第三十一話 王都からの二通目
王都から二通目の命令書が届いた日、修司は、最初の一枚を書き直していた。
救護院の窓際に置いた机には、椅子に座る人間を描いた紙が三枚並んでいる。足の位置を示す矢印と、支える側の手を描き足した結果、昨日まで分かりやすかったはずの図は、ずいぶん窮屈になっていた。
「これだと、どこを見ればいいのか迷いますね」
向かいに座るミレイユが、眼鏡を押し上げた。
「俺も、今そう思っていたところです」
「足の位置は必要ですし、椅子の高さも必要です。痛みがあるときは中止する、というエヴァ先生の注意も消せません」
「ええ。だから、一枚に入れるのをやめましょう」
修司は小刀を取り、図と注意書きの間に定規を当てた。
紙を切る音が、窓の外から聞こえる木槌の音に重なる。必要な部分を切り離して別の紙へ置き直すと、椅子の図の周りに余白が戻った。
最初に安全を確かめる紙と、実際の動きを説明する紙を分ける。二枚を順番に使ってもらい、どちらか一枚だけでは済ませないことを、上に描く同じ印で示す。
昔の仕事でも、盛り込みたい内容が減ることは滅多になかった。目立つ見出しを大きくしてほしい。その下に説明を足してほしい。締め切りは動かせないが、写真は差し替えたい。営業から持ち込まれる注文に、何度も机へ額をつけたくなった。
今は紙を増やせば、そのぶん書き写す手間もかかる。簡単には決められない。それでも、読む人が間違えたときのことを考えれば、詰め込むだけでは済まなかった。
「誰に試してもらいますか」
ミレイユの問いに、修司は顔を上げた。
「まだ説明を聞いていない人がいいですね。俺たちは、もう答えを知っていますから」
彼女がうなずき、手引きの裏へ小さく書き留める。
領主一家と食卓を囲んでから、十日が過ぎていた。
ベルグランには、まだ避難してきた村人たちが残っている。街道の安全が確かめられた村から帰還が始まったものの、壊れた家や、主のいなくなった家へ戻れない人もいた。第三塔では瓦礫の撤去と仮の防壁づくりが続き、町へ出れば、どこかで必ず木を挽く音が聞こえた。
救護院にも空床はほとんどない。ただ、寝台の間を通る者が、そのたび誰かの椅子を動かさなくてもよくなった。水の置き場所は決まり、交代時の申し送りには、治療の経過と並んで食事や眠りの様子が記されるようになっている。
「タカセさん、ロルフさんが呼んでいます」
入口に現れたニルスの声で、修司は手を止めた。
「何かありましたか」
「倉庫へ戻る人のことで。働けるかどうか、見てほしいそうです」
修司は小刀を置いた。
「働いていいかを決めるのは俺ではありませんが、一緒に確かめることはできます。行きましょう」
◇
裏庭では、右手首に固定具をつけた男が、小さな木箱を前に立っていた。
荷受けの仕事をしていた住民で、襲撃の夜、避難する人をかばって腕を傷めた。治療後の経過はよいとエヴァから聞いていたが、荷物を持つ許可はまだ出ていない。
「数を確かめる仕事ならできると、先生がおっしゃったんです」
ロルフが事情を説明した。
「それで、荷物に札をつける役を頼もうとしたんですが……」
「こんな小さい箱まで、いちいち人を呼べるか」
男はそう言って、左手を箱の下へ差し込んだ。
修司の視界に、身体を支える淡い線が重なる。
《生活動作把握》
箱を持ち上げるために肩が上がり、身体が左へ傾く。それを補おうとして、固定された右手が無意識に前へ出かけた。
「そのまま持ち上げず、いったん置いてください」
修司は男の横へ入り、箱が傾かないよう底を支えた。自分の肘を身体の近くへ収め、男が左手を抜くまで重さを受け持つ。箱を台へ戻してから、ようやく息を吐いた。
「空に見えたんだがな」
「中身は石の見本ですから。小さくても重いですよ」
ロルフが蓋を開けると、男は気まずそうに口を閉じた。
修司は技能を止めた。身体の線は消えたが、頭痛はない。確かめたい動きだけを見て終える使い方なら、ずいぶん楽になっていた。
「運ぶ人には、ここへ置いてもらいましょう。数を確かめて、行き先を伝えて、札をつける。そこまで終えたら、次の人に渡す形です」
「そんなもの、子供でもできる」
「行き先を間違えたら、荷車が一台、無駄に往復します。あなたは倉庫のことを知っているから任されたんでしょう」
男がロルフを見る。若者はうなずいた。
「俺は馬のことなら分かります。でも、どの資材を誰へ渡すかは、あんたの方が詳しい」
修司は空の木箱をもう一つ借り、札と筆を置く台にした。使う道具を左側へ寄せ、荷物を持ち上げなくても印を見られるよう、運び手に箱の向きをそろえてもらう。
男はしばらく黙っていたが、やがて左手で筆を取った。
「石灰の袋と食料は、一緒に積むなよ。昨日も言ったはずだ」
「ほら。俺じゃ、そこまで気が回らない」
ロルフが笑うと、男も口元を緩めた。
修司は二人に任せ、庭の端へ下がった。戻れる場所があると、人はつい、以前と同じ働き方まで取り戻そうとする。止めるだけでは、その人から仕事を奪うことになる。今できることを、本人も周囲も認められる形にする必要があった。
自分にも、覚えのある焦りだった。
そのとき、門の外で馬のいななきが上がった。
振り返ると、領主館の兵が馬から降りている。外套の裾には道の泥が跳ねていたが、剣は抜かれていなかった。
「タカセ殿。領主代行閣下がお呼びです。エヴァ先生と、書記のミレイユ殿もご一緒に」
「けが人ですか」
「いいえ。王都から使者が到着しました」
兵はそこで声を落とした。
「王命を携えているそうです」
◇
領主館の執務室には、暖炉に火が入っていた。
クラウディアは机の後ろに立ち、開かれた二枚の書状を見下ろしている。傍らにはイゾルデがいた。ベルンハルトは背を支えられる肘掛け椅子に座り、その隣でアマーリエが膝掛けの端を直していた。
窓側に立つ見知らぬ男は、灰色の旅装を着ていた。革の書類筒を抱え、短く整えた髭の下に疲れが見える。長旅を終えたばかりなのだろう。
「急に呼び立ててすみません、タカセ」
クラウディアが言った。
「こちらは王都からの伝令官です。北門の防衛と不正の調査について送った報告への返答を、お持ちになりました」
修司は男へ会釈した。
最初にこの領地へ来たときも、王都からの命令書があった。自分の知らないところで行き先が決まり、説明を求める間もなく馬車へ乗せられた。
目の前の紙を見ただけで、あの馬車の揺れが背中によみがえった。
「駅馬を継いで、届けていただきました」
クラウディアが続ける。
「まず、北壁を守ったことへの労いと、戦死者への弔意が記されています」
「援助については」
イゾルデが訊いた。
「物資不足と損害の詳細を、王都で聴取したうえで判断する、と」
イゾルデの顎が動いたが、言葉は出なかった。
暖炉の中で薪がはぜた。
「私には、押収した帳簿と証言録を携え、王都アルシオンへ出頭せよとの命令です。エヴァ先生には負傷者の治療経過を、ミレイユには記録の作成と照合について、説明を求めています」
「私も、ですか」
ミレイユが自分の胸元へ手を当てた。
「ええ。あなたの名もあります」
クラウディアが一枚目を机へ置いた。修司へ向き直ったその表情を見て、まだ話が終わっていないことが分かった。
「そして、タカセ。あなたについては別紙です」
伝令官が姿勢を正した。
「召喚者の職能確認に関する書状でございます」
修司は差し出された紙を受け取った。
上質な紙だった。指に触れる表面は滑らかで、救護院で使っているものより薄く、それでいて張りがある。文字は均等に並び、余白も十分に取られていた。
読みやすい書類だと、仕事の癖で思った。
その読みやすさが、かえって一行を逃がしてくれなかった。
『王国召喚管理下の対象、タカセ。職能《生活支援士》。再査定ならびに配属審査のため、王都へ移送すること』
修司は続きを読んだ。
複数の兵に同時に作用した技能について、作用範囲、継続時間、対象人数、使用後の身体状態を報告すること。到着後の滞在先は王都側が指定し、審査終了まで他領への転出を認めないこと。
読み終えても、しばらく紙から目を離せなかった。
「再査定、というのは」
「当初の職能判定と、今回の報告に隔たりがあるためと承っております」
伝令官は慎重に答えた。
「戦列の維持に寄与する力であれば、王国として正確に把握する必要がある、と」
「最初は老人の世話係として送りつけておいて、兵に使えると知ったら取り戻すわけですか」
イゾルデの声は低かった。
伝令官の顔がこわばる。
「私は書状を届ける任を負っております。審査内容について、お答えできる立場にはございません」
「分かっています」
修司は、思ったより静かな声で言った。
伝令官に怒りをぶつけても、この文章を書いた人間には届かない。それは分かっているのに、紙を持つ指には力が入っていた。
夜の街路を思い出した。盾を支えた兵の息遣い。石を運ぶ手。矢が飛ぶ中、戻ってきたクラウディアの足音。
あれを記録すれば、対象人数と継続時間になる。
間違いではない。だが、その二つだけを読んだ者は、何を想像するのだろう。
「この技能は、兵士を強くする薬のようなものではありません」
修司は紙を机へ置いた。
「それぞれが何をするか分かっていて、協力してくれたから使えたんです。盾の持ち方も、荷車の動かし方も、俺が教えたわけじゃない。俺だけ別の場所へ連れていけば、同じことができるとは限りません」
「その点も、審査の場でご説明いただくことになるかと」
「本人の意向は、どこで聞くのです」
クラウディアが口を開いた。
伝令官は返答に詰まった。
「タカセは、すでに私たちへ協力すると自分で決めています。王都への説明を求めることと、配属先を勝手に決めることは別です」
「閣下。私は――」
「あなたに決定権がないことは承知しています。ですから、こちらの返答も正確に持ち帰っていただきたいのです」
クラウディアの手が、机の縁を押さえていた。剣を握っているわけではないのに、修司にはその指へ力が集まっているのが分かった。
ベルンハルトが肘掛けに手を置いた。
「まずは使者を休ませよ。急ぎの道を来た者に、ここですべて答えさせることもあるまい」
クラウディアは父を見て、短く息を吐いた。
「……そうですね。返書については、あらためてお伝えします。お部屋と食事を用意させます」
伝令官は深く頭を下げ、書類筒を抱えて退室した。
扉が閉まったあと、誰もすぐには話さなかった。
◇
修司は、机に置かれた二枚の書状を並べ直した。
一枚目には、グランフェル家の名があった。クラウディアの名と地位があり、提出すべき書類、説明すべき項目が並んでいる。
二枚目の自分には、対象と職能しかなかった。
紙面の作りが違う。
人に用件を伝える書類と、何かを引き渡すための書類。その違いを、修司は説明を読む前から感じ取っていたのかもしれない。
「タカセ」
クラウディアが静かに呼んだ。
「ここで働くと決めてくれたばかりなのに、申し訳ありません」
「クラウディア様が謝ることではないです」
「ですが、私が報告に技能のことを書いたために――」
「書いてよかったんです。あの夜、何があったかを、隠す必要はありません」
修司は言い切った。それだけは彼女の失敗にしたくなかった。
ミレイユが帳面を開き、書状の条件を書き写し始めた。エヴァはまだ紙を見ている。
「身体状態の報告ならできます。ただし、技能を限界まで使わせて調べるつもりなら、私は賛成できません」
「そもそも、タカセを引き渡すと返事をするつもりはありません」
クラウディアはそう答えてから、修司へ視線を戻した。
「ただ、あなたの考えを聞く前に、私が決めてしまうのも違いますね」
その言葉で、修司はようやく彼女の顔を見られた。
ここにいれば安全だと、言ってほしい気持ちはあった。五十二歳にもなって情けないと思う一方、知らない場所へ勝手に運ばれる恐怖を、もう一度味わいたくなかった。
だが、机の上には別の問題も残っている。
冬を越すための食料。救護院の薬。壊れた城壁を直す資材。王都へ行かなければ話が進まないというのなら、自分の気持ちだけで済むことでもなかった。
「少し、時間をください」
「もちろんです」
クラウディアは即座に答えた。
ベルンハルトも、急かしはしなかった。
修司は机の端に置いた手を見下ろした。箱を支え、紙を切り、誰かが立つときに添えてきた手だった。今は何もしていないのに、指先だけが冷えている。
あの夜の王都では、何も分からなかった。
連れてこられた理由も、授かった職も、明日どこへ行くのかさえ、誰かが一方的に決めた。生き延びることを考えるだけで精いっぱいだった。
今は、守りたい仕事がある。自分の返事を待ってくれる人たちがいる。
「ミレイユさん」
「はい」
「俺の分も、写しを一部もらえますか。持って帰って、もう一度読みたいです」
ミレイユがうなずき、新しい紙を引き寄せた。
窓の外では、資材を積んだ荷車が門を入ってくるところだった。御者台のロルフが手を上げ、門番が応じる。その荷台に載った木箱には、左手で書かれた少し不揃いな札が揺れていた。
修司はそれを見てから、もう一度書状へ目を落とした。
再査定。配属審査。移送。
丁寧な文字で書かれた命令の中に、修司自身の返事を記す欄はなかった。
彼はミレイユから受け取った写しの下へ、白い紙を一枚重ねた。
返事は、そこに書けばよかった。




