第四十話 傷のない患者
王立治癒院の最上階には、王族のための療養室があるという。
修司たちは、先ほどリディアを運んだ侍女に案内され、白い石造りの階段を上った。
窓から差し込む光まで白く見える。薬草の匂いが漂う廊下では、すれ違う治癒師たちが足を止め、一行を振り返った。
第二王女が倒れた。その直前に、異世界人が声を掛けた。
すでに噂になっているのかもしれない。
部屋の前には、白い鎧を着たカシウスが立っていた。
「殿下がお呼びなのは、タカセ殿だけだ」
低い声に、クラウディアが一歩前へ出る。
「タカセは王都へ来て間もなく、宮中の作法にも不慣れです。グランフェル家の者として、私も同席いたします」
「治療に関する話なら、私も必要でしょう」
エヴァも続いた。
カシウスは二人を見たあと、扉の横へ目を向けた。
そこには、マルガレーテが立っていた。
「エヴァ治療師には入っていただきます。グランフェル嬢も、殿下が望まれるなら。ただし、会話は砂時計が落ちるまでです」
彼女は手のひらほどの砂時計を侍女へ渡した。
「タカセさん。殿下へ触れることも、技能を使うことも、私か殿下の許可なく行わないでください。診察と治療の妨げになる行為は認めません」
「分かりました」
「それから、できないことを、できるとは言わないように」
「はい」
修司が答えると、マルガレーテはわずかに眉を動かした。もっと反発されると思っていたのかもしれない。
扉が開かれた。
◇
療養室は、修司が想像していたより広かった。
寝台のほかに長椅子と丸卓があり、壁際には書き物机まで置かれている。窓辺には花が飾られ、薄い布が午後の日差しを和らげていた。
だが、生活するための部屋というより、公務の途中で休むための場所に見えた。
書き物机には封を切っていない書状が積まれ、丸卓には式典の予定表が広げられている。寝台の脇には、蓋をされたままの食器と銀の水差しが置かれていた。
リディアは、背に枕を重ねて上体を起こしていた。
式典で身につけていた装飾品は外され、白い部屋着へ替えている。顔色はまだ青白かったが、紫紺の瞳には先ほどより強い光が戻っていた。
「お掛けください」
王女が言った。
寝台のそばに椅子が三脚並べられる。
カシウスは扉の内側に立ったままだった。マルガレーテも寝台の反対側へ回り、リディアの手首に触れて脈を確かめている。
「院長。客人を呼んでおいて、ずっと手を握っているのは失礼ではありませんか」
「再び意識を失うよりはましです」
「傷も病もないのに?」
リディアは微笑んだ。
だが、マルガレーテは笑わなかった。
「傷も病も見つかっていないことと、体調に問題がないことは同じではありません」
「先ほど、そう言ってくださればよかったのに」
リディアの声には、とげがあった。
マルガレーテの指が止まる。
二人の間には、今日だけではない時間が積もっているようだった。
「それで、タカセ」
リディアが修司へ目を向けた。
「あなたは、わたくしが倒れると分かっていたのですか」
「倒れるとまでは、分かりませんでした」
修司は正直に答えた。
「ただ、あの足の位置では、立ったあとに身体を支えられないと思いました」
「足を見ただけで?」
「呼吸や手の震えも見えていました。それでも、病名や原因が分かったわけではありません」
「随分と慎重なのですね」
「分からないものを、分かったとは言えませんから」
リディアは修司の顔を見つめた。
試されている。
そう感じた。
「あなたの技能は、人を立たせる力だと聞きました」
「立つために必要な動きを見つけ、支える技能です」
「では、今ここで、わたくしを立たせてみせてください」
室内の空気が変わった。
カシウスが壁から背を離す。クラウディアも、何か言いかけて修司を見た。
修司は、寝台の上の王女を見た。
冗談を言っている顔ではなかった。
「できません」
リディアの眉が、かすかに上がった。
「なぜです」
「今の殿下が立って安全かどうか、治療師の許可がありません。それに、俺には立てると断言できるだけの情報もありません」
「わたくしが命じても?」
「はい」
カシウスの目が細くなった。
王族の命令を断ることが、この国でどれほど重いのか。修司にはまだ分からない。
それでも、立てる状態ではない人を、命じられたからと立たせることはできなかった。
有料老人ホームでも、本人が歩きたいと言うことはあった。
歩く意思は大切だった。しかし、発熱しているときや、血圧が不安定なとき、転倒直後で状態が分からないときまで歩かせるわけではない。看護職へ連絡し、状態を確かめ、できる方法を一緒に考える。
やりたいという思いを守ることと、言われるまま危険なことをするのは違う。
「ずいぶん役に立たない奇跡ですこと」
リディアの口元が歪んだ。
「奇跡ではありません」
修司は答えた。
「俺が持っているのは、殿下の代わりに立つ力でも、何もせず歩けるようにする力でもありません」
「では、何をしに来たのですか。同情なら要りません。かわいそうな聖女を救う物語も、聞き飽きました」
その言葉に、クラウディアがわずかに目を伏せた。
マルガレーテは何も言わない。
修司は部屋を見回した。
寝台から遠い机。積まれた書状。冷めた食事。手の届くぎりぎりの位置に置かれた、重そうな銀の杯。
王女のための部屋なのに、王女が自分で何かをすることは考えられていない。
「殿下が普段、どう暮らしておられるのかを知るためです」
「暮らし?」
「何時に起きて、何を食べて、どれくらい休んで、どんなときに具合が悪くなるのか。公務を終えたあと、どんな状態で部屋へ戻られるのか。それを知らずに、立つことだけを考えても仕方がありません」
「それで、わたくしの病が分かると?」
「病気を決めるのは、俺ではありません」
修司は、マルガレーテとエヴァを見た。
「そこは治療師の仕事です。俺が見るのは、病気や傷があっても、なくても、生活の中で何に困っているかです」
リディアはしばらく黙っていた。
侍女が砂時計へ目を落とした。上半分の砂は、すでに半分ほど減っている。
「技能を使えば、それが見えるのですか」
「殿下が動こうとされたときなら、動作のどこに無理があるか分かることがあります。ただ、身体の中を調べる技能ではありません」
「使ってみなさい」
修司はすぐには応じなかった。
「何か、今したいことはありますか」
「技能を見せなさいと言っているのです」
「技能を使うためだけに動いていただくのは、違うと思います。殿下がしたい動作があるなら、それを見せてください」
リディアの瞳に、初めて戸惑いが浮かんだ。
誰かに何をするべきか命じることはあっても、自分が何をしたいか尋ねられることは少ないのかもしれない。
やがて、リディアは寝台の横へ目を向けた。
「喉が渇きました」
侍女がすぐに動こうとした。
だが、リディアは片手を上げて止めた。
「自分で取ります」
寝台脇の卓には銀の杯があった。手を伸ばせば届きそうだが、上体を少しひねらなければならない位置にある。
修司は、マルガレーテを見た。
「水を飲んでいただいても?」
「少量なら構いません」
「殿下。技能を使って、動きを見てもよろしいですか」
「ええ」
リディアが右手を伸ばす。
修司は意識を集中した。
《生活動作把握》。
淡い光の線が、王女の肩から指先へ伸びた。
寝台へ沈んだ腰。背中を支える枕。卓までの距離。
腕を伸ばすにつれ、右肩が上がる。身体が横へ傾き、左手が寝具をつかんだ。指先が杯へ触れたところで、細かな震えが起きる。
銀の杯は、今の彼女が片手で扱うには大きく、重い。
「そこまでで大丈夫です」
修司が言うと、リディアの手が止まった。
「取れないと言いたいの?」
「今の置き方と、この杯では難しいと思います」
「では、侍女に飲ませてもらえと?」
「いいえ」
修司は卓の端に置かれていた、小さな取っ手付きの杯を指した。
「あちらの軽い杯へ移して、左手でも支えられる位置に置けば、ご自分で飲めます。動かしてもよろしいですか」
リディアは銀の杯と、小さな杯を見比べた。
「どうぞ」
修司は侍女へ頼み、小さな杯へ水を注いでもらった。それを寝台の中央寄り、リディアが身体をひねらずに届く場所へ置く。
リディアは右手で取っ手を持ち、左手を底へ添えた。
今度は上体が傾かなかった。
両手には震えが残っていたが、杯を口元まで運び、一口飲むことができた。
侍女が、ほっと息をつく。
「わたくしを治したつもりですか」
リディアが尋ねた。
「いいえ。杯と置き場所を変えただけです」
「それだけ?」
「それだけで、ご自分でできることもあります」
リディアは手の中の杯を見た。
その横で、マルガレーテが腕を組んでいる。
「環境を整えただけです。殿下の不調そのものは、何も変わっていません」
「はい」
修司はうなずいた。
「だから、治ったとは言いません」
マルガレーテは修司の顔を見た。
否定されると思っていたのかもしれない。
砂時計の砂が、残りわずかになった。
修司は、最後に一つだけ尋ねることにした。
「殿下。今、一番、自分でできるようになりたいことは何ですか」
リディアは顔を上げた。
「立つことではないのですか」
「それを決めるのは、俺ではありません」
「皆、わたくしに立てと言います。民の前に立て。治癒陣の前に立て。王族として立て、と」
彼女の指が、小さな杯の取っ手をなぞった。
「院長は休めと言います。カシウスは守ると言います。侍女たちは、何でも代わりにしようとします」
誰も口を挟まなかった。
「けれど、自分で何をしたいかと聞かれたことは、しばらくありませんでした」
窓を覆う薄布が、風でわずかに揺れた。
リディアは考えたあと、寝台脇の食器へ目を向けた。
「明日の朝、自分で食べるものを選びたい」
静かな声だった。
「運ばれてきたものを、決められた時刻に、食べられるだけ口へ入れるのではなく。何を、どれくらい食べるか、自分で決めたいのです」
派手な望みではなかった。
国を癒やす聖女が望んだのは、朝食を自分で選ぶことだった。
「分かりました」
修司は答えた。
「明日の朝、まず殿下に伺います。食べられると約束することはできません。でも、時間と場所と量を一緒に考えることはできます」
「食事まで管理するおつもり?」
「管理ではありません。選べるようにするお手伝いです」
リディアの口元に、今度は皮肉ではない微かな笑みが浮かんだ。
砂時計の最後の一粒が落ちる。
「時間です」
マルガレーテが告げた。
修司たちは立ち上がった。
「タカセ」
退出しようとした修司を、リディアが呼び止めた。
「明日の朝、わたくしに聞いてください。何を食べたいか」
「はい、殿下」
修司が頭を下げると、マルガレーテが言った。
「ただし、その前に確認しておくことがあります」
彼女の目は、先ほどより厳しくなっていた。
「タカセさん。あなたが王女殿下へ何をするつもりなのか、治療師として詳しく聞かせていただきます」
扉の前で、エヴァが小さく息を吐いた。
傷のない患者を前に、治療師と生活支援士がどこまで関わるのか。
次に向き合うべき相手は、王女の不調だけではなかった。




