第三十七話 嘘を測る女
王都監察局の廊下は、ひどく静かだった。
市場から続いていた人の声も、荷車の音も、厚い扉を二つ通ると聞こえなくなった。白い壁の左右に同じ形の扉が並び、どの部屋から来たのか分からなくなる。
修司は控室の長椅子に座り、両手を膝へ置いていた。
向かいにはクラウディアとミレイユがいる。大きな文書箱は護衛二人の間に置かれ、盗まれかけた綴りは別の包みに収められていた。
「手首は、まだ痛みますか」
修司が尋ねると、ミレイユは赤くなった箇所を袖で隠しかけ、途中でやめた。
「触れると少し痛いですが、動かせます。エヴァ先生に診ていただきます」
「そうしてください」
「タカセさんこそ、走ったあとから顔色がよくありません」
「息は戻りました。足は、明日になったら分かりません」
笑ってみせると、クラウディアが修司の靴へ目を落とした。
「宿所までは馬車で戻りましょう」
「はい」
すぐ帰れるなら、という言葉は飲み込んだ。
市場から来たあと、三人は別々に話を聞かれると告げられた。クラウディアは同席を求めたが、ヴェラは、それでは証言を分ける意味がないと断った。
代わりに、聞き取りには記録係を置き、本人が最後に内容を確認する。扉の外には同行者を待たせる。それを条件に、クラウディアは応じた。
廊下の奥で扉が開いた。
「タカセさん。こちらへ」
ヴェラが立っていた。
◇
部屋には机が一つ、椅子が三脚あった。
窓には鉄格子がなく、扉も修司の背後ではなく横にある。それでも、案内された椅子へ座ると、逃げ道を確かめたくなる。
机の端には、記録係の若い男性がいた。ヴェラは向かいへ座り、紙の上に短剣と切れた鞄の絵を並べた。現物は別の場所で保管されているらしい。
「始める前に、確認します」
修司は言った。
「俺は逮捕されているんでしょうか」
「現在は、事件現場にいた関係者として留まっていただいています。市場の目撃証言と食い違いがなく、ほかに疑う事情がなければ、今日中にお帰しします」
「話した内容の写しはもらえますか」
「清書後になりますが、お渡しします」
ヴェラは記録係を見た。青年が、最初のやり取りから書き留めていることを示す。
「では、鞄が奪われる前から話してください」
修司は市場へ入ったところから順に話した。
橋の前で列が止まったこと。果物の箱が崩れたこと。ミレイユの隣に男がいたこと。切られた紐。逃げていく鼠色の上着。
「男が鞄を取る瞬間を、見たのですね」
「はい。ただ、刃が紐に当たるところまでは見ていません。音がして振り向いたときには、男の手に鞄がありました」
「先ほどは、紐が切られたと話しました」
「結果を一緒に言ってしまいました。俺が見たのは、男の手と、切れたあとの紐です」
記録係の筆が止まり、少し前の行へ印をつけた。
ヴェラは修司を見たまま、次を促した。
「追跡の途中で、男を見失った時間は」
「あります。赤い布の向こうへ入ってから、水路で見つけるまでです」
「その間に、鞄を別の者から渡された可能性は」
「あると思います。俺は見ていません」
「あなたは、知らない道を先回りした」
「通ったことのあるところだけです。昨日、橋を渡るときに、水路と市場の位置を見ました」
「一度見ただけで?」
「地図を作る仕事をしていたので、道のつながりを見る癖があります」
ヴェラは、市場で修司が描いた簡単な図を机へ置いた。
黄色い靴の形と赤い布、橋、水路。昨日起きたばかりの人が描いたにしては、特徴の選び方がよすぎる。そう疑われているのだろう。
「この黄色い看板の店を、事前に協力者と決めていたのでは?」
「違います」
「店主は、あなた方を裏口へ通した」
「俺たちが兵士と一緒だったからだと思います。それに、鞄を盗った人を追っていると伝えました」
「もし店主が、話を合わせたら」
「俺には分かりません。店の人が何を話すか、聞いてください」
答えるたび、ヴェラはすぐ次の問いを重ねた。同じことを、言葉と順番を変えて尋ねられる。
修司は、分からないものを埋めないようにした。
見たこと。聞いたこと。自分がそう考えたこと。
三つを混ぜると、話はきれいになる。だが、きれいになった分だけ、誰かが確かめられる場所がなくなる。
「男を押さえたのは、逃走を防ぐためですか。それとも、資料を取り返すためですか」
「両方です」
「どちらか一つなら」
修司はすぐに答えられなかった。
あのとき、男の左腕には鞄があり、右手には短剣があった。自分の後ろには逃げ道があり、その先には市場の人々がいた。
「刃物を止める方です」
「資料より?」
「紙は、辺境にも写しがあります。あの人が刃を持ったまま市場へ戻ったら、誰かがけがをするかもしれなかった」
「あなたは武装した兵士ではありません」
「はい」
「五十二歳の生活支援職です」
「そうです」
「それでも、ご自分で止めた」
「俺の方へ来たので、避けて腕を取りました。兵士がすぐ近くにいたからです。一人なら、同じことができたか分かりません」
ヴェラの指が、机を一度たたいた。
「あなたの報告には、そういう言葉が多いですね。誰かがいたからできた。相手が自分で動いた。自分は見ただけだ、と」
修司は、彼女の目を見た。
「実際に、そうだったので」
「謙遜ですか」
「たぶん、昔はそう言って自分を小さくしたこともあります。でも今は、俺一人の手柄にしたら、次に同じことが起きたとき誰もできなくなると思っています」
修司は少し考え、続けた。
「それに、俺が危ないことをしたのも事実です。エヴァ先生には、先に声を掛けろと言われました」
ヴェラの目が、ほんの少し細くなった。
記録係の筆だけが、紙の上を進んだ。
◇
「では、あなたが王都へ来た理由を伺います」
市場での出来事を一通り聞いたあと、ヴェラは新しい紙を出した。
「国王の召喚に従った。それだけですか」
「それだけではありません」
「辺境への援助を得るため?」
「それもあります」
「ご自分の職能を、高く評価させるため?」
修司は一度、黙った。
「評価されたくないわけではありません」
口にすると、思ったより言いにくかった。
「役に立たない職だと言われるより、必要だと思ってもらえる方がいいです。俺自身も、ここへ来る前は、自分がしてきた仕事に大した価値がないと思っていました」
「では、地位を望んでいる」
「地位が何を意味するのか、まだ分かりません。お金も、暮らす場所も必要です。でも、その代わりに誰かの命令だけで技能を使えと言われるなら、困ります」
「ずいぶん都合のよい条件ですね」
「そうかもしれません」
修司は否定しなかった。
「でも、相手が嫌がっていることを無理にさせたり、身体を傷める使い方をしたりすれば、俺の技能はうまく働きません。それ以前に、俺がしたくない」
「辺境に戻りたいから、王都の命令に逆らうのですか」
「帰りたいです」
「クラウディア様のもとへ?」
修司は言葉に詰まった。
問われたのは領地ではなく、名前だった。
「クラウディア様にも、ベルンハルト様にも、救護院の皆さんにも、帰ると言ってきました」
「質問を広げましたね」
「……はい」
頬が少し熱くなる。
ヴェラは笑わなかったが、それ以上そこを追わなかった。
「あなたの帰還を望む人々がいる。それでも、危険を承知で王都へ来た理由は?」
修司は、今度は考えてきた言葉をそのまま話した。
辺境へ届くはずの物資が消えていたこと。その不足が、食事や治療だけでなく、人が起き上がり、働き、暮らし直すための時間まで奪っていたこと。灰冠の群れがなぜ南下したのか、捕らえられた者たちの先に誰がいるのかを確かめたいこと。
「救護院で工夫をすれば、少ないものでも何日かは持たせられます。でも、届くはずの食べ物を誰かが途中で抜いているなら、現場だけでは直せません」
「あなたは、その不正を暴くために来たと」
「暴けるとは思っていません。俺は、この国の決まりも組織も知りませんから。ただ、どこで止まっているのかを見て、知っていることを伝えたいです」
「そして、ご自分で辺境へ戻る」
「はい」
「王都に残れば、より多くの人を助けられるとは考えませんか」
返事を急げば、うまいことを言える気がした。
どこにいる人も同じだ、と。しかし、修司は自分がそんなに公平な人間ではないと知っていた。
「考えます」
正直に答えた。
「王都には大勢の人がいます。助けが必要な人も多いと思います。でも、人数が多いからというだけで、辺境で待っている人を後回しにしていいとは思えません。それに、どこで誰を支えるかを、俺以外の人だけで決めてほしくないんです」
ヴェラは黙っていた。
「立派な答えになっていなくて、すみません」
「立派かどうかは測っていません」
「では、何を」
「あなたの話が、確かめられる形をしているかです」
ヴェラは、これまで書かれた記録を指先でそろえた。
「人は、嘘だけを話すとは限りません。見たものへ願望を足し、聞いた話を自分の記憶に変えます。善意の者ほど、自分の行動に正しい理由を後から付けることもある」
修司は、最初の質問で言い直した箇所を見た。
「だから、同じことを何度も聞いたんですか」
「ええ。私に、人の心を読む魔法はありませんので」
ヴェラの腰には、青い魔導糸を操る細剣がある。修司は、少し意外に思った。
「てっきり、嘘が分かる術もあるのかと」
「そのような術があれば、監察官は半分ほど失職しますね。残りの半分は、術が本物かを疑う仕事になるでしょう」
淡々とした声だったが、皮肉なのだと少し遅れて分かった。
◇
聞き取りが終わると、修司は記録係が読み上げる内容を確認した。
見ていないことを、見たように書かれていない。言い直した箇所も、最初の表現と訂正の理由が残されていた。
修司が署名すると、ヴェラは扉を開けた。
廊下ではクラウディアが待っていた。立ち上がった彼女が修司の顔を確かめる。
「終わりましたか」
「はい。たぶん、同じ話を五回くらいしました」
「四回です」
背後からヴェラが訂正した。
「数える余裕がなかったので」
修司が答えると、クラウディアの肩から少し力が抜けた。
ミレイユと護衛の聞き取りも終わり、市場から集めた証言との確認が始まっていた。靴屋の店主は、修司と兵士を裏へ通したことを認めた。果物の箱を倒した男と、台車を押し込んだ男についても、別々の店から似た人相が挙がっているという。
「現時点で、タカセさんたちを留める理由はありません」
ヴェラが言った。
「お帰りいただいて結構です」
「疑いは晴れたと考えてよいのですか」
クラウディアが尋ねた。
「市場での窃盗を自作自演した可能性は低いと判断します。ただし、街道襲撃を含めた調査は続いています」
「つまり、まだ私たちを調べると」
「必要な範囲で」
ヴェラは少しも目を逸らさなかった。
「提出資料を狙う者がいるなら、皆様の周囲を調べる理由は増えました。監察局の者を、宿所と移動先の近くへ置きます」
「護衛ではなく、監視ですね」
「どちらとして役に立つかは、起きることによります」
クラウディアの眉がわずかに寄った。
修司は二人の間で、口を挟んだ。
「監視する人に、こちらから話をしてもいいですか」
ヴェラが修司を見る。
「どのような話を?」
「怪しい人を見たとか、資料のことで何かあったときです。近くにいるのに、連絡は別の場所へしろと言われたら遅くなるので」
「構いません。監察局の徽章を、外から見える位置につけさせます」
「それでは監視にならないのでは?」
「隠れて見る者が、ほかにいないとは申し上げていません」
修司は返事を止めた。
クラウディアが、小さく息を吐く。
「少なくとも、堂々とついてくる者とは話ができそうですね」
「ええ」
ヴェラが本気で答えたため、皮肉がうまく届かなかったらしい。
◇
玄関へ向かいかけたところで、若い役人が廊下を走ってきた。
「クロイツ監察官。市場で捕らえた男の持ち物について、確認をお願いします」
ヴェラは足を止めた。
「何が出ました」
「硬貨と短剣、偽名の通行札だけです。ただ、靴に付着している泥が」
役人が持つ木盆には、片方の靴が載っていた。
市場を走った汚れで、底は黒く湿っている。しかし、踵と革の縫い目には、それとは違う色がこびりついていた。
青みを帯びた灰色。
「水路の泥ではないんですか」
修司が尋ねた。
ヴェラは手袋をはめ、靴の縁を持ち上げた。
「表面の黒いものは、今日の荷揚げ場で付いたのでしょう。青い方は乾いています。その上から新しい泥が重なっている」
彼女は踵の溝を細い棒でなぞった。乾いた欠片が木盆へ落ちる。
「王都の水路には、石の隙間を埋めるため藍灰粘土を使う場所があります。この色が出るのは、東岸の古い船着き場と、その周辺の倉庫です」
「男は、そこから来た可能性がある?」
クラウディアが尋ねた。
「可能性です。似た土が、ほかにないかも確かめます」
ヴェラは役人へ靴を戻した。
「男には、泥のことを知らせないでください。今朝どこから市場へ来たのか、もう一度、別の者に聞かせます」
「先ほどは、南門近くの安宿から来たと」
「ならば、どの道で東岸の泥を踏んだのか説明してもらいましょう」
役人が去ったあと、修司は廊下の窓から外を見た。
白い塔の下に、何本もの水路が伸びている。その先は建物に隠れ、ここからでは見えなかった。
「これも、俺たちには教えない話ですか」
修司が尋ねると、ヴェラは少し考えた。
「皆様が盗人の依頼主である可能性は、低くなりました」
「ずいぶん控えめな言い方ですね」
「疑わなくてよい理由が増えただけです。信じてよい理由は、これから確かめます」
ヴェラは窓の向こうへ目を向けた。
「同じことは、皆様にも言えます。青い泥が付いていたからといって、水路区の人間を皆、敵だと思わないでください」
「分かりました」
修司はうなずいた。
「でも、次にどこを確かめるかは分かりました」
「確かめるのは監察局です。勝手に東岸へ入らないように」
「はい」
答えながら、修司は隣のクラウディアを見た。
彼女も水路の先を見ていた。
王都へ来て二日目。
辺境から持ってきた紙は、まだ一枚も正式に受け取られていない。
それでも、その紙を消そうとした者が歩いたかもしれない場所は、青い泥となって彼らの前に残っていた。




