第三十五話 白い都の蒼鴉
最初に見えたのは、白い塔だった。
丘を越えると、遠くの空に細い尖塔が幾つも並んでいた。朝の光を受けた先端が明るく輝き、その下へ、屋根と城壁が少しずつ姿を現す。
修司は窓の縁へ手を置いた。
畑の向こうに建物がある、という大きさではなかった。見えている景色の端から端まで、人が住む場所が続いている。煙突の煙が重なり、城壁の外にも倉庫や馬屋が連なっていた。
「王都アルシオンです」
クラウディアの声に、修司はうなずいた。
「こんなに大きかったんですね」
「出てきたときは、ご覧になれなかったのですか」
「見たのかもしれません。でも、ほとんど覚えていません」
あのときは、どこへ連れていかれるのか、自分の身に何が起きたのかを考えるだけで精いっぱいだった。石の床と、人の声と、閉じた扉ばかりが記憶に残っている。
今は街道の両側に目を向ける余裕があった。
荷車を待たせる広場。馬をつなぐ柵。水売りの屋台。その向こうで、背負い籠を下ろした女性が子供の靴を履かせ直している。
巨大な城壁の前でも、朝からすることはあるのだと思った。
「首は、もう痛まない?」
エヴァに聞かれ、修司は襟へ触れた。
「大丈夫です。服の方は、まだ目立ちますが」
外套の裂け目は宿で縫い合わせてもらった。少し色の違う糸が、脇腹に長い線を作っている。
あの襲撃から、さらに数日が過ぎていた。
捕らえた三人は最寄りの宿場の守備隊へ引き渡した。武器や通行証が誰のどこから見つかったかを記録し、受領した隊長の署名も取ってある。被害に遭った若い御者はそこで休み、荷車と馬の修理や手当てについては、クラウディアが宿場の役人へ話をつけてくれた。
辺境へは早馬を出した。王都へも襲撃の報告を先に送っている。
それでも、馬車の音に蹄の音が重なるたび、修司は後ろを確かめてしまった。
「門を抜けるまでは、降りないでください」
クラウディアが言った。
前方で、護衛が銀狼の旗を掲げていた。
◇
北門の下は、日陰に入ると急に涼しかった。
石壁に声が反響し、車輪の音が頭上へ響いていく。門の外では入り乱れていた荷車が、柵と衛兵の誘導で列を分けられていた。
修司は、検査を受ける場所の上に掲げられた札を見た。
麦の穂、牛、荷車、人の横顔。文字を読まなくても、どの列へ進むかある程度分かる。札は隣り合っているが、絵の輪郭が違うため見分けやすかった。
「あれ、よくできていますね」
「どれですか」
ミレイユが窓の外を見た。
「列を分ける絵です。遠くからでも形が分かる。人が多い場所だと、細かく描くより伝わるんです」
言ってから、修司は少し笑った。
ここにも、混雑を見て、どうすれば人が迷わないかを考えた誰かがいる。当たり前のことなのに、うれしかった。
その奥で、重い鉄の横木が動いた。
検査用の通路を閉じていたものらしい。二人の衛兵が取っ手を持ち、その横に立つ短杖の男が、小さく何かを唱えている。衛兵たちの腕に淡い光が沿い、横木が持ち上がった。
男が杖を下げる前に、二人は横木を石の受けへ収めた。片方が掌を開き、息を吐く。
「今のが、強化の術です」
クラウディアが修司の視線を追って言った。
「門の設備が傷んだときや、重いものを動かすときにも使われます」
「戦うときだけではないんですね」
「ええ。とはいえ、あの者たちも門を守る部隊の所属でしょう」
修司は、横木を置き終わるまで手を離さなかった衛兵を見た。力が増えても、置き場所を確かめる仕事は残るらしい。
杖の男は、次の荷車をさばく衛兵へ合図していた。
すぐそこに、辺境で話に聞いただけの術師がいる。
クラウディアも同じ光景を見ていたが、何も言わなかった。
やがて、馬車が列から外れるよう指示された。
門に付属する石造りの建物の前で、濃紺の長衣を着た女性が待っていた。
◇
肩で切りそろえた黒髪に、灰青色の目。
修司より若いが、ミレイユたちよりは年上に見えた。衣服に飾りは少なく、腰に細い剣が一本ある。背後の役人が書類を抱えているのに、彼女自身の手には何もなかった。
クラウディアが降りると、女性は軽く頭を下げた。
「グランフェル家のクラウディア様ですね。王都監察局、特務監察官ヴェラ・クロイツです」
「出迎えが監察局とは、聞いていませんでした」
「街道で襲撃に遭われたと伺いました。王都の通行証が使われたとなれば、こちらの仕事です」
丁寧な言葉だったが、歓迎しているようには聞こえなかった。
ヴェラは修司へ目を移した。
「あなたが、タカセさん」
「はい」
「おけがの具合はいかがですか」
「今は、問題ありません」
「それは結構です。では、短い確認にお付き合いください」
返事をする前に、隣の役人が建物の扉を開いた。
修司はクラウディアを見た。彼女はヴェラへ向き直り、まず用件と時間を確かめた。
通行証の確認と、提出する資料の確認。長い聞き取りは別の日に行うという。
「同行者を別々に連れていくことは、今はお断りします」
「承知しました。今日は皆様ご一緒で」
ヴェラは少しも驚かなかった。
通された部屋には長机があり、窓の外から荷車の軋む音が聞こえた。扉は開けたままで、護衛の一人が外に残る。修司は窓と扉の位置を確かめてから、椅子へ座った。
ヴェラがその動きを見ていた。
「初めての場所では、出入り口を確かめるのですか」
「仕事でも、よくします」
「そうですか」
彼女はそれ以上尋ねず、机へ報告書を広げた。
「先に届いた記録では、襲撃者は文書箱を指定していた。王都救恤局の通行証を所持。三人を捕縛し、二人が逃走。間違いありませんか」
「はい」
クラウディアが答え、ミレイユが記録を取り出した。
ヴェラは、宿場へ身柄を引き渡したときの書面から確かめ始めた。誰が立ち会ったか。被害に遭った御者はどこにいるか。通行証は見つかったあと、誰が保管したか。
順番に答えるうち、修司は肩の力を少し抜いた。
だが、次の問いで、それが戻った。
「この襲撃によって、辺境側の訴えには重みが増しましたね」
クラウディアの指が止まった。
「何をおっしゃりたいのです」
「支援の遅れを訴えて王都へ来る途中、王都の許可証を持った者に証拠を奪われかけた。そう聞けば、中央の不正を疑う者は増えるでしょう」
ヴェラは淡々と続けた。
「あなた方の主張を信用させるために仕組まれた出来事ではないか、という可能性も調べます」
椅子が小さく鳴った。ミレイユが身体を起こしている。
修司も、机の下で手を握った。
矢の刺さった音。襟が首を締める感覚。若者の、固く結ばれた口。
それを、仕組んだと言うのか。
「疑うのなら、調べてください」
クラウディアの声は低かった。
「ただし、私たちだけでなく、通行証を発行した側もです」
「もちろん。そのために原本を拝見します」
ヴェラは、差し出された包みを自分で開いた。
修司は息を吐いた。声を荒らげても、あの道で起きたことが伝わるわけではない。
「あの御者にも、話を聞いてください」
ヴェラが顔を上げる。
「名前と滞在先は、この記録にあります。俺たちと会う前に襲われた人です。頭を打っているので、今の具合は現地の治療師に確かめてもらいたいですが」
「証言する者を、あなた方が選ぶのですか」
「ほかの人にも聞いてください。ただ、あの人の話を抜かさないでほしいんです」
修司は、若者の名が書かれた場所へ指を置いた。
「俺たちの言い分と合うかどうかは、聞いてから確かめればいいでしょう」
ヴェラは少しの間、修司を見た。
それから背後の役人へ振り向く。
「宿場へ照会を。被害者への聞き取りは、治療を妨げないように。捕らえられた三人の供述とは分けて取ってください」
役人が書き留めた。
修司は指を引いた。怒りは残っていたが、少なくとも今、一つは先へ進んだ。
◇
通行証は、預けることになった。
その前にヴェラが番号と印、紙の傷みを読み上げ、ミレイユが控えと照らし合わせた。受領書へ署名したあと、役人が封をする。辺境から持参した不正の資料は、翌日の正式な受け付けで提出範囲を確認することになった。
「すべてを今ここで差し出せとは、おっしゃらないのですね」
クラウディアの言葉に、ヴェラが片眉を上げた。
「預かった物の責任を持てなくなるほど、机に積む趣味はありません」
ミレイユが、わずかに目を上げた。
ヴェラは続けた。
「保管と照合の準備をします。提出の際は、発見場所と採取した者が分かる記録を一緒に。あなた方が作った写しだけでは、確かめられないこともあります」
「用意しています」
「では、その用意を見せてください」
声には相変わらず温度がなかった。それでも修司は、受領書へ記された彼女の名を見た。
受け取った責任は、紙に残す人らしい。
席を立つ前に、クラウディアがもう一枚の書面を出した。
「タカセの滞在についても確認します。道中で受け取った返答に従い、宿所は当家が確保した館を使います」
「承知しています。宿所の変更があれば届け出を。審査が終わるまで、王都を離れることは認められていません」
修司は口を開いた。
「技能の説明と、配属に同意することは別だと、返事に書きました。それも届いていますか」
「届いています」
ヴェラは修司へ向き直った。
「ただ、あなたが希望を書いたことと、そのすべてが認められたことは別です。職能の審査は、担当部署から改めて連絡があります」
「エヴァ先生の立ち会いも、求めています」
「その申し出も確認しています。変更を求められた場合は、その場で確かめてください」
言い終えると、彼女は名を記した小さな札を机へ置いた。
「襲撃事件について新しいことが分かったら、私のところへ。ほかの部署に渡しただけで、こちらにも届くとは思わないでください」
「王都でも、申し送りが要るんですね」
思わず口から出た。
ヴェラは修司を見て、初めて口元をわずかに動かした。
「人が大勢いる場所ほど、誰かが伝えたことになりがちです」
◇
宿所から門まで出迎えに来ていた案内人に従い、馬車は街の中へ入った。
大通りの先には、朝見た白い塔があった。近づくにつれ、その下に階段と広場、柱の並ぶ建物が見えてくる。
「高台が白塔区です。王宮と官庁、王立治癒院があります」
クラウディアが教えてくれた。
白い壁には濃い青の旗が掛けられ、広い道の突き当たりに門が置かれている。人が歩く向きまで、自然にそちらへ導かれていた。
修司は、チラシの中央へ一番見せたい商品を置いたときのことを思い出した。
色を絞り、周囲に余白を取り、視線が集まるところへ主役を置く。規模は違っても、見せ方には覚えがあった。
「きれいですね」
ミレイユがつぶやいた。
「ええ。どこを見てほしいか、よく分かります」
だが、馬車が橋へ差し掛かると、景色は一変した。
橋の下を幅の広い水路が流れ、平たい船が荷を積んで進んでいる。両岸には倉庫が並び、滑車の音と荷運び人の声が響いていた。魚と濡れた木の匂いが、窓から入ってくる。
その先が中央市場だった。
赤い天幕の下に果物。黄色い看板には靴の絵。大きな魚の木彫りが軒先から突き出し、その向こうで鍋が光っている。白塔区へ伸びる整った道とは違い、こちらは誰もが自分の店を見てほしいと言っていた。
修司は思わず身を乗り出しかけ、揺れで腰を押されて座り直した。
「気になるものがありましたか」
「看板が。どこも商売に熱心だなと思って」
重ねられた文字が、肝心の店の名を隠しているものもある。反対に、パンの形だけを掲げた店には、迷わず客が入っていた。
その前で馬車が止まった。
交差する荷車を、通りの係が片方ずつ通している。修司は、曲がるたびに車輪がこすって白くなった石の角と、歩く人だけが通り抜ける細い道を見た。
大通りを行けば速いとは限らない。荷車は橋へ集まるが、人は天幕の間へ流れていく。
「明日の資料提出も、この橋を渡るそうです」
ミレイユが、案内人から受け取った道順を見て言った。
「もう少し早く出ないと、約束の時刻に遅れるかもしれませんね」
修司はうなずいた。
王都へ着けば旅が終わると思っていたが、ここでは、ひとつの場所へたどり着くにも時間がかかる。
◇
宿所は、中央市場から二筋離れた通りにあった。
ベルンハルトと旧交のある貴族が、王都に持つ館の一部を貸してくれたのだという。小さな中庭があり、馬車を入れる門には内側から閂を掛けられた。
修司は荷物を下ろしたあと、文書箱を置く部屋と、人の出入りを見られる場所を護衛たちと確かめた。ミレイユは受領書を持参した記録の隣へ収め、エヴァは皆に、仕事を始める前に食事を取るよう言った。
温かい汁物を飲んで、ようやく腹が減っていたことに気づいた。
「監察官は、いつもああいう話し方なのですか」
修司が尋ねると、クラウディアはパンを置いた。
「クロイツとは、私も初めて会いました。ただ、《蒼鴉》という呼び名は聞いています」
「蒼鴉」
「相手の身分で、調べる手を緩めないそうです。頼もしいと評価する者と、関わりたくないと言う者がいます」
修司は、机を挟んだ灰青色の目を思い出した。
「俺たちも、その調べる相手なんですね」
「ええ。こちらが困っているからといって、味方として迎えてくれる人ばかりではありません」
クラウディアは少し間を置いた。
「ですが、御者への照会は命じました。そこまで無視する相手ではなかった」
修司はうなずき、もう一口、汁物を飲んだ。
疑われるのは腹が立つ。けれど、あの若者の話を確かめる人が増えるなら、その仕事はしてもらいたい。
食事を終えるころ、館の使用人が封書を運んできた。
到着を確認した担当部署から、職能審査の案内が届いたのだという。
クラウディアが差出人を確かめ、修司へ渡した。
日時と場所。同行者の届け出。説明を求める項目。
修司は一行ずつ読み、あるところで指を止めた。
負傷者の生活支援に関する説明のあとに、別の項目が続いていた。
身体強化術を受けた対象への支援効果。
武装した複数名との動作連携。
「先生」
修司はエヴァへ紙を差し出した。
「これ、俺がまだやったことのないものまで入っています」
エヴァの目が細くなった。
「説明を聞くのか、実演させるのか。そこから確かめないといけないわね」
クラウディアが椅子を寄せた。ミレイユも食器を脇へ退け、記録用の紙を広げる。
修司は、裂け目を縫った外套へ目を落とした。
王都は、もう次に何をさせるかを考えている。
彼は筆を取り、案内の余白へ、最初の質問を書いた。
――何を確かめるための審査ですか。




