第二十四話 死んだ息子の名前
火災の翌朝、救護院には、南倉庫から助け出された三人が運ばれていた。
二人は自分で水を飲めるまでに回復し、最後に救出された人足も夜明け前に意識を取り戻したという。煙を吸った影響については、エヴァたち治癒術師が交代で状態を確かめている。
修司が大部屋へ入ると、寝台の男が片手を上げた。
「あんたが、外で皆を動かしてくれたんだってな」
「俺だけではありません。中へ入った人も、水を運んだ人も、受け入れてくれた人もいました」
「それでも、俺たち三人を数えてくれた」
男は、少し掠れた声で続けた。
「あのまま、誰が中にいるのか分からないままだったら、俺は置いていかれていたかもしれない」
修司は返す言葉を探した。
夜勤でも、入居者の確認は何より先に行った。部屋の外へ避難した人、病院へ運ばれた人、まだ居室にいる人。名前と居場所が結びつかなければ、助けを待つ人が見えなくなる。
「誰か分からない三人ではなく、名前のある三人でしたから」
そう答えると、男は目元を拭い、もう一度礼を言った。
南倉庫から回収された物の確認も始まっていた。
焼け残った切石には、北の採石場と第三塔用を示す印が刻まれている。別棟からは、村へ送られるはずだった穀物や毛布も見つかった。煤や水を被った品はそのまま配らず、食べられるもの、洗えば使えるもの、廃棄すべきものに分けている。
マルクスと財務局の書記、放火を認めた人足は、それぞれ別の場所で拘束されていた。イゾルデは残った記録と証言を照らし合わせ、ほかに関わった者がいないか調べている。
マルクスが担っていた仕事は、一人の後任へそのまま渡さなかった。
クラウディアは食糧、軍需、工事の支払いを分け、それぞれを複数の書記に確認させた。急ぎの物資については、ナディアが自分の商隊から必要な分を貸し出している。
「利子は取るわよ。返してもらえない善意は、長続きしないもの」
ナディアはそう言いながら、村へ送る薬草を最優先で荷から下ろしていた。
失ったものは多い。それでも、マルクス一人がいなければ領地が止まるという言葉は、現実にはならなかった。
昼過ぎ、館へ戻った修司は、クラウディアとともにベルンハルトの部屋を訪れた。
老将は、いつもの窓辺ではなく寝台の上にいた。背を起こしてはいるものの、膝に置いた報告書へ目を落としたまま、二人が入っても顔を上げない。
「倉庫から救出した三人は、全員命に別状ありません」
クラウディアが報告した。
「そうか」
「切石は、少なくとも三十個が確認されました。石工によれば、すべて第三塔へ使える質だそうです。救援物資も、別棟にあったものは一部回収できました」
「そうか」
返事は同じだった。
クラウディアが言葉を継ごうとすると、ベルンハルトは報告書を伏せた。
「今日は、椅子へ移るのをやめる」
「具合が悪いのですか」
「疲れただけだ」
修司は老将の顔を見た。熱や強い痛みがある様子ではない。だが、視線は二人を避け、毛布の上に置いた右手が、同じ場所を何度も擦っていた。
「エヴァさんには?」
「もう診てもらった。身体に悪いところはないそうだ」
身体に、という言葉が残った。
修司は伏せられた報告書へ目を向けた。表題には、回収された救援物資の内訳が書かれている。
その中に、一つだけ異なる記載があった。
灰冠砦戦没者遺族支援分。
毛布、乾燥肉、薬草。家族を失った者へ届けるはずだった品々の一部が、南倉庫へ回されていた。
「この報告を読んでからですか」
修司が尋ねると、ベルンハルトの手が止まった。
「何がだ」
「椅子へ移るのを、やめたくなったのは」
老将は答えなかった。
クラウディアの表情がわずかに変わった。彼女も、同じ記載へ気づいたのだろう。
「今日は休んでもいいと思います」
修司は言った。
「ただ、身体が疲れたから休むのか、別の理由で動きたくなくなったのか。それは分けて考えたいです」
「分けて、どうする」
「身体の疲れなら、休めば次の予定を立てられます。ほかの理由なら、俺一人では支えられません」
ベルンハルトの目が、初めて修司へ向いた。
「家族にも話せないことを、お前になら話せというのか」
「俺に話す必要はありません」
修司は首を振った。
「でも、ご家族と同じ部屋にいることなら、お手伝いできます」
長い沈黙のあと、ベルンハルトは目を閉じた。
「……好きにしろ」
許可とも拒絶ともつかない言葉だった。修司はクラウディアを見た。彼女はしばらく父を見つめ、それから部屋を出ていった。
夕刻、アマーリエが同じ部屋へ来た。
ベルンハルトは寝台の上。アマーリエとクラウディアは椅子に座り、修司は少し離れたところにいた。エヴァには、体調に変化があれば呼ぶと伝えてある。
誰も話そうとしなかった。
窓の外で、夕食の時刻を知らせる鐘が鳴った。アマーリエの肩が、その音に小さく揺れた。
「無理に話さなくてもいいんです」
修司は言った。
「ただ、ここを出るか、もう少し一緒にいるか。それだけは、皆さんで決めてください」
「何を話せばいいのですか」
アマーリエが尋ねた。
修司は、戦没者遺族の報告書を見た。
「アルベルトさんは、どんな人だったんですか」
部屋の空気が止まった。
ベルンハルトの顔が強張り、クラウディアは膝の上で両手を握った。
二年間、この家では、その名がほとんど口にされなかったのだと修司は悟った。
最初に声を出したのは、アマーリエだった。
「よく、パンの端を盗みました」
「……兄上が?」
クラウディアが顔を上げた。
「焼き上がったばかりのところを、料理人に見つからないようにね。小さい頃だけではありません。騎士になってからも、訓練帰りに厨房へ入っていました」
アマーリエの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「見つかると、必ずあなたの分も頼まれたと言い訳したものです」
「そんなことを言っていたのですか。私には、母上が残したから食べろと」
「どちらも嘘ね」
クラウディアが、息を漏らすように笑った。
「地図を読むのも、あまり得意ではありませんでした。三つ年上なのに、遠征で道を間違えると、私の地図が悪いと言って」
「それは、お前の書き方が悪かった」
ベルンハルトが言った。
二人の女性が、同時に老将を見た。
ベルンハルトは窓の方を向いたまま、続けた。
「アルベルトは、地図を逆さに持っていた。それでも間違いを認めず、斥候の報告が悪いと言い張った。部下に笑われて、ようやく自分も笑った」
アマーリエの目に涙が浮かんだ。
死んだ次期辺境伯でも、灰冠砦の英雄でもない。パンの端を盗み、地図を逆さに持った一人の男が、少しずつ部屋へ戻ってきた。
「あの子の名前を、ここで聞いたのは久しぶりです」
アマーリエが言った。
「あなたの前で口にすれば、また傷つけると思っていました」
「俺は、傷つきたくなかった」
ベルンハルトの声が掠れた。
「あいつの名を聞けば、最後の命令を思い出す」
灰冠砦が敵勢に破られかけたとき、ベルンハルトは重傷を負っていた。負傷者と民を逃がすためには、砦の北門を守る者が必要だった。
そこへ残れと命じたのは、父だった。
「アルベルトは、承知したと答えた。俺を馬車へ乗せ、自分の外套まで掛けてから、門へ戻っていった」
ベルンハルトの手が、毛布を掴んだ。
「俺は生きて帰り、あいつは帰らなかった。傷を治され、目を覚ますたびに思った。息子を残して逃げた俺が、なぜここにいるのかと」
「あなたは逃げたのではありません」
アマーリエが言った。
「運ばれたのです。あの子は、あなたと負傷者を生かすために」
「同じことだ。命じたのは俺だ」
「では、私も同じです」
アマーリエの涙が頬を伝った。
「出陣の前の晩、私はあの子に言いました。お父様をお願いね、と。あの子は笑って、必ず連れて帰ると答えた。あなたが戻ってきたとき、あの子は約束を守ったのだと思いました」
彼女は膝の上で手を重ねた。
「そう思った自分が、許せなかった。息子が死んだのに、夫が生きていてよかったと、私は確かに思ったのです」
ベルンハルトが妻を見た。
二年間、同じ部屋で暮らしながら、互いに知らなかった痛みだった。
「私にも、話させてください」
クラウディアが言った。
「私は、兄上と同じ部隊に残ると言いました。でも兄上は、東側の避難路を守れと命じた。グランフェルの子を、二人とも同じ場所で死なせるわけにはいかないと」
握った手が震えていた。
「兄上が死んだあと、私は自分が残ればよかったと思いました。父上が寝台から動かなくなり、領主代行を任されてからは、何を決めても、兄上ならもっと上手くできたと考えた」
「クラウディア」
「それだけではありません」
彼女は父を見た。
「一人で領地を背負っているうちに、父上を恨みました。兄上を死なせて、自分は寝たまま、なぜ私にすべてを任せるのかと」
ベルンハルトが息を呑んだ。
「そう思ったあとで、傷ついた父を恨む自分が嫌になった。だから、何も言えませんでした」
誰も、誰かを責めなかった。
代わりに、二年間言えなかった言葉が、一つずつ部屋へ置かれていった。
修司は黙って聞いていた。
正しい答えを出せる話ではない。父が別の命令をしていれば、母が別の言葉を掛けていれば、妹が別の場所へ残っていれば。その先に何が起きたかは、誰にも分からない。
ただ、三人とも、自分一人だけがアルベルトを死なせたように思い込み、その罪を互いに見せないように抱えていた。
「アルベルトさんのことを忘れる必要は、ないと思います」
修司は、ゆっくり言った。
「でも、忘れないことと、皆さんが生きるのをやめることは、同じではありません」
ベルンハルトは何も答えなかった。
「今日、倉庫から助けられた人たちには、家族がいました。灰冠砦で亡くなった方の家族も、届けられなかった支援物資を待っていた。生き残った人が、次の人を支えることまで、申し訳ないと思わなくていいはずです」
「それは、お前のいた世界の教えか」
「いいえ」
修司は首を振った。
「いろいろな人の暮らしを手伝ってきて、俺がそう思うようになっただけです」
長い沈黙が落ちた。
外は暗くなり、侍女が灯した明かりが、四人の間を照らしている。
やがてベルンハルトは、寝台の端へ手を置いた。
「俺が眠っている間に、息子とともに戦った者たちの家族へ届ける物まで盗まれた」
「父上だけの責任ではありません」
「分かっている。今なら、そう言える」
老将はクラウディアを見た。
「お前に、息子の代わりをさせていた。俺が死んだ者ばかりを見て、生きている娘を見ようとしなかったからだ」
クラウディアの目から、涙がこぼれた。
「すまなかった」
彼女はすぐには答えられなかった。やがて椅子を寝台のそばへ寄せ、父の手へ自分の手を重ねた。
「私も、父上に話していませんでした」
アマーリエも反対側から、夫の肩へ手を置いた。
三人の間から、失われた二年が消えるわけではない。それでも、同じ痛みを別々に抱える時間は、そこで終わろうとしていた。
「タカセ」
ベルンハルトが呼んだ。
「はい」
「もう一度だけ、兵たちの前に立ちたい」
修司は、その言葉をすぐには引き受けなかった。
「なぜですか」
「マルクスを捕らえたことを、俺の口から伝える。クラウディアが正式に領地を預かり、北壁を立て直すこともだ」
老将の目が、もう窓の外を避けてはいなかった。
「灰冠砦で死んだ者と、その家族へ届かなかった物資のことも、隠さず話す。アルベルトの名も」
修司はうなずいた。
「俺一人では決められません。エヴァさんに身体を診てもらい、ご家族と侍女の皆さんにも手伝ってもらいます」
「分かっている」
「それから、一度だけとは言わないでください」
ベルンハルトが眉を上げた。
「明日立ったあとも、また椅子へ戻って、食事をして、次に立つために休んでもらいます」
「欲の深い男だな」
「生活を支える仕事ですから」
老将の口元が、わずかに緩んだ。
「ならば、次も立てるように立たせろ」
修司は、今度こそうなずいた。
二年間、閉ざされていた部屋の中で、死んだ息子の名前が、ようやく家族の声で呼ばれた。
そしてベルンハルトは、死んだ場所へ戻るためではなく、生きている者たちの前へ進むために、もう一度立つことを望んだ。




