第三十八話 辺境の報告、王都の都合
王宮へ向かう朝、修司の脚は予想どおり重かった。
階段を下りるたび、太腿の裏に昨日走った分が返ってくる。手すりに頼るほどではないが、何もなかった顔で歩くのも難しい。
「痛むの?」
玄関で待っていたエヴァが尋ねた。
「動けます。筋肉痛だと思います」
「思います、では判断できないわ。あとで診ます。それから今日は走らないこと」
「王宮で走る用事は、ないと思います」
「あなたの場合、行った先で用事ができるでしょう」
言い返せなかった。
昨夜、監察局から宿所へ新しい知らせが届いた。辺境の報告を受ける会議が、今日の午前に決まったという。本来なら資料を担当部署へ提出し、何日か待つはずだったが、街道と市場で二度も襲われたことで、国王の前へ直接持ち込むことになった。
早まったのがよいことなのか、修司にはまだ分からない。
ミレイユは文書箱の封を確かめ、クラウディアは領主名代の正装をまとっていた。深い青の上着の胸に、銀狼の紋章がある。腰には剣を差しているが、王宮へ入る前に預けることになっている。
「緊張していますか」
修司が尋ねると、クラウディアは手袋の端を整えた。
「しています。父の代理として王都へ来るのは、初めてですから」
「そうは見えません」
「見えないようにしています」
彼女は修司の外套へ目を向けた。街道で裂け、縫い直した線が残っている。
「その服で行きますか」
「替えの外套は持っていませんので」
「では、そのまま行きましょう。道中で何があったか、言葉より早く伝わるかもしれません」
クラウディアは先に扉を開けた。
通りの向かいには、監察局の徽章をつけた男が立っていた。隠れていない方の監視役らしい。
◇
白塔区へ上るにつれ、街の音は遠ざかっていった。
市場では店ごとに違う色が争っていたが、ここでは白い石と濃い青の旗が繰り返されている。建物の入口には用途を示す紋章が掲げられ、道幅も階段の高さも整っていた。
迷いにくい。その代わり、許された道から外れにくい場所だと修司は思った。
王宮の門では、護衛の武器と文書箱が別々に確認された。箱は開封せず、封に刻まれた印と、持参者の名を照らし合わせる。ミレイユが一つずつ答え、受け取った役人の名も控えへ書いてもらった。
「昨日のことがありましたので」
彼女が言うと、役人は少し嫌そうな顔をしたが、署名はした。
修司たちは二階の会議室へ通された。
玉座の間のような場所を想像していたが、そこには長い机があった。奥の一段高い席に国王が座り、左右には大臣と軍の責任者らしい者たちが並んでいる。
その中に、見覚えのある濃紺の姿があった。
ヴェラは壁際の席で、書類を閉じている。修司と目が合うと、わずかに顎を引いた。
机の右側には、白髪交じりの髪を後ろへ撫でつけた男がいた。五十代半ばほどで、柔らかな表情をしている。衣服には、両手で水鉢を支える救恤局の紋章がついていた。
「救恤局長、ゲルハルト・ヴァルナー殿です」
案内役が小声で告げた。
その隣に立つ男へ、修司の目が移る。
四十歳ほど。金髪を短く整え、白い外套の下に銀色の鎧を着ている。壁際には、人の胴ほどもある白い大盾が置かれていた。
「救恤騎士団長、カシウス・ローゼン卿」
男は修司たちへ視線を向け、静かに一礼した。
あれが《白盾》か。
辺境でも名前を聞いたことがある。疫病の町へ最初に入り、暴風で橋が落ちたときには、自ら避難路を守った騎士だという。
その男が、救援物資を扱う局長の隣にいた。
◇
最初に話したのはクラウディアだった。
父ベルンハルトの負傷と長期療養。辺境へ届くはずだった食料、薬、建築資材の不足。倉庫の記録と実際の数が合わなかったこと。マルクスらによる横流しと、証人を狙った襲撃。
そして灰冠の森から押し寄せた魔物の群れ。
彼女は声を震わせず、確認できたことと、まだ推測であることを分けて話した。
「襲撃による死者と負傷者の名は、こちらに記録しています。住居を失った世帯、破損した城壁と倉庫、現在必要としている物資の一覧も添えました」
ミレイユが、一つ目の束を机へ置いた。
王宮の書記が受け取り、枚数を数える。受領した印が押されるのを、修司は最後まで見ていた。
辺境を出てから初めて、持ってきた紙が正式に受け取られた。
クラウディアの報告が終わると、国王は救恤局長へ顔を向けた。
「ヴァルナー。救援が届かなかった理由を」
ゲルハルトは静かに立ち上がった。
「陛下。まず、グランフェルの民が受けた被害へ、心よりお見舞い申し上げます」
穏やかな声だった。
「ただ、救援の全量が失われたとの認識は、当局の記録と異なります。一部は輸送の遅れ、一部は現地調達への切り替えです。また同時期、王都では熱病が広がり、南部では水害が発生しておりました」
別の役人が、数字を書いた紙を配った。
「限られた食料と治癒用魔石を、より多くの命を守れる場所へ一時的に振り向けたものもあります。いずれも、緊急時の配分規定に基づく措置です」
「現地調達へ切り替えたとの連絡は、受けていません」
クラウディアが言った。
「こちらの帳簿では、到着済みになっている荷もあります」
「末端の記載に不備があった可能性は認めます。ですが、それを王都全体による横流しと結びつけるのは、いささか早計でしょう」
「私は、王都全体などとは申し上げていません」
「しかし、この報告が広まれば、そう受け取る者もおります」
ゲルハルトの表情は変わらない。
言葉だけを聞けば、どちらも慎重な話をしているように見える。それなのに、辺境の倉庫で見た空の棚が、少しずつ書類の不備へ置き換えられていく。
軍務を預かる大臣が、別の紙を持ち上げた。
「そもそもグランフェルは、北方防衛を担う領地だ。領主が長く病床にあり、指揮の引き継ぎが遅れたことも、被害を広げたのではないか」
室内の空気が変わった。
「父が倒れたあと、兄アルベルトが指揮を執りました」
クラウディアの声が低くなる。
「兄の死後は私とイゾルデが引き継ぎ、増援と物資を繰り返し求めています。日付と受取人は、提出した書状に残っています」
「だが、魔物の規模を見誤った」
「群れの規模が通常ではなかったことも、報告しています」
「現場の指揮官は、常に予想外だったと言うものだ」
クラウディアの手が、机の下で握られた。
修司から見えるのは、それだけだった。
「発言を許す」
国王の声がした。
修司は一瞬、自分に向けられた言葉だと分からなかった。
「異世界より来たタカセ。そなたはグランフェルで、何を見た」
全員の視線が集まった。
修司は立ち上がった。太腿が痛み、椅子の脚が少し鳴る。
「私が着いたとき、救護院では、一人分の食事をどう分けるか相談していました」
声がうまく出ているか、自分では分からない。
「けがは治っても、食べられなければ身体は戻りません。薬があっても、水や清潔な布が足りなければ、使い続けられません。皆さんが工夫して、足りないものを補っていました」
ゲルハルトが、丁寧に尋ねた。
「あなたの《生活支援士》という職能によって、多くの方が救われたと報告されていますね」
「私一人の力ではありません」
「ご謙遜を。あなたがいなければ、防衛線も持たなかったのでは?」
「技能で人の動きを合わせることはできました。でも、食料を出したり、壊れた壁を元に戻したりはできません。私が来る前から、少ない物資を分け、負傷者を運び、壁を直していた人たちがいます」
「つまり現地の対応によって、最悪の事態は避けられた」
その言葉に、修司は違和感を覚えた。
届かなかった。それでも耐えた。だから問題は小さかった。
そう並べ替えられようとしている。
「避けられたこともあります」
修司は答えた。
「でも、それは物資がいらなかったという意味ではありません」
ゲルハルトの微笑が、わずかに薄くなった。
「一台分の荷があれば、必ず救えた命があったと証明できますか」
「必ずとは言えません」
「では――」
「ただ、食事を減らした日と、薬が切れた日は記録されています。その日に、どの人の具合が悪くなったかも。物資があれば何人助かったかは分かりません。でも、足りないことで何が起きたかは、なかったことにできません」
ミレイユが二つ目の束を机へ置いた。
食事の量。発熱した者。治療師が必要とした品。運べなかった人。支援に入った者の名前。
修司たちが救護院で積み重ねた記録だった。
「数字を数えるなら、この人たちも入れてください」
修司は言った。
◇
「私は、救恤局の判断がすべて誤りだったとは思わない」
それまで黙っていたカシウスが口を開いた。
低く、よく通る声だった。
「王都の熱病では、一日に何百人もの患者が運ばれた。南部では堤防が切れ、三つの村が水に沈んだ。物資も治療師も術師も、どこへでも同時には送れない」
彼は立ち上がり、国王へ一礼してから続けた。
「私も王都で救護に当たりました。一箱の治癒石をどちらへ運ぶか、一刻のうちに決めねばならなかった。決めなければ、両方で人が死にます」
それは机上の理屈だけではなかった。
白い外套の袖口には、薄い染みが残っている。磨かれた鎧の右肩にも、小さな傷が幾つもあった。
「より多くを救える場所へ送る。その判断自体は、今でも正しかったと考えます」
クラウディアが彼を見た。
「その結果、選ばれなかった土地に何が起きてもですか」
「結果を負うのは、決めた者です」
「誰が負ったのです。こちらには、変更の知らせさえ届かなかった」
カシウスはすぐには答えなかった。
修司は、二人の間で言葉を探した。
「優先することが必要なときは、あると思います」
自分の声に、クラウディアが振り向いた。
「私のいた世界でも、全員へ同時に同じことができない場面はありました。ただ、選ぶなら、どこへ送ったのかを記録して、届かない相手にも伝えないといけないと思います」
カシウスの目が修司へ向いた。
「伝えれば、失った者が納得すると?」
「納得しないと思います」
「ならば、何が変わる」
「備え方が変わります。助けが来ると思って待つのか、来ないと知って別の方法を探すのか。それに、次に同じ判断をするとき、誰を選ばなかったのかが残ります」
修司は机上の記録を見た。
「届かなかった荷を、届いたことにしてしまったら、その人たちは選ばれなかったことさえ消されます」
会議室が静かになった。
カシウスは反論せず、ゲルハルトへ視線を移した。
「局長。配分変更の記録は」
「もちろん存在します。ただ、現地の受領簿との相違については精査が必要です」
「では、精査すればよい」
カシウスの声は変わらなかった。
ゲルハルトは一瞬だけ彼を見たあと、国王へ頭を下げた。
「当局内部でも調査を始めます。混乱期の誤記が、あたかも組織的な不正であるかのように扱われぬよう、慎重に進める必要がございます」
壁際から、ヴェラの声がした。
「内部調査とは別に、監察局からも記録を確認いたします」
「クロイツ監察官。救恤の実務を知らぬ者が数字だけを見れば、正当な緊急措置まで疑われかねません」
「ですから、正当だったと確かめられる記録を拝見します」
二人の視線が重なった。
国王が片手を上げた。
「救恤局、財務局、監察局の三者で記録を照合せよ。グランフェルが持参した原本は、受領者を明らかにして保管する」
続いて、クラウディアへ向き直る。
「辺境には、ひと月分の食料と医療品を先行して送る。城壁復旧に必要な資材は、見積もりを照合したうえで決める」
「感謝いたします」
クラウディアが深く頭を下げた。
「ただし、指揮と備蓄に問題がなかったかも調べる。援助と責任の確認は別だ」
「承知しております。必要な記録を提出します」
勝ったわけではない。
それでも、食料と医療品が動く。
修司は、胸の奥にたまっていた息を、ゆっくり吐いた。
◇
会議が終わり、文書の受領手続きを待っていると、カシウスが廊下へ出てきた。
近くで見ると、修司より背が高い。腰に剣はなくても、立っているだけで通路が狭く見えた。
「タカセ殿」
現地人の口から呼ばれた名は、やはりカタカナの響きだった。
「先ほどの話、興味深く聞いた」
「ありがとうございます」
「だが、私は次に同じ状況になっても、大勢を救える方へ物資を送る」
まっすぐな目だった。
「偽りの記録があったなら正さねばならない。横流しがあったなら裁く。だが、配分そのものを罪だとは考えない」
「俺も、全部を同じように配れるとは思っていません」
「それでも、あなたは選ばれなかった一人を見る」
「目の前にいれば」
「その一人を見ている間に、背後の十人を失うこともある」
修司はすぐに否定できなかった。
介護の現場でも、一人へ関わり続ければ、ほかの人を待たせることがある。全員の希望へ、同時に応えられない夜もあった。
「だから、周りの人と相談します。一人で全部を決めないために」
「戦場では、相談を待てぬときもある」
「そのときは、決める人が必要なんだと思います」
「あなたは、決める側には立たない?」
問いに、修司は少し考えた。
「立たないとは言えません。でも、自分だけが正しいと思わないようにはしたいです」
カシウスは修司を見つめ、やがて小さくうなずいた。
「なるほど。あなたは、弱いから人に頼るのではないのだな」
褒められたのか、まだ見定められているのか分からない。
「俺一人では、できないことが多いだけです」
「同じことだ」
カシウスはそう言い、白い外套を翻した。
そのとき、塔の外から鐘の音が響いた。
◇
「第二王女殿下の祝福が始まります」
廊下の役人たちが、窓の方へ目を向けた。
今日は、王立治癒院の新しい病棟を開く日だという。中庭には治癒師や騎士、招かれた市民が集まり、王宮の回廊から第二王女が祝福を授けることになっていた。
受領の手続きが終わるまで、修司たちも回廊の端で待つよう案内された。
白い柱の向こうに、大勢の人が見える。中央には水鉢を囲む魔法陣が描かれ、治癒師たちが等間隔に立っていた。
やがて、反対側の扉が開いた。
銀色の髪を背へ流した若い女性が現れた。
白い衣装には、淡い銀糸で草花が刺繍されている。彼女が微笑むと、中庭から歓声が上がった。
「白銀の聖女、リディア殿下です」
ミレイユが小さく言った。
王女は歓声に応え、片手を上げた。
誰が見ても、堂々とした姿だった。
だが修司には、その足元が気になった。
扉から魔法陣を見下ろす位置まで、わずかな距離しか歩いていない。それなのに、立ち止まったあと、右足が半歩だけ外へ動いた。身体を支える幅を、目立たないように広げている。
胸元はほとんど動かず、肩だけが小さく上下していた。
隣の侍女が差し出した手を、王女は笑顔のまま断った。
「あの方は、いつもあのように?」
修司が尋ねると、カシウスが足を止めた。
「何か気になるのか」
「少し、息が苦しそうに見えます」
「殿下は、今朝も王立治癒院の診察を受けている」
カシウスの声に迷いはなかった。
「傷も病もない。ご健康だ」
中庭で、魔法陣に光が灯った。
王女は両手を掲げた。銀色の輝きが白い柱を染め、歓声がさらに大きくなる。
その光の中で、リディアの膝が一度だけ揺れた。
修司は、笑顔を崩さない彼女から目を離せなかった。




