第二十八話 支える者の戦場
灰角狼の身体が、閉ざされた北門へ何度もぶつかった。
厚い木の扉が衝撃を受けるたび、蝶番から細かな埃が落ちる。城壁の上では弓兵が矢を放ち、門の前へ集まった魔獣を一頭ずつ射抜いていた。
「油を落とせ!」
若い騎士の命令に、兵たちが熱した油の釜へ手をかける。
「待て!」
イゾルデの声が、それを止めた。
「灰角狼に油を使うな。火矢で散らせ! 油は鎧猪のために残す!」
直後、館から来た伝令が階段を駆け上がった。
「ベルンハルト様からです! 灰角狼は先駆けにすぎず、壁を破る鎧猪が後続する。油と投石を温存せよ、と!」
「同じことを考えておられたか」
イゾルデは口元をわずかに緩めた。
「伝令、戻ってお伝えしろ。ご助言に感謝する。ただし、ここで指揮を執るのはクラウディア様だとな」
「はっ!」
老将は部屋へ戻っても、戦場から離れてはいなかった。だが、命令を奪い返すこともなかった。届く報告を読み、自分の経験が必要なところだけを娘へ渡している。
修司は北門の内側で、そのやり取りを聞いていた。
第一村から戻ってきた直後、ミレイユに支えられた修司は、壁際の長椅子へ座らされた。水を飲み、呼吸を整え、技能を使わずに休む。外から獣の爪が扉を削る音が聞こえても、すぐには立たなかった。
自分まで運ばれる側になれば、救護の手を一つ余計に使わせる。
夜勤中も、忙しいからと休憩を飛ばし続けた職員ほど、明け方に判断を誤ることがあった。動き続けることだけが、責任ではない。
「顔色が戻りました」
ミレイユが言った。
「もう大丈夫ですか」
「大丈夫だと思います。でも、大丈夫かどうかを決めるのは俺ではありませんね」
北門へ残っていた治癒術師に確認してもらう。脈に少し速さは残っているが、技能をすぐ広範囲へ使わなければ動いてよいとの判断だった。
「では、使わずにできるところから始めます」
「使わないのですか」
「最初から技能に頼ったら、また倒れますから」
修司は長椅子から立ち上がり、北門の周囲を見渡した。
城壁の上へ矢と石を運ぶ兵が、負傷者を下ろす者と同じ階段を使っている。登る者と降りる者が途中でぶつかり、そのたびにどちらかが壁へ身を寄せていた。
階段の下には空になった矢籠が積まれ、担架の通り道を狭くしている。水樽を運んできた者は、どこへ置けばよいか分からず、門の前で立ち止まっていた。
壁の上で戦っている兵だけを見れば、誰も怠けてはいない。
それでも、矢が届かず、負傷者が降りられず、治療を待つ時間が延びれば、戦える人数は少しずつ減っていく。
「ミレイユさん、階段はほかにもありますか」
「西へ五十歩ほど行ったところに、もう一つあります」
「片方を上り、もう片方を下りに分けましょう。上り口には剣の印、下り口には杖の印をつけます」
「負傷者を遠い階段まで運ぶことになりませんか」
「重傷者は近い方を使います。自分で歩ける人と、支えがあれば歩ける人だけ西へ。誰がどちらを使うかは、治癒術師に決めてもらいます」
戦場でも、全員を同じように動かせばよいわけではない。
修司が道を決め、治療の判断までしてしまえば、見た目では分からない重傷者を歩かせる危険がある。治癒術師が状態を分け、その判断に合わせて、修司たちが安全に移動できる流れを作る。
ミレイユが近くの兵を集め、指示板を運ばせた。空の矢籠は西側へまとめ、担架が通れる幅を確保する。水樽の置き場には杯の印を掲げ、空になった樽を置く場所も分けた。
「矢が足りない! 次を上げろ!」
城壁の上から声が飛ぶ。
「どの隊に、何本必要ですか!」
下の兵が聞き返した。
「全部だ! あるだけ持ってこい!」
それでは、先に声を上げた場所へ矢が集中し、ほかの場所が尽きてしまう。
「各隊の残りを数える人はいますか」
修司が尋ねると、補給を任された年配の兵が首を横へ振った。
「籠で上げている。だが、壁の上で何本残っているかまでは分からん」
「籠に印をつけましょう。満杯は黒い丸、半分なら半円、空は斜線にします。降りてきた空籠にも、使った隊の印を残してください」
「そんなことをしている暇があるか」
「数え直す時間をなくすためです。一度決めれば、見ただけで残りが分かります」
男は半信半疑の顔をしたが、ミレイユがすぐに木炭で印を描き始めると、自分も空籠を並べ替えた。
修司は元の世界で、商品写真と価格と説明文を、限られた紙面へ何百点も並べてきた。すべてを同じ大きさで目立たせれば、結局どれも目に入らなくなる。
戦場の情報も同じだった。
今すぐ必要なもの。残りが少ないもの。あとで補えばよいもの。優先順位を形にしなければ、声の大きい者の要求だけが通ってしまう。
やがて、最初の負傷者が階段を下りてきた。
腕に浅い傷を負った兵は西の階段へ。脚を噛まれ、自力で体重を支えられない兵は、近い階段から担架で下ろす。入口で治癒術師が状態を確認し、赤、黄、白の布をつけた。
赤はすぐに治療が必要な者。黄は応急処置をして待てる者。白は自分で歩ける者。
第三塔の崩落事故で一度使った分け方を、誰も忘れていなかった。
「赤は門楼の下! 黄は西側の天幕! 白は水を受け取って、指示があるまで座って待ってください!」
ミレイユの声に合わせ、人の流れが分かれていく。
修司が技能を使わなくても、以前作った仕組みが動いていた。
城壁の上で、いっそう大きな喊声が上がる。
灰角狼の一頭が死骸を足場にし、壁上へ跳びついたのだ。前脚の爪が石の縁を捉え、巨大な頭が胸壁の間から現れた。
若い弓兵が後ずさる。
その前へクラウディアが出た。
赤銅色の髪を風になびかせ、抜いた長剣を狼の顎下へ突き上げる。灰角狼は牙を鳴らして身をよじったが、イゾルデの槍が横から首を貫いた。
「死骸を壁から落とせ!」
クラウディアが叫ぶ。
「積ませれば、次の群れの足場になります。倒した数を誇るのはあとです。今は壁へ上げるな!」
兵たちが鉤のついた棒で死骸を押し落とす。その間にも、弓兵は射撃を続けた。
だが、壁の下へ集まる狼は減らない。
百頭を超えた灰角狼の後ろから、さらに土煙が近づいてくる。日が傾き、地面を覆う獣の影が長く伸びていた。
低く重い鳴き声が響く。
「鎧猪だ!」
見張りの声に、北門の兵たちが身構えた。
灰角狼より一回り大きな獣が、土煙の中から姿を現す。背中から脇腹まで灰黒色の硬い皮に覆われ、突き出た二本の牙は槍の穂先ほど長い。
「正面、二十!」
「後ろにも続いています!」
鎧猪は速度を落とさず、北門へ向かってきた。
「油を落とせ!」
今度はイゾルデが命じた。
熱した油が門前へ流れ落ち、火矢が突き刺さる。炎が道を横切って燃え上がり、先頭の鎧猪が火に包まれた。
それでも、後ろの獣は止まらない。
燃える仲間を押しのけ、北門へ突っ込んでくる。
最初の一頭が扉へ激突した。
腹へ響くような轟音が鳴り、門を内側から支える横木が軋む。二頭目、三頭目が続けてぶつかり、兵たちが補強材を抱えて駆け寄った。
「西壁からも負傷者!」
「北門の矢が残り三籠!」
「東門へ、第三村の避難民が到着!」
報告が一度に重なった。
北門の指揮所に置かれた大判の地図へ、ミレイユが新しい印を書き込んでいく。だが、伝令が来るたびに状況が変わり、書き終える前に次の声が飛んでくる。
「タカセさん」
ミレイユが修司を見た。
「今なら、使えますか」
修司は自分の状態を確かめた。
頭痛はない。先ほどまでの疲れも、水分と休息を取ったことで軽くなっている。それでも、壁の上の兵すべてをつなごうとは考えなかった。
「各場所で、判断をしている人だけを教えてください」
「北門はイゾルデ様。壁上の全体指揮はクラウディア様。救護はエヴァ先生、補給はハインツさん、東門の避難受け入れはナディアさんです」
「その五人に絞ります」
修司は地図へ両手を置いた。
《生活動線把握――北壁全域》
《中核支援者――五名》
《役割共有――指揮/防衛/救護/補給/避難》
《連携支援――接続》
金色の光が、地図から五つの方向へ走った。
修司の目に見えるのは、一人ずつの兵の考えではない。北門で必要とされる補強材、壁上で減っていく矢、救護所へ下ろされる負傷者、東門へ近づく避難民。それぞれの場所で中核となる者が把握した情報が、一本の動線として重なっていく。
北門へ向かう補給の光と、救護所へ下がる負傷者の光が、階段の下で赤く点滅した。
「補強材を運ぶ人は、門楼の東側を通してください! 西側は担架の道として空けます!」
修司の声を受け、ミレイユが剣と杖の指示板を移した。
補給担当のハインツが、矢籠の印を見て送り先を変える。最も残りの少ない隊へ満杯の籠が上がり、半分残っていた隊への補給は後へ回された。
エヴァの救護所では、治療を終えた白の兵が自分で立ち上がった。すぐ壁へ戻ろうとした者を、エヴァが止める。
「あなたは右腕が上がっていません。弓隊ではなく、水と矢を運ぶ役へ回ってください」
「しかし、俺はまだ戦えます!」
「戦う方法は剣だけではありません。できることをしてください」
兵は悔しそうに唇を噛んだが、空の矢籠を左手で持ち上げた。
傷ついて役目を失ったのではない。
今の身体でできる役目へ移ったのだ。
その判断が《連携支援》を通じてハインツへ届く。彼は片腕でも運べる小さな水桶を渡し、西の階段へ向かわせた。
壁の上から、再び灰角狼の死骸が落ちる。
一頭が上がれば二人で押し戻し、空いた場所へすぐ次の兵が入る。矢が尽きる前に新しい籠が届き、負傷した者が下がった場所へ予備隊が入った。
誰か一人の力が増えたわけではない。
それでも、空白になる場所と、止まる時間が減るたび、北壁全体は一つの身体のように動き始めた。
「第一波、退きます!」
見張り台から声が上がった。
壁へ取りついていた灰角狼が、炎と矢を嫌って距離を取る。北門へ突撃していた鎧猪も、燃えた仲間の死骸に進路を塞がれ、左右へ散っていった。
兵たちから歓声が上がる。
「持ち場を離れないでください!」
クラウディアの声が、歓声を押さえた。
「まだ先頭を退けただけです。矢を補充し、負傷者を下ろしてください!」
その命令も、金色の光を通じて各所へ届く。
北門は耐えた。
第一村の住民も救い出した。第二村の最後尾と第三村の避難民は東門へ入り、受け入れ場所への移動を始めている。
修司は地図上の流れを確かめた。
赤く点滅していた場所が一つずつ金色へ戻っていく。接続を切れると思った、そのときだった。
北壁の東側から、石の砕ける音が響いた。
「第三塔より急報!」
工兵が階段を駆け下りてくる。額から血を流し、片腕には木片が刺さっていた。
「鎧猪の群れが、第三塔へ進路を変えました! 正面だけで五十、後続は確認できません!」
「仮設の防壁は?」
イゾルデが尋ねる。
「最初の衝突には耐えました。ですが、二度目で外側の石積みが崩れました。南倉庫から戻した切石で内側を支えていますが、次は――」
言葉を遮るように、二度目の轟音が鳴った。
北門の床まで、大きく揺れる。
修司の地図上で、第三塔を示す場所が赤黒く染まった。
《緊急警告》
《防衛動線――第三塔にて途絶》
《避難動線――東門へ接近中》
第三塔のすぐ南には、東門へ続く道がある。
「第四村と第五村は?」
修司が尋ねた。
ミレイユが到着板を確認し、顔色を変えた。
「まだです。二つの村を合わせて、二百十一名が東門へ向かっています」
第三塔が破られれば、魔獣は城内へ雪崩れ込み、東門から入る避難民と正面からぶつかる。
東門を閉じれば、二百十一名は城外へ残される。開けたままなら、第三塔から侵入した魔獣に門の内側を奪われかねない。
「クラウディア様!」
イゾルデが壁上を仰いだ。
「第三塔へ予備隊を回します!」
「私も行きます」
クラウディアは血のついた剣を払い、東側の階段へ向かった。
「北門はイゾルデに任せます。タカセ、救護と避難の流れを切らないでください!」
「分かりました!」
修司が答えた直後、三度目の衝突音が響いた。
今度の音は、先ほどまでとは違った。
石が割れる音に、太い木材が折れる音が重なる。第三塔の方角から灰色の土煙が立ち上り、城壁の上にいた兵たちが次々と内側へ退いた。
「防壁、破られました!」
夕暮れの中、崩れた第三塔の穴から、鎧猪の巨大な牙がベルグランの内側へ突き出した。




