第十八話 その名を書く前に
小部屋の扉の外で、兵士が持ち場を替えた。
交代の者が来たのではない。廊下の奥まで見通せるよう、壁際から半歩出たのだ。そのわずかな動きにも、ニルスは顔を上げた。
「あの人が、来たのか」
修司は椅子へ腰を下ろしたまま、うなずいた。
「エッカルトさんが、入口に来ています。イゾルデさんが会っていますから、ここで待ちましょう」
「俺を呼びに来たんだろう」
「話を聞きたいとは言っているそうです。でも、あなたを勝手に連れていかせないと、イゾルデさんが伝えました」
ニルスの指が、膝の上で絡まった。
グレーテは何も言わず、畳んだ布を一枚、卓の端へ置いた。修司が先ほど高さを合わせた卓には、布を広げても水椀を倒さずに済むだけの余裕がある。手伝いの女性は寝台の支度を終え、老女のそばに椅子を寄せていた。
廊下では、いつもの仕事も続いていた。
清潔な布を納めに来た荷運びの男が、手伝いと枚数を確かめている。夕食に使う穀物の袋も、厨房へ運び込まれていた。誰かを守ろうとして救護院の出入りをすべて止めれば、そこにいる人々の暮らしまで止まってしまう。
それでも、今日は受け取る者の声が慎重だった。名を聞き、運び込む物を確かめ、用のない場所へ入らないように伝えている。
ほどなく、ミレイユが扉を叩いた。
「タカセさん。ニルスさんが話せるようなら、記録室へ来ていただけますか。エッカルトは、入口脇の控え室で待っています」
ニルスが椅子から立ちかけた。
「話せる。行くよ」
だが声とは反対に、彼の足は動かなかった。修司はすぐに立ち上がらず、若者の顔を見た。
「会う前に、聞いておきたいことはありますか」
「会わなければ、仕事を外されるかもしれない」
ニルスはグレーテの方を見ずに言った。
「あの人が、働いた日の帳面をつけている。まだ受け取っていない賃金もあるんだ」
修司はミレイユを見た。彼女はうなずき、手元の紙へ書き留める。
「そのことも、先に伝えます。賃金の話と、事故で見たことを話すのとを、一緒に決められないように」
修司が言うと、ニルスはようやく椅子から立った。
グレーテが、孫の上着の裾を軽く引いた。
「私のことは、ここにいる人たちに頼んである。急いで帰ってこようとしなくていいよ」
ニルスは一度だけ祖母へうなずいた。扉の外の兵士とは別に、もう一人が廊下へ出て、修司たちを記録室まで送った。
そこにはイゾルデと、館から戻ったクラウディアがいた。脅しの件を知らされ、警護の増員を連れてきたという。
「エッカルトは、工事の賃金と資材受領の照合をしたいと言っています」
イゾルデが説明した。
「照合の仕事を任されていること自体は、事実です。ただし、それを理由にあなたを連れ出すことは認めません。必要な確認なら、ここでもできる」
クラウディアが、若者へ顔を向けた。
「未払いの賃金があると聞きました。その確認は、別に行います。あなたが今日、何を話すかで支払いを決めることはありません」
「俺が、変なことを言っても?」
「思い出せないことは、そう言ってください。間違っていたところがあれば、訂正してください。働いた分の支払いとは別の話です」
ニルスは両手を膝へ置いた。指はまだ握られていたが、先ほどのように絡み合ってはいなかった。
エッカルトが記録室へ入ってきたのは、その少しあとだった。
四十代ほどの、細身の男だった。袖口の擦れた上着は丁寧に繕われ、革の書類入れには何度も油を塗った艶がある。腰に剣はなく、胸元には筆を収める細い筒が下がっていた。
男はクラウディアを見て足を止め、深く頭を下げた。
「お忙しいところ、お手を煩わせます。怪我人が出て、工事の帳簿も混乱しておりまして」
「用件を」
イゾルデが椅子を示した。
エッカルトは腰を下ろし、書類入れから数枚の紙を取り出した。修司たちが作った図は、すでに別の卓へ移し、布で覆ってある。男が目を向けたのは図ではなく、向かいに座るニルスだった。
「昨日は戻りが遅かったそうだな。荷車の返却は済んだか」
「……済んだ」
「そうか。それなら、その分もつけておこう」
エッカルトは筆先をインクへ浸し、帳面へ一行書き加えた。その手つきを、ニルスがじっと見ていた。
自分が働いた一日が、目の前の男の筆で残される。その一行が、次に食べる物や、祖母と暮らす家につながっている。
修司は、若者がエッカルトを恐れる理由の一部を、そこでようやく実感した。
「まず、これを確かめてくれ。働いた日と、受け取る額だ」
差し出された紙の上部には、日数と金額が大きく書かれていた。その下には細かな文章が続き、最下部に、名前を書くための広い空欄がある。
ニルスの目は金額へ向かい、そのあと、空欄の方へ下りた。
「ここに名を書けばいいのか」
「確認したという印だ。親方や、ほかの者の分も順に揃える」
イゾルデが手を伸ばし、紙を取った。
「本文を、先に読みます」
エッカルトの筆が止まった。
修司も、その横から紙面を見た。目立つ数字、広い署名欄、その間へ詰め込まれた文章。読む人の目がどこへ向かうかは、長く紙面を作ってきた身には分かりやすかった。
数字を見せ、名前を書く場所へ誘導する。その途中に何が書いてあるのかを読むには、いったん目を戻さなければならない。
「賃金を照合する紙にしては、別のことが多いですね」
ミレイユが言った。
イゾルデが、本文の一節を読み上げる。
「第三塔における作業開始に際し、検分完了を自ら確認し、その旨を現場の責任者へ伝達したことを認める……」
ニルスは眉を寄せた。
「確認って、紙を届けたことか?」
「それだけではありません」
ミレイユが答えた。
「この文だと、あなた自身が、点検は終わったと確かめたことになります」
「俺は見てない」
ニルスはすぐに言った。
「紙に書いてあったから、そう伝えただけだ。足場の点検なんか、俺にはできない」
エッカルトが掌を開いた。
「点検そのものをしたと言っているのではない。完了の通知を受け取った。その確認だ。書面では、こういう言い方をする」
「それなら、通知を受け取って親方へ渡した、と書けばよいでしょう」
イゾルデの声は低かった。
「誰から通知を受け取ったかも含めて」
室内が静かになった。
修司は、紙の上ではなく、ニルスの手を見ていた。若者は差し出された筆へ触れかけ、止まっている。エッカルトに逆らうことと、事実と違う文へ名を書くことの間で、決めかねているようだった。
「ニルスさん」
修司は、自分の声を少しだけゆっくりにした。
「あなたが今、確かめたかったのは、働いた日と賃金ですね」
若者がうなずく。
「事故についての文章は、今初めて読みましたか」
「うん」
「なら、まとめて答えなくて大丈夫です。日数が合っていても、ほかの部分まで合っていることにはなりません」
ニルスは紙へ目を戻した。今度は金額から署名欄へ飛ばさず、ミレイユが指している文章を追った。
「ここは、違う」
彼は筆を取らずに言った。
「俺は、あんたから受け取った紙を渡した。それだけだ。これには、名前を書けない」
エッカルトの表情から、初めて事務的な笑みが消えた。
「私から受け取ったのは事実だ。否定していない。だが、私も預かったものを運んだだけだよ」
「誰からですか」
間を置かず、イゾルデが尋ねた。
「工事会計室の、発送する書類を置く棚です。朝には、渡し先を記した束が置かれています。私はその日の配達分を持ち出した」
「あなたへ手渡した者はいない?」
「そういう日もあります。私一人で、すべての紙を作っているわけではありません」
イゾルデはミレイユに記録させた。
「では、その棚へ置いた者と、書面を作った者を確かめます。あなたの配達の控えも、見せてください」
エッカルトは、持参した帳面へ手を置いたまま答えた。
「控えは、会計室にあります」
「人を出します。保管場所を説明してください」
クラウディアが言った。
「あなたの説明も必要ですから、その間はここにいていただきます。確認する兵には、私から指示を出します」
エッカルトは少しだけ顎を引いた。
「承知しました。ただ、書類が揃わなければ、支払いが遅れます。ほかの作業人にも迷惑が」
「何が揃わなければ、払えないのですか」
クラウディアは、彼が差し出した紙を机へ置いた。
「勤務の日数と金額を確かめるために、事故の責任について、この文章へ署名する必要があるのですか」
「責任を決めるつもりでは」
「それなら分けられますね。勤務記録と未払いの額は、ミレイユと別の会計担当に照合させます。この確認書とは切り離してください」
エッカルトは返事をしなかった。
ニルスが、机の下でゆっくり手を開いた。
修司は、その手を見ていた。
介護の現場でも、説明が長くなれば、途中からうなずくだけになる人がいた。早く終わらせたいから、相手を怒らせたくないから、よく分からなくても返事をする。その返事を、こちらの都合のよい同意として扱ってはいけなかった。
聞きたいことを一つずつ分ける。分からないところへ戻る。本人が違うと言ったら、そこで止まる。
今、ニルスは自分で止めることができた。
「この紙は、調べの記録として預かります」
イゾルデが言った。
「エッカルト。検分完了を本人が確かめたという文は、誰の報告をもとに書いたのですか」
「現場から、親方へ完了が伝えられたと……」
「伝えられた内容は、あなたが運んだ通知にあった。それは今、あなたも認めました。ニルス本人が現場を確かめたという報告は、どこにありますか」
男は唇を結んだ。
「用語が、適切ではなかったかもしれません」
「では、それも記録します。用語の問題だけなのかは、ほかの記録と合わせて確かめましょう」
イゾルデは兵士を呼び、エッカルトを入口側の控え室へ戻した。書類入れと持参した帳面は、本人の前で中身を確かめてから預かる。男は抗議しかけたが、クラウディアが席を立たないのを見て、口を閉じた。
扉が閉じても、ニルスはしばらくその方を見ていた。
「これで、よかったのか」
「さっきの文章が違うと思ったなら、それを言ってよかったんです」
修司が答えると、若者は大きく息を吐いた。
「読める字だったのに、読んでなかった」
彼は机に残った筆を見た。
「金が、これだけもらえると思ったら……その下へ名を書けば、終わると思った」
「そう見える並べ方になっていました」
修司は紙の上部と下部を指した。
「ただ、見落としやすいことと、わざと見落とさせようとしたかどうかは別です。そこは、イゾルデさんたちが調べます」
クラウディアは紙を見下ろし、眉を寄せた。
「同じ紙の上で、必要な説明を伝えることも、目立たなくすることもできるのですね」
「できます。だから、何を先に見せるかは大事なんです」
ミレイユは別の紙を取り、ニルスが実際に話したことだけを書き直した。
書記エッカルトから通知を受け取ったこと。親方へ届けたこと。自分では足場の点検をしていないこと。彼女は一文ずつ読み上げ、ニルスに確かめてもらった。
「ここ、親方へ渡したのは、小屋の前じゃない。排水溝から戻ってきたところへ、俺が持っていった」
ニルスが言うと、ミレイユはすぐに書き直した。
「これで合っていますか」
「うん」
最後まで読み終えてから、彼は筆を取った。修司も、ほかの誰も、署名する手を急かさなかった。
書き上げられた名は、少し右へ傾いていた。それでもニルスは筆を置くと、自分の書いた文字をもう一度確かめた。
クラウディアは、その紙をミレイユへ預けた。
「写しも残してください。誰かが運んだ途中で、別の話にならないように」
彼女は修司を見た。
「グレーテのところへ、戻ってあげてください。二人のことは、引き続きお願いします」
「はい」
修司はニルスとともに廊下へ出た。
護衛の兵士が先に歩き、その後ろにニルス、修司と続く。入口側の控え室には別の兵が立ち、エッカルトの姿は見えなかった。
若者は何度か上着へ手をやった。脅しの紙が入っていた場所だった。
「あの人が、脅しも書いたのかな」
「まだ分かりません」
「いつも、普通に話をしていたのに」
修司は返事を探したが、すぐには見つからなかった。
顔を知っているから安心できるとも、怖いと思ったから犯人だとも言えない。だからイゾルデたちは、一つずつ確かめている。だが今の若者に、その説明を重ねることが支えになるとも思えなかった。
「まず、グレーテさんに顔を見せましょう」
修司が言うと、ニルスは前を向いた。
廊下の向こうで、荷運びの男が袋の束を抱え直していた。朝、納品の枚数を確かめていた男だった。洗濯場へ返す空の袋を回収しているらしく、手伝いが一枚渡して、厨房へ戻っていく。
先を歩く兵士が、男へ声をかけた。
「荷が済んだなら、入口へ。ここから奥には入らないでくれ」
男はうなずき、壁際へ身体を寄せた。
その腕から、一枚の袋が落ちた。
ニルスが足を止めたとき、男の右手が、残った束の下から出てきた。
短い刃が見えた。
「下がれ!」
兵士がニルスの前へ割って入った。刃が腕の革当てを擦り、男の肩と兵士の胸がぶつかる。布の束が二人の間でほどけ、壁へ押しつけられた兵士が剣を抜こうとした。
修司は、ニルスの上着を掴んで後ろへ引いた。
喉が乾き、息が吸えなかった。刃物を持った人間が、手の届くところにいる。そう理解した瞬間、膝の奥が冷たくなった。身体を動かすべきなのに、目だけが男の右手を追っている。
男は兵士に腕を掴まれながらも、身体をひねり、ニルスのいる方へ刃を伸ばそうとした。修司の背後で、若者が壁へぶつかる音がした。
廊下は狭い。後ろには、逃がさなければならない人がいる。
修司は震える息を吐き、正面から腕を掴みにいこうとした手を止めた。
足が、半歩だけ位置を変えた。
磨かれた板張りの床を踏んでいるはずなのに、足の裏には、何年も通った道場の畳の感触がよみがえっていた。




