第三十二話 行くか、残るか
白い紙を前にして、修司は夕食の匙を置いた。
王都へ行く。
そう書こうとして、まだ一文字も書けていなかった。
領主館で借りている部屋の窓には、夕暮れの町が映っている。工事の音は止み、通りには夕餉の煙が流れていた。救護院では夜を担当する者へ申し送りが済んでいるはずだ。明日は朝から、ミレイユと作り直した手引きを試すことになっていた。
その次の日にも、やることがあった。
ここで働くと決めたばかりなのに、と思う。
だが、行きたくない理由を一つずつ確かめてみると、仕事の心配だけではなかった。
王都の石の床。見知らぬ衣装を着た人々。何の説明もなく自分を見定める目。役に立たないと分かるや否や、こちらの返事も聞かず話を進めた声。
あの場所へ戻ったら、また同じことになるのではないか。
職能の評価が上がれば扱いがよくなる、とは思えなかった。今度は役に立つからこそ、帰してもらえなくなるかもしれない。
修司は、匙を持ち直した。
考えているうちに、スープは冷めていた。
◇
翌朝、ベルンハルトの部屋を訪れると、老将は寝台ではなく窓際の椅子に座っていた。
足台へ両足を置き、膝に薄い毛布を掛けている。机には北方の地図が広げられていたが、従士は紙束を脇へ退けるところだった。
「おはようございます」
「来たか。ちょうどよい。あの棚の書簡箱を取ってくれ」
「その前に、お身体の様子を伺ってもいいですか」
「お前まで仕事を止めに来たのか」
「昨日、長く座ったあとに腰がつらかったと聞きました」
ベルンハルトは舌打ちしかけ、従士へ目を向けた。若い男は、聞こえなかったふりをして紙をそろえている。
「……昨夜ほどではない。背に当てた布が、今日は具合がよい」
「朝の移動は、どうでしたか」
「こいつともう一人で手伝ってくれた。途中で一度座り直したがな」
修司が従士を見ると、彼はうなずいた。
「エヴァ先生に決めていただいた方法で行いました。立っておられる時間は、昨日より短くしております」
「それでよかったと思います」
修司はベルンハルト本人に確かめてから、足台がずれていないか見た。座り直しを急ぐ必要はなさそうだった。
自分がいない朝にも、必要な支援は行われている。
安心したはずなのに、胸の内側に小さな寂しさが残った。それに気づいて、修司は苦笑した。
「何がおかしい」
「いえ。俺が来るまで、お待たせしなくてよくなったんだなと思いまして」
「お前が寝坊するたび、わしまで寝台におれというのか」
「それは困りますね」
修司が答えると、老将の口元がわずかに上がった。
「座れ。お前の方こそ、昨夜はよく眠れなかった顔をしておる」
修司は机の向かいへ椅子を寄せた。従士が退出し、扉が静かに閉まる。
ベルンハルトは、書簡箱を取るようにはもう言わなかった。
「王都が怖いか」
遠回しに尋ねる人ではない。
「はい」
修司は、今度は取り繕わなかった。
「怖いです。また行き先を勝手に決められるんじゃないかと思うと、どうしても」
「そうなる恐れはある」
慰めのない返答だった。だが、絶対に大丈夫だと言われるより、話を続けやすかった。
「ここに残ることはできるんでしょうか」
「返答を差し戻し、扱いを問い直すことはできる。病や復旧を理由に、出発を延ばすこともな。娘も、そのつもりで文面を考えておるだろう」
「ずっと、というわけにはいかないんですね」
「それを今、約束できる者はおらん。王命を放置すれば、別の口実を与えることになる。だが、だからといって最初の要求を丸ごと呑む必要もない」
ベルンハルトは机上の地図へ目を落とした。
「行くなら、何をしに行く」
「技能を説明して、物資のことも――」
「それは向こうから言われた用件だ。お前が確かめたいことはないのか」
修司は言葉を止めた。
試される。調べられる。行き先を決められる。
昨夜から考えていたのは、自分に何をされるかばかりだった。
窓の向こうに、第三塔の足場が見える。その下では、細い人影が列になって石を運んでいた。
「あります」
修司は地図の北側を見た。
「あの魔物たちが、なぜ急に来たのか。ここで捕まった人たちだけで、あれほど物資を動かせたのか。報告書には書きましたが、返事を待つだけで調べてもらえるのか、分かりません」
「分からんだろうな」
「壁は直せます。でも、物資がまた途中で消えるなら、同じことになる。救護院で食事を整えようとしても、食べ物そのものが届かなければ、どうにもなりません」
ベルンハルトは口を挟まなかった。
「俺は軍のことも政治も知りません。ただ、どこで話が止まっているのかは見たいです。誰に何を伝えれば動くのか、向こうで確かめたい」
言葉にしてみると、怖さとは別の気持ちが、ようやく形になった。
修司はずっと、足りないものを工夫して補ってきた。現場でできる工夫には意味がある。だが、足りないままで我慢する方法だけを増やしても、限界は来る。
「ならば、それを持って行け」
ベルンハルトが言った。
「守られるだけの男として行くな。娘の陰に隠れるなという意味ではないぞ。自分が何を求めておるのかも決めず、すべてを娘に預けるなということだ」
老将は椅子の肘掛けへ手を置き直した。
「王都で助けを借りることはあろう。借りればよい。わしも今朝、人の手を借りてここへ座った。だが、何をしにここへ来たかまで、従士に決めさせたわけではない」
修司は、その言葉をゆっくりと受け止めた。
自分で決めることと、一人で何とかすることは違う。
いつも誰かに伝えてきたことなのに、自分のことになると、簡単に見失ってしまう。
「分かりました。もう一度、クラウディア様と話します」
「そうしろ。わしに言ったことを、そのまま話せばよい」
ベルンハルトはそこで背を椅子へ預け、短く息をついた。
修司は立ち上がった。ここから先の話を続けるより、今は休んでもらう時間だった。
「書簡箱は、休憩のあとにしましょう」
「覚えておったか」
「仕事ですので」
「面倒な男を雇ったものだ」
そう言う老将の声は、少し楽しそうだった。
◇
クラウディアは執務室で、旅程を書いた紙と、食料の在庫表を交互に見ていた。
修司が入ると、彼女は筆を置いた。
「お父上と話しました」
「何か、無理を言われませんでしたか」
「書簡箱を取ってほしいとは言われました」
「それは取り上げたものです。昨日、休むと言ってから二通も読み始めたので」
「では、取らなくて正解でしたね」
クラウディアが笑い、その短い間だけ、部屋の空気が緩んだ。
修司は勧められた椅子へ座り、持ってきた二枚の紙を膝に置いた。王都の命令書の写しと、昨夜から考えていた返事だった。
「王都へ行こうと思います」
クラウディアの笑みが消えた。
「援助のことを気にしているのなら、それをあなた一人の責任にしないでください。私が説明に出向くことと、あなたの身柄を引き渡すことは別です」
「はい。だから、引き渡される形では行きたくありません」
修司は自分の書いた紙を差し出した。
「報告には協力します。技能のことも、分かる範囲で説明します。ただ、使う目的を知らせずに試されたり、誰かの身体を危険にさらすような実演を求められたりするのは困ります。俺自身も含めてです」
クラウディアは一行ずつ読んだ。
「審査には、エヴァ先生に立ち会ってもらいたい。自分の発言を記録に残して、写しを受け取りたい。それから、別の場所へ移す話が出たら、その前に理由を説明してほしい」
「書いておきましょう。ただし、相手がすべて認めるとは限りません」
「分かっています」
「書面があれば必ず守られる、というわけでもありません」
「それでも、黙って同意したことにはされたくないんです」
修司は、命令書の写しを脇へ置いた。
「昔、仕事の注文が何度も変わって、最後には、誰が何を頼んだのかさえ曖昧になることがありました。口で言われたまま全部引き受けて、後で困っても、そういう約束だったと言われるだけで」
「あなたの世界にも、そういう者がいるのですね」
「ええ。ずいぶんいました」
懐かしさより先に、苦い笑いが出た。
「今度は、何を引き受けて、何に返事をしていないのか、残しておきたい。王都の作法は分からないので、その書き方を手伝ってもらえますか」
「もちろんです」
クラウディアは紙を机の中央へ置き、余白に筆を走らせた。
職能説明のための同行であり、再配属への同意ではないこと。審査の目的と日程の提示を求めること。滞在中はグランフェル家との連絡を認めること。
「国王への説明と、不正調査への協力を拒む返書にはしません。そのうえで、あなたの扱いについて確認を求めます。父と私の名も添えましょう」
「ありがとうございます」
修司は頭を下げた。
「それと、行って確かめたいことがあります」
ベルンハルトに話したことを、今度はクラウディアへ伝えた。魔物が急いで南下した理由。横流しされた物資の行き先。ここで毎日続けている仕事が、遠い場所の都合で止められてしまうことへの疑問。
彼女は黙って聞き、話が終わると、机の下から別の帳面を取り出した。
「これが、今ある食料と、調達できる見込みです」
紙には倉庫ごとの数字と、余白へ書き足された予定が並んでいた。
「ナディア殿が買い付けに動いてくれていますし、周辺の領主にも使いを出しています。王都の返答だけを待っているわけではありません。ですが、冬を越す準備と城壁の復旧を同時に続けるには、まだ足りない」
クラウディアは指を一つの欄へ置いた。
「私はこれを変えに行きます。あなたは、支援に何が必要なのかを、現場を見ていない者へ伝えてほしい。私の説明だけでは、届かないこともあるでしょう」
「俺が話せるのは、自分で見たことだけです」
「それをお願いしたいのです」
修司はうなずいた。
試されるためだけに行くのではない。持っていく用件が、自分にもある。
その実感は、恐怖を消しはしなかったが、足を置く場所を一つ増やしてくれた。
「もう一つだけ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「王都で話がこじれて、帰れなくなったら」
そこまで言うと、言葉が続かなかった。
クラウディアは、すぐには答えなかった。気休めを探しているのではないと、その表情で分かった。
「そうさせないために、使える手立てを用意します。滞在先も、面会の相手も、相手の指定をそのまま受け入れるつもりはありません。王都にも父を知る人はいます」
彼女は修司の目を見た。
「それでも、危険がないとは言えません。私の名で、何もかも防げるわけではないのです」
「はい」
「ですが、あなた一人を置いて、話が済んだことにはしません」
修司は、膝の上で握っていた手をほどいた。
「……それを聞けて、少し安心しました」
「帰るための準備も、出発前にしておきましょう」
クラウディアはそう言って、二人の間に置いた紙へ、もう一行書き加えた。
◇
午後、返書を整えるため、ミレイユとエヴァが執務室へ呼ばれた。
エヴァは修司の書いた条件を読み、立ち会いについての一文に目を止めた。
「これは、私もお願いするつもりでした」
「お手間を増やします」
「呼ばれた以上、私にも報告する責任があるわ。治療や身体のことを、向こうの都合だけで決めさせるわけにはいきません」
彼女はクラウディアへ向き直った。
「閣下。私たちの不在中、救護院を診る者の手配が必要です。引き継ぎの時間を確保していただけますか」
「ええ。そのための猶予も返書に記します。明日の朝に全員を連れ出すようなことはしません」
ミレイユが清書を始めた。
王都へ出向くこと。不正の調査と職能の説明に協力すること。そのために必要な準備と、確認を求める事項。
読み上げられる文面を聞きながら、修司は、これから答えなければならない質問を考えていた。
技能は何人に使えるのか。どれほど長く続けられるのか。疲労はどこまで軽くできるのか。
その問いだけで話が終われば、支援した相手が何を望み、何をできるようになったかは、どこにも残らない。
「持っていく記録に、前と後の様子も入れたいです」
修司が言うと、ミレイユは顔を上げた。
「技能を使う前と、使った後ですか」
「それだけではなくて、誰が何を手伝ったかもです。寝台から起きるとき、食事をするとき、荷物を渡すとき。兵士の動きだけ抜き出したら、別の仕事に見えてしまいます」
「分かりました。ご本人に、どこまで伝えてよいかも確かめます」
「お願いします」
修司は、机に置いた白い紙を裏返した。
そこには昨夜、最初に書こうとしてやめた文字の跡が残っていた。行く、という二文字を書くまでに、ずいぶん遠回りをした気がする。
だが、その二文字だけでは足りなかったのだ。
何をしに行くのか。何を引き受け、何を守りたいのか。誰に助けてもらい、誰へ帰ると伝えるのか。
ミレイユが最後まで書き終え、砂を振って余分な墨を吸わせた。クラウディアが文面を確かめ、修司にも差し出す。
「この内容で、よろしいですか」
修司は一度、最後まで読んだ。
そして筆を取り、自分の名を記した。
「はい。王都へ行きます」
その声は、昨日よりもよく通った。
封をした返書を受け取った伝令官は、確認事項を確実に届けると答えた。それは条件が認められたという返事ではない。これから向かう相手が何を言うのかは、まだ分からなかった。
伝令官が出ていったあと、修司は窓辺へ歩いた。
町の先に、南へ延びる街道が見えた。あの道を逆にたどれば、召喚された王都へ着く。
来たときは、馬車の行き先を知らなかった。
今度は、自分が何をしに行くのかを知っている。
「タカセ」
隣へ来たクラウディアが呼んだ。
「明日から、忙しくなりますね」
「ええ。留守にするのは初めてですから、何を渡しておけばいいのか、皆さんに聞かないと」
「私もです」
修司は彼女を見た。
「留守を頼めるようになったのです。この家も、領地も」
クラウディアの視線は、窓の外から、父の部屋がある廊下の方へ移った。
修司はうなずき、手に持っていた返書の写しを丁寧に畳んだ。
行って、話して、戻ってくる。
そのための準備を、明日から始める。




