国では前例がない。技能が見せる光の意味も、身体へ及ぼす影響も不明です」
「おっしゃるとおりです」
修司が答えると、クラウディアが振り向いた。
「タカセ?」
「この国で資格を認められていないのは事実です。それに、俺自身も《生活支援士》の技能をすべて理解できているわけではありません」
マルガレーテの眉がわずかに動いた。
「では、なぜ王女殿下へ関わろうとするのです」
「殿下が困っておられるからです」
「それだけで、人の身体に手を出してよいと?」
「いいえ」
修司は首を横へ振った。
「だから、立たせませんでした。水を飲んでよいか先生に確認し、技能を使ってよいか殿下に伺いました」
「杯を変える程度であれば、害は少ないでしょう。しかし、明日は食事へ関わると言った。食べた直後に吐いたらどうします。立ち上がって倒れたら。あなたの技能を使ったあと、魔力脈に異常が出たら、誰が責任を負うのですか」
矢継ぎ早の問いだった。
修司は、すぐには答えなかった。
十年介護の仕事をしてきても、事故の可能性を完全になくすことはできない。食事中の誤嚥、移動時の転倒、入浴中の体調変化。慣れているから大丈夫だと思ったときほど、見落としは起こる。
「俺一人では、責任を負えません」
マルガレーテの目が細くなる。
「逃げるのですか」
「違います。一人で判断しないという意味です」
修司は、隣にいるエヴァを見た。
「食べてもよい状態か、起きてもよい状態か。それを判断するのは治療師です。俺にできるのは、その判断の範囲で、殿下が安全に食べたり、動いたりする方法を考えることです」
エヴァはすぐには味方をしなかった。
腕を組み、修司の言葉を確かめるように見つめている。
「タカセさん」
「はい」
「今の言葉は、必ず守ってもらいます」
エヴァの声も厳しかった。
「あなたの観察が役に立つことは、グランフェルで見てきました。でも、役に立った経験があることと、医療上の判断をしてよいことは別です。症状の原因を決めつけない。薬や治癒術へ口を出さない。私か院長が止めた動作は行わない」
「分かっています」
「いいえ。分かっているつもりが、一番危ないの」
修司は返す言葉をのみ込んだ。
エヴァは、ベルンハルトを再び立たせようとしたときも、身体の状態を確認し続けていた。修司が介護の経験を持っていても、治療師の代わりにはならない。
「はい。越えてはいけない線は、先生方に示していただきます」
エヴァはようやく、小さくうなずいた。
◇
「では、あなたは何をするのです」
マルガレーテが尋ねた。
「治療師の判断に従うだけなら、侍女でもできます」
「侍女の方々が、殿下の暮らしを支えていることは間違いありません。ただ、今は仕事が細かく分かれすぎています」
「どういう意味ですか」
「式典の予定を決める人、食事を運ぶ人、寝具を整える人、魔力を調べる人。それぞれは仕事をしています。でも、殿下の一日を最初から最後までつなげて見ている人がいません」
マルガレーテの視線が、記録棚へ向いた。
「治癒院には、殿下の記録があります」
「そこには、昨日の夕食をどれだけ召し上がったかも書かれていますか」
「食事は侍従部の管轄です」
「夜中に何度目を覚ましたかは?」
「夜番の侍女が記録しています」
「広域祝福を使った翌日、階段を上る途中で休んだ回数は?」
マルガレーテは答えなかった。
修司は続けた。
「治癒院には身体と魔力の記録がある。侍従部には食事と睡眠の記録がある。王宮には公務の記録がある。でも、それが別々なら、殿下がどんな一日を送ったあとに具合を崩すのか見えません」
「それを集めれば、病の原因が分かると言うのですか」
「分かるとは言えません。でも、悪くなる前に何があったのかは見えてくるかもしれません」
修司は長机の上にあった白紙を一枚借り、筆記具を手に取った。
「使ってもよろしいですか」
マルガレーテが無言でうなずく。
修司は紙を横長に置いた。
左端に時刻を書く欄を作り、その横を六つに分けた。睡眠、食事、水分、公務、魔法、身体の様子。
文字だけでは、忙しい者が一目で把握しにくい。睡眠には月、食事には皿、水分には杯、公務には書状、魔法には杖の簡単な絵を添えた。
アナログの版下を作っていたころ、修正のたびに情報が増え、狭い紙面へ押し込むよう求められた。依頼主はあれも目立たせたいと言い、営業は短い締め切りを持ち帰ってくる。
だからこそ、何を同じ場所へ置けば見比べられるか、何を削っても意味が伝わるかを考え続けた。
今、作っているものは広告ではない。
一人の生活を、一枚の紙で見渡すための表だった。
「起床した時刻。食べたものと、おおよその量。飲んだ回数。どんな公務や魔法を行ったか。そのあとに、震えや息苦しさ、ふらつきがあったか。治まるまでどれくらいかかったか」
修司は各欄を指した。
「診断は書きません。見たことと、殿下がおっしゃったことだけを書きます」
マルガレーテは紙を引き寄せた。
「熱や脈は、どこへ?」
「身体の様子の欄へ。ただし、測るのは治療師の方です」
「魔力残量は数値で記す必要があります。術の種類と範囲も分けるべきです」
「では、魔法の欄を二つに分けましょう」
修司は線を引き直した。
「食事は、量だけでは足りないわ。食べられなかった理由も必要よ」
エヴァが言った。
「吐き気があったのか、匂いがつらかったのか、口の中が痛いのかで意味が変わるもの」
「選べるように、印を作りましょう」
修司は、食事の欄の下へ小さな項目を加えた。
気づけば、三人で同じ紙を囲んでいた。
クラウディアが、その様子を見て微かに笑う。
「もう共同作業になっていますね」
マルガレーテは顔を上げた。
「まだ、この人へ殿下を任せると決めたわけではありません」
「承知しています。ただ、殿下ご自身は、タカセに明日の朝も来るよう望まれました」
「患者の希望だけで、安全を無視することはできません」
「安全のために、本人の希望をすべて無視することもできないのではありませんか」
二人の視線がぶつかった。
修司は、紙の上へ筆記具を置いた。
「殿下が選ぶのは、食べてはいけないものではありません」
マルガレーテが修司を見る。
「先生方に、安全に口にできるものをいくつか選んでいただく。その中から、時間と場所と量を殿下に決めていただきます。全部食べることを目標にはしません。途中で体調が変われば、やめます」
「食べられなかった場合は?」
「失敗にはしません。何なら口にできたか、何がつらかったかを記録します」
「技能は?」
「殿下が起き上がるときと、食器を扱うときに必要なら使います。使う前に許可を得ます」
「立位と歩行は認めません」
「分かりました」
「食事前に、私か当直の治療師が状態を確認します。食事中はエヴァ治療師か、院内の治療師が同席すること」
「はい」
「少しでも意識が鈍る、呼吸が乱れる、吐き気が強まるなどの変化があれば中止します」
「従います」
マルガレーテは、もう一度、紙へ目を落とした。
「それから、この記録は一日で結論を出すためのものではありません。都合のよい変化だけを拾って、あなたの支援が効いた証拠にしないこと」
「約束します」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、マルガレーテは記録用紙を二つ折りにした。
「明朝のみ、試行を認めます」
修司は息をついた。
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、殿下が安全に朝を終えてからにしてください」
厳しい言葉だったが、先ほどまでの拒絶とは違っていた。
◇
話し合いを終え、部屋を出たところで、壁際に立っていたカシウスが顔を上げた。
「院長。結果は」
「明朝、殿下の希望された食事支援を試します。私の管理下で」
「必要なのですか」
「必要かどうかを確かめるために行います」
カシウスは修司へ目を向けた。
「殿下を実験台にするつもりなら、私が止める」
「殿下に無理をさせるつもりはありません」
「誰もが、初めはそう言う」
白盾の騎士はそれだけ言うと、リディアの部屋の前へ戻った。
修司は、その背を見送った。
「気にしないで、とは言えないわね」
エヴァが隣で言った。
「カシウス卿の警戒にも理由はあるでしょうから。ただ、院長が言ったことも忘れないで。あなたの仕事は、治療の代わりではないわ」
「はい」
「でも」
エヴァは、修司が作った用紙を持つマルガレーテの後ろ姿を見た。
「治療だけでは見えなかったものを、あなたなら見つけられるかもしれない。それは私も知っています」
修司はうなずいた。
傷を塞ぐことはできない。
毒を消すことも、失った魔力を一息で満たすこともできない。
それでも、食べること、眠ること、起きること、誰かの手を借りながら自分で選ぶことを支えることはできる。
治療師が命を救ったあと、その人が生きる毎日を整える。
それが、修司の知る介護士の仕事だった。
「タカセさん」
マルガレーテが廊下の先から呼んだ。
「明日の朝食について、厨房と侍女へ説明します。あなたも来てください」
「分かりました」
「殿下が何を選ばれるか、先回りして決めてはいけませんよ」
「はい」
明日の朝、リディアに尋ねる。
何時に、どこで、何を、どれくらい食べたいのか。
国を癒やしてきた聖女が、自分のために選ぶ最初の食事が始まろうとしていた。




