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国を立たせる介護士 ~52歳で異世界召喚された外れ職《生活支援士》、寝たきりの老将から滅びかけた王国まで再建する~  作者: 狼賀亮一郎
第二部 白き王都と傷なき聖女編

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第三十六話 中央市場を走れ

翌朝、ミレイユは小さな革鞄の留め具を、二度確かめた。


 中に入っているのは、マルクスから押収した物資の受領記録だった。厚い帳簿とは別に綴じられた、荷ごとの受取証。紙の端には日付と印があり、裏には別の筆跡による書き込みが残っている。


 修司が辺境で見比べてきた紙も、その中にあった。


「写したものでは、ここの重なりが分からないんです」


 ミレイユが印と文字の重なる箇所を示した。


「何が先に書かれたのか、原本で確かめてもらいたいので」


「ええ。そこは実物を見てもらいましょう」


 修司は答え、照合のために作った一覧を自分の荷袋へ収めた。


 大きな文書箱は二人の護衛が小さな荷車で運ぶ。ミレイユの鞄には、最初の照合で使う薄い綴りだけを分けて入れてあった。肩に掛け、さらに短い紐を手首へ通す。クラウディアがその隣につき、修司ともう一人の護衛が続いた。


 エヴァは館に残り、職能審査について確かめるための書面を整えている。


 出発する修司へ、彼女は言った。


「審査の返事が届いても、あなたが戻るまで決めないわ。だから、こちらも勝手に実演を引き受けないでね」


「分かっています」


 今日は資料を届け、確かめてもらう日だ。


 修司はそう思いながら、朝の通りへ出た。


     ◇


 中央市場は、昨日より早い時刻にもかかわらず、もう人で埋まっていた。


 焼いた粉の匂いと、香辛料の匂いが重なる。店先では棚へ商品を並べる者と買いに来た者がすれ違い、荷運び人が背中の籠をかばいながら歩いていた。


 一行は荷車が通れる道を選んだが、橋の手前で足を止めた。向こう側から大きな車が来るため、通りの係が片側を待たせている。


「通り終わったら、続けて渡れます」


 案内人が言った。


 修司は、橋の左側へ伸びる天幕の列を見た。人だけなら、その脇を抜けて水路沿いへ出られそうだった。昨日も同じ方向へ、籠を持つ人々が消えていった。


 右手には、黄色い靴の看板。その奥に赤い布を何枚も干した店がある。染めた布らしく、朝の光が透けるところだけ、色が明るかった。


 見ているうちに、隣の店から空の台車が押し出された。


「そこ、空けてくれ!」


 護衛が半歩前へ出て、ミレイユとの間を確保する。台車の男は頭を下げ、橋へ向かう列の後ろへ回った。


 そのとき、後方で大きな音がした。


 木箱が崩れ、丸い果物が道へ跳ねた。人が振り向き、子供の声が上がる。修司も肩越しに見たが、すぐ前へ視線を戻した。


 ミレイユの脇に、見覚えのない若い男がいた。


 鼠色の短い上着。片手は人にぶつかったふりをして上がり、もう片方が、鞄の肩紐の近くにある。


「離れろ!」


 護衛が叫ぶのと、紐が切れるのが同時だった。


 ミレイユが鞄を引き寄せる。手首の紐が張った。男はそこへ刃を当て、彼女が手を引いた隙に鞄を奪った。


 クラウディアが腕を伸ばしたが、二人の間へ空の台車が押し込まれた。


 木枠が石畳をこすり、彼女の足を止める。


「その男を止めて!」


 クラウディアの声に、若い男は振り向かなかった。橋へ続く列を横切り、左手の天幕の間へ飛び込んでいく。


 修司はミレイユの手を見た。


「切られましたか」


「紐だけです! 鞄を!」


 手の甲に血は見えなかった。


 クラウディアはすでに台車を回り込み、男を追っていた。


「二人は箱とミレイユを守って! 市場の衛兵を呼びなさい!」


 命令を聞いた護衛たちが荷車の前後へつく。修司の隣にいた兵士が、追跡へ加わろうと足を踏み出した。


 修司も走った。


 だが、五歩も進まないうちに分かった。


 このまま後ろを追っていては、間に合わない。


     ◇


 鼠色の上着は、人の隙間を抜けるたびに小さくなった。


 クラウディアは速かったが、剣を差した身体では、客を押しのけて通るわけにはいかない。男は籠を蹴り、通りすがりの人の肩をつかんで後ろへ押した。


 悲鳴が起き、道が詰まる。


 修司は立ち止まり、息を吸った。


 目の前の背中だけを見ていては、見失う。


 看板を見る。天幕の切れ目を見る。その下で、人がどちらへ身体を向けているかを見る。


 頭の中に、先ほど歩いた道を置き直した。


 《生活動線把握》。


 知らない街の地図が浮かぶわけではなかった。見た道のつながりと、今ふさがった場所が、余計な景色から分かれていく。


 橋は混んでいる。男は渡らず、水路のこちら側へ走っている。


 赤い布の向こうに、一瞬だけ鼠色が見えた。


「まだ、あそこです」


 修司は隣の兵士へ指を向けた。


 男は店の裏へ抜けたらしい。布が揺れ、その向こうで荷運び人が慌てて横へ避けた。


 修司は黄色い靴の看板へ走った。店の脇に、空の籠を積んだ通路がある。


「ここから、水路へ出られますか!」


 靴を並べていた店主が顔を上げた。


「裏の荷揚げ場へは出るが――」


「鞄を盗った男を追っています。通してください!」


 兵士が続けると、店主は籠を一つ引いた。


「突き当たりを左だ。下り段があるぞ!」


「ありがとうございます!」


 修司は身体を横へ向けて籠の間を通った。後ろから兵士の鎧が木枠へ触れる音がする。


 狭い道を駆け抜けると、湿った風が顔に当たった。


 水路だった。


 倉庫の壁と石の縁の間に、荷を下ろす広場がある。左から、さっきの若い男が走ってくる。


 修司を見て、男の足が一瞬鈍った。


「何で――」


 その顔を見て、修司はようやく、先に出られたのだと分かった。


 ただし、捕まえたわけではない。


 男はすぐ向きを変え、岸に渡された板へ走った。先には荷船が一隻、係留されている。


「兵士さん、船の方へ!」


 修司は声を掛け、自分は岸の通路に残った。


 兵士が船への道を塞ぐと、男は舌打ちした。水路へ飛び込む代わりに、鞄を抱き直して修司の方へ戻ってくる。


 逃げ道に立つのは、息を切らした中年の男一人。


 そう見えたのだろう。


「どけよ!」


 右手に、短い刃が光った。


     ◇


 修司は、腰を落として待ち構えるような真似はしなかった。


 すぐ脇にある荷の仕切りへ手を伸ばした。布を干すための軽い木枠が、倉庫の壁に立て掛けてある。片側を引くと、枠が斜めに倒れ、男との間に入った。


 刃が木へ当たった。


 修司の腕へ衝撃が伝わる。枠を持ち続ければ、押し切られる。


 手を離し、横へ動いた。


 男は木枠を蹴り倒したが、その間に兵士が船側から迫った。逃げるには修司の横を抜けるしかない。


 《生活動作把握――自己適用》。


 早くなった呼吸の下で、足の位置を確かめる。


 男が振った腕に、修司は正面から向き合わなかった。刃の通るところから身体を外し、通り過ぎようとする肩へ寄った。


 若者の目が大きく開いた。


 腕を振り戻そうとする動きが、修司の手の中で止まる。男は左腕に鞄を抱えたまま、力任せに引き抜こうとした。


 修司は引き合わず、足を運んだ。


 長年、畳の上で繰り返してきた動きだった。相手が引くなら、その引く先へ身体ごとついていく。肩が追いつけない向きへ、腕と重心を導く。


 男の膝が折れ、石畳へ落ちた。


 短剣が、澄んだ音を立てて転がる。


 修司は腕を押さえたまま、ようやく息を吐いた。


「鞄を、離してください」


「痛え! 折れる!」


「動かないで」


 兵士が短剣を遠ざけ、男の左手から鞄を取った。切られた紐がぶら下がっているが、留め具は閉じていた。


 その向こうから、クラウディアが駆けてきた。


「タカセ!」


「取り戻しました!」


 声にしたとたん、膝が震えた。


 修司は押さえる力を強めないよう、もう一度足元を見た。技能を使っても、息切れまでは消えない。喉の奥が熱く、汗が目に入った。


 クラウディアは鞄を確認し、兵士へ引き渡しを命じようとした。


 そのとき、若い男が突然叫んだ。


「助けてくれ! 殺される!」


 倉庫の入口から、何人もの顔がこちらを見た。


「この連中に襲われたんだ! そいつ、俺の腕を――」


「刃物を持っていたのは、あなたです」


 修司は言ったが、男はさらに声を張った。


「見ただろ! 今、押さえつけてるのはそいつだ!」


 修司には、逃げる男の背中も、ミレイユの紐を切った手も見えていた。


 だが、今ここへ来た人には、別の場面が見えている。


 それに気づいて、背筋が冷たくなった。


     ◇


「全員、そこで止まってください」


 よく通る女性の声がした。


 濃紺の長衣が、倉庫の角から現れた。後ろには、市場の衛兵が二人いる。


 ヴェラ・クロイツだった。


 修司が顔を上げた瞬間、手首に冷たいものが触れた。


 細い光が、修司と若い男の腕の間を走っていた。糸のようなものが二人の手首へ回り、動きを制している。


 修司は反射的に腕を引きかけ、止めた。


 ヴェラの片手が、腰の細剣の柄に添えられていた。そこから伸びる淡い線が、光の加減で青く見える。


「そのまま。急に動くと、互いの腕を傷めます」


「クロイツ。彼は私の同行者です。逃げた盗人を捕らえました」


 クラウディアが前へ出た。


「存じています。市場から通報も来ました。だから、双方の手を止めています」


 ヴェラは若い男の顔を見た。


「あなたもです。先ほどから、足だけ逃がそうとしないでください」


 男の動きが止まった。


 衛兵が左右へ回り、若者を引き受けた。修司は指示を待ってから腕を離した。青い糸がほどけ、皮膚に残っていた冷たさが消える。


 あれを戦いの最中に使われたら、どうする。


 投げるために腕を取ったつもりが、自分の動きまで縛られる。修司は手首を見下ろした。力だけでどうにかできる感じではなかった。


「おけがは」


 ヴェラが尋ねた。


「俺は、ありません。鞄を持っていた人にも、確認を」


「別の衛兵が向かっています」


 彼女は兵士の持つ鞄へ目を移した。


「それが、今日提出する資料ですか」


「その一部です」


 クラウディアが答えた。


「昨夜、受付で最初に照合するため、別にしました」


 ヴェラは切れた肩紐と手首の紐を見た。続いて、石畳の短剣へ目を向ける。手で拾う前に、衛兵へその位置を記録するよう指示した。


 若い男が口を開いた。


「それは俺のじゃ――」


「あなたの話も聞きます。一度に全部言い換えなくて結構です」


 冷たい声だった。


 男は黙った。


 修司は壁へ手をつきそうになり、少し離れた木箱へ目を向けた。


「すみません。座ってもいいですか」


 ヴェラが修司の顔を見た。


「どうぞ。倒れられると、聞く相手が一人減ります」


 修司は木箱へ腰を下ろした。


 クラウディアが近くへ来て、小さな水筒を差し出す。礼を言って受け取り、少しずつ飲むと、ようやく喉が落ち着いた。


「どうして、先に出られたのです」


 彼女が聞いた。


「布の向こうに見えたんです。水路に沿って走っていると思って。靴屋の人に、裏へ抜けられるか聞きました」


「追っている間に、それを?」


「同じ道を走っても、追いつけなかったので」


 クラウディアは、修司の汗だくの顔と、捕らえた男を交互に見た。


「……あなたは、目の前の相手だけを見ているのではないのですね」


「見失いそうになっただけです」


 修司は答えてから、少し笑った。


「でも、道は見えました」


     ◇


 ミレイユたちが到着すると、まず鞄の中身を確かめた。


 彼女の手首には、紐で擦れた赤い跡があった。刃による傷はなく、同行した衛兵にそのことを伝える。


 大きな文書箱も無事だった。


 ヴェラの立ち会いで留め具を開き、ミレイユが紙の枚数と並びを確認する。修司は自分の荷袋から一覧を出し、一つずつ読み上げた。


 日付。受取人。裏の書き込み。


 最後の紙まで、そろっていた。


「あります。全部」


 ミレイユが綴りを胸へ寄せかけ、途中で手を止めた。


 紙を傷めないよう、そっと机代わりの箱へ戻す。


「ありがとうございます」


 修司はうなずいた。


 辺境で記録を探し、照らし合わせ、話してくれた人たちがいる。ここで一人の手へ渡っただけで、その仕事が消えるところだった。


 ヴェラは切れた鞄を証拠として預かり、中身は一行が用意した別の包みへ戻させた。受領したものと返したものを、役人の帳面へ分けて記させる。


「予定の受付ではなく、監察局へ来ていただきます」


 クラウディアが顔を上げた。


「資料の提出はどうなります」


「担当へ連絡します。今度は資料そのものが事件に関わりました。盗られた経緯と、取り戻した経緯を先に確認します」


 ヴェラの視線が修司へ向いた。


「タカセさんも。現場で腕を押さえていた理由を、ご自分の言葉で話していただきます」


 助けたから終わり、とはならないらしい。


 修司は首を動かし、クラウディアへ目を向けた。彼女は小さくうなずいたあと、ヴェラへ答えた。


「同行します。ただし、話を聞く前から彼を犯人扱いすることは認めません」


「ですから、話を聞きます」


 二人の間に、短い沈黙が落ちた。


 修司は立ち上がった。足はまだ少し重かったが、自分で歩ける。


「靴屋の人にも、聞いてもらえますか。俺たちが通った道を見ています」


「場所を教えてください」


 ミレイユが紙を差し出した。修司は黄色い靴の看板と、赤い布の店、橋と水路の位置を簡単に描いた。見ていないところは埋めず、自分たちが通った道だけを線にする。


 ヴェラはその紙を受け取り、しばらく眺めた。


「昨日、王都へ着いたばかりでしたね」


「はい」


「道案内の仕事もなさっていたのですか」


「地図は、描いていました。人が迷わず来られるように」


 彼女は紙を役人へ渡した。


「この道に沿って、目撃した者を探してください。果物を倒した者と、台車を押した者も」


 修司は、そこで改めて周囲を見た。


 逃げた男だけを追っていた。だが、道を塞いだ者たちは、まだ捕まっていない。


 若い男は、衛兵の間で俯いていた。


 ヴェラがその前へ立つ。


「大きな箱ではなく、この綴りを狙った理由も聞きましょう」


 男の喉が動いた。


 修司は、ミレイユが抱え直した包みを見た。


 中身を知らず、金目の物だと思って盗んだ可能性はある。だが、街道で文書箱を狙われたあと、今度は提出する綴りを奪われかけた。偶然だと片づける気にはなれなかった。


 取り戻した紙の角に、受領印がのぞいていた。


 誰かがこれを欲しがっているのかもしれない。


 あるいは、誰かに読まれる前に、なくしてしまいたいのだ。


 修司はミレイユの隣へつき、今度は監察局の衛兵に囲まれて、荷揚げ場を出た。


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