第二十三話 燃える倉庫
南倉庫へ向かう馬車の中でも、火事を知らせる鐘は鳴り続けていた。
クラウディアと修司、ナディアを乗せた馬車の前を、イゾルデ率いる騎馬兵が走っている。後ろにはミレイユの馬車と、マルクスと部下を別々に監視する二台が続いていた。
本来なら、二人はそのまま館へ送られるはずだった。だが、マルクスは倉庫の配置と保管物を最もよく知る立場だと主張した。救助に必要な情報を得るため、クラウディアは兵士を増やしたうえで同行を認めていた。
「あの倉庫には、何が置かれていますか」
修司が尋ねると、クラウディアは窓の外から目を離さずに答えた。
「救援物資の残りと、工事用の資材です。古い帳面を保管する部屋もあります」
「燃えやすいものは?」
「紙、布、乾燥させた薬草。荷車に使う油も、別棟にあるはずです」
ナディアが眉を寄せた。
「私が納めた染料の中にも、火に弱いものがあるわ。油と一緒に燃えれば、井戸水を掛けるだけでは追いつかない」
道の先で、黒煙が屋根を覆っていた。
南倉庫は石壁に囲まれた大きな建物だったが、屋根と二階部分は木で組まれている。東側の窓から炎が噴き出し、離れた西側の搬入口からも煙が上がっていた。
火元が、一つではない。
「放火です」
クラウディアが低く言った。
馬車が止まるより先に、修司は周囲を見た。
井戸から倉庫へ、水桶を持った人々が駆けている。しかし、同じ場所へ何人も集まり、空の桶を持って戻る者とぶつかっていた。兵士は正面扉を破ろうとし、倉庫の者たちは、それぞれ別の名前を叫んでいる。
誰が中にいるのか。どこから入るのか。救い出した人をどこへ運ぶのか。
全員が動いているのに、全体を知る者がいなかった。
修司の身体が、夜勤中に急変を知らせる声を聞いたときのように切り替わった。
「中にいる人数を確認します!」
馬車を降り、倉庫の人々へ声を掛けた。
「ここで働いていた人を知っている方は、集まってください。出てきた人と、まだ中にいる人を分けます!」
最初は誰も修司を見なかった。
「全員、タカセの指示を聞け!」
イゾルデの声が広場を貫いた。
倉庫番と人足たちが振り向く。修司は開いていた木箱の蓋を立て、ミレイユが持ってきた白墨を借りた。
「今日、中で働いていたのは何人ですか」
「八人です!」
「ここにいる人は?」
名前を一人ずつ呼んでもらい、返事をした者へ印をつける。外へ出ていた者も含め、確認できたのは五人だった。
「残りは三人です。最後に見た場所を、一人ずつ教えてください」
若い書記が二階の記録室。人足二人が西側の搬入口で、救援用の布を積み替えていた。
修司は白墨で倉庫の形を描いた。正面扉、東の窓、西の搬入口、二階へ上がる階段。倉庫番に確認しながら、煙の少ない入口と、炎が回っている場所を加えていく。
「二階の書記は、東の窓へ出られますか」
「記録室の窓なら開きます。ですが、外階段はありません」
「梯子を。西側の二人は、搬入口から入った方が近いですね」
「そこにも火が回り始めています」
イゾルデが言った。
「正面から入れば遠回りになります。中で道を失えば、戻れません」
修司は地面の傾きと煙の流れを見た。倉庫の西には、荷馬車を洗うための水桶と、厚い帆布が積んである。
「ナディアさん。井戸から西側まで、水を運ぶ人たちをまとめてもらえますか。桶を渡す列と、空の桶を戻す列を分けたいんです」
「いいわ。うちの御者も使います」
「クラウディアさんは、救い出した人の受け入れをお願いします。治癒術師と担架を、煙の来ない場所へ」
「分かりました」
「イゾルデさんは救出を。西の二人を捜し、東の窓へ向かう兵と時間を合わせてください」
「任せてください」
返事を聞いた瞬間、修司の視界に金色の光が走った。
《共同目標――倉庫内に残された三名の救出》
《支援者間接続――三名》
《役割共有――救出/消火/受け入れ》
《連携支援――接続》
修司から伸びた三本の光が、イゾルデ、ナディア、クラウディアへつながった。
その先で、さらに人が動き始める。
ナディアは自分の隊の御者を列の要所へ置き、井戸から来る桶と戻る桶を分けた。クラウディアは治癒術師と担架を広場の風上へ移し、救出された者を受け入れる場所を作る。イゾルデは濡らした布を兵士へ渡し、西側へ入る二人と、東の窓へ梯子を掛ける二人を選んだ。
修司は全員へ細かな命令を出してはいない。
それでも、三人の責任者が何を守り、次に何を必要としているかが、金色の光を通して一つの流れになっていた。
「水が来る!」
西側の兵士が叫ぶより早く、ナディアの列から桶が渡った。帆布へ水が掛けられ、入口を覆う煙が一瞬だけ薄くなる。
「今です!」
修司の声と同時に、イゾルデたちが中へ入った。
東側では梯子が窓へ届いた。二階の窓を叩くが、返事がない。
「書記の名前は?」
「ヨハンです!」
「呼び続けてください。中へ戻らず、窓へ来るように!」
倉庫番と兵士が声を合わせた。
「ヨハン! 東の窓だ! 窓まで来い!」
炎が屋根の内側を走り、乾いた木材が弾ける音がした。
そのとき、黒煙の向こうで窓が開いた。
若い男の手が窓枠を掴んだ。顔は煤で汚れ、立っていることもできず、その場へ崩れそうになる。
「梯子へ移すな! 上で身体を支えてください。下からもう一人上がります!」
修司の言葉を、クラウディアが受け取った。
「担架を梯子の下へ! 治癒術師は呼吸を確かめる準備を!」
兵士が窓際の書記を支え、下から上がった別の兵士が足を梯子へ導く。焦って引き下ろそうとしていた手が止まり、一段ずつ確かめながら降り始めた。
《役割重複――減少》
《搬送経路――安定》
金色の光が梯子の上から担架までつながった。
ヨハンが地面へ降ろされると、待っていた者たちがすぐに風上へ運んだ。治癒術師が状態を確認し、クラウディアが木箱の印を一つ消す。
「残り二人!」
西側の搬入口から、兵士が一人戻ってきた。
「一人は見つけました! 脚を痛めています。もう一人が、倒れた棚の下に!」
「道は残っていますか」
「今なら!」
水を含んだ帆布の下から、人足の一人が肩を借りて出てきた。片脚を引きずっているが、意識はある。
受け取ろうとした二人が、同時に負傷者の腕を引いた。
男の身体に走る金色の線が、肩のところで歪んだ。
《生活動作把握》
「腕を引かないでください。こちらの人は腰を、もう一人は傷めていない脚側を支えて!」
修司は自分も近づき、負傷者が足をつく瞬間だけ体幹を支えた。三人の力が同じ方向へ揃い、男の身体が無理なく担架へ下りる。
「もう一人、中です!」
イゾルデは戻らなかった。
西の入口で炎が膨らみ、梁の一部が落ちた。濡れた帆布を支えていた兵士が後ずさる。
修司のこめかみに鋭い痛みが走った。
金色の線の一本が、大きく揺れている。
イゾルデの班が、救出と退路の確保を同時に担おうとしていた。棚の下にいる一人を助けるため、戻るための人数が足りなくなっている。
《役割競合――発生》
《退避支援――不足》
修司は木箱に描いた図を見た。
「正面の班から二人、西へ回ってください! 中へ入らず、入口の梁と帆布を支える。救出班の帰る道だけを作ってください!」
兵士たちが走った。
「水の列は西側へ集中!」
ナディアが叫ぶと、桶の流れが一斉に向きを変えた。クラウディアは担架を西の入口近くへ移すが、煙の中までは入れない位置で止める。
三つの班が、別々の仕事をしたまま、一人を外へ出すための形へ変わった。
《退避支援――充足》
《連携経路――再構成》
「イゾルデさん!」
修司が呼んだ。
煙の中から、返事が聞こえた。
「今、出ます!」
兵士二人が先に姿を現した。持ち上げた戸板の上に、意識を失った男が横たわっている。最後にイゾルデが続き、落ちてくる火の粉を外套で払いながら搬入口を抜けた。
戸板が担架の横へ下ろされた。
治癒術師が男の口元と胸へ手を当てる。短い沈黙のあと、咳き込む音がした。
「息があります!」
周囲から声が上がった。
修司は木箱に書いた最後の印を消した。
「三人とも、外へ出ました」
言葉にした途端、膝から力が抜けそうになった。だが、以前のように視界が暗くなることはない。こめかみには痛みが残っているものの、修司は自分の意思で接続をほどくことができた。
《共同目標――達成》
《連携支援――終了》
《技能熟練度――上昇》
《複数班への接続安定性が向上しました》
金色の光が消えた。
「タカセさん」
クラウディアが腕を取ろうとして、包帯へ触れる直前で手を止めた。
「座れますか」
「大丈夫です。少し休めば」
「その少しを、今にしてください」
近くへ運ばれた椅子に、修司は素直に座った。
倉庫はまだ燃えていた。だが、人が中に残っている可能性はなくなり、消火に回せる人数は増えている。
「記録室が燃えます!」
誰かが叫んだ。
二階の窓から、火のついた紙が舞い上がった。帳面の頁らしきものが黒く縮れ、風に乗って広場へ落ちてくる。
「証拠がなくなりますよ」
兵士に囲まれたマルクスが言った。
その声には、焦りよりも、こちらを試すような響きがあった。
「今から人を入れれば、まだ運び出せるものもあるでしょう」
修司は燃える二階を見た。
「人の安全が確認できるまで、帳面のために中へ戻すことはできません」
「貴重な証拠を失っても?」
「残った記録と証言をつないで、調べを続けることはできます」
修司は、担架の上で呼吸を取り戻した男へ目を向けた。
「人の命は、作り直せません」
マルクスの口元が歪んだ。
「きれいごとです。その甘さで、領地を守れるとでも」
「少なくとも、人を捨てなければ動かない領地にはしません」
クラウディアが答えた。
ナディアも、水桶を運んでいた御者たちへ休憩を回しながら言った。
「死んだ人は、荷を運ばないし、税も払わない。商人から見ても、領民を使い捨てる方がよほど高くつくわ」
「あなたまで政治を語りますか」
「利益の話よ。あなたの得意な」
マルクスは返事をしなかった。
火は、二階の記録室から屋根へ回った。水桶の列は周囲の建物への延焼を防ぐ方へ移り、倉庫そのものを無理に守ろうとはしなくなった。
そのとき、西の外壁沿いで怒鳴り声がした。
「止まれ!」
煤で顔を黒くした男が、消火に集まった人々の間を押しのけ、裏路地へ走ろうとしていた。片手には空になった油差しを持っている。
「あいつです!」
資材置き場から連れてこられた書記が叫んだ。
「帳面を南倉庫へ運んだあと、金を渡せと言われていた男です!」
逃げる男の前へ、イゾルデが回り込んだ。
火の中から戻ったばかりだというのに、その動きに迷いはなかった。男が油差しを振り上げるより早く腕を払い、足を掛けて石畳へ伏せさせる。
「放せ! 俺は何もしていない!」
「昼間から、何のために油を持って倉庫の裏を走っていた」
男の袖から、油の臭いがした。両手を縛られると、抵抗していた声が弱くなる。
倉庫番が男の顔を見て、息を呑んだ。
「昨日から見つからなかった人足です。北壁の石も運んでいました」
ニルスたちと同じ日に働く予定だった、所在の分からない一人だった。
イゾルデは男を立たせ、マルクスの前へ連れていった。
「誰に命じられた」
「知らない」
「では、この書記がお前へ金を渡す予定だったというのも、知らないか」
男は顔を背けた。
沈黙の向こうで、倉庫の梁が崩れ落ちた。炎が高く上がり、男の肩が震える。
「……帳面が押さえられたら、東と西へ油を撒けと言われた」
「誰に」
「財務局の書記からだ。マルクス様の命令だと聞いた。終われば、町の外へ逃がすと」
「嘘です!」
初めて、マルクスが声を荒らげた。
「捕らえられた罪人が、助かるために私の名を使っているだけだ!」
「その可能性も調べる」
イゾルデは立ち上がり、マルクスへ向き直った。
「だが、あなたの部下は命令に反して帳面を運び出そうとし、搬出先を書き換えた記録から南倉庫の名が出た。ここで救援物資の転売を示す控えが見つかり、その返書にはあなたの署名がある。そして今、あなたの命令を受けたと話す放火犯を捕らえた」
彼女は腰の剣ではなく、兵士が持つ拘束具を取った。
「マルクス・レーゲン。救援物資の横流し、工事記録の改ざん、放火教唆の嫌疑により拘束します」
「私を捕らえれば、補給が止まると言ったはずだ!」
「止めないために、あなたから取り戻すのです」
イゾルデが手を上げると、兵士たちがマルクスの腕を取った。
火勢が弱まり始めたのは、それからしばらくしてからだった。
屋根の一部は落ち、二階の記録室はほとんど焼けている。救援用の布や薬草も、すべては運び出せなかった。
それでも、死者は出なかった。
救い出された三人は治癒術師の手当てを受け、一人はまだ意識が戻っていないものの、呼吸は安定しているという。
修司は椅子から立ち、クラウディアたちとともに、立ち入りを許された倉庫の外まで近づいた。
焼け落ちた木壁の向こうに、火では形を失わなかったものが見えている。
整然と積み上げられた、灰白色の切石だった。
石工が煤を払い、その一つを確かめた。
「北の採石場の印です。第三塔へ使うために切り出した石で、間違いありません」
クラウディアは、焼け残った石を見つめた。
北壁へ運ばれたと帳面に書かれた石は、町の反対側に隠されていた。
紙の記録は炎に呑まれた。
だが、石までは燃えなかった。




