第二十七話 最後の一人
「日が沈む前に、最初の村が呑まれます」
傷ついた騎兵の報告を受け、クラウディアは壁際の砂時計を見た。
白い砂は、すでに半分近く落ちている。
「先ほど出した命令を変更します。北部第一村の避難を最優先。ナディアの荷車は、準備ができたものから一台ずつ出してください」
「十二台がそろうまで待たなくていいのね」
「待てません。ロルフには、選べた馬からつなぐよう伝えてください」
ナディアが会議室を出ていく。
「イゾルデ。北壁へ向かわせた第一中隊から、騎兵二十名を避難路へ回せますか」
「回します。ただし、灰角狼が村へ達すれば、二十では住民を守りきれません」
「戦わせるためではありません。村人を急がせ、遅れた者を拾い、全員を連れ戻すためです」
「御意」
「タカセは北門へ。作った印が、現場で伝わるか確認してください」
修司はうなずいた。
自分が魔獣と戦えるとは思っていない。それでも、避難する者と迎える者の動きが北門で詰まれば、地図の上で分けた道は役に立たなくなる。
「現地から人数が届いたら、すぐ知らせてもらえますか」
「ミレイユをつけます。私はここで全体の報告を受けます」
クラウディアは大判の地図へ向き直った。
「父上が守ってきた北境を、今日からは私が守る。行ってください」
北門の前は、すでに人と荷車で埋まり始めていた。
赤い布を結んだ軍需用の荷車が、列を作って北へ向かう。その脇では、青い布と家の印をつけた小型の荷車が空のまま村へ急いでいた。白い布には杖の印が描かれ、歩くことが難しい者を優先して乗せると決められている。
門柱と道の分岐には、ミレイユたちが作った大きな指示板が掲げられていた。
「剣の荷車は左! 家の荷車は右だ!」
「白い杖の印は止めるな。村へ先に通せ!」
文字を読めない御者も、遠くから印を見て進む道を選んでいる。
まだ完全ではない。赤い布をつけ忘れた荷車が止められ、門の内側へ引き返そうとする馬が後ろの列を塞いだ。だが、どこで何が起きているかは見えた。見えさえすれば、直す者を向かわせられる。
修司は門の脇に置いた板へ、到着した荷車と出発した荷車の数を書き分けた。
介護の夜勤でも、誰をどこへ案内したか、誰がまだ居室にいるかを頭の中だけで覚えようとすれば、必ず抜けが出る。とくに急変や転倒が重なった夜ほど、短くても記録を残し、次に確認する場所を見えるようにしておく必要があった。
今、確かめなければならないのは、荷車の数ではない。
その荷車へ乗る、一人ずつの人間だった。
「第一村の人数が届きました!」
騎兵が北門へ駆け込み、折り畳んだ紙をミレイユへ渡した。
「住民百八十六名。自力で歩ける者が百三十九名、手助けがあれば歩ける者が三十六名、荷車が必要な者が十一名です」
「子どもは、自力で歩ける方へ入っているんですか」
修司が尋ねた。
「六歳以上の子ども十三名は、歩ける者として数えたそうです。それより幼い子は、家族が抱ける場合は手助けが必要な者へ、そうでなければ荷車が必要な者へ入っています」
「長い距離です。歩けても、最後まで歩き続けられるとは限りません」
修司は三つに分けられた人数の下へ、歩ける子ども十三名と書き加えた。
「途中で疲れた子や高齢者を乗せ替えられるよう、帰りの荷車には少し空きを残してください。荷物で埋めないよう、村へ伝えてもらえますか」
「分かりました」
伝令が再び馬へ向かう。
間もなく、最初の避難民が北街道の向こうに姿を現した。
先頭を歩くのは騎兵で、その後ろに徒歩の村人たちが続いている。荷車には子どもや老人が乗り、家財ではなく、水の入った樽と毛布が積まれていた。
遠くから灰色の翼獣が近づくたび、護衛の兵が弓を放つ。矢に追われた翼獣は上空へ逃れ、また街道の列を狙って旋回した。
魔獣は、もう見える場所まで来ていた。
「家の印は東門へ! 歩ける者は青い縄に沿って進んでください!」
北門をくぐった避難民を、ミレイユたちが広場へ誘導する。歩き疲れた者をその場へ座り込ませず、水を受け取る場所と休む場所へ分けた。白い杖の印がついた荷車は、エヴァの待つ救護院へ向かう。
修司が《生活動線把握》を使うと、地図と道の上に淡い光が重なった。
《生活動線把握――北門周辺》
《入力情報――第一村住民百八十六名》
《到着確認――百二十一名》
《移動中――確認継続》
技能に一人ずつの名前は出ない。誰がどこにいるかも教えてくれない。
それでも、到着した人数と、次に来る荷車の位置を同じ流れとして追うことはできた。
修司は対象を北門と第一村の避難民だけに絞った。光の線は安定し、頭痛もまだ起きていない。
二台目、三台目の荷車が到着する。
百四十四名。
百六十二名。
徒歩の最後尾が門をくぐり、白い杖の印をつけた荷車が続いた。
「荷車が三台来ます!」
見張り台から声が飛ぶ。
先頭の荷車では、若い巡回治癒師が老人の手を握っていた。二台目には幼い子を抱いた母親たち。最後の一台は、御者台にロルフが座っている。
彼は門へ入る直前まで速度を落とさず、内側へ入ってから手綱を引いた。馬は大きく息を吐いたが、暴れることなく止まった。
「これで最後です!」
ロルフが叫ぶ。
修司は板へ到着人数を書き加えた。
百八十五名。
手が止まった。
「一人足りません」
ミレイユが名簿を数え直す。
「そんなはずは……村長は、全員が広場へ集まったと」
「荷車から降ろした人を、二人で数えていませんか」
「降りる前と、降りたあとで印を分けています。重複はありません」
「途中で別の門へ向かった人は?」
青い布をつけた各班の報告を集める。東門へ直接回った者はいない。北壁の兵に加わった者も、最初の百八十六名には含まれていなかった。
《到着確認――百八十五名》
《未確認――一名》
金色だった流れの一部が、北街道の先で途切れている。
その先に誰がいるのか、技能は示さなかった。
「第一村から来た薬師はいますか」
修司が尋ねると、白い杖の荷車に付き添っていた中年の女性が手を上げた。
「私です」
「村長が広場へ集めたとき、家を一軒ずつ確認しましたか」
「巡回治癒師と手分けしました。ただ、北端のバルド爺さんは、迎えの兵が連れてくると言ったので……」
「その兵は戻っていますか」
周囲を確かめたが、名乗り出る者はいなかった。
イゾルデが、最後尾を守ってきた騎兵を呼ぶ。
「北端の家へ向かった者は誰だ」
「若い騎兵が一人向かいました。しかし、灰角狼の先駆けが見えたため、村長が全員出発したと判断し、我々も村を離れました」
「その騎兵は」
「戻っていません」
足りないのは一人ではなかった。
迎えに向かった騎兵まで、消息が分からない。
「バルドさんは、歩ける方ですか」
「杖があれば家の中は歩けます。でも、春に腰を痛めてから、長い距離は無理です。耳も遠くて、後ろから呼んでも聞こえないことがあります」
薬師は青ざめた顔で答えた。
「一人暮らしなんです。息子夫婦は、二年前に灰冠砦で……」
修司は北街道を見た。
空の色は、すでに西から赤く変わり始めている。遠くの地平には、獣の群れが巻き上げる灰色の土煙が見えた。
「救出隊を出す」
イゾルデが即座に言った。
「私が騎兵三名を連れていく。小型の荷車を一台」
「俺も行きます」
修司が言うと、彼女の鋭い目が向いた。
「戦えない者を、魔獣の前へ連れてはいけません」
「バルドさんが自分で荷車へ移れない場合、力任せに持ち上げれば、かえって動けなくなるかもしれません」
「だからといって――」
「治癒師も一人お願いします。怪我をしているかどうかは、俺には判断できません。治癒師が動かしてよいと判断したあとなら、俺は安全に移る方法を考えられます」
イゾルデは、修司と街道の土煙を交互に見た。
「私の命令には、必ず従ってください。退けと言えば、バルド殿を残してでも退いてもらいます」
胸の奥が重くなる条件だった。
それでも、何の約束もせず同行すれば、救う側まで全滅しかねない。
「分かりました」
「ロルフ、馬はまだ走れるか」
「この馬なら。ただし、帰りに二人増えれば速度は落ちます」
「構わん。行くぞ」
小型の荷車が、北街道を逆向きに走った。
修司と若い巡回治癒師は荷台に乗り、イゾルデたち騎兵四名が前後を固める。すれ違う軍需用の荷車には赤い布と剣の印がついていた。正午を過ぎ、北街道を南向きへ切り替えたあとだったため、道を塞ぐ車列はない。
昼に決めた流れが、今も働いている。
やがて第一村の屋根が見えてきた。
人のいなくなった村は、不自然なほど静かだった。開け放たれた家の戸が風に揺れ、つながれたまま残された鶏が鳴いている。
北端の家から、馬のいななきが聞こえた。
駆けつけると、若い騎兵が庭先に倒れていた。そのそばには翼を射抜かれた獣が転がり、騎兵の馬は腹に爪傷を負いながらも逃げずに立っている。
「生きています!」
巡回治癒師が騎兵へ走った。
修司も続こうとしたが、家の中から鈍い音がした。
「誰か、いますか!」
返事はない。
戸は内側から閉まっていた。修司が何度叩いても反応がない。
「バルドさん! 迎えに来ました!」
薬師から、耳が遠いと聞いている。声が届いていないだけかもしれない。
イゾルデが扉へ肩を当て、錠ごと押し破った。
薄暗い室内の床に、白髪の老人が倒れていた。片手は寝台の脚を掴み、もう一方の手には古い外套が握られている。
「聞こえますか」
修司は老人の視界へ入る位置から声をかけた。
閉じていた目が、わずかに開く。
「……誰だ」
「タカセです。ベルグランへ避難します。どこが痛みますか」
「腰だ。立とうとして、脚が抜けた」
「頭は打ちましたか」
「覚えておらん」
修司は勝手に身体を起こさなかった。
「治癒師を呼びます。それまで、そのままでいてください」
庭では、若い騎兵の治療が始まっていた。肩の傷は深いが、命に関わる出血ではないという。
「こちらの方も診てもらえますか。転倒して、頭を打ったか分かりません」
巡回治癒師は騎兵の止血をほかの兵へ引き継ぎ、家へ入った。銀杖より細い木杖をバルドの頭、胸、腰へ順にかざす。
「骨折はありません。頭の中にも出血は見えませんが、腰を強く打っています。立って歩かせてはいけません」
「荷車へ移しても大丈夫ですか」
「身体をねじらず、できるだけ横になったままなら」
治癒術師の判断を受け、修司は室内を見回した。
担架はない。毛布だけで持ち上げれば、中央が沈み、老人の身体が大きく曲がってしまう。
「戸板を外せますか」
イゾルデが兵へ命じ、破った扉から厚い板を一枚外させた。修司はその上へ毛布を重ね、簡易の担架を作った。
「バルドさん、今から身体を横へ向けます。ご自分で動かせるのは、どちらの脚ですか」
「右なら、少しは」
「では、右の踵で床を押してください。俺たちは足りない分を手伝います」
こんな状況でも、本人の力を奪わない。
それは時間をかけることとは違った。誰かが思いきり引き上げ、痛みでやり直すより、動ける方向を一度そろえた方が速い。
《生活動作把握――床上移動》
《本人動作――右下肢》
《不足支援――体幹/左下肢》
修司、イゾルデ、二人の兵が位置につく。治癒師は腰がねじれないかを見守った。
「せえの、では動かしません。バルドさんが踵で押したときに合わせます」
老人の右脚へ力が入った。
修司たちは、その動きへ自分たちの力を重ねた。身体を横へ向け、戸板を差し込み、もう一度ゆっくり仰向けへ戻す。
《連携支援――仮接続》
《支援負荷――安定》
戸板の上へ移った老人を、四人で持ち上げる。
「この外套も、持っていってくれ」
バルドが手にしていた古い外套を離さなかった。
「息子のものだ。これだけは置いていけん」
「一緒に持っていきます」
修司は外套を老人の胸へ掛けた。
騎兵も治療を終え、仲間に支えられながら立ち上がった。自分の馬では戻れないため、荷台の端へ乗せる。
傷ついた馬は、騎兵の一人が手綱を引いた。走らせることはできないが、自分の脚で戻る力は残っていた。
全員が荷車へ移ったとき、村の北側から獣の遠吠えが聞こえた。
一つではない。
幾重にも重なった声が、地面を震わせながら近づいてくる。
「出せ!」
イゾルデが叫んだ。
ロルフが手綱を打ち、荷車が走り出す。騎兵たちは剣を抜き、その後ろを固めた。
村を出る直前、修司は振り返った。
家々の向こうを、灰色の影が横切る。
最初の一頭が、道へ飛び出した。
大きさは、元の世界の狼の倍近い。額から後ろへ伸びる灰色の角が、沈みかけた日の光を受けていた。
「灰角狼だ!」
後衛の騎兵が馬上から矢を放つ。
矢は狼の肩へ刺さったが、倒れない。速度を落としただけで、牙を剥きながら荷車を追ってくる。
二頭、三頭と、村の間から姿を現す。
荷車には、負傷した騎兵と、横になった老人がいる。速度を上げすぎれば、板ばねもない荷台の揺れで二人の状態を悪くする。遅ければ、追いつかれる。
「ロルフさん、荷台を壊さずに出せる速さで!」
「やっています!」
ロルフは振り返らずに答えた。
道の窪みを避け、馬が走り続けられるぎりぎりの速さを保っている。戦場へ向かえなくても、彼にしか任せられない役目があった。
修司は荷台の縁を握り、周囲へ意識を広げた。
《共同目標――全員で北門へ帰還》
《支援者間接続――七名》
《保護対象――二名》
《連携支援――接続》
ロルフが見る路面の凹凸。騎兵たちが警戒する左右の茂み。治癒師が見ている二人の呼吸。ばらばらだった注意が、金色の線で結ばれる。
「右の林!」
修司が叫ぶより早く、右側の騎兵が馬を寄せた。
飛びかかってきた灰角狼を盾で弾き、別の騎兵が槍で貫く。
左から迫った一頭には矢が刺さり、荷車のすぐ後ろで転がった。
修司が戦っているわけではない。騎兵の剣が鋭くなったわけでもない。
それでも、一人が見つけた危険を全員が同じ瞬間に知れば、守りの薄い場所を作らずに済む。
七人の接続は、以前なら限界に近い数だった。今は頭の奥へ鈍い痛みがあるだけで、光は途切れない。
だが、後方から聞こえる遠吠えは、さらに増えていた。
十頭を超える灰角狼が、荷車を追ってくる。その背後では、村の家々が土煙に隠れ始めていた。
「北門が見えた!」
先頭の騎兵が叫ぶ。
城壁の上から援護の矢が飛び、追ってきた狼の前へ突き刺さる。門前の兵が青い縄を外し、荷車一台分の道を開けた。
ロルフの馬が最後の力で駆け込む。
荷車が門を越えると、重い扉が閉まり始めた。最後尾の騎兵が滑り込んだ直後、灰角狼の牙が扉の隙間で噛み合う。
兵たちが綱を引き、扉を完全に閉ざした。
外側から、獣の身体がぶつかる音が響く。
「バルドさん!」
第一村の薬師が、荷車へ駆け寄った。
老人は胸の上の外套を握ったまま、かすかに片手を上げた。治癒師がすぐに状態を確かめ、騎兵は担架で救護院へ運ばれていく。
修司は到着板の前へ向かった。
震える手で、百八十五の数字へ一本の線を足す。
《到着確認――百八十六名》
《未確認――なし》
《共同目標――達成》
第一村の住民は、一人も置き去りにならなかった。
修司が接続を切ると、足元が大きく揺れた。倒れかけた身体を、隣にいたミレイユが支える。
「タカセさんまで数に入れてください。帰ってきたのは、百八十六人だけではありません」
「そうですね」
修司は荒い息を整え、閉ざされた北門を見た。
助けられたのは、最初の村だけだ。
残る四つの村からは、今も避難する人々がベルグランへ向かっている。北壁では、崩れた第三塔を塞ぐ作業が続いていた。
そして門の外では、灰角狼の爪が木を削る音が増え続けている。
「見張り台より報告!」
城壁の上から、兵士の声が降ってきた。
「灰角狼、百を超えます! 後方に鎧猪の群れを確認!」
地面の震えが、閉じた門を通して修司の足裏へ伝わった。
避難は、まだ終わっていない。
だが、《灰冠の群れ》の先頭は、すでにベルグランの北門へ到達していた。




