第三十話 朝を迎えるために
東の空は、まだ暗かった。
崩れた第三塔の向こうでは、炎に照らされた灰角狼の影が、途切れることなく瓦礫の間を走っていた。二台の石積み荷車で塞いだ通りは持ちこたえている。しかし、それは城壁が直ったという意味ではない。魔物が入り込む道を、町の内側でもう一度狭くしただけだ。
荷車の向こうから、重いものが石を引っかく音が響いた。
修司は壁に背を預けたまま、ゆっくり息を吐いた。肩の傷にはエヴァが巻いた布があり、浅いとはいえ、腕を上げるたびに熱を持った痛みが走る。先ほどまで《連携支援》を通して感じていた大勢の足裏や呼吸は、今はもうない。
自分から技能を止めたからだ。
頭の奥には鈍い重さが残っていたが、意識は澄んでいる。以前なら、倒れるまで使い続けていたかもしれない。支える者が休めなくなれば、次に必要とされたとき動けない。そんな当たり前のことを、ようやく自分にも当てはめられるようになった。
「交代の兵が来ました」
ミレイユが、湯気の立つ木杯を差し出した。眼鏡の奥には疲れがにじんでいたが、声はしっかりしている。
「東門から入った二百十一人は、全員、救護院と商館、それから周辺の民家へ振り分けられました。重傷者はいません。具合を崩した方が七人いますが、エヴァさんたちが診ています」
「そうですか」
修司は杯を両手で包んだ。薄い塩味のある温かな湯が、乾いた喉を通っていく。
「よかった」
それしか言えなかった。
クラウディアはすでに立ち上がり、交代してきた兵たちへ指示を出していた。赤銅色の髪は汗と煤で頬に張りつき、鎧のあちこちに泥と黒い血が付いている。それでも、その声に迷いはなかった。
「盾兵は第一の荷車から十歩下がって二列。槍兵は左右の建物の窓を使ってください。火は増やしすぎないように。油は夜明けまで残します」
「北門から伝令!」
駆け込んできた兵が、膝に手をついて息を整えた。
「灰角狼の攻勢は弱まりました。ただし、岩蜥蜴が三体、北壁へ接近中。イゾルデ副団長より、東側にも同じ動きがないか警戒せよとのことです!」
その言葉が終わるより早く、荷車の向こうで石が砕けた。
一度。
二度。
狼や鎧猪の突進とは違う、地面の底から響くような衝撃だった。
「来ます!」
見張りの叫びに、兵たちが一斉に盾を上げる。
工兵長が荷車の脇に置かれた補強材へ駆け寄った。短い髭を煤で黒くしながら、石の隙間を覗き込む。
「岩蜥蜴だ。少なくとも二体いる。あの背で押され続けたら、車軸が先に折れるぞ!」
クラウディアが振り返った。
「父のもとへ伝令を。三十四年前の戦いで、岩蜥蜴をどう止めたか聞いてください」
「すでに参りました」
通りの入口から、ベルンハルト付きの従士が走ってきた。老将自身が戦場へ出られないことを、誰よりも分かっている男の顔だった。その手には、急いで書かれた一枚の紙が握られていた。
「ベルンハルト様からです。『夜気で甲殻が冷えれば動きは鈍る。背を割ろうとするな。曲がるときに露出する首の付け根を狙え。急がせず、止め、向きを変えさせろ』と」
クラウディアは紙を一度見ただけで、通りと荷車を見渡した。
「工兵長。右の荷車を、わずかに斜めへ動かせますか」
「今なら。だが、押している最中に岩蜥蜴が来れば、作業員が潰される」
「左は固定したまま、右だけを下げる。通りを塞ぐのではなく、曲がらせるんですね」
修司が言うと、クラウディアがうなずいた。
「ええ。真っ直ぐ押させなければいい。ただ、動かす者と守る者の間に、一度でもずれが出れば危険です」
修司は立ち上がろうとして、腰と肩に同時に走った痛みに顔をしかめた。それを見逃さず、エヴァが腕をつかむ。
「タカセ。何をするつもり?」
「荷車を押すつもりはありません」
「技能は使うつもりでしょう」
「必要な瞬間だけです。三人までに絞ります」
エヴァは修司の目を見た。脈を測るように手首へ指を当て、それから肩の布に血が広がっていないことを確かめる。
「ふらついたら、すぐに止めてください。次は私が止めます」
「分かりました」
以前のように、大丈夫だと言い張りはしなかった。その返事を聞いて、エヴァはようやく手を離した。
クラウディアは盾兵を前へ出し、工兵長に荷車の楔を外す準備を命じた。北門から戻った伝令が、イゾルデにも同じ手順を伝えるため、再び暗い道を駆けていく。
修司は、クラウディア、工兵長、盾隊長の三人へ意識を向けた。
全員を動かそうとはしない。
クラウディアが見る敵の動き。工兵長が感じる荷車の重さ。盾隊長の足が捉える石畳の傾き。それぞれが持っている情報を、必要な相手へ、必要なときだけ渡す。
《連携支援――動作同調》
淡い金色の線が三人の足元に現れ、呼吸するように明滅した。
荷車の向こうで、岩蜥蜴が三度目の体当たりを加えた。積まれた石が揺れ、一本の梁が音を立てて裂ける。
「楔を外せ!」
工兵長の声と同時に、作業員たちが縄を引いた。右の荷車が、石畳を削りながら半歩だけ後ろへ滑る。生まれた隙間へ灰角狼が飛び込もうとしたが、盾隊長が言葉より先に前列を傾け、槍兵がその鼻先を貫いた。
次の瞬間、岩蜥蜴の頭が隙間から突き出した。
石を重ねたような灰色の甲殻。その巨体は通りいっぱいに膨らみ、低い脚が瓦礫を押し潰している。だが、真っ直ぐ進むはずだった鼻先に斜めの荷車が当たり、巨体がゆっくりと左へ向きを変えた。
硬い背と頭の境目に、黒い皺が開いた。
クラウディアが踏み込む。
修司は彼女の足へ力を与えたのではない。盾隊長が作った一瞬の空間と、工兵長が動かした荷車の角度を、彼女の身体が迷わず受け取れるようにつないだ。
「今です!」
青白い光をまとった長剣が、甲殻の隙間へ深く突き刺さった。
岩蜥蜴が咆哮し、首を振る。クラウディアは剣にしがみつかず、自ら手を離して盾の陰へ転がり込んだ。巨体が暴れたことで、かえって荷車の角へ首を押しつける形になる。
「槍、続け!」
兵たちの穂先が、同じ一点へ次々と入った。
やがて岩蜥蜴の脚が崩れ、石畳を震わせて倒れた。その後ろにいた二体目は、死骸と荷車に道を塞がれ、無理に身をひねろうとする。冷えた甲殻の継ぎ目はすぐには曲がらず、動きは目に見えて鈍かった。
兵たちはもう、命令を待っていなかった。
一体目と同じ弱点を知り、同じ手順を自分たちで繰り返していた。
修司は金色の線を消した。頭の奥に軽い痛みが差したが、足は揺れない。
「もういいんですか?」
隣にいたミレイユが訊く。
「ええ。皆さんが、もう分かっていますから」
支援とは、自分がいつまでも必要であり続けることではない。支えられた人が、自分の力で次の誰かを支えられるようになることだ。
四半刻後、二体目の岩蜥蜴も倒れた。
北壁では、イゾルデがベルンハルトの助言を受け、落石と槍兵を組み合わせて三体の進撃を止めたという報せが届いた。西側へ回った灰角狼は騎兵に追い払われ、鎧猪の群れも油壺を使い切る前に勢いを失った。
それでも、夜はすぐには明けなかった。
魔物の襲撃は何度も続いた。兵たちは交代し、傷ついた者は下がり、代わりの者が盾を受け取った。修司も休憩を挟みながら、救護院へ戻って水分を取れない者の姿勢を整え、東門では避難してきた人々の寝場所を歩きやすい形に変え、再び第三塔へ呼ばれれば、引き継ぎの行き違いがないかを確かめた。
もう、どこへ行っても修司一人が指示を出す必要はなかった。
白い杖の印を見た者が、足の悪い老人を救護院へ案内する。水杯の印を見た者が、荷運びを終えた兵へ飲み物を渡す。救護院では、グレーテが椅子に座ったまま清潔な布を畳み、その横でニルスが行き先を書いた札を配っていた。
馬の様子を見ていたロルフは、一頭の呼吸が荒いことに気づくと、すぐ別の馬へ替えるよう御者に伝えた。かつて傷を負い、支えられる側だった若者が、今は馬と人の命を守っている。
ナディアは商館の庭に積まれた空袋を眺め、大きくため息をついた。
「倉庫の食料も薪も、きれいに使ってくれたわね」
「申し訳ありません」
修司が頭を下げると、彼女は片方の眉を上げた。
「謝るところではないわ。貸しは利子をつけて返してもらうけれど、返す人が生きているなら商売は続けられるもの」
そう言って、最後に残していた干し果実を修司の手へ押しつけた。
「これは経費に入れておくから、食べなさい」
空が白み始めたのは、それからしばらく後だった。
東の丘の輪郭が、闇の中から少しずつ浮かび上がる。夜の間、ひとつの巨大な塊に見えていた魔物の群れは、夜明けとともにその形を失っていた。灰角狼は森へ散り、鎧猪は倒れた仲間を避けて北の斜面へ逃げていく。動きの鈍った岩蜥蜴は壁へ近づけず、瓦礫の向こうでうずくまっていた。
騎兵の斥候が戻るまで、誰も勝利を口にしなかった。
やがて北門の上に立つ兵が、両手を大きく振った。
「斥候、帰還! 組織だった群れは後退! 森と丘陵へ分散しています!」
城壁の上に、短い沈黙が落ちた。
次いで湧き上がった歓声は、夜の間に聞いたどの咆哮よりも大きかった。
修司は笑おうとして、うまく息を吸えないことに気づいた。恐怖が消えたからではない。身体の奥に張りつめていたものが、ようやく緩んだのだ。
隣に立ったクラウディアが、剣を杖のように地面へついた。
「守れました」
「はい」
「父の領地を。ここで暮らす人たちを」
「クラウディア様たちが守ったんです」
修司はそこで一度、言葉を切った。以前なら、それだけで終えていただろう。
「俺も、その中にいられてよかったです」
クラウディアは驚いたように修司を見て、それから疲れた顔で笑った。
「ええ。あなたも一緒に守ったのです、タカセ」
歓声の届かない城壁の一角では、兵たちが静かに布をかけられていた。全員が朝を迎えられたわけではない。名を書き留める書記の前で、盾隊長が一人ずつ名前と所属を告げている。
修司は頭を下げた。
夜勤の朝は、何も起きなかったことに安堵する。だが、この世界の夜は、何もなかったことにはできない。失われた命も、傷ついた身体も、残された家族も、朝になれば消えるわけではなかった。
「名簿は必ず二部作ってください」
クラウディアが書記へ言った。
「一部は騎士団に、もう一部は領主館へ。家族への支給が、途中で欠けることのないように」
以前なら、その言葉だけで終わっていたかもしれない。だが今は、マルクスが救援物資と記録を歪めていたことを、皆が知っている。
「私も照合します」
ミレイユが名簿の横へ座った。
誰かが記録し、誰かが確かめ、誰かが届ける。そのどれもが剣ほど目立たない。それでも、その一つが欠ければ、守ったはずの暮らしから人がこぼれ落ちる。
朝日は、崩れた第三塔と、傷だらけの城壁を等しく照らした。
町は守られた。
けれど、立て直す仕事は、ここからだった。
◇
三日後。
領主館の食堂には、久しぶりに四人分の食器が並んでいた。
大きな食卓の上座ではなく、窓に近い小さな卓が選ばれている。ベルンハルトが長く座っても身体を崩さない高さに椅子と足台を合わせ、疲れればすぐ隣室の寝台へ移れるよう、動線も空けてあった。
エヴァはベルンハルトの脈と顔色を確かめると、アマーリエへ告げた。
「本日はこのままお食事をしていただいて構いません。ただし、長くても半刻ほどで休憩をお願いいたします。立つ訓練は午後まで行いません」
「分かりました。無理はさせません」
アマーリエが答えると、ベルンハルトは少し不満そうに眉を動かした。
「わしの意見は聞かぬのか」
「あなたの意見を聞いた結果、二年間も一人で抱え込ませてしまいましたから」
「……それを言われると弱いな」
老将の声に、食堂へ小さな笑いが広がった。
クラウディアは鎧を脱ぎ、簡素な青い服を着ていた。三日前の戦いでできた傷は頬に薄く残っている。それでも母の向かいへ腰を下ろす姿は、騎士団を率いる後継者ではなく、ようやく家へ帰ってきた娘に見えた。
アマーリエが、温かなスープをクラウディアの前へ置く。
「おかえりなさい、クラウディア」
「……ただいま戻りました、母上」
ベルンハルトは娘をまっすぐ見た。
「よく戻った。そして、よく守った」
「皆の力です」
「皆を動かしたのは、お前だ。アルベルトの代わりではない。グランフェルの次を担う、クラウディアとしてな」
クラウディアは唇を引き結び、うなずいた。
「はい、父上」
その声は震えていたが、顔を伏せることはなかった。
修司は少し離れた場所で、その様子を見守っていた。卓へ着く三人の位置、ベルンハルトの手の届くところにある杯、椅子から寝台までの距離。気になる箇所を無意識に確認していると、アマーリエが空いている席を指した。
「タカセ様も、どうぞ」
「俺は、何かあったときのために近くにいます」
「近くにいてくださるのでしたら、そこへ座ってください。食事をしながらでも、私たちは助けを呼べます」
修司がエヴァを見ると、彼女も首を縦に振った。
「ベルンハルト様の介助が必要になれば、私もおります。タカセは座って食べてください」
逃げ道を塞がれ、修司は四つ目の椅子へ座った。
誰かの食事を見守ることはあっても、見守る相手と同じ卓で、自分のための皿を受け取ることにはまだ慣れない。
「いただきます」
そう言って匙を取ると、クラウディアが穏やかに笑った。
「ようやく、こちら側へ座ってくれましたね」
「こちら側、ですか」
「支える人ではなく、一緒に食事をする人の側です」
修司は、湯気の向こうにいる三人を見た。
自分はこの家族を立て直したのだろうか。そう考えて、すぐに違うと思った。ベルンハルトは自ら立つことを選び、アマーリエは夫へ言葉を返し、クラウディアは兄の影から一歩踏み出した。修司にできたのは、それぞれが持っていた力を、もう一度使えるように支えただけだ。
だが、その支えを「何もしていない」と言うのも、もうやめようと思った。
「ありがとうございます」
修司はそう答え、スープを口へ運んだ。
◇
食事の後、ベルンハルトとクラウディアは、一通の報告書へ並んで署名した。
魔物の襲撃と防衛の経過。五つの村から避難してきた住民の収容。第三塔崩落に使われるはずだった石材が横流しされていた件。偽造された記録と、拘束中のマルクス、エッカルトから得た証言。そして、魔物の大群が途中の獲物に目もくれず、異常な速さで南下したこと。
最後の点だけは、誰にも理由が分からなかった。
「群れは散った。だが、なぜ灰冠の森から押し出されたのかは残っている」
ベルンハルトが言った。
「王都へ知らせる必要があります」
クラウディアは、自分の名で署名した紙を見つめた。
「同時に、第三塔を造り直し、避難路と救護体制も見直します。次も同じ幸運が続くとは限りません」
修司の前にも、一枚の紙が置かれた。
そこには、今回の避難と救護における《生活支援士》タカセの働きを記し、領内でその職務を継続するよう求める文言があった。
「これは……」
「命令ではありません」
クラウディアが言った。
「あなたが望むなら、グランフェルに残ってほしいのです。父一人を支えるためだけではありません。救護院、村、騎士団、町の暮らし。私たちには、まだ見えていない不便や危険が、いくつもあるのでしょう」
修司は窓の外へ目を向けた。
壊れた第三塔の足場には、もう職人たちが上っている。城壁の下では兵と住民が瓦礫を分け、使える石を積み直していた。避難してきた人々をすぐ村へ帰すことはできない。街道に残る魔物を調べ、井戸と家屋の安全を確かめてから、少しずつ戻すことになっている。
やるべきことは多かった。
それでも、修司の脳裏に浮かんだのは、大きな城壁でも魔物でもなかった。
夜中の二時十三分。静かな廊下。三〇七号室で寝台の端に座り、亡くなった夫のために弁当を作ろうとしていた篠原フミの姿だった。
『朝になったら、起こしてくれる?』
『ええ。ちゃんと声をかけます』
あの約束を果たす前に、修司はこの世界へ連れてこられた。
今も、ときどき考える。同僚たちは突然消えた自分をどう思っただろう。篠原は朝を迎えられただろうか。戻る方法があるのか、この世界へ来た理由さえ、まだ分かっていない。
その心残りが消えることはなかった。
だからこそ、目の前にいる人が朝を迎えるために、自分のできることをしたかった。
「条件が三つあります」
修司は紙を置き、クラウディアを見た。
「聞きましょう」
「一つ目は、俺一人のやり方にしないことです。治療の判断はエヴァさんたち治療師にお願いして、身体を動かす訓練も、それぞれの専門家と相談して決めたい」
エヴァが満足そうにうなずく。
「二つ目は、記録を残す人と、図を作る人をつけてください。文字だけでは分かりにくい人にも伝わる手引きを作りたいんです。俺がいなくても、同じ支援を続けられるように」
「それは、私がやります」
ミレイユが間髪を入れずに手を上げたが、修司は首を横に振った。
「一人では駄目です。休みながら続けられる人数が必要です」
「……分かりました。もう一人、いえ、二人育てます」
「三つ目は?」
クラウディアに問われ、修司は少しだけ迷った。
「俺にも、休むように言ってください。自分では、まだ気づくのが遅いので」
一瞬の沈黙のあと、エヴァが吹き出した。アマーリエも口元へ手を当て、ベルンハルトは声を上げて笑った。
「その条件なら、わしら全員で守らせよう」
「タカセが破った場合の罰も、決めておきます」
クラウディアが真顔で付け加える。
「罰まであるんですか」
「必要でしょう。自分のことになると、あなたは言うことを聞きませんから」
返す言葉がなく、修司も笑った。
「では、お願いします。ここで働かせてください」
クラウディアは右手を差し出した。
「改めて、よろしくお願いします。タカセ」
修司は、その手を握った。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
◇
午後、修司は救護院の一角に置かれた机へ向かっていた。
机の上には、定規、小刀、墨、数種類の顔料、質の違う紙が並んでいる。ミレイユが用意したものだ。印刷機も写真も、ましてや画面上で線を引き直せる道具もない。それでも、この程度の道具があれば、形にはできる。
修司は紙の左上に、太い文字を書いた。
『立ち上がりを支えるとき』
その下に、椅子へ座った人物を横から見た図を描く。足を置く位置、身体を前へ傾ける方向、支える者の手の場所。線を増やしすぎず、初めて見る者がどこから読めばよいか分かるよう、順番を整えていく。
「ずいぶん簡単な絵ですね」
隣でミレイユが言った。
「簡単に見えるように描いているんです。全部を入れると、一番伝えたいことが埋もれてしまいますから」
「一番伝えたいことは?」
修司は、図の横に短い一文を書き加えた。
『先に引き上げない。立つ人の力を待つ』
ミレイユが、その言葉をゆっくりと読み上げる。
窓の外から、木槌の音が聞こえていた。第三塔を直す音。通りでは、村人たちへ温かな食事を配る声が響いている。救護院の奥では、グレーテがニルスを叱り、ロルフが笑っていた。
扉が開き、クラウディアが顔を見せた。
「タカセ。新しい避難路の図について相談があります。急ぎではありませんが、見てもらえますか」
修司は、反射的に立ち上がりかけた。
肩に痛みが走る。
そこで一度座り直し、描きかけの紙を乾かすため、机の端へ動かした。
「これを仕上げて、休憩してから伺います」
クラウディアは、うれしそうにうなずいた。
「待っています」
異世界へ来た夜、修司は、自分がなぜ呼ばれたのか分からなかった。
勇者でもなく、若くもなく、剣も魔法も使えない五十二歳の介護士。外れ職と笑われた《生活支援士》に、国を救えるとは思えなかった。
今も、国を救う方法など知らない。
ただ、目の前にいる一人が立つために、何が必要かを考えることはできる。一人が立てば、その人が別の誰かを支えられる。伝わる形に整えれば、その支えは百人へ、千人へと広がっていく。
人が立ち、家族が立ち、町が立ち直る。
その先に国があるのなら、自分の仕事も、きっとそこへつながっている。
修司は新しい紙を取り、次の図のために定規を置いた。
窓から差し込む午後の光の中で、その手はもう震えていなかった。
誰かが明日も、自分の足で朝を迎えられるように。
高瀬修司の、この世界での仕事は、ここから始まる。
第一部 完
第一部「グランフェル辺境領編」は、今回で完結となります。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
高瀬修司の物語は第二部へ続きます。今後ともお付き合いいただけましたら幸いです。




