第十九話 立たせる手、守る手
兵士の革当てから、赤いものが流れた。
男は押さえられた右腕を激しくひねり、壁との間へ身体をねじ込もうとしていた。剣を抜く隙間はない。兵士は柄から手を離して両手で腕を掴んだが、血に濡れた指が少しずつ滑っていく。
その向こうで、短い刃がニルスを向いた。
修司は足を動かした。
怖い。腹の底が冷たく、息が喉につかえている。それでも、半歩ずれた足を元へ戻さなかった。畳の上で何千回と繰り返した構えが、五十二歳の身体の中に残っていた。
《生活動作把握》
男の全身に、金色の線が走った。
刃を握る手から肩へ、腰から踏ん張る足へ。太く光る部分と、ねじれて途切れかけた部分が、ひとつの形になって浮かび上がる。
修司の目が、その一点を捉えた。
腕を伸ばそうとする力と、身体を支えている足が、食い違っている。
合気道の稽古で幾度も探し、掴めずに投げ返された、その瞬間だった。
「ニルスを、後ろへお願いします」
修司は兵士へ声をかけた。
「腕を離したら、こいつが――」
「俺が引き受けます」
兵士がこちらを見た。
修司はすでに、刃の正面から外れていた。男の腕へ触れ、兵士が支えている力を受け取る。
《共同目標――ニルスの保護》
《連携支援――接続》
金色の光が、二人の手をつないだ。
兵士の指が離れる瞬間と、修司の身体が動く瞬間が重なる。今まで腕を止めていた相手が消えたのに、男の刃は前へ出なかった。
引き継がれた力の向きが、変わっていた。
兵士がニルスを背後へ送り、記録室の方へ下がる。修司はその前へ出た。
「ここから先へは、行かせない」
男の顔が怒りに歪んだ。
「どけ、爺い!」
短刀が跳ね、修司の袖口が裂けた。腕に熱い痛みが走る。だが修司の足は止まらず、男が引き戻そうとした手も離さなかった。
力任せにねじ伏せようとした瞬間、肩へ負担が集中する。その偏りまで、今は見えた。
相手の身体だけではない。
修司自身の腕から肩へ、腰から足裏へも、同じ光が伸びていた。
《生活動作把握――自己適用》
修司は深く息を吐いた。
肩へ集まっていた力がほどけ、足元から身体の中心へ、一本の軸が通る。別々に動きかけていた手と腰と足が、長年の稽古で覚えてきた順にぴたりと重なった。
男が、空いた拳を振り上げた。
その拳が下りるより早く、修司が踏み込む。
男の目が見開かれた。そこにあるはずの修司の顔が消え、手首を通して、身体ごと持っていかれるような力が走った。
小手返し。
幾度も繰り返した動きが、今までになく鮮明につながった。
修司の手を中心に、金色の軌跡が弧を描く。男の肩が回り、踏ん張っていた足が床を離れた。
大柄な身体が、宙で反転した。
記録室の戸口で、剣を抜きかけたイゾルデが息を呑んだ。
短刀が手から弾かれ、壁の裾で甲高い音を立てる。次の瞬間、男の背が床を打った。廊下に低い衝撃が響き、散らばっていた布袋が跳ねた。
ニルスは、声を出すこともできなかった。
ほんの一瞬前まで刃を振るっていた男が、修司の足元に倒れている。修司は投げ終えた手を離さず、男が息を吸い直す間に、その身体を床へ伏せさせた。
男が暴れようとする。
修司の手が、わずかに動いた。
「ぐっ……!」
持ち上がりかけた肩が床へ戻り、膝を立てようとした動きも止まった。男の身体に見える光を、修司は見失っていなかった。起き上がるためにつなぎ直そうとする支えを、そのたびに断つ。
普段なら、立てるように整える。その手が今は、相手に立ち上がる隙を与えなかった。
「もう、動くな」
修司が言うと、男は歯を剥いた。だが、次に力を込めたところで短い呻きが漏れ、それきり動かなくなった。
イゾルデが近づいてきたときには、勝負はついていた。
彼女の剣は、まだ鞘から抜ききられていなかった。
床に伏せた襲撃者。壁際へ転がった短刀。そして片膝をつき、男の腕を押さえている修司。その腕から伸びた金色の光が、ゆっくり薄れていく。
「……タカセ?」
「縄を、お願いします」
修司は男から目を離さずに言った。
「武器は、そちらです。ほかにも持っているかもしれません」
イゾルデの顔が、騎士団副長のものへ戻った。
「縛れ。タカセが押さえている間に!」
駆けつけた兵士が武器を遠ざけ、別の一人が男の腕を縛った。イゾルデがほかに武器がないことを確かめるまで、修司の押さえは緩まなかった。
男が完全に引き渡されてから、修司は手を離した。
《連携支援――終了》
光が消えても、しばらく誰も口を開かなかった。
いつも水差しや椅子を運んでいる男が、武器を持った襲撃者を投げ伏せた。その光景を、廊下にいた者たちはまだ飲み込めずにいた。
「ニルスは……」
「ここです!」
記録室の戸口からミレイユが答えた。彼女の後ろに若者の顔が見えた。クラウディアもそこにいて、ニルスを室内へ留めている。
「怪我はありません。グレーテの部屋にも兵を残しています」
修司はうなずき、ゆっくり立ち上がった。
そのときになって、開いた指が震えていることに気づいた。腕には遅れて痛みが戻り、背中を冷たい汗が流れた。だが、床を踏む足は身体を支えていた。
自分が何をしたのかは、覚えている。技能が見せた力の流れを読み、道場で身につけた動きを選び、その通りに身体を動かした。
男が飛んだ瞬間の手応えも、まだ掌に残っていた。
《生活動作把握――自己適用を習得》
視界に浮かんだ文字を、修司は見つめた。
誰かを支えるときに使ってきた力が、今度は自分の中に眠っていた動きを引き出したのだ。
「タカセさん。腕を見せてください」
エヴァが横へ来て、裂けた袖へ目を落とした。
「俺より、兵士の腕を」
「あちらは別の治癒術師が診ます。私は、あなたを診ています」
エヴァは修司を近くの椅子へ座らせた。布の下に細い傷があり、血が腕を伝っている。深くはないと告げ、銀杖から淡い緑の光を当てると、傷口から血がにじまなくなった。
続けて肩や背中の状態も確かめる。修司は彼女に腕を預け、ようやく長い息を吐いた。
近くの部屋では、手伝いたちが患者へ声をかけていた。何が起きたのか分からず、寝台から起きようとしている者もいる。廊下の騒ぎが収まったこと、安全を確かめていることを、一人ずつ伝えていた。
修司がそちらへ顔を向けると、エヴァが言った。
「今は任せて。いつも、そう教えているでしょう」
「そうでしたね」
修司は答え、背もたれへ身体を預けた。
イゾルデが戻ってきた。
「男は、入口側とは別の部屋へ移しました。エッカルトの監視も外していません」
彼女は修司の包帯へ一度目を落とした。
「ニルスを守っていただいたこと、感謝します」
「あの兵士が、最初の一撃を止めてくれました。あの一瞬があったから、動けました」
「ええ。そして、その一瞬で勝負を変えたのが、あなたです」
イゾルデは修司の前へ椅子を置き、腰を下ろした。
「投げただけではない。武器を奪い、立ち直る間も与えずに捕らえた。あの速さで」
イゾルデは修司をまっすぐ見た。
「あれは、何という技ですか」
修司は、自分の手を見下ろした。
「小手返しです。合気道という武道の技で……元の世界で、長く稽古していました」
「アイキドウ」
イゾルデが、聞き慣れない名を繰り返した。
「身体の位置や、相手との力のかかり方を稽古する武道です。仕事を始めてから通いだして、介護へ移ってからも、休みが合えば道場へ行っていました」
印刷会社で修正に追われ、稽古へ間に合わなかった日もある。道着を鞄へ入れたまま、終電で帰ったこともあった。
介護士になってからは、夜勤や休日の巡りに合わせて通った。若い頃と同じようには動けず、膝や腰を気にしながら、それでも畳へ上がった。
人と争うために続けていたわけではない。仕事以外で自分の身体へ向き合える時間が、修司には必要だった。
「介助を覚えるときにも、役に立ちました。腕だけで持ち上げようとせず、自分がどこへ立つかを考える。相手が動こうとするところを、邪魔しないようにする」
修司は廊下へ目を向けた。
「さっきは、相手だけでなく、自分の身体の使い方まで見えたんです。肩に力が入りすぎていることも、足と手が別々に動こうとしていることも」
修司は掌を開き、ゆっくり閉じた。
「直すところが分かったら、ずっと稽古してきた動きがつながった。あそこまで身体が合ったのは、初めてでした」
「技能が、技を教えたわけではないのですね」
「ええ。動きは覚えていました。それを、今までより正確に使えたんだと思います」
イゾルデは椅子の背から身体を起こした。
「兵からも聞きました。あなたに腕を預けた瞬間、不思議と迷いなくニルスを連れて下がれたと」
「引き継ぐときは、《連携支援》を使いました。互いの動きがぶつからないように」
「なるほど。そこで味方を逃がし、あとはご自分で」
イゾルデは、少しの間、何かを考えていた。
「あの男は、投げられたあとも抵抗していました。それなのに、起き上がることすらできなかった」
「身体を起こすには、支えが要ります。いつもは、それを作る手伝いをしていますから」
「どこを失えば、立てなくなるかも分かる」
修司がうなずくと、イゾルデの目が細くなった。
「……敵には、知られたくない力ですね」
冗談ではなかった。修司を見る目が、救護院の働き手に向けるものから変わっていた。
「私は剣を抜こうとしました。あなたが斬られると思ったからです」
彼女は、腰の剣へ手を置いた。
「抜き終える前に、勝負がついていた。あなたの強さを、見誤っていました」
修司は返す言葉を探した。いつものように、大したことではないと言いかけて、やめた。
長く続けてきたことが、今日、人を守る力になった。それまで小さく言う必要はなかった。
「続けていて、よかったです」
イゾルデは静かにうなずいた。
ニルスが会いに来たとき、修司は水を飲み終えたところだった。
若者は包帯を見て、戸口で止まった。
「俺のせいで」
「ニルス」
後ろから、クラウディアの声がした。
「襲った者の責任を、あなたが引き受ける必要はありません」
ニルスは唇を噛んだ。修司は椀を卓へ置き、彼へ顔を向けた。
「怪我がなくて、よかったです」
「あいつが飛んだとき、何が起きたのか、分からなかった」
ニルスは修司の手を見た。
「婆ちゃんを支えてるのと、同じ手なのに」
自分の言葉に戸惑ったように口を閉じ、それから深く頭を下げた。
「助けてくれて、ありがとう」
その言葉を聞いて、修司はようやく、守れたのだと思った。ニルスは生きて、目の前に立っている。
「婆ちゃんが、椅子を一つ増やせって。あんたの分を」
「では、少し休ませてもらいましょうか」
修司が答えると、ニルスの顔が初めて緩んだ。
クラウディアは若者を見送ってから、修司のそばへ来た。
「あなたには、まだ驚かされることがありそうですね」
クラウディアは、少し笑った。
「廊下を見たとき、ニルスがこちらへ走ってきて、あなたが一人で残っていた。息が止まるかと思いました」
「俺も、怖かったですよ」
「それでも、退かなかった」
修司は答えようとして、やめた。立派な理由を、あとからつけることはできる。だが、あの瞬間に考えていたことは、もっと短かった。
「あの子を、刺させたくなかったんです」
クラウディアはうなずいた。
「守ってくれて、ありがとう」
そう言って、彼女は卓の端へ寄っていた椀を、修司の手が届く場所へ戻した。
昼を過ぎてから、救護院の出入りの確認がまとまった。
襲った男は、以前から洗濯場の荷運びをしていた者だった。名を偽って入ったのではない。普段の納品に続けて袋を回収する間に、廊下へ残っていた。
イゾルデは納品を止めず、受け渡しの場所を入口脇へまとめさせた。奥の部屋へ必要な物を運ぶのは、救護院側の手伝いが引き受ける。仕事を増やすことにはなるが、荷を運ぶ者が用を終えたか分からないまま、院内へ残ることは避けなければならなかった。
刀傷を受けた兵士は処置を受け、交代の者へ持ち場を渡した。修司の肩にも重い傷はないということだったが、今日は身体を支える介助には入らないよう、エヴァから念を押された。
夕方、イゾルデがもう一度やってきた。
「男が、依頼について話し始めました」
修司とクラウディアが顔を上げた。ミレイユが帳面を開く。
「本人の供述では、今朝、納品に出る前にエッカルトから頼まれたそうです。まずは書記自身が若者を連れ出す。それに失敗したら、男が口を封じるようにと」
「ここへ来る前から……」
修司は、朝の廊下を思い出した。布の枚数を確かめる、ごく普通の仕事の向こうで、すでに別の役目を与えられた者が待っていた。
「男には、若者が誰から紙を受け取ったかをまだ話していない、と伝えられていたようです。エッカルトを伴わず廊下へ戻ってきたのを見て、連れ出しに失敗したと考えた」
「証言も、署名も済んでいたのに」
ミレイユが呟いた。
「あの部屋で何が話されたかは、知らなかったのです」
イゾルデはそう答えてから、帳面の別の箇所を示した。
「依頼の見返りに銀貨を受け取り、残りは仕事を終えてから渡すと言われた、とも話しています。さらに、済めば町から逃がす手配もしてあると聞かされたそうです」
「それを、信じたのですか」
クラウディアの問いに、イゾルデは答えた。
「少なくとも、本人はそう言っています。金の出所と、今朝二人が会ったかどうかは調べています。まだ、男の話だけで確定はしません」
クラウディアの表情は硬かった。
「エッカルトは?」
「襲撃への関与は否定しています。二人は会わせず、別々に話を聞いています」
修司は裂けた袖を見下ろした。
男の話が事実なら、敵は救護院の中の出来事をすべて知っていたわけではない。脅せば黙る、仕事を理由に呼べばついてくる。それができなければ殺す。人の命を、都合の悪い紙のように消そうとした。
だが、ニルスは黙らなかった。自分の言葉で話し、違う文章には違うと言い、その名を書いた。消そうとされた声は、もう一人の記憶の中だけにはなかった。
「確認書の写しは、館へ届けました」
ミレイユが言った。
クラウディアがうなずく。
「父にも、今日起きたことを伝えてください。崩落の証人が脅され、今度は救護院で殺されかけた。別々の出来事として扱うわけにはいきません。工事会計の外へも、調べを広げます」
イゾルデは立ち上がり、胸へ拳を当てた。
彼女たちが仕事へ戻ったあと、修司はグレーテの小部屋へ顔を出した。
卓のそばに、一脚の椅子が増えていた。ニルスが立ち上がってそれを引き、グレーテが畳み終えた布を脇へ寄せる。
「座りなさい。今日はあんたが、休む番だよ」
修司は礼を言って腰を下ろした。
ニルスが林檎を切っていた。傷んだ部分を取り除き、薄く切ったものを小皿へ並べている。卓へ置かれた小さな刃に、修司の肩が一瞬こわばったが、若者がすぐに鞘へ収めると、ゆっくり息を吐くことができた。
「食べられる?」
「ええ。いただきます」
差し出された皿から一切れ取り、口へ入れた。少し酸っぱく、噛むと果汁がにじんだ。
目の前に、祖母と孫が座っている。大部屋からは夕食を運ぶ声が聞こえ、廊下では交代の兵士が名を確かめ合っていた。
修司は、包帯の巻かれた腕を膝へ置いた。
あの一歩で守りたかったのは、こういう時間だったのだと思った。




