第三十六話 中央市場を走れ
翌朝、ミレイユは小さな革鞄の留め具を、二度確かめた。
中に入っているのは、マルクスから押収した物資の受領記録だった。厚い帳簿とは別に綴じられた、荷ごとの受取証。紙の端には日付と印があり、裏には別の筆跡による書き込みが残っている。
修司が辺境で見比べてきた紙も、その中にあった。
「写したものでは、ここの重なりが分からないんです」
ミレイユが印と文字の重なる箇所を示した。
「何が先に書かれたのか、原本で確かめてもらいたいので」
「ええ。そこは実物を見てもらいましょう」
修司は答え、照合のために作った一覧を自分の荷袋へ収めた。
大きな文書箱は二人の護衛が小さな荷車で運ぶ。ミレイユの鞄には、最初の照合で使う薄い綴りだけを分けて入れてあった。肩に掛け、さらに短い紐を手首へ通す。クラウディアがその隣につき、修司ともう一人の護衛が続いた。
エヴァは館に残り、職能審査について確かめるための書面を整えている。
出発する修司へ、彼女は言った。
「審査の返事が届いても、あなたが戻るまで決めないわ。だから、こちらも勝手に実演を引き受けないでね」
「分かっています」
今日は資料を届け、確かめてもらう日だ。
修司はそう思いながら、朝の通りへ出た。
◇
中央市場は、昨日より早い時刻にもかかわらず、もう人で埋まっていた。
焼いた粉の匂いと、香辛料の匂いが重なる。店先では棚へ商品を並べる者と買いに来た者がすれ違い、荷運び人が背中の籠をかばいながら歩いていた。
一行は荷車が通れる道を選んだが、橋の手前で足を止めた。向こう側から大きな車が来るため、通りの係が片側を待たせている。
「通り終わったら、続けて渡れます」
案内人が言った。
修司は、橋の左側へ伸びる天幕の列を見た。人だけなら、その脇を抜けて水路沿いへ出られそうだった。昨日も同じ方向へ、籠を持つ人々が消えていった。
右手には、黄色い靴の看板。その奥に赤い布を何枚も干した店がある。染めた布らしく、朝の光が透けるところだけ、色が明るかった。
見ているうちに、隣の店から空の台車が押し出された。
「そこ、空けてくれ!」
護衛が半歩前へ出て、ミレイユとの間を確保する。台車の男は頭を下げ、橋へ向かう列の後ろへ回った。
そのとき、後方で大きな音がした。
木箱が崩れ、丸い果物が道へ跳ねた。人が振り向き、子供の声が上がる。修司も肩越しに見たが、すぐ前へ視線を戻した。
ミレイユの脇に、見覚えのない若い男がいた。
鼠色の短い上着。片手は人にぶつかったふりをして上がり、もう片方が、鞄の肩紐の近くにある。
「離れろ!」
護衛が叫ぶのと、紐が切れるのが同時だった。
ミレイユが鞄を引き寄せる。手首の紐が張った。男はそこへ刃を当て、彼女が手を引いた隙に鞄を奪った。
クラウディアが腕を伸ばしたが、二人の間へ空の台車が押し込まれた。
木枠が石畳をこすり、彼女の足を止める。
「その男を止めて!」
クラウディアの声に、若い男は振り向かなかった。橋へ続く列を横切り、左手の天幕の間へ飛び込んでいく。
修司はミレイユの手を見た。
「切られましたか」
「紐だけです! 鞄を!」
手の甲に血は見えなかった。
クラウディアはすでに台車を回り込み、男を追っていた。
「二人は箱とミレイユを守って! 市場の衛兵を呼びなさい!」
命令を聞いた護衛たちが荷車の前後へつく。修司の隣にいた兵士が、追跡へ加わろうと足を踏み出した。
修司も走った。
だが、五歩も進まないうちに分かった。
このまま後ろを追っていては、間に合わない。
◇
鼠色の上着は、人の隙間を抜けるたびに小さくなった。
クラウディアは速かったが、剣を差した身体では、客を押しのけて通るわけにはいかない。男は籠を蹴り、通りすがりの人の肩をつかんで後ろへ押した。
悲鳴が起き、道が詰まる。
修司は立ち止まり、息を吸った。
目の前の背中だけを見ていては、見失う。
看板を見る。天幕の切れ目を見る。その下で、人がどちらへ身体を向けているかを見る。
頭の中に、先ほど歩いた道を置き直した。
《生活動線把握》。
知らない街の地図が浮かぶわけではなかった。見た道のつながりと、今ふさがった場所が、余計な景色から分かれていく。
橋は混んでいる。男は渡らず、水路のこちら側へ走っている。
赤い布の向こうに、一瞬だけ鼠色が見えた。
「まだ、あそこです」
修司は隣の兵士へ指を向けた。
男は店の裏へ抜けたらしい。布が揺れ、その向こうで荷運び人が慌てて横へ避けた。
修司は黄色い靴の看板へ走った。店の脇に、空の籠を積んだ通路がある。
「ここから、水路へ出られますか!」
靴を並べていた店主が顔を上げた。
「裏の荷揚げ場へは出るが――」
「鞄を盗った男を追っています。通してください!」
兵士が続けると、店主は籠を一つ引いた。
「突き当たりを左だ。下り段があるぞ!」
「ありがとうございます!」
修司は身体を横へ向けて籠の間を通った。後ろから兵士の鎧が木枠へ触れる音がする。
狭い道を駆け抜けると、湿った風が顔に当たった。
水路だった。
倉庫の壁と石の縁の間に、荷を下ろす広場がある。左から、さっきの若い男が走ってくる。
修司を見て、男の足が一瞬鈍った。
「何で――」
その顔を見て、修司はようやく、先に出られたのだと分かった。
ただし、捕まえたわけではない。
男はすぐ向きを変え、岸に渡された板へ走った。先には荷船が一隻、係留されている。
「兵士さん、船の方へ!」
修司は声を掛け、自分は岸の通路に残った。
兵士が船への道を塞ぐと、男は舌打ちした。水路へ飛び込む代わりに、鞄を抱き直して修司の方へ戻ってくる。
逃げ道に立つのは、息を切らした中年の男一人。
そう見えたのだろう。
「どけよ!」
右手に、短い刃が光った。
◇
修司は、腰を落として待ち構えるような真似はしなかった。
すぐ脇にある荷の仕切りへ手を伸ばした。布を干すための軽い木枠が、倉庫の壁に立て掛けてある。片側を引くと、枠が斜めに倒れ、男との間に入った。
刃が木へ当たった。
修司の腕へ衝撃が伝わる。枠を持ち続ければ、押し切られる。
手を離し、横へ動いた。
男は木枠を蹴り倒したが、その間に兵士が船側から迫った。逃げるには修司の横を抜けるしかない。
《生活動作把握――自己適用》。
早くなった呼吸の下で、足の位置を確かめる。
男が振った腕に、修司は正面から向き合わなかった。刃の通るところから身体を外し、通り過ぎようとする肩へ寄った。
若者の目が大きく開いた。
腕を振り戻そうとする動きが、修司の手の中で止まる。男は左腕に鞄を抱えたまま、力任せに引き抜こうとした。
修司は引き合わず、足を運んだ。
長年、畳の上で繰り返してきた動きだった。相手が引くなら、その引く先へ身体ごとついていく。肩が追いつけない向きへ、腕と重心を導く。
男の膝が折れ、石畳へ落ちた。
短剣が、澄んだ音を立てて転がる。
修司は腕を押さえたまま、ようやく息を吐いた。
「鞄を、離してください」
「痛え! 折れる!」
「動かないで」
兵士が短剣を遠ざけ、男の左手から鞄を取った。切られた紐がぶら下がっているが、留め具は閉じていた。
その向こうから、クラウディアが駆けてきた。
「タカセ!」
「取り戻しました!」
声にしたとたん、膝が震えた。
修司は押さえる力を強めないよう、もう一度足元を見た。技能を使っても、息切れまでは消えない。喉の奥が熱く、汗が目に入った。
クラウディアは鞄を確認し、兵士へ引き渡しを命じようとした。
そのとき、若い男が突然叫んだ。
「助けてくれ! 殺される!」
倉庫の入口から、何人もの顔がこちらを見た。
「この連中に襲われたんだ! そいつ、俺の腕を――」
「刃物を持っていたのは、あなたです」
修司は言ったが、男はさらに声を張った。
「見ただろ! 今、押さえつけてるのはそいつだ!」
修司には、逃げる男の背中も、ミレイユの紐を切った手も見えていた。
だが、今ここへ来た人には、別の場面が見えている。
それに気づいて、背筋が冷たくなった。
◇
「全員、そこで止まってください」
よく通る女性の声がした。
濃紺の長衣が、倉庫の角から現れた。後ろには、市場の衛兵が二人いる。
ヴェラ・クロイツだった。
修司が顔を上げた瞬間、手首に冷たいものが触れた。
細い光が、修司と若い男の腕の間を走っていた。糸のようなものが二人の手首へ回り、動きを制している。
修司は反射的に腕を引きかけ、止めた。
ヴェラの片手が、腰の細剣の柄に添えられていた。そこから伸びる淡い線が、光の加減で青く見える。
「そのまま。急に動くと、互いの腕を傷めます」
「クロイツ。彼は私の同行者です。逃げた盗人を捕らえました」
クラウディアが前へ出た。
「存じています。市場から通報も来ました。だから、双方の手を止めています」
ヴェラは若い男の顔を見た。
「あなたもです。先ほどから、足だけ逃がそうとしないでください」
男の動きが止まった。
衛兵が左右へ回り、若者を引き受けた。修司は指示を待ってから腕を離した。青い糸がほどけ、皮膚に残っていた冷たさが消える。
あれを戦いの最中に使われたら、どうする。
投げるために腕を取ったつもりが、自分の動きまで縛られる。修司は手首を見下ろした。力だけでどうにかできる感じではなかった。
「おけがは」
ヴェラが尋ねた。
「俺は、ありません。鞄を持っていた人にも、確認を」
「別の衛兵が向かっています」
彼女は兵士の持つ鞄へ目を移した。
「それが、今日提出する資料ですか」
「その一部です」
クラウディアが答えた。
「昨夜、受付で最初に照合するため、別にしました」
ヴェラは切れた肩紐と手首の紐を見た。続いて、石畳の短剣へ目を向ける。手で拾う前に、衛兵へその位置を記録するよう指示した。
若い男が口を開いた。
「それは俺のじゃ――」
「あなたの話も聞きます。一度に全部言い換えなくて結構です」
冷たい声だった。
男は黙った。
修司は壁へ手をつきそうになり、少し離れた木箱へ目を向けた。
「すみません。座ってもいいですか」
ヴェラが修司の顔を見た。
「どうぞ。倒れられると、聞く相手が一人減ります」
修司は木箱へ腰を下ろした。
クラウディアが近くへ来て、小さな水筒を差し出す。礼を言って受け取り、少しずつ飲むと、ようやく喉が落ち着いた。
「どうして、先に出られたのです」
彼女が聞いた。
「布の向こうに見えたんです。水路に沿って走っていると思って。靴屋の人に、裏へ抜けられるか聞きました」
「追っている間に、それを?」
「同じ道を走っても、追いつけなかったので」
クラウディアは、修司の汗だくの顔と、捕らえた男を交互に見た。
「……あなたは、目の前の相手だけを見ているのではないのですね」
「見失いそうになっただけです」
修司は答えてから、少し笑った。
「でも、道は見えました」
◇
ミレイユたちが到着すると、まず鞄の中身を確かめた。
彼女の手首には、紐で擦れた赤い跡があった。刃による傷はなく、同行した衛兵にそのことを伝える。
大きな文書箱も無事だった。
ヴェラの立ち会いで留め具を開き、ミレイユが紙の枚数と並びを確認する。修司は自分の荷袋から一覧を出し、一つずつ読み上げた。
日付。受取人。裏の書き込み。
最後の紙まで、そろっていた。
「あります。全部」
ミレイユが綴りを胸へ寄せかけ、途中で手を止めた。
紙を傷めないよう、そっと机代わりの箱へ戻す。
「ありがとうございます」
修司はうなずいた。
辺境で記録を探し、照らし合わせ、話してくれた人たちがいる。ここで一人の手へ渡っただけで、その仕事が消えるところだった。
ヴェラは切れた鞄を証拠として預かり、中身は一行が用意した別の包みへ戻させた。受領したものと返したものを、役人の帳面へ分けて記させる。
「予定の受付ではなく、監察局へ来ていただきます」
クラウディアが顔を上げた。
「資料の提出はどうなります」
「担当へ連絡します。今度は資料そのものが事件に関わりました。盗られた経緯と、取り戻した経緯を先に確認します」
ヴェラの視線が修司へ向いた。
「タカセさんも。現場で腕を押さえていた理由を、ご自分の言葉で話していただきます」
助けたから終わり、とはならないらしい。
修司は首を動かし、クラウディアへ目を向けた。彼女は小さくうなずいたあと、ヴェラへ答えた。
「同行します。ただし、話を聞く前から彼を犯人扱いすることは認めません」
「ですから、話を聞きます」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
修司は立ち上がった。足はまだ少し重かったが、自分で歩ける。
「靴屋の人にも、聞いてもらえますか。俺たちが通った道を見ています」
「場所を教えてください」
ミレイユが紙を差し出した。修司は黄色い靴の看板と、赤い布の店、橋と水路の位置を簡単に描いた。見ていないところは埋めず、自分たちが通った道だけを線にする。
ヴェラはその紙を受け取り、しばらく眺めた。
「昨日、王都へ着いたばかりでしたね」
「はい」
「道案内の仕事もなさっていたのですか」
「地図は、描いていました。人が迷わず来られるように」
彼女は紙を役人へ渡した。
「この道に沿って、目撃した者を探してください。果物を倒した者と、台車を押した者も」
修司は、そこで改めて周囲を見た。
逃げた男だけを追っていた。だが、道を塞いだ者たちは、まだ捕まっていない。
若い男は、衛兵の間で俯いていた。
ヴェラがその前へ立つ。
「大きな箱ではなく、この綴りを狙った理由も聞きましょう」
男の喉が動いた。
修司は、ミレイユが抱え直した包みを見た。
中身を知らず、金目の物だと思って盗んだ可能性はある。だが、街道で文書箱を狙われたあと、今度は提出する綴りを奪われかけた。偶然だと片づける気にはなれなかった。
取り戻した紙の角に、受領印がのぞいていた。
誰かがこれを欲しがっているのかもしれない。
あるいは、誰かに読まれる前に、なくしてしまいたいのだ。
修司はミレイユの隣へつき、今度は監察局の衛兵に囲まれて、荷揚げ場を出た。




