第三十四話 助けを呼ぶ声
旅に出て四日目、修司は馬車の揺れに慣れるより先に、休憩のありがたさを覚えた。
腰へ当てた布の位置を変え、足を少し伸ばす。窓の外には、刈り取りを終えた畑と低い林が交互に現れていた。道は辺境を出たからといって急によくなるわけではなく、ときどき車輪が石を踏むたび、座席から突き上げられる。
「次の宿場まで、あとどのくらいですか」
「順調なら、日が傾く前には」
ミレイユが旅程を確かめながら答えた。彼女は膝の上で筆を持っていたが、今朝から何度も書くことを諦めている。
「道中の記録もできると思っていました」
「俺も、図を直せると思っていました」
二人で顔を見合わせると、向かいのエヴァが笑った。
「宿に着いてからになさい。舌を噛むわよ」
その言葉が終わらないうちに、馬車が減速した。
修司は窓へ顔を向けた。前方を進んでいた護衛の一人が、手を上げている。その先で、人が道へ出てきた。
「助けてくれ! 荷車が横倒しになった!」
褐色の外套を着た男が、両腕を振っていた。
林の切れ目、街道脇の浅いくぼみに、小さな荷車が傾いている。袋が幾つか落ち、そのそばには横たわる男と、車輪へ背を預けた若者が見えた。
護衛はすぐには近づかなかった。先頭の二人が左右へ分かれ、後ろの馬車にも停止を伝える。乗馬で一行の前方にいたクラウディアが、呼びかけた男の手前で馬を止めた。
「そこで待ってください。何があったのです」
「車輪が落ちたんだ。こいつは脚を挟まれて、立てねえ。あっちも頭を打ってる。治療のできる人はいないか」
修司はエヴァを見た。
「頭を打ったと言っています」
「ええ。まず、近づいてよいか確認してもらいましょう」
エヴァは杖を取り、窓越しにクラウディアへ合図した。
護衛の一人が荷車の周囲を見て回る。もう一人は林の方を警戒したままだった。クラウディアは外套の男に数歩下がるよう指示し、馬を従士へ預けた。
「エヴァ先生、お願いします。タカセも手伝ってください。ただし、馬車から離れすぎないように」
修司はうなずいた。
御者が用意した踏み台を降りると、地面の硬さが足裏に戻ってきた。ミレイユは文書箱とともに車内に残り、扉を閉じる。
荷車のそばへ歩く間、修司は二人の様子を見た。
横になった男は、脚へ巻いた布を押さえてうめいている。車輪の若者は黙っていた。額から頬へ血が流れ、唇が乾いている。修司たちへ目を向けると、何か言おうとして口を閉じた。
「そっちより、こっちを先に見てくれ。脚が折れてるかもしれねえ」
外套の男が言った。
「順番は、私が判断します」
エヴァの声は穏やかだったが、足は止まらなかった。
彼女は若者のそばへ膝をつき、名前を尋ねた。修司は少し横へ回って、顔が見える位置へしゃがむ。
「俺の声、聞こえますか」
若者はうなずいた。視線が修司の肩越しに動き、すぐ下を向く。
その動きを追うと、外套の男が立っていた。
「一緒に運んでいた方ですか」
返事の前に、外套の男が答えた。
「そうだ。驚いて、口が利けなくなってる」
エヴァが顔を上げる。
「ご本人に伺っています」
男は口をつぐんだ。
修司は若者の手を見た。膝の上で固く握られた両手。その手首に、左右とも細い擦れた跡があった。
荷運びでついたものかもしれない。これだけでは何も言えない。
ただ、転んだ人を囲んでいるにしては、会話の入り方が気になった。
横で、脚を押さえた男が身じろぎした。
「痛え……。頼む、早く」
修司はそちらへ目を向けた。
男は痛いという方の足を地面に突き、腰を少し浮かせていた。上体の向きを変え、修司たちの馬車を見る。布へ隠れた脚より、外套の裾からのぞく手の方に力が入っていた。
痛くても動ける人はいる。動けるから痛くないとは限らない。それを決めつけてはいけないと、修司は何度も現場で学んできた。
だが、この男が見ているのは治療師ではなかった。
馬車の扉。そこに残った護衛。クラウディアの位置。
順番に確かめている。
修司は息を整え、必要な相手へ意識を絞った。
《生活動作把握》。
視界の中で、男の足と肩の動きがはっきりした。
地面へ押しつけた足。前へ移した腰。外套の内側で何かを握り直す右手。
助け起こされるのを待つ姿勢ではない。自分から動き出すために、身体を用意している。
修司は若者へ向き直った。
「ここより、道の方で診てもらいましょう。先生、移れそうですか」
「支えがあれば。急がせないで」
エヴァは修司の顔を一度見てから、短く答えた。
修司はクラウディアへ声を掛けた。
「この方を、馬車のそばへ。もうお一人は、こちらへ近づかずに待っていただけますか」
クラウディアの視線が、横たわる男へ移った。
外套の男が口を開く。
「いや、動かさねえ方が――」
「あなたは下がって」
彼女の声に、男が止まった。
若者の肩へ手を添えたとき、その指が修司の袖をつかんだ。
「俺の、車です」
息ほどの声だった。
「あいつら、途中で……」
続きを待つ時間はなかった。
「伏せろ!」
林を見ていた護衛が叫んだ。
馬車の側板に、乾いた音がした。短い矢が一本、木へ突き立っている。
◇
修司は若者を引き立てず、その場で低くした。エヴァが反対側を支え、二人で荷車の車輪の陰へ寄せる。
外套の男が短剣を抜いた。
その刃へクラウディアの剣がぶつかり、金属音が耳元で弾けた。彼女は男を馬車から遠ざける方へ押し込み、護衛へ命じた。
「車を守れ! 林を追うな!」
横になっていた男が跳ね起きた。
脚に巻いた布がほどけ、土へ落ちる。男は修司たちの横を抜け、馬車へ走った。右手にあるのは、鉤のついた短い刃だった。
扉の前の護衛が盾を上げる。林から二人の男が出てきて、片方がその兵士へ斬りかかった。もう一人は、道の後方を見ながら何か叫んでいる。
「黒い箱だ! 女が持ってる!」
修司の背が冷えた。
荷物を何でも奪うつもりではない。
「先生、この人をお願いします」
「タカセ、離れないで!」
エヴァの声と同時に、修司は立ち上がった。
馬車までは数歩だった。扉が半ば開き、ミレイユが箱を奥へ押しやるのが見えた。鉤刃の男は取っ手へ手を伸ばしたが、修司が迫ると振り向いた。
「邪魔だ!」
横に払われた刃を見て、修司は止まった。手を出せば指がなくなる距離だった。
男は追って斬り込まず、左手で修司の襟元をつかんだ。脇へ放り出して、馬車へ向き直るつもりなのだろう。布が首に食い込み、息が詰まる。
修司は、その手を握り返した。
《生活動作把握――自己適用》。
首を引かれる感覚の下に、自分の足裏が戻る。
腕だけで引き剥がそうとしない。相手の力を止めるために、肩を固めない。
修司は襟をつかむ手を押さえたまま、一歩を斜めへ置き、身体の向きを変えた。
男が投げ捨てようとした力は、急には止まらなかった。修司のいた場所へ肩が流れ、足が追いつこうとする。
その一歩が地面へ着くより早く、修司は捕らえた腕を導いて腰を回した。
男の身体が、大きく傾いた。
靴底が土を削り、次の瞬間、背と肩が地面を打った。重い音とともに息が漏れ、鉤刃の先が修司の外套をかすめる。
外套に、長い裂け目が開いた。
修司は追いかけて押さえ込まなかった。刃を持つ右手は、まだ動いている。
「右手に刃物!」
叫んで距離を取ると、駆けつけた後方の護衛が盾をかぶせるように構えた。男が起き上がろうとして頭を引き、そこへもう一人が回り込む。
修司は馬車の扉へ手を掛けた。
「ミレイユさん、奥へ!」
彼女が身を引いたところへ、林から出てきた男が迫った。扉を守っていた兵士の足元には散らばった袋があり、下がれば踏む位置だった。
修司は袋を道の脇へ蹴り出し、兵士の名を呼んだ。出発前、位置と合図を確かめた相手だった。
「こちらへ、一歩!」
《連携支援》。
意識をつなぐのは、目の前の兵士と、近づいてくるクラウディアだけだった。
空けた足場。下がる盾。そこへ誘われて踏み込む敵。
修司の声に合わせて兵士が退き、敵の剣が盾の縁を滑った。追撃へ移ろうとした男の側面へ、クラウディアが入る。
「武器を捨てなさい!」
男は振り向いて剣を持ち上げた。
彼女の刃が先に腕を捉え、短い悲鳴が上がった。落ちた剣を護衛が足で遠ざけ、男を地面へ伏せさせる。
修司の視界から、重なっていた動きがほどけた。
頭は痛まなかった。ただ、息が速い。襟元に触れると、指が震えていた。
林の方で蹄の音がした。
「二人、逃げます!」
「追わなくていい。人数を確かめて!」
クラウディアは剣を下げず、周囲を見た。
外套の男は、荷車の近くで護衛に押さえられていた。鉤刃の男も武器を奪われ、腕を背へ回されている。さらに一人。捕らえたのは三人だった。
御者が馬をなだめる声が、急にはっきり聞こえるようになった。
◇
「切られていない?」
エヴァに尋ねられ、修司は裂けた外套の下を確かめた。
「服だけです。たぶん」
「たぶんでは困るわ。見せて」
首元には襟で擦れた跡があったが、刃は身体まで届いていなかった。エヴァはそれを確かめてから、深く息をついた。
「次から、声を掛ける前に走り出さないで」
「すみません」
言い訳をする気にはなれなかった。
間に合った。だが、刃が少し内側を通っていれば、今ここで立ってはいなかったかもしれない。
ミレイユが馬車から降りてきた。両腕で黒い文書箱を抱えたまま、修司の前へ立つ。
「箱は、開けられていません」
「けがは?」
「ありません。……ありがとうございます」
彼女の眼鏡がずれていた。直そうと持ち上げた手が震え、うまく触れない。修司は箱を受け取り、馬車の踏み台へ置いた。
「少し座りましょう。俺も、膝が落ち着かないので」
ミレイユはうなずき、踏み台の隣へ腰を下ろした。
護衛の一人が腕に浅い傷を負っていた。エヴァは若者のそばへ戻る前に、その止血と傷の処置を済ませた。治癒の淡い光が消えると、今度は若者の目の動きと受け答えをもう一度確かめる。
若者は、小さな荷運びを請け負っていた御者だった。
朝、林道の分かれ目で襲われ、荷車を奪われた。縛られていた手を解かれたのは、修司たちが来る少し前だったという。
「黙っていれば、馬ごと返すって……。俺が呼んでも、止まらないかもしれないから、あいつが」
若者の目が、捕らえられた外套の男へ向いた。
男は地面に座らされながら、まだ笑おうとしていた。
「大げさにするなよ。死んじゃいねえだろ」
修司は、その顔を見た。
負傷した人がいるから、馬車は止まる。治療師が降り、護衛が分かれれば、箱へ手が届く。
この男たちは、人が助けようとすることまで、都合のよい道具として使った。
修司は若者と男の間へ身体をずらした。
「今は、あちらを見なくていいです」
若者が顔を上げる。
「あなたも、馬も、次の宿場まで一緒に行けるよう相談しています。覚えていることは、休んでから聞かせてください」
「俺が、黙ってたせいで」
「脅していた人の責任です」
若者の唇がゆがんだ。修司は急いで続きを尋ねず、水を渡すエヴァのために場所を空けた。
◇
身柄と荷車を動かす準備が整うまで、クラウディアはその場で証拠を確認した。
襲撃者の武器。馬車へ刺さった矢。男たちの持ち物。どこから何が出たか、ミレイユが護衛に聞きながら書き留めていく。
修司が捕らえた男の懐から、革の筒が出た。
中には、折り畳んだ通行証があった。
それを開いたクラウディアの手が止まる。
「王都救恤局の、輸送用通行証です」
ミレイユが顔を上げた。
「救援物資を運ぶ者に出されるものですか」
「ええ。関所で照合する番号もあります」
修司は紙を見た。印の下に幾つかの書き込みがあり、日付らしい数字が並んでいる。自分には、その真偽までは分からない。
「盗んだものという可能性もありますよね」
「あります。偽造かもしれません。この一枚で、救恤局の命令だとは言えません」
クラウディアは、捕らえた男へ目を向けた。
「だから、発行の記録と、通った関所を確かめます」
男は答えなかった。
修司は、彼らの叫びを思い返していた。
黒い箱。女が持っている。
荷台の食料にも、馬にも手を出さず、最初からミレイユのいる馬車へ向かった。どこかで見ていたのか。それとも、一行が何を運ぶかを先に聞いていたのか。
「文書は、辺境にも写しがあります」
ミレイユが言った。
「仮に奪われても、全部は消えません」
「はい。ただ、奪われてよいものでもありません。守ってくれて、ありがとう」
クラウディアは彼女に答え、修司を見た。
「タカセ。あの男が動く前に、何か気づいたのですね」
「痛がり方だけでは、分かりませんでした。脚を動かしていても、それだけなら」
修司は荷車の若者へ視線を移した。
「本人が話そうとすると、別の人が答える。けが人より、こちらの護衛や馬車を見ている。それが重なって、気になりました」
「だから、先にあの人を離そうとした」
「はい。もう少し早く伝えられれば、よかったんですが」
「次は、確信がなくても知らせてください。警戒するかどうかは、私たちで判断できます」
修司はうなずいた。
怖さが消えたわけではない。首はひりつき、投げたときに踏ん張った脚も重い。それでも、若者を見捨てずに済んだことと、ミレイユが無事でいることには、はっきり安堵していた。
護衛から、出発できると声が掛かった。
捕らえた三人は武器を取り上げられ、後ろの馬車で運ぶことになった。若者もエヴァの目が届く位置へ移され、荷車と馬は護衛が宿場まで引いていく。
クラウディアは通行証を別の包みに収め、ミレイユに記録の写しも作るよう頼んだ。
「次の宿場から、辺境へ知らせます。王都へは、確認できた事実を持って入りましょう」
修司は馬車へ戻り、側板に残った矢の穴へ触れた。
あと少し、向きが違っていたら。
指を離し、扉を閉める。
王都までは、まだ数日の道がある。
その王都の印を持つ男が、今は縄を掛けられ、後ろの馬車に乗っていた。




