第三十九話 倒れた聖女
銀色の光が、中庭へ降り注いだ。
水鉢を囲む魔法陣から幾筋もの光が立ち上がり、回廊に立つリディアの両手へ集まっていく。彼女が指を開くと、光は薄い幕となって空へ広がった。
集まった人々から、歓声が上がる。
包帯を巻いた腕を持ち上げる男。杖をついていた老女。母親に抱かれた子供。光が身体へ触れるたび、その表情が驚きへ変わった。
「これが、《広域祝福》……」
ミレイユが息をのんだ。
一人ずつ傷へ触れる治癒とは違う。中庭を満たす大勢へ、同時に魔力を届けている。
修司も、腕に淡い温かさを感じた。街道で擦れた首元と、昨日から張っていた脚がわずかに軽くなる。
すごい力だった。
だからこそ、その力を生み出している女性から目を離せなかった。
リディアの髪は淡い金色だったが、魔法の光を受けると銀に見えた。白銀の聖女という呼び名は、そこから来たのかもしれない。
微笑みは変わらない。
だが、両腕の高さが少しずつ下がっている。右手の指先が震え、開いたはずの指が何度も握られかけていた。
修司は、隣に立つエヴァへ声を落とした。
「殿下の呼吸、見えますか」
「ええ。速いわ」
エヴァの目は、すでにリディアへ向いていた。
「術を使っているから、というだけではなさそうです。始まる前から、あの呼吸でした」
「終わったら、すぐ座っていただいた方がいいわね」
修司はうなずいた。
中庭では、魔法陣の外側に立つ治癒師たちが光の強さを確かめていた。異常があれば止める者もいるはずだ。
それでも、回廊から見えるリディアの膝は、もう一度小さく揺れた。
王女は足幅をさらに広げなかった。衣装の裾が動けば、下にいる人々からも分かるからだろう。代わりに、踵を内側へ寄せ、膝を固めるようにして立っている。
立てているのではない。
倒れない形を、必死に保っている。
「もう十分ではないのですか」
修司が尋ねると、近くにいた役人が顔を向けた。
「祝福は、魔法陣の外周がすべて満ちるまで行います」
「あと、どれくらいですか」
「間もなくです。殿下は何度も務めておられます」
答えになっているようで、リディアの今の状態には触れていなかった。
銀の光が、最後の紋様へ流れ込む。
鐘が鳴り、治癒師たちが一斉に杖を下ろした。
リディアも両腕を下ろした。
その瞬間、上体が前へ傾いた。
隣の侍女が肘を支える。リディアはすぐに身体を起こし、下の人々へ笑顔を向けた。歓声に紛れ、気づいた者は少なかった。
だが、修司には見えていた。
侍女から腕を離したあとも、リディアの左手は回廊の手すりをつかんだままだった。
◇
「殿下、こちらへ」
控えていた侍女が、柱の陰に置かれた椅子を勧めた。
リディアは手すりから指を離し、首を横へ振った。
「次は、新病棟の入口でしたね」
「少しお休みになってからでも」
「皆を待たせています」
近くで聞く声は、歓声へ応えていたときより細かった。
白い長髪を後ろで束ねた治癒師が、早足で近づいた。年齢は修司と大きく変わらないように見える。周囲の治癒師たちが道を開けたことから、立場の高い人物だと分かった。
「リディア殿下。手を」
彼女は王女の手首へ指を当て、もう片方の手を胸元へかざした。淡い緑の光が、リディアの身体を上から下へ通り抜ける。
「脈が速い。魔力も、予定より減っています」
「少し休めば戻ります」
「新病棟へ下りるのは、休んでからにしてください」
「院長」
カシウスが歩み寄った。
「マルガレーテ院長。傷や毒は」
「今のところ認めません。呪いの反応もない。だからといって、このまま歩いてよい状態ではありません」
王立治癒院長マルガレーテ・ハイン。
王国最高峰の治癒術師だと、クラウディアが小声で教えた。
マルガレーテは、治すべき傷がないからと手を止めなかった。呼吸を確かめ、冷えた指先を包み、侍女へ温かい飲み物と毛布を持ってくるよう指示している。
修司は少し安心した。
それでも、リディアは椅子へ腰を下ろそうとしなかった。
中庭では、新病棟へ移動するための列が作られている。回廊の下から、式典を取り仕切る役人がこちらを見上げていた。
「殿下のお言葉を待っております」
別の役人が告げた。
マルガレーテが睨む。
「待たせなさい」
「ですが、各地の代表者も――」
「患者を歩かせる理由にはなりません」
きっぱりした言葉だった。
リディアが、かすかに笑った。
「わたくしは患者ではありません。傷も病もないのでしょう?」
誰へ向けた言葉なのか、修司には分からなかった。
マルガレーテの表情が曇る。
「今は休む必要があります」
「入口で一言申し上げるだけです。民の前で座り込んだ方が、余計な心配をかけます」
リディアは侍女へ手を伸ばした。
立ち上がるつもりだ。
修司の目に、身体の動きが重なって見えた。
《生活動作把握》。
椅子の位置。手すりまでの距離。王女の足の向き。
右足は床へついているが、体重を受ける位置まで引けていない。左足も、衣装の下でつま先が外へ逃げている。侍女の腕を取っても、立ったあとに身体を支える足場がない。
リディアは立つ準備をしているのではなかった。
立てるように見せる準備をしていた。
「今は、立たないでください」
修司の声が、回廊へ響いた。
全員が振り向いた。
リディアも、初めて修司を見た。紫紺の瞳に驚きが浮かぶ。
「あなたは?」
「タカセと申します。足に力が入る位置になっていません。座ったまま、休んでください」
「無礼な!」
役人が声を上げた。
カシウスが修司とリディアの間へ入る。
「タカセ殿。下がれ」
「ですが、このまま立ったら――」
「診察は院長がしている。あなたの職能は、王都でまだ審査を受けていない」
カシウスの足元に、白い光の輪が走った。
修司が一歩進もうとした途端、両足が床へ沈んだように重くなった。
膝が曲がらない。
誰かに押さえられたわけでもないのに、靴底が石へ縫いつけられている。
「殿下へ近づくな」
低い声だった。
修司は動くのをやめた。無理に足を上げようとすれば、膝か腰を痛める。以前イゾルデに聞いた、戦闘用の魔法。その力を初めて自分の身体で知った。
「近づくつもりではありません。立たせないでほしいだけです」
背後から、クラウディアが修司の腕へ触れた。
「伝えることはできました。今は動かないで」
その間に、リディアは侍女の腕を借りて腰を浮かせていた。
一度目は、椅子へ戻った。
彼女は笑みを作り直し、もう一度、肘掛けを押した。
今度は立ち上がった。
右膝が内側へ折れた。
「殿下!」
侍女の悲鳴が上がる。
リディアの身体が、糸を切られたように崩れた。
カシウスの姿が消えた。
そう見えるほど速かった。白い光が鎧の脚を走り、次の瞬間には、倒れる王女を両腕で受け止めている。
修司の足を縛っていた重さが消えた。
◇
「全員、離れて!」
マルガレーテの命令が飛んだ。
治癒師たちがリディアの周囲へ集まり、侍女が床へ敷物を広げる。カシウスは指示に従い、王女を横たえた。
中庭からは、まだ拍手が聞こえていた。柱と幕に隠れ、王女が倒れたことは見えていないらしい。
「呼吸はある。脈は速い。頭は打っていません」
マルガレーテが一つずつ確かめる。
複数の治癒師が杖をかざし、緑と青の光がリディアの身体を包んだ。
「外傷なし」
「毒物反応、ありません」
「感染、呪詛ともに反応なし」
「魔力脈が細い。急激に落ちています」
「治癒術はかけないで。修復する傷がないのに、魔力を重ねないこと」
マルガレーテは迷いなく指示した。
傷がないから何もしないのではない。不要な治癒魔法を使わず、今必要な確認をしている。
エヴァが一歩前へ出た。
「院長。私はグランフェル領の治療師です。お手伝いできることはありますか」
マルガレーテは彼女の杖と胸の印を確かめた。
「では、呼吸の回数を。変化があればすぐに知らせてください」
「承知しました」
エヴァはリディアの胸元が見える位置へ膝をついた。
修司はその場に残った。近づかず、治療師たちの動線を塞がない場所まで下がる。
目に入ったのは、倒れた王女だけではなかった。
椅子の脇の小卓に、口をつけた跡のない水差しがある。皿には小さな焼き菓子が二つ残り、片方の端だけが欠けていた。
侍女は毛布を持って戻ると、王女の顔を見て唇を噛んだ。
「今朝は、どれくらい召し上がりましたか」
修司が尋ねると、侍女は戸惑った顔をした。
「なぜ、そのようなことを」
「診断をするつもりはありません。普段の様子を知りたいんです」
侍女はカシウスへ目を向けた。
彼は修司を見たあと、短くうなずいた。
「スープを少しと、パンを二口ほどです。祝福の前は多く召し上がれないので」
「昨夜は、眠れていましたか」
「夜中に二度、お呼びがありました。朝は、鐘が鳴る前から起きておられました」
「この祝福は、どれくらいの間隔で?」
「大きなものは五日前にも。短い祝福でしたら、一昨日も行っておられます」
修司は、それ以上尋ねなかった。
食べられていない。眠れていない。回復する前に、また大きな魔法を使っている。
どれか一つで原因を決めることはできない。それでも、傷が見つからないという言葉だけで、元気だとは言えなかった。
◇
しばらくして、リディアの瞼が動いた。
「……式は」
最初に出た言葉だった。
「中止します」
マルガレーテが答えた。
「新病棟へは、別の日にお越しください。今日は治癒院で休んでいただきます」
「下の皆が、心配します」
「軽い魔力疲労のため予定を変更した、と伝えます」
リディアは目を閉じかけ、また開いた。
「先ほど、立つなと言った方は?」
カシウスの肩がわずかに動いた。
「異世界より召喚された、生活支援士のタカセです」
「生活を、支援する……」
紫紺の瞳が、人の隙間を探した。
修司は離れた場所から頭を下げた。
リディアは彼を見つけると、ほんの少し口元を上げた。
「わたくしには、傷も病もないそうです」
先ほどと同じ言葉だった。
今度は、皮肉のように聞こえた。
「はい」
修司は答えた。
「でも、今は立てる状態ではありませんでした」
周囲の空気が張り詰める。
マルガレーテが修司を見た。
「あなたが観察したことは、あとで書面にしてください。診断と混同しない形で」
「分かりました」
彼女はうなずき、担架を運ばせた。
リディアは再び目を閉じたが、呼吸は先ほどより落ち着いている。治癒師と騎士に囲まれ、王立治癒院へ運ばれていった。
白い外套が角を曲がる直前、カシウスが一度だけ修司を振り返った。
◇
回廊に残った椅子を、侍女たちが片づけていた。
中庭には「殿下は軽い魔力疲労のため、以後の予定をお休みになる」と伝えられた。人々は心配そうにざわめいたあと、王女をたたえる声を上げた。
祝福を受けた者たちは、歩いて帰っていく。
祝福を与えた本人だけが、担架で運ばれた。
「タカセ」
クラウディアが隣へ来た。
「先ほど、カシウス卿の術に逆らおうとしましたね」
「すみません」
「私ではなく、ご自分の膝に謝ってください。無理に動けば傷めていました」
「はい」
「ただ、あなたが声を掛けなければ、殿下はもっと早く歩き出していたかもしれません」
修司は、空になった小卓を見た。
「もっと早く止められたらよかったんですが」
「あの場で王女殿下の儀式を止めるのは、簡単ではありません」
エヴァが戻ってきた。
「殿下は治癒院の部屋へ移られたわ。マルガレーテ院長が診ています。今は私たちにできることはないわね」
「先生から見て、どうでしたか」
「急いで対処すべき傷、毒、感染は見つからなかった。魔力の消耗は大きい。でも、それだけで今までの不調を全部説明してよいかは分からないわ」
エヴァは、修司が見ていた水差しの跡へ目を向けた。
「あなたが聞いた、食事と睡眠の話も必要ね。ただし、何日かの記録を見ないと、一度の様子だけでは決められない」
「はい」
修司はうなずいた。
そのとき、治癒院の方向から一人の侍女が走ってきた。
先ほど、リディアを支えていた女性だった。
クラウディアの前で足を止め、呼吸を整えてから頭を下げる。
「クラウディア・グランフェル様のご一行に、殿下からお願いがございます」
侍女は修司へ顔を向けた。
「殿下が、タカセ様とお話しになりたいと仰せです」
修司は、エヴァと顔を見合わせた。
傷も病もないと言われながら、立つこともできなかった王女。
その人が今、自分を呼んでいた。




