第二十話 椅子の上の老将
翌朝、救護院の廊下で顔を合わせた兵士が、修司を見るなり背筋を伸ばした。
いつもなら軽く会釈を交わして通り過ぎる相手だった。ところが今朝は壁際へ半歩寄り、修司が通るまで、その場に立っている。
「おはようございます」
「おはようございます、タカセ殿」
呼び方まで変わっていた。
修司が戸惑いながら大部屋へ入ると、椅子に座って布を畳んでいたロルフが、待っていたように顔を上げた。
「聞きましたよ。短刀を持った男を、片手で投げ飛ばしたって」
「片手ではありません」
「でも、飛んだんでしょう?」
そこは否定できなかった。修司が返事に迷うと、ロルフは声を抑えて笑った。
「今度、見せてください」
「ここで人を投げるわけにはいきませんよ」
「そうじゃなくて。あの……俺でも、いずれ覚えられるものなのかと思って」
ロルフの手が、自分の脚の上で止まった。
冗談だけではなかったらしい。修司はその顔を見てから、空いている椅子を寄せて座った。
「怪我が落ち着いたら、身体の使い方から、一緒にやってみましょうか。治癒術師とも相談して」
「はい」
ロルフの返事は早かった。
修司が立ち上がりかけると、畳み終えた布をロルフが先にまとめた。
「運ぶのは、手伝いを呼びます。今日はまだ、腕を休めるんでしょう」
今朝もエヴァから同じことを言われていた。修司は布へ伸ばしかけた手を戻し、頼みます、と答えた。
廊下では、朝の洗濯物が入口脇で受け渡されていた。昨日まで奥へ出入りしていた荷運びの者が、今朝はそこで待っている。手間が増えた分だけ声も多いが、誰がどこにいるかは、前より分かりやすかった。
グレーテの小部屋へ顔を出すと、ニルスは卓に向かっていた。傍らにはミレイユがいて、若者の書くものをのぞき込んでいる。
「何を書いているんですか」
「働いた日と、運んだものです」
ミレイユが答えた。
「覚えているところから。賃金の確認にも、工事の調べにも使えるように」
ニルスは紙から顔を上げた。
「日にちは曖昧なところもある。だけど、一緒に運んだ奴の顔なら分かる。あいつらにも聞けば、もう少し埋まると思う」
昨日は、都合のよい文章を突きつけられる側だった。その若者が今は、自分の知っていることを、自分の言葉で書き残そうとしていた。
「思い出せないところは、空けておいていいんですよ」
「うん。分からないところまで埋めるなって、今も言われた」
ニルスがミレイユを見た。彼女は、眼鏡を押し上げてうなずいた。
修司は続きを邪魔しないように退いた。戸口の兵士は若者へ目を向けてから、静かに位置を戻した。
守るというのは、昨日の一度で終わる仕事ではなかった。それでも、ここにはもう、自分以外にもその続きを引き受けている人がいた。
昼前、クラウディアが迎えに来た。
「館へ戻れますか。父が、あなたと話したいそうです」
「具合が悪いんですか」
「いいえ。朝食も、私よりしっかり召し上がりました」
そう答えた彼女の口元に、久しぶりに気負いのない笑みが浮かんだ。
「昨日のことを聞いてから、待ちきれないようで」
馬車の中には、革紐でまとめた書類が置かれていた。クラウディアはそれを膝へ引き寄せ、修司の座る場所を空けた。
車輪が動き出しても、彼女はすぐには紐を解かなかった。
「ニルスの賃金は、働いた分を記録と照合して支払わせます。今回の証言を条件にはしません」
「それなら、あの子も安心できると思います」
「ほかの荷運びの者にも、兵を通じて話を聞いています。ひとりで呼び出されないようにと伝えました」
修司はうなずいた。ニルスが口を開いたために、ほかの誰かが次の標的になることは避けたかった。
「エッカルトは?」
「監視下にいます。襲撃者との接触も、金の出所も調べていますが、まだ結論は出せません」
クラウディアの指が、書類の紐に触れた。
「ただ、あの男を捕らえられたことで、調べられることは増えました。あなたがニルスを守り、襲撃者を生かして捕らえてくれた。その両方が大きい」
正面からそう言われると、修司は少し困った。だが、礼を打ち消す言葉は出さなかった。
「間に合って、よかったです」
「ええ。本当に」
クラウディアはそれだけ答え、窓の外へ目を向けた。
館へ近づく道の向こうに、北壁が見えた。崩れた箇所を避けて、人と荷車が小さく動いている。救護院で命をつないだ者たちにも、戻る仕事や家がある。町は、事件が片づくまで止まって待ってはくれなかった。
ベルンハルトは、窓辺の椅子に座っていた。
膝には薄い毛布が掛かり、足元には高さを合わせた台が置かれている。卓の上にあった食器は片づけられ、水椀と呼び鈴が手の届くところに残されていた。
修司が入ると、老将は顔を上げた。
「腕をやられたそうだな」
「浅い傷です。エヴァさんに診てもらいました」
「浅くても傷は傷です」
部屋の奥から、当のエヴァが言った。朝の確認を終えて、先に館へ来ていたらしい。
アマーリエが修司へ椅子を勧めた。
「今日は、皆で座ってお話ししましょう。あなたまで立ったままでは、主人が落ち着きませんから」
「俺を口実にするな」
「では、ご自分でお願いなさってください」
ベルンハルトは妻を見たあと、修司へ顎を向けた。
「座れ。礼を言う相手を、立たせておきたくはない」
修司が腰を下ろすと、老将は背もたれからわずかに身を起こした。
「救護院で、人を守ってくれた。感謝する」
声は大きくなかった。それでも、修司は自然と背筋を伸ばしていた。
「イゾルデの報告も聞いた。剣を抜くより先に、男を投げ伏せたそうだな」
「元の世界で続けていた武道が、役に立ちました」
「あいつが、人の技をあそこまで褒めるのは珍しい」
老将の口元が、わずかに上がった。
「いずれ稽古を頼まれるぞ。あれは、見知らぬ技をそのままにはしておけん」
「こちらが教わることの方が、多そうですが」
「ならば、教え合えばよい」
その言い方があまりに当然だったので、修司は少し笑った。
この世界へ来たばかりの頃は、自分にできることを説明するだけでも難しかった。剣は振れず、大きな魔法も使えない。五十二歳の介護士に何ができるのかと、自分でも何度も考えた。
今は、教え合えばよいと言ってくれる人がいる。
修司は、膝の上に置いた自分の手を見た。
「さて、クラウディア」
ベルンハルトの視線が、娘の持ってきた書類へ移った。
「昨日の報告には、工事の調べを広げるとあったな。どこまで分かった」
クラウディアは革紐を解き、卓へ書類を置いた。
偽の検査通知。検査役を別の場所へ向かわせた連絡。荷を上げる時刻の変更。そして、その紙を運んだ若者への脅しと襲撃。
彼女は順を追って説明した。ベルンハルトは途中で口を挟まず、肘掛けに手を置いて聞いていた。
「私の視察と、荷を上げる時刻は重なっていました。あの場所に私がいると知っていた者が関わった可能性は、捨てられません」
その言葉に、アマーリエの手が止まった。
ベルンハルトは娘を見た。
「お前を狙ったのか、工事の不始末を隠すためだったのか。あるいは、両方か」
「まだ、決められません」
「そうだな」
老将は短く答え、卓の紙へ手を伸ばした。だが、手前の一枚を寄せたところで、眉間に皺が寄った。
「この報告と、その受領書は、同じ日のものか」
「いいえ。こちらは前日です」
「では、荷の数はどちらにある」
クラウディアが別の束を探した。紙をめくる音が続いた。
修司は卓の上を見た。
記録は揃い始めている。しかし、工事の報告、荷の受領、支払いの記録が、それぞれ別の形で書かれていた。話を聞くたびに紙を持ち替えなければならず、何を見比べているのか分からなくなる。
「少し、並べ直してもいいですか」
クラウディアが顔を上げた。
「日付と、何の記録かが分かるようにします。原本には書き込みません」
「お願いします」
修司は侍女に余り紙を頼み、短冊に切って、大きめの字を書いた。
いつ。何を。どこへ。誰が確かめた。
その四つを見出しにし、下には、購入、置き場への納入、現場への搬出、現場での受領と、一段ずつ場所を分けた。クラウディアに内容を確かめながら、該当する紙から必要な項目だけを余り紙へ写して置いていく。同じ荷に関する記録を、流れに沿って追えるようにした。
カタログを作っていた頃、商品ごとにばらばらな資料を渡されることがあった。品名の書き方も、価格の位置も、写真の大きさも違う。それを、そのまま紙面へ押し込んでは読めなかった。
見る人が知りたい順に整える。抜けた項目は、勝手に補わず、空けておく。
修司には、馴染みのある仕事だった。
ベルンハルトが、並び直した紙へ視線を走らせた。
「……これなら、同じ荷の話かを追えるな」
「はい。気になるところがあれば、元の紙へ戻って確かめられます」
老将の指が、ひとつの欄を示した。
「ここが空いている」
「資材置き場から、工事現場へ出した記録です。今、この束にはありません」
クラウディアが答えた。
「工事の受領書はありますが、置き場側の帳面は、まだ取り寄せていません」
「それを取れ」
老将の声が変わった。
「石を買ったことと、石が届いたことは違う。届いた石が、塔へ使われたとも限らん」
クラウディアの目が、空いた欄へ戻った。
「資材が、途中で抜かれていたと?」
「まだ分からん。だが、崩れた場所の石を、今から一つ残らず数えるのは難しい。事故の損失だと言われれば、その前からなかった分まで、瓦礫の下へ埋められる」
修司は、散らばった石と折れた木材を思い出した。
救い出された人の数は、何度も確かめた。だが、崩れる前に、何がどれだけあったのかまでは分からない。
「崩落を起こした理由が、そこにあるかもしれない」
クラウディアが言った。
「調べる価値はある。工事の帳面だけでなく、資材を出した側の記録も見ろ。運んだ者の話も、別に取れ。同じ机の上だけで数字を合わせさせるな」
そこでベルンハルトは、言葉を切った。
肘掛けに置いた指へ力が入り、身体が少し横へ傾いた。修司が動くより先に、アマーリエが卓の紙を押さえ、エヴァが椅子の脇へ寄った。
「少し休みましょう」
老将は眉を寄せたが、反論はしなかった。背もたれへ身体を戻し、長く息を吐いた。
修司は水椀を近づけた。ベルンハルトはそれを自分で取り、一口飲んでから卓へ置いた。
「話をしているだけで、これだ」
「その話で、次に調べるものが決まりました」
修司が答えると、老将の目がこちらへ向いた。
「立っていなくても、できる仕事はあります。今日は、ここまででも」
ベルンハルトは黙って紙を見た。
やがて、娘へ声をかけた。
「お前は、どう動く」
クラウディアは少し考え、書類を一枚、手元へ引いた。
「資材置き場と工事事務の両方へ、記録の保全を命じます。提出用に作り直した帳面ではなく、日々使っていたものを確認する。イゾルデには、記録を持ち出したり、処分したりする者が出ないように頼みます」
「うむ」
「工事そのものは、危険な箇所を除いて止めません。働いている者の賃金も、調べが済むまで凍結することはしない。困る者が増えれば、またそこにつけ込まれます」
ベルンハルトは娘を見つめたあと、ゆっくりうなずいた。
「任せる」
クラウディアの肩から、わずかに力が抜けた。
老将が戻ってくれば、娘が脇へ退くのではない。彼女の決めることを、一緒に考えられる人が戻ってきたのだと、修司には思えた。
アマーリエは何も言わず、夫の膝の毛布を直していた。その口元が緩んでいるのを、修司は見た。
クラウディアが命令を書く間、部屋には、紙を擦るペンの音が続いた。
修司は四つの見出しを見直した。救護院では、誰が何を伝え、何を確かめたかを並べた。今度は、石と金の動きだった。自分ひとりでは意味を読み切れない記録も、詳しい人が見比べられる形にはできる。
「タカセ」
ベルンハルトが、低く呼んだ。
「明日も、ここで話せるようにしたい」
その言葉を聞いて、修司は顔を上げた。
「ええ。今日の疲れを見ながら、時間を決めましょう」
「椅子に座るだけで、これほど用が増えるとはな」
老将はそう言い、卓の向こうで書き物をしている娘を見た。
修司も、同じ方を見た。
北壁を眺めるために置いた椅子の前で、今は北壁を守るための話が進んでいる。
クラウディアがペンを置き、書き終えた命令へ印を押した。
「これを、イゾルデへ」
侍女が受け取り、部屋を出ていった。廊下で使いの者を呼ぶ声がして、足音が遠ざかる。
ベルンハルトはその音を聞いていた。足元の台に置かれた両足は、まだ、身体を立たせるには頼りない。
それでも今、この人の言葉で、館の外が動き始めていた。




