第二十二話 南方から来た商人
資材置き場の裏門では、一台の荷車が兵士たちに囲まれていた。
荷台には幌も掛けられず、革表紙の帳面と紙束を詰めた木箱が三つ載っている。御者台から降ろされた男は、両脇を兵士に固められながらも、自分は命じられた仕事をしていただけだと繰り返していた。
「帳面を乾いた場所へ移そうとしただけです。雨に濡れて読めなくなれば、困るのはクラウディア様ではありませんか」
薄曇りではあったが、空に雨の気配はない。木箱にも防水用の布さえ掛けられていなかった。
先に到着していたイゾルデが、男の前へ立った。
「記録を動かすなという命令は、聞いていたな」
「ですから、持ち出すのではなく、保管場所を変えようとしただけで」
「裏門からか」
男は答えなかった。
馬車から降りたクラウディアが近づくと、兵士たちが道を開けた。修司もその後に続いたが、昨日負った腕の傷を理由に、エヴァから荷を持つことは禁じられている。
「あなたは、工事監督官の補佐だと名乗ったそうですね」
クラウディアが尋ねた。
男は一度唇を舐めてから、頭を下げた。
「工事関係の書類を扱っておりますので、門衛が分かりやすいように申しただけです」
「所属を聞いています」
「財務・補給局の書記でございます。マルクス様の下で、資材の支払いと保管を」
工事監督官の補佐という言葉は、裏門を通るための偽りだった。
「誰の命令で、どこへ運ぶつもりでしたか」
「古い帳面を、南倉庫へ」
「命令した者は?」
「それは……」
男の目が、資材置き場の正門へ向いた。
蹄の音が近づいていた。
二人の騎馬兵を伴い、灰色の外套を着た男が入ってくる。年は四十代半ばを過ぎた頃だろう。髪も短い顎髭も乱れなく整えられ、馬を降りる所作にも慌てたところがなかった。
「これは、ずいぶん大がかりですね」
男はクラウディアへ一礼した。
「マルクス・レーゲン。説明してもらえますか」
クラウディアの声には、挨拶の余地がなかった。
グランフェル辺境伯家の財務と補給を預かる官僚。ベルンハルトが寝台から動けなくなって以降、軍の食糧から城壁修築の支払いまで、多くの実務を取り仕切ってきた男だった。
「説明も何も、部下が帳面の保管場所を変えようとしただけです。資材置き場の事務室は狭く、石粉も入る。南倉庫の方が管理に適しています」
「記録を動かすなと命じたあとです」
「その命令が、末端まで正確に伝わらなかったのでしょう。私から厳しく注意します」
マルクスは穏やかに答えた。その目は荷車と兵士の配置を確かめ、最後に修司のところで止まった。
「そちらが、王都から来られた異邦人の方ですか」
「タカセです」
「お噂は聞いています。ずいぶん熱心に、我が領の帳面を調べておられるとか」
礼儀正しい口調だった。しかし、我が領という言葉だけが、わずかに強かった。
「調べているのは私です。タカセには、読みにくい情報を整理してもらっています」
クラウディアが言うと、マルクスは微笑んだ。
「失礼しました。ですが、領地の事情を知らない方が、数字の一部だけを並べ替えれば、誤った結論を導くこともあります。長く現場を預かってきた者へ、先に確認していただきたいものです」
「ですから、今ここで確認しています」
クラウディアは視線を逸らさなかった。
「この帳面は、館へ運びます。あなたにも、正式に話を聞きます」
「もちろん、いくらでも」
マルクスは両手を軽く広げた。拒むどころか、自分から協力を申し出ているように見える。
それでも修司には、男が現れた瞬間から、荷車の書記が口を閉ざしたことが気になった。
イゾルデの指示で、木箱が一つずつ荷台から降ろされた。中身を確かめている間、修司は資材置き場の事務室へ入った。
狭い部屋には、石粉で白くなった卓と棚がある。昨日まで使われていた入出庫帳は回収済みだが、古い伝票や紐の切れ端が床近くの箱に残されていた。
「タカセさん、腕は大丈夫ですか」
帳面を抱えたミレイユが尋ねた。
「見るだけなら。持つのは、お願いしてもいいですか」
「はい」
彼女が帳面を卓へ置き、修司の前で開いた。
荷車から見つかったのは、資材の行き先を記した控えだった。日付、品目、数量、搬出先。外から見れば、館へ運んだ帳面と大きな違いはない。
修司は一枚ずつ目を通した。
切石の搬出先には、どれも「北壁第三塔」と書かれている。文字は同じ位置に揃い、枠の中央へ収まっていた。
きれいだった。
きれいすぎた。
「ミレイユさん。この帳面を、窓の方へ少し向けてもらえますか」
修司は紙へ触れずに頼んだ。
斜めから差した光が、表面を撫でる。文字の周囲に、ごく細い影が浮かんだ。
「ここだけ、紙が重なっています」
「紙が?」
ミレイユが顔を近づけた。
搬出先の文字は帳面へ直接書かれていなかった。細長く切った紙へ別に書き、それを上から貼りつけている。
「修正しただけではありませんか」
マルクスが、入口から言った。
いつの間にか、クラウディアとともに事務室へ入っていた。
「書き間違いを直すときに、紙を貼ることはあります。この帳面だけが特別ではない」
「ええ。切り貼りそのものは、おかしくありません」
修司は答えた。
アナログの版下を作っていた頃、文字を焼きつけた印画紙をカッターで切り、紙面へ貼る作業を毎日のようにしていた。ほんのわずかに文字が傾けば、行全体が落ち着かない。糊が多ければ紙が波打ち、少なければ角が浮く。
Macの画面で何度でも直せるようになる以前、修正とは、紙の上へ別の紙を重ねることだった。
「ただ、これは書き間違えた箇所だけを直した貼り方ではありません。搬出先の欄が、同じ幅ですべて貼り替えられています」
修司は、最初の一枚と次の一枚を指した。
「紙の色も、帳面より少し白い。端を切った刃の角度も同じです。一度に作った紙片を、あとから順番に貼ったんだと思います」
ミレイユは別の日の頁を開いた。そこにも同じ幅の紙片がある。さらに次も、その次も。
「全部……」
「ずいぶん細かいところを気になさる」
マルクスの声から、初めて笑みが消えた。
「以前の仕事で、これを二十年近く見てきましたから」
修司は紙片の一つを見た。
荷車が揺れたためか、右下の角がわずかに浮いている。その隙間に、下の文字の端が見えた。
「剥がしても?」
クラウディアへ尋ねると、イゾルデが先に制した。
「そのままで。まず、貼られている状態を記録します」
ミレイユはうなずき、紙片の位置と形を別紙へ写した。立ち会っていた兵士二人の名も添え、マルクスにも確認を求める。
「私は、これを作った者ではありません」
「今は、見たことだけを残します」
ミレイユが答えた。
記録が済むと、イゾルデは細い刃を紙片の浮いた角へ入れた。糊の弱くなった部分だけを慎重に持ち上げる。
下から現れたのは、「南」という一文字だった。
もう少し持ち上げると、その後に「倉庫」と続いていた。
「南倉庫……」
クラウディアが呟いた。
「北壁へ運ばれたはずの切石が、南倉庫へ出されていた?」
「そうと決まったわけではありません」
マルクスがすぐに言った。
「古い記録を再利用した可能性もある。帳面の作成者へ確かめるべきです」
「その作成者を特定するためにも、これは館へ運びます」
クラウディアは帳面を閉じずに命じた。
外から、複数の荷車が止まる音が聞こえた。
兵士の呼びかけに混じって、よく通る女性の声がする。
「だから、今日は荷を受け取れないでは困るの。通行証も契約書もあるわ。あなたが決められないなら、決められる人を呼んでちょうだい」
クラウディアが窓の外を見た。
「あの声は……」
事務室を出ると、正門の前に三台の幌馬車が並んでいた。先頭の御者台から、一人の女性が軽やかに降りる。
褐色の肌に、艶のある黒髪。旅装の上へ鮮やかな染め布を巻き、金茶色の瞳で周囲を見渡している。年は三十代半ばほどだろう。兵に囲まれた荷車を見ても、怯むより先に商売の邪魔をされたという顔をしていた。
「ナディア・サリム」
クラウディアが名を呼ぶと、女性は笑みを浮かべた。
「お久しぶりです、クラウディア様。紙と薬草と染料を、約束どおり南部から運んできました。歓迎の兵士にしては、少し人数が多いようですが」
「あなたを待っていた兵ではありません。資材記録に問題が見つかりました」
「それなら、荷を降ろす場所だけ決めてください。事情を聞くのは、そのあとで」
ナディアは現実的だった。彼女の指示で御者たちが幌を確かめ、薬草の荷だけ日陰へ移す。見物していた者にも手伝わせず、自分の隊の人間だけで手早く動かした。
それからクラウディアの隣へ来ると、修司を見上げた。
「こちらが、噂の《生活支援士》?」
「タカセです」
「ナディア・サリム。あなたが寝たきりの老将を椅子へ座らせ、昨日は刃物を持った男まで床へ寝かせたと聞きました」
「ずいぶん早く伝わるんですね」
「商人は、荷より先に話を運ぶものよ」
ナディアは笑い、修司のすぐそばまで寄った。包帯の巻かれた腕へ一度目を向けてから、事務室に広げられた帳面をのぞき込む。
「それで、今度は何を見つけたの?」
「まだ調べている途中です」
クラウディアの返事に、ナディアは紙片の下から見える文字を読んだ。
「南倉庫。懐かしい名前ね」
マルクスの目が、わずかに動いた。
「何か知っているのですか」
修司が尋ねると、ナディアは彼とマルクスを順に見た。
「知っているというより、損をさせられたことがあるの」
彼女は自分の馬車へ戻り、鍵の掛かった小箱を持ってこさせた。中には、取引控えが日付順に束ねられている。
「昨冬、魔物に襲われた北の村へ届けるため、包帯用の布と薬草をこの領へ納めました。私の隊が運んだ荷には、すべて青と黄の糸で封をしてあります」
一枚目の控えには、品目と数量、受取先としてグランフェル領の名が書かれていた。
「ところが一月後、隣領の都市で、同じ封の荷が売りに出ていた。未開封のまま、十包も」
次の控えには、売り手の欄があった。
グランフェル南倉庫、払い下げ品。
「傷んだ救援物資を処分したと、説明したはずです」
マルクスが言った。
「ええ。あなたから、そういう返書を受け取ったわ」
ナディアは笑みを消した。
「だから私は、その都市で一包買い戻した。封を開けて中身も確かめた。布は乾いていたし、薬草に黴もなかった。私が納めたときと変わらない品だった」
「保管中に一部だけ無事だったのでしょう」
「無事な救援物資を、村へ届けず売ったの?」
マルクスは答えなかった。
「当時、ベルンハルト様はお倒れになり、クラウディア様は北境の防備に追われていた。財務・補給局へ申し立てても、返書を書くのは同じ人。これ以上調べるなら、今後この領では商売ができなくなるとまで言われたわ」
ナディアの指が、控えの署名を叩いた。
そこには、マルクス・レーゲンの名があった。
資材置き場の空気が変わった。
マルクスは控えを見下ろしたあと、ゆっくりと修司へ顔を向けた。
「妙ですね」
「何がですか」
「この異邦人が来てからです。二年間どうにか回っていた領内で、事故が起き、古い取引が掘り返され、役人たちが次々に疑われ始めた」
穏やかな仮面の下から、冷たい声が現れた。
「王都が、グランフェル家の力をさらに削ごうとしているのではありませんか。何も知らない《生活支援士》を送り込み、善意を装って内側から混乱させる。そう考えれば、すべての時期が合う」
「父を寝台へ閉じ込めておいた方が、あなたには都合がよかったのでしょう」
クラウディアが言った。
マルクスの顔から、完全に笑みが消えた。
「タカセが来てから、父は食事を取り、自分の意思で椅子へ移り、再び領地のことを考えられるようになった。救護院では五十七人が生き残り、証人も守られた。それを混乱とは呼びません」
「感情で事実を決めてはなりません」
「だから、記録と証言を確かめています」
クラウディアはナディアの控えを受け取り、イゾルデへ示した。
「南倉庫を封鎖します。帳面に記された切石と、救援物資の取引記録を押さえてください」
「承知しました」
イゾルデが兵士へ指示を飛ばす。
マルクスが一歩前へ出た。
「正式な調査もなく、財務・補給局の倉庫を押さえるおつもりですか」
「正式な調査を、今から行います。あなたにも館へ同行していただきます」
「私を罪人として扱えば、補給は止まります。軍も救護院も、数日と持たない」
「あなたがいなければ動かない仕組みなら、今ここで改めます」
クラウディアは退かなかった。
修司は、彼女の横顔を見た。
二年前なら、この言葉を一人で口にしなければならなかったのだろう。今は館に父がいて、目の前にはイゾルデとミレイユがいる。南部から来た商人は、自分の記録を差し出している。
支える人が増えたからこそ、切れるしがらみもあった。
マルクスと部下を別々の馬車へ乗せ、兵の監視下で館へ送る手配が始まった。
ナディアは自分の取引控えをミレイユへ預けると、修司の描いた図を手に取った。
「紙一枚で、ずいぶん大きなものを動かしたわね」
「みんなが持っていた情報を、並べただけです」
「並べる場所が違えば、同じ品物でも売れ方は変わる。私は、その価値を知っているつもりよ」
金茶色の瞳が、修司の作った見出しと色分けを追った。
「あなたとは、事件が片づいたら商売の話をしたいわ」
「タカセは、まだこちらへ来て間もないのです」
クラウディアが間へ入ると、ナディアは楽しそうに笑った。
「人を売り買いする話ではありませんよ、クラウディア様。こんなに分かりやすい紙を、もっと作れないかという相談です」
「それなら、本人の意思を確かめてください」
「もちろん。利益にならない話を押しつけるほど、暇ではないもの」
ナディアはあっさり答えたが、その目はすでに何かを計算しているようだった。
そのとき、南の方角から鐘が鳴った。
一度、二度。そして間を置かず、激しく打ち鳴らされる。
資材置き場にいた者たちが、一斉に顔を上げた。
「火事の鐘です」
ミレイユの声が震えた。
屋根の向こうから、黒い煙が立ち上っていた。
風に押されながら空へ広がる、その根元にあるものを、誰もが分かっていた。
南倉庫だった。




