第二十一話 数字の罠
翌日の昼、ベルンハルトの部屋には、前日より一脚多く椅子が置かれていた。
修司とクラウディア、ミレイユのほかに、イゾルデが座るためのものだった。ただし当人は、窓辺に積まれた帳面を前にして、腰を下ろそうとしなかった。
「これが資材置き場の入出庫帳、こちらが工事事務所にあった支払帳です。北壁の現場からは、日ごとの資材受領書を回収しました」
古い革表紙の帳面が三冊。紐で閉じられた紙束が二つ。それとは別に、町の北門から取り寄せた通行記録が置かれている。
「持ち出そうとした者は?」
ベルンハルトが尋ねた。
「いません。ただ、工事事務所の者が『整理してから渡す』と申し出ました」
「断ったのだな」
「もちろんです。日々使っていた状態のまま、兵に運ばせました」
イゾルデが答えると、老将は満足そうにうなずいた。
エヴァは少し離れた場所で砂時計を返した。ベルンハルトが椅子で話せる時間を、前日の様子から決めたらしい。
「砂が落ち切ったら、いったん休みます」
「分かっている」
「昨日も同じ返事を聞きました」
エヴァの声は静かだったが、譲る気配はなかった。
修司は、卓の端に水椀と呼び鈴があることを確かめた。老将の足は台の上に置かれ、背と肘を支える位置も整っている。話し合いを始めるための準備は、修司が手を出す前に終わっていた。
自分がいなくても続いている。
そのことを頼もしく思いながら、修司は持参した大判の紙を広げた。
「まず、それぞれの合計だけを見せてくれ」
ベルンハルトの言葉に、ミレイユが帳面を開いた。
「北壁第三塔の修築用として、切石百四十四個分の代金が支払われています。資材置き場の受領も百四十四。現場の受領書も、合計は百四十四です」
「揃っているではないか」
ベルンハルトが言った。
「はい。数字だけなら」
ミレイユは眼鏡を押し上げた。
「代金を払い、同じ数を受け取り、そのまま現場へ渡したように見えます」
クラウディアが三つの記録を順に確かめた。どの紙にも担当者の印があり、数字の上から書き直した跡は見当たらない。
「帳面を抜いた形跡もありません。これだけを見れば、不足はなかったことになります」
部屋に紙をめくる音が続いた。
修司は、前日に並べた四つの見出しを見た。
いつ。何を。どこへ。誰が確かめた。
その下に記録を置けば、切石はきれいに左から右へ進んでいた。購入された百四十四個が、置き場へ入り、同じ数だけ現場へ出ている。
あまりにきれいだった。
印刷会社でカタログを作っていた頃、取引先から渡される資料の数字が、最初から揃っていることなどほとんどなかった。品名が違い、型番が抜け、写真の点数と一覧表の商品数が合わない。その食い違いを営業へ返し、確認が済むまで該当箇所を空けたまま待つのが常だった。
人が別々に記録したものには、それぞれの癖と遅れが出る。
ところが目の前の帳面は、書式こそ違うのに、すべてが同じ数字へ迷いなく収まっている。
「これを書いた人たちは、同じ場所で仕事をしていたんですか」
修司が尋ねると、クラウディアは首を振った。
「購入を記録する工事事務所は館に近い内郭です。資材置き場は町の北側、現場はさらにその先にあります」
「それぞれ、いつ帳面をつけますか」
「支払帳は、商人から請求を受けたときです」
ミレイユが一冊目を指した。
「置き場では、荷を受け取った日の夕刻に合計を記すそうです。現場の受領書は、その日に運び込まれた数を翌朝、工事事務所へ届ける決まりです」
修司は大判の紙に、館、資材置き場、北壁第三塔の位置を描いた。
精密な測量図ではない。道のつながりと、荷がどちらへ動くかが分かればよかった。若い頃、折込チラシに載せる店までの案内図を、何枚も手で描いた。目印になる建物を残し、必要のない道を省き、初めて見る人でも迷わない形へ整える。
久しぶりに握るつけペンだったが、手は覚えていた。
「置き場へ入る荷車は、どの門を通りますか」
「北門だ」
ベルンハルトが答えた。
「切石は北の採石場から来る。雨季に西の道が崩れたとき以外、ほかの門へ回すことはない」
修司は北門を書き足し、採石場から資材置き場まで一本の線で結んだ。
「では、門を通った日より先に、置き場で受け取ることはありませんよね」
「当然だ」
「北門の記録も、日付ごとに置いてみましょう」
ミレイユとクラウディアが通行記録を開いた。修司は購入、門、置き場、現場を示す印を別々に決め、一日ごとの線の上へ数字を書き写していった。
黒は購入。青は北門。茶は置き場。赤は現場。
同じ百四十四という合計が、日ごとの動きへ分かれていく。
最初の数日は、大きな違いがなかった。十六個を積んだ二台が門を通り、置き場にも十六と記録されている。翌日、そのうち十二個が現場へ運ばれていた。
だが、五日目で青い数字が途切れた。
「北門を通った切石は、なし」
ミレイユが言った。
その日の通行記録には、干し肉を積んだ荷車と、羊毛を運ぶ商人の名しかない。
ところが資材置き場の帳面には、切石二十四個を受け取ったと記されていた。
「別の日と取り違えていないか」
ベルンハルトが尋ねた。
「次の日も、その次の日も確認します」
修司は答え、線を伸ばした。
六日目、北門を通った切石は八個。置き場の記録も八個。七日目は、どちらも十二個。
二十四個を積んだ荷車が遅れて到着した記録は、どこにもなかった。
それでも現場の受領書には、八日目までに、その二十四個を含む数がすべて届いたことになっている。
「門番が書き忘れた可能性は?」
アマーリエの問いに、イゾルデが通行記録を引き寄せた。
「一台なら、ないとは言えません。ただ、切石二十四個なら荷車三台です。人も馬も通ります。門番全員が見落とすとは考えにくい」
「ニルスたちの記録はありますか」
修司が尋ねると、ミレイユは別の紙束から一枚を抜いた。
「五日目は運搬なし。雨が強く、採石場から荷が来ないと聞いて、昼前に帰されたそうです。同じ日に働く予定だった四人からも話を聞き、三人の証言が一致しています。残る一人は、今朝から所在を確認中です」
修司は、日付の横に「雨」と書いた。
その文字を見たベルンハルトの目が鋭くなった。
「その雨なら覚えている。北門前の水路があふれ、午後から荷車を止めた日だ。門の記録が欠けたのではない。荷が来られなかった」
クラウディアは資材置き場の帳面を見下ろした。
「では、この二十四という数字は、どこから出たのですか」
誰もすぐには答えなかった。
修司は、黒い印をつけた購入記録へ目を移した。
五日目。切石二十四個。
支払いの帳面に書かれた数と、置き場で受け取ったとされる数が、同じ日に同じ並びで記録されていた。
「置き場の人は、実際に数えたんでしょうか」
イゾルデが立ち上がった。
「帳面を書いた者は、隣室で待たせています」
「呼んでくれ」
ベルンハルトの命を受け、連れてこられたのは、六十前後の痩せた男だった。資材置き場で十年以上、荷の受け入れをしてきたという。
男は老将の姿を見た途端、入口で足を止めた。
「ベルンハルト様……」
「椅子にいることが、そんなに珍しいか」
「い、いえ」
「ならば、帳面の話をしよう。五日目に届いた切石二十四個を、お前は見たか」
男の視線が、開かれた帳面へ落ちた。
「届いた数は、毎日、間違いなく書いております」
「見たか、と聞いた」
ベルンハルトの声は低かった。大声ではない。それでも、部屋の空気が張り詰めた。
男の喉が動いた。
「その日は……雨でございました」
「荷は来たのか」
「来ておりません」
クラウディアが息を呑んだ。
「では、なぜ二十四と書いたのです」
男は唇を震わせた。イゾルデは急かさず、扉の脇で待っている。
「夕刻に、工事事務所から日計の紙が届きました。購入した数と、置き場へ納めた数が書かれていました。帳面を合わせておくように、と」
「誰からですか」
「使いの者です。いつも同じ封筒で、工事監督の印がありました」
「エッカルトの指示ですか」
「あの方が持ってくる日もありました。ですが、すべてがエッカルト様からだったかは……分かりません」
男は両手を握りしめた。
「最初は、おかしいと思いました。けれど、遅れた荷は翌日届くから、帳面の日を先に合わせるだけだと言われて。工事は急いでおりましたし、支払いの数と違えば、こちらの数え間違いだと責められます。いつからか、届いた荷より、紙の数を書くようになりました」
「昨日、帳面を運び出す前に、書き直せと言われなかったか」
「それは、ありません。昨日は兵が来るまで、工事事務所から誰も来ませんでした」
イゾルデが男の返答を書き留めた。
修司は、四つの色が並んだ紙を見た。
購入の数字が置き場へ写され、その数字が現場の受領書にも現れる。三つの記録が互いを証明していたのではない。最初の数字を、別々の帳面へ移していただけだった。
合計が合うように作られた記録を、合計で確かめ続ける。
それが罠だった。
「現場の受領書を書いた者にも、同じことを聞く必要があります」
クラウディアが言った。
「ええ。ただ、今すぐ全員を一か所へ集めるのは避けた方がいいと思います」
修司は、資材置き場の男を見た。
「誰が何を話したか分かれば、また口を塞ごうとするかもしれません」
ニルスを狙った短刀が脳裏をよぎった。今度は、同じことを起こさせてはならない。
イゾルデがうなずいた。
「ひとりずつ保護し、別々に話を聞きます。家族がいる者についても、先に所在を確かめましょう」
「お願いします」
クラウディアはそう答えてから、資材置き場の男へ向き直った。
「あなたが事実を話したことは、こちらで記録します。ただし、実物を見ずに受領を記した責任がなくなるわけではありません」
「承知しております」
「そのうえで、身の安全は守ります。イゾルデの指示に従ってください」
男は深く頭を下げた。
連れ出されたあと、エヴァが砂時計を指した。上の器に、砂はほとんど残っていない。
「ここまでです」
「もう少しだ」
「昨日も同じことを言って、身体が傾くまで話し続けた方を、私は知っています」
ベルンハルトが不満そうにエヴァを見た。
修司は、広げた紙の上へ薄布を掛けた。まだ調べは終わっていないが、続きができる形にはなっている。
「休んでいる間に、俺たちで現場側の記録を分けておきます。次に見てもらいたいところへ印をつけますから」
「俺のいない間に、勝手に結論を出すなよ」
「分かりました。空欄は空欄のままにしておきます」
ベルンハルトは修司を見て、鼻を鳴らした。
「その言い方では、休むしかないではないか」
アマーリエが笑いをこらえながら、夫の毛布を整えた。
老将がエヴァと侍女たちの介助で寝台へ戻ると、修司たちは現場の受領書を日付ごとに分け始めた。
ミレイユが読み上げ、クラウディアが数量を確かめ、修司が大判の紙へ移す。イゾルデは、聞き取りが必要な者の名を控えていった。
一人で帳面を眺めていたときには、ただ同じに見えた数字が、人と場所を添えるたび、違う表情を見せ始める。
やがて、ミレイユの声が止まった。
「この印……」
彼女が一枚の受領書を光へかざした。
「どうしました?」
「現場責任者の印の横に、工事監督の確認印があります。日計の封筒に押されていたというものと、同じはずです」
資材置き場から押収した封筒が、帳面の間に残されていた。イゾルデが布越しに取り出し、二つを並べる。
盾の中に、北壁の塔を描いた印だった。
「この印を使える者は?」
修司の問いに、クラウディアの表情が硬くなった。
「北壁修築の監督官と、その補佐役です。エッカルトは書類を作れますが、この印を保管する権限はありません」
「では、エッカルトだけではできない」
「はい」
クラウディアは、数字の並んだ大判の紙を見た。
「父の不在を預かっていた私が、工事を急がせました。現場から問題なしと報告が上がれば、それを信じて次の支払いを認めた」
「急がせたことと、届いていない石を届いたことにした責任は別です」
修司は言った。
「今は、誰が数字を作り、誰が写し、誰が本当の荷を見たのかを分けましょう」
クラウディアは目を閉じ、一度だけ息を整えた。それから顔を上げる。
「イゾルデ。監督官と補佐役には、まだ帳面の矛盾を知らせないでください。先に印の保管場所を押さえます」
「承知しました」
「現場の聞き取りと、資材置き場に残る石の確認も同時に。数だけでなく、石工に質を見てもらいます」
イゾルデが部屋を出ようとしたとき、廊下から慌ただしい足音が近づいた。
扉を叩いた兵士が、許しを得て入ってくる。
「クラウディア様。資材置き場を見張っていた者から、急ぎの報告です」
兵士は息を整え、続けた。
「裏門から荷車が一台、出ようとしました。積み荷は帳面類です。御命令により、その場で止めています」
イゾルデの手が剣の柄へ移った。
「御者は誰だ」
「工事監督官の補佐を名乗っています」
クラウディアは卓の大判紙へ視線を落とした。
黒、青、茶、赤。正しく見せるために並べられた数字は、もう彼らを守ってはくれない。
「誰も外へ出さないでください。私も行きます」
彼女が立ち上がる。
修司も紙を押さえていた手を離した。
数字の向こうに隠れていた者が、動き始めた。




