第三十三話 引き継ぐ者たち
出発までにしておきたいことを書き出すと、紙が二枚になった。
修司はその二枚を救護院の机に並べ、しばらく眺めてから、一番下に三つ目の項目を書き足した。
「タカセさん」
向かいで筆を削っていたミレイユが、手を止めた。
「それも、ご自分でなさるんですか」
「できれば、出る前に」
「それでは、いつ出発できるのでしょう」
返す言葉がなかった。
食器棚の配置。寝台ごとの申し送り。夜間に必要な灯り。新しい手引きの修正。どれも放っておいてよい仕事には思えず、気づけば自分が済ませるつもりで書いていた。
ミレイユは二枚目の紙を引き寄せた。
「私も留守にするのに、記録の仕事を全部片づけてから行こうとしていました。昨日、帳面を預ける方に言われたんです。書き足す場所を教えてくれれば、自分で書きます、と」
「……そうですね」
修司は筆を置いた。
残っている仕事をなくすのではなく、残った仕事を誰かに頼めるようにしなければならない。
「まず、この紙を皆さんに見てもらいましょうか」
「はい。そのための二枚なら、役に立つと思います」
◇
その日の午後、新しく救護院の手伝いに入った女性に、手引きを使ってもらった。
相手役はロルフだった。椅子から立つまでを確かめる短い練習で、実際に身体を支える役には、すでに介助に慣れた者がついている。
修司は口を出さず、少し離れて見ていた。
女性は紙とロルフを交互に見て、椅子の脇へ回った。そこで足を止め、困ったように顔を上げる。
「これは、こちらの腕でしょうか」
修司が返事をするより先に、ロルフが紙をのぞき込んだ。
「俺から見た方と、あなたから見た方で、逆に見えるな」
図には、人と椅子と、支える手の位置を描いていた。説明を聞いた者には通じる。しかし初めて見る人には、こちらを向いた人の絵なのか、向こうを向いた絵なのかが分かりにくかった。
修司は紙を受け取った。
「すみません。これ、絵が悪かったです」
「私が慣れていないからでは」
「初めて使う方に分かるように描いたはずなので、ここで迷ったら直すところです」
昔の仕事でも、作った本人には分かる紙面が、見る人にも分かるとは限らなかった。客に説明しながら見せると通じてしまい、その説明がなければ伝わらないことを見落とす。
修司は人物の鼻と耳を描き足し、椅子の背もたれを濃くした。上から見た小さな図も横に置き、足の向きと、介助する側の立ち位置をそろえる。
「これなら、どうでしょう」
「ああ。こちらから見た絵なんですね」
女性は今度は迷わず回り込んだ。それから紙の最初へ目を戻し、ロルフへ尋ねた。
「今、立っても大丈夫そうですか」
「ああ。ただ、少しゆっくり頼む」
介助役が位置につき、ロルフは自分で足を引いた。声を掛け合って腰を上げる。女性は手順を追うのに夢中になりかけたが、途中で紙を下ろして本人の顔を見た。
立ったあと、ロルフが一度息をつく。
「座ろうか」
介助役の言葉に、彼はうなずいた。
修司は手を出さなかった。技能も使わなかった。
ロルフが再び腰を下ろし、女性が張り詰めていた肩を落とすのを見てから、机へ戻った。
「どこが見づらかったか、今のうちに教えていただけますか」
「終わったら、この紙は元の場所へ戻すのでしょうか。持って歩くと、ほかの方が使えなくなりますよね」
それも、自分では気づかなかったことだった。
置き場所を決め、足りない分は写す。修正した日付を入れ、古い図を残さない。話しているうちに、仕事は修司の紙から、皆の予定へ移っていった。
その脇で、ロルフが新しい図をもう一度見ていた。
「俺も、こういう相手役ならできるな」
「疲れない範囲でお願いします。練習のたびに立っていたら、そちらが仕事になってしまうので」
「分かってる。馬の扱いを教えるときだって、朝から晩まで走らせはしない」
修司は笑い、彼の向かいへ腰を下ろした。
「馬の方は、どうですか」
「厩で相談を受けてる。乗るのはまだ止められてるが、馬具を見るくらいならできる。荷を運ぶ連中は、人の疲れには気づいても、馬の疲れを見落とすからな」
言いながら、ロルフは自分の膝へ手を置いた。
「先に帰ってきたって、俺が馬に乗って迎えに出られるとは限らないぞ」
「迎えは、座って待っていてもらえれば」
「それなら、できそうだ」
◇
エヴァの引き継ぎには、数日を要した。
町と周辺を受け持つ治療師たちが来院の予定を組み直し、とくに注意が必要な患者は、エヴァと一緒に診て回った。毎日同じ治療師が来られるわけではない。そのため、誰に知らせるか、来院を待たず使いを出すのはどのようなときかを、残る者たちと確かめた。
修司が伝えたのは、食事のときの様子や、本人が困っている動作、声を掛けるときの好みだった。
最初、年配の治療師は、グレーテの欄にある布の絵を見て眉を寄せた。
「これは、何の記録だ」
「布を畳む仕事をお願いしています。ご本人が続けたいとおっしゃっていて」
「治療と関係があるのか」
修司は答えようとしたが、その前に、机の向こうから声がした。
「わたしの仕事の話なら、わたしに聞けばいいでしょう」
グレーテだった。
膝に載せた布を畳み終え、こちらを見ている。治療師が一瞬黙り、修司は椅子を横へずらした。
「そうですね。お願いします」
「朝は指が動きにくいから、あとにしてもらってるんですよ。それから、大きいのはあの子が手伝う。全部こちらへ持ってこられても困りますからね」
窓際で布の籠を持っていたニルスが、肩をすくめた。
「一度、多く持ってきたら叱られた」
「一度で覚えたなら結構です」
治療師の眉間が、少し緩んだ。
「では、指の具合は、そのときにも聞こう」
「ええ。先に座ってください。立ったまま見下ろされると、首が疲れます」
修司は口元を押さえた。
出発を前にしても、この人はこの人のままだった。それが、何よりありがたかった。
廊下へ出ると、ニルスが空になった籠を抱えてついてきた。
「王都に、俺も行った方がいいのかな」
「証言のことですか」
「俺が見たんだから、俺が話した方が」
修司は歩調を緩めた。
ニルスの証言は、確認を重ねた記録として持っていくことになっていた。本人の出頭が必要になれば、そのときは身の安全を含めて改めて話をする。クラウディアが決めたのは、まずそこまでだった。
「今すぐ来てほしいという話ではありません。向こうで何を求められるか、先に確かめてきます」
「でも、また知らないと言われたら」
「あなたが見たことを、なかったことにしないために行くんです」
ニルスは籠の縁を握った。
「……こっちでも、書いておく。どこの荷が、いつ来たか。俺が見た分だけでも」
「お願いします。ただ、怪しいものを見ても、一人で追わないでください」
「イゾルデ様に言う。もう、あんなのはごめんだ」
修司はうなずいた。
無理をしないと約束してくれることも、任せられる理由の一つだった。
◇
出発の前日、領主館の中庭には、旅の荷を積んだ馬車が並んだ。
ミレイユは文書箱の中身を確かめ、蓋に封をしていた。原本を持っていく記録にも、辺境に残す写しがある。照合した者の名と日付を記した控えを、館の書記へ渡す。
修司の荷物は、着替えと手引き、紙、筆記具が大半だった。小刀と定規を包んだ布を入れると、残りの隙間はほとんどなくなった。
「武器より紙の方が多い旅人は、珍しいでしょうね」
クラウディアが隣から言った。
「向こうで足りなくなると困るので」
「紙なら王都でも買えますよ」
「……それもそうですね」
荷を減らそうとしたところへ、イゾルデが護衛の兵士たちを連れてきた。人数を確かめ、先行する者と馬車の脇につく者を割り振っていく。修司にも、何か起きたときはまず御者と護衛の指示を聞くよう念を押した。
「王都の手前は人通りも増える。街道だからと、気を緩めないでくれ」
「分かりました」
兵士の一人が装備の確認を終え、イゾルデへ尋ねた。
「術師の同行は、やはりありませんか」
「今回はな。火術への備えも、予定どおりだ」
修司は顔を上げた。
「火術というのは、炎で攻撃する魔法ですか」
「そうだ。治癒以外の術は、まだ見たことがなかったか」
「少なくとも、戦いで使うところは」
イゾルデは兵士たちを先に行かせ、馬車の幌へ目を向けた。
「炎や風を撃ち込む術もあれば、身体を強くする術もある。だが、戦場で使いこなせる者は少ない。護衛の一人として気軽につけられる戦力ではないんだ」
「あの襲撃のときも、来てもらえなかったんですね」
クラウディアの表情が変わった。
「術師の増援は、以前から要請しています。育成も配属も中央の管轄で、辺境の判断だけでは動かせません」
声は静かだった。
「治療師も十分とは言えませんが、それでも各地に人がいます。攻撃や強化に長けた術師は、王宮と中央軍に多く置かれています」
修司は、北門で盾を支えていた兵士たちを思い出した。
あのとき、ほんの少しでも力があればと思った。押し返す腕が、もう一人分あればと。
「身体を強くできるなら、閣下にも使えるんでしょうか」
「父に、ですか」
「立つときに助けになるのかと思って」
「専門の術師に確かめる必要があります。ただ、強化は弱った身体そのものを元に戻す術ではないと聞いています。無理に力を出させれば、傷めることもあると」
修司はうなずいた。便利そうな言葉だけで、今まで積み重ねたものを飛ばしてよい理由にはならない。
「向こうで、使う人に話を聞いてみたいです」
「機会を作りましょう」
イゾルデが、修司へ視線を戻した。
「ただし、敵にもいると思ってくれ。腕を取れば済む相手ばかりではない」
「はい」
これまで何とか切り抜けた経験が、そのまま通じる場所へ行くわけではない。修司は紙の包みを荷袋に戻し、口をしっかりと結んだ。
◇
翌朝、ベルンハルトは館の玄関広間で待っていた。
椅子に座り、足元には厚い敷物を置いている。隣にはアマーリエがいた。見送りのために外まで出る案は、本人を交えて話した末、この場所へ落ち着いたという。
「門まで来るとおっしゃるかと思いました」
修司が言うと、ベルンハルトは鼻を鳴らした。
「言ったぞ」
「おっしゃいましたね」
アマーリエが穏やかに続けた。
「それで、朝から疲れて今日のお仕事ができなくなってもよいのですかと、伺ったのです」
「よく似たことを言う者が、増えおった」
修司は笑った。
椅子の脇には、従士が持つ薄い板があった。食事や休憩の時刻、本人と決めた一日の過ごし方を記したものだ。下の方には書き足せる余白があり、すでに今朝の様子が一行入っていた。
クラウディアが父の前へ進んだ。
「留守をお願いいたします」
「任せておけ。イゾルデもおる。お前は向こうの仕事をしてこい」
「はい」
ベルンハルトは、娘の腰にある剣を見てから、その顔へ目を戻した。
「あちらには、わしの若い頃を知る者もおる。余計な昔話は、聞かんでよい」
「必要な話かどうか、私が判断します」
アマーリエが小さく笑い、老将は修司を見た。
「お前も、困った話ばかり持ち帰るなよ」
「何か、よい話を探してきます」
「うむ。それから、帰ったときにまた、椅子の具合を見てくれ。少し変えたいところがある」
修司は一瞬、今聞いておこうかと思った。
だが、老将は急いで困っている顔ではなかった。従士も、その椅子を使う本人も、ここに残る。
「帰ったら、伺います」
ベルンハルトは満足そうにうなずいた。
玄関を出ると、朝の風が頬に触れた。
馬車の横で、ミレイユが文書箱を抱えて待っている。エヴァは最後の申し送りを終え、見送りに来た治療師へ頭を下げていた。クラウディアが護衛に合図し、御者が手綱を取る。
修司は踏み台へ足を掛けた。
乗り込んでから、忘れ物を確かめるように荷袋へ手を置く。紙も、道具も、王都からの命令書も入っている。
それでも何かを置いてきた気がして、館を振り返った。
「気になりますか」
向かいへ座ったクラウディアが尋ねた。
「ええ。あの手引きも、もう一か所直せそうで」
「次の便で、直したものを送ってもらいましょう」
修司は彼女を見て、それから笑った。
「そうですね。俺が直すとは限りませんね」
馬車が動き出した。
通りには、朝の仕事へ向かう人々がいた。荷車が道を譲り、店の戸が開く。救護院の方へ曲がっていく女の人の腕に、洗い上がった布の束が見えた。
自分がいない今日も、食事の時間が来る。誰かが声を掛け、誰かが返事をして、足りないところは相談するだろう。
南門を抜けると、車輪の音が変わった。
修司はしばらく遠ざかる町を見ていたが、やがて窓から身を戻し、膝の上に旅程の紙を広げた。
最初の宿場を、指で確かめる。
戻ったときに聞く話は、きっと増えている。そのとき、自分にも話せることがあるように、まずはこの道を行こうと思った。




