第十七話 話せる場所
グレーテの布を畳む手が止まったのは、朝食の片づけが終わる頃だった。
窓から離した小卓には、洗い上がった布が数枚置かれていた。グレーテは椅子へ座り、一枚ずつ端を揃えている。その向かいで水差しを替えていた修司は、彼女が入口を見つめたまま動かなくなったことに気づいた。
「ニルス。どうしたんだい、その顔は」
戸口に、二十歳ほどの若者が立っていた。粗い上着の裾に乾いた泥がつき、片手には小さな籠を提げている。入口の兵士へ名を告げて入ってきたところまでは、修司も見ていた。
ニルスは籠を卓へ置いた。中には林檎が二つ入っていたが、ひとつは底に強く押しつけられ、皮が裂けていた。
「迎えに来た。帰ろう、婆ちゃん」
「何を急に。今日は仕事じゃないのかい」
「いいから。荷物はあとで取りに来る」
ニルスがグレーテの腕へ手を伸ばしたので、修司は声をかけた。
「立つときには、まだ支えが要ります。急に引かないでください」
若者の手が止まった。
「……あんたは」
「ここで生活の手伝いをしている、タカセです」
「この人が、椅子へ座れるようにしてくれたんだよ」
グレーテはそう言ってから、孫の手を見た。
「帰るなら、私にも話をおし。ここへ入るときだって、二人で相談したじゃないか」
ニルスは答えなかった。大部屋の入口へ目を向け、それから窓の外を見た。グレーテを起こそうとしていた手が、膝の横で強く握られている。
修司は若者を挟み込む位置に立たないようにして、卓の脇へ椅子を引いた。
「先に座りませんか。グレーテさんを家へ連れて帰るにしても、今の身体でどう移動するか、治癒術師に確かめる必要があります」
「そんな時間はない」
「何か、ここにいては困ることがありましたか」
ニルスの唇が動いた。だが言葉になる前に、廊下から兵士の声がした。
「石運びのニルスは、こちらに来ていますか」
若者の肩が跳ねた。
入ってきたのは、イゾルデの部下だった。戸口で足を止め、若者の顔を確かめる。
「昨日、家へ伝言を残した。第三塔で受け取った書面について、副長がお話を聞きたいそうだ」
ニルスは椅子の背を掴んだまま、うつむいた。
修司は、昨日の親方の話を思い出した。資材小屋の番をしていた若い石運び。その若者が、例の通知を親方へ運んだという。
名前は帳面に書かれていたが、目の前にいるグレーテの孫と結びつくのは、これが初めてだった。
「俺は、渡しただけだ」
「その前に誰から受け取ったかを、確かめたい」
「知らない。使いだと言われた」
兵士が何か言いかけたところで、修司は手を上げた。
「ここには、ほかにも休んでいる方がいます。話をする場所を移せませんか」
兵士は室内を見回し、うなずいた。
「副長を呼んでくる。逃げずに待っていてくれ」
彼が戸口へ戻ると、ニルスの膝から力が抜けた。椅子へ腰を落とし、籠を引き寄せる。その手は、細かく震えていた。
修司には、震える理由までは分からなかった。罪を隠しているのか、疑われることを恐れているのか。それとも、ほかに何かあるのか。身体の様子を見ただけで、人の心へ答えをつけることはできない。
グレーテが、畳みかけの布を卓へ置いた。
「私の顔を見てごらん」
ニルスは顔を上げなかった。
「帰らなければならないのは、私のためかい」
しばらくして、若者は小さくうなずいた。
修司は近くの手伝いへ声をかけ、大部屋を見ていてもらうことを確かめてから、ニルスへ向き直った。
「グレーテさんを一人にはしません。ここで言いにくいことなら、隣の記録室で聞けます」
「兵には……」
「危険があるなら、守る人には伝える必要があります。ただ、何を誰に話すのかは、あなたにも説明します」
聞き出すためだけに、誰にも言わないと約束することはできなかった。
ニルスは顔を上げ、初めて修司をまっすぐ見た。それから上着の内側へ手を入れ、何度も折り曲げられた紙を取り出した。
「昨日、帰ったら、これが……」
差し出された紙には、短い一文が書かれていた。
『紙の出所を話せば、救護院のグレーテが次だ』
修司は息を止めた。
紙の端は湿って柔らかくなり、折り目の重なるところは擦り切れかけていた。修司が読んでいる間も、ニルスはその端を離そうとしなかった。
「婆ちゃんは、何も知らない。俺が紙を運んだことも」
「ニルスさん。この紙を、イゾルデさんに見せてもよいですか」
「見せたら、あいつらは」
「家へ戻っても、そこが安全だとは、まだ分かりません」
若者は答えなかった。
修司は声を落とした。
「俺一人では、守りきれません。だから、守ることを仕事にしている人に頼みたいんです」
グレーテが、孫の手のそばへ自分の手を置いた。紙を奪おうとはせず、ただそこに置いて待つ。ニルスは祖母の指を見つめ、やがて一度だけうなずいた。
イゾルデが来ると、修司は記録室で紙を見せた。若者も同行したが、扉は細く開け、大部屋にいるグレーテの姿が見えるようにしてあった。
イゾルデは読み終えても、すぐには質問しなかった。部下を呼び、短く指示を出す。
「グレーテ殿と、この若者のそばへ一人ずつ。面会者は本人との関係を確かめてから通しなさい。ほかの患者の家族を、一律に追い返すことはしないように」
「御意」
「二人の家も調べます。まず、ほかに住んでいる人がいるかを確認して」
ニルスが首を横に振った。家は二人きりで、祖母がここへ入ってからは自分だけだという。
イゾルデはそれを記録させ、若者へ向き直った。
「家へ戻るより、警護をつけられるここにいてほしい。グレーテ殿にも、事情を話します」
「婆ちゃんにまで?」
「あの方が知らずに外へ出たり、知り合いだからと誰かを通したりすれば、守るのが難しくなります。何に気をつけるか、ご本人にも分かっていただく必要があります」
ニルスは唇を噛み、それから小さく頭を下げた。
話を聞いたグレーテは、長い間、卓の上の布を見ていた。
気丈な声で孫を迎えた老女の顔にも、恐れが浮かんでいた。乾いた指が布の角を折り、伸ばし、また折る。
「部屋を替えるのかい」
「廊下の奥の小部屋です。出入り口が一つなので、人の出入りを確かめやすい。エヴァ殿にも来ていただきます」
イゾルデが説明すると、グレーテは部屋の奥を見た。ロルフや、いつも話をしている老人たちの寝台が並んでいる。
「そこへ行ったら、ずっと一人かい」
「ニルスさんにもいてもらえます。手伝いの方も来ます」
修司が答えると、彼女は小さく息を吐いた。
「じゃあ、この布も持っていっておくれ。何もせず、扉を見ているだけでは、余計なことを考える」
「分かりました。卓も、一緒に使えるようにします」
グレーテはそこでようやく、移ることに同意した。
小部屋の支度が整うまでの間に、エヴァが彼女の状態を確かめた。昨日より悪いところはないが、急がせて廊下を歩かせることは避けたいという。
大工が取りつけた運搬用の棒を備えた椅子を、兵士たちが運んできた。ベルンハルトを食卓へ迎える際に使ったものと同じ工夫で、救護院でも一脚用意していた。移動は兵士に任せ、グレーテには普段の椅子からこちらへ移ってもらう。
「俺が、抱える」
ニルスが前へ出た。
「家でも、俺がやっていたから」
グレーテの脇へ差し入れようとした腕を、修司は言葉で止めた。
「今は、自分で動けるところが増えています。ニルスさんには、椅子が動かないよう押さえていてもらえますか」
若者は祖母を見た。グレーテがうなずいたので、運搬用の椅子の後ろへ回る。修司はいつもの手伝いの女性と目を合わせ、エヴァの確認を待った。
《生活動作把握》
グレーテの身体に、細い光が重なった。椅子の縁へ置いた手、足元へ下ろした体重。そのつながりは弱いものの、どこで支えを必要としているかは、以前よりはっきり見分けられる。
ただし、見えたからといって、本人を急がせてよいわけではない。
「グレーテさん。準備ができたら教えてください」
彼女は新しい椅子を見て、手の位置を確かめた。
「いいよ」
修司は、そばにいる者へ意識を絞った。
《連携支援――接続》
金色の光が、グレーテを支える二人と、椅子を押さえるニルスの間へ伸びた。若者の手が、驚いたように動きを止める。
修司には、手伝いの女性が支えを受け持った瞬間が分かった。自分の手へかかる重さだけではなく、相手がどこまで受け止め、どこをまだ待っているのかが、重なる光を通して伝わってくる。
以前なら、確かめるために一度動きを止め、言葉を重ねていたところだった。
「そのままで、大丈夫です」
グレーテが息を吐く。修司たちはその動きを妨げず、足りないところだけを支えた。二人が違う方向へ引くことも、先に腰を下ろそうとして慌てることもなく、彼女は隣の椅子へ身体を収めた。
ニルスは、まだ背もたれを握っていた。
「……婆ちゃん、そんなふうに動けたのか」
「ここで毎日、少しずつやっていたんだよ」
グレーテは息を整えながら答えた。その声には、わずかに誇らしさが戻っていた。
エヴァが顔色と呼吸を確かめる。座り直す必要がないことを見届け、修司は接続を切った。
《連携支援――終了》
こめかみに痛みはなかった。光が消えたあとも、相手の手へ合わせて動いた感覚が残っている。使う相手と時間を絞れば、次の仕事へ向かう余力を残して終えられる。修司は自分の呼吸を確かめ、椅子の周囲から足元の布を片づけた。
「今のは、あんたの魔法なのか」
ニルスが尋ねた。
「俺たちが支えるタイミングを、合わせました」
「俺にも、分かった。そっちが動くまで、待っていればいいって」
修司はうなずいた。若者の手は、もう祖母を急いで抱き上げようとはしていなかった。
兵士たちが椅子を運び、ニルスが布の籠を抱えてあとを追う。小部屋には寝台も用意され、グレーテが休みたくなったときの介助を、いつもの手伝いが引き受けた。
修司が卓の高さを確かめていると、グレーテに袖を引かれた。
「あの子の話を、聞いてやっておくれ」
修司は彼女の顔を見た。
「私は、ここで待っているから」
扉の外には兵士が立ち、室内には手伝いが残った。ニルスは二度振り返ってから、修司とともに記録室へ戻った。
イゾルデとミレイユが待っていた。机の上には、昨日作った紙片の図が広げられている。第三塔と西門の間には、まだ埋まっていない空白があった。
「最初に、訂正してもいいか」
ニルスは椅子へ座る前に言った。
「朝、知らない使いだと言った。あれは、違う」
イゾルデは筆を持つミレイユを一度見て、それから若者へうなずいた。
「では、知っているところから話してください」
ニルスによれば、通知を受け取ったのは崩落当日の朝だった。資材小屋の前にいると、工事の帳面を扱う書記が一人で訪れた。これまでにも賃金や荷の受け取りの書類を運んできた男で、初めて会う相手ではなかった。
「館からの使いだ、親方へ急いで渡せと言われた。それで、持っていった」
「書記の名は?」
「エッカルト」
ミレイユの筆が止まった。
「北壁の工事書記の、エッカルトですか」
「うん。あの人だ」
イゾルデが、ミレイユへ顔を向けた。
「面識が?」
「資材の支払いを照合するときに、何度か。工事の日程変更も、彼のところへ届けられています」
昨日の夕方から追っていた線が、ひとつにつながった。
それでもイゾルデは、すぐに犯人だとは言わなかった。
「彼も、誰かから預かった可能性はある。まず、受け渡しの事実を確かめます。ニルス、その場を見ていた者はいますか」
「小屋の裏で、荷馬車から縄を下ろしていた人が二人。俺が紙を受け取るところまで見たかは、分からない」
「それでよいです。こちらで聞きます」
ミレイユが、紙片へエッカルトの名を書き込んだ。修司はそれを、資材小屋から親方へ伸びる線の手前へ置いた。
まだ実線で囲むことはしない。今あるのはニルスの証言であり、ほかの者が見たことや、書記自身の話と合わせて確かめなければならなかった。
「昨日は、なぜ家へ来た兵に会えなかったのですか」
「町の外へ、空の荷車を返しに行っていた。戻ったのは日が落ちてからだ。戸に伝言が挟んであって……その下に、この紙もあった」
ニルスは、布の上に置かれた脅しの紙を見た。
「誰が書いたかは、分からない。でも、話すなと言われて、怖くなった。あの足場みたいに、婆ちゃんまで何かされたら」
声が途切れた。修司は水椀を若者の前へ置き、飲むまで次の質問を待ってもらった。
技能を使って、正しい答えを引き出したわけではない。
祖母のいる場所を本人と相談し、警護を頼み、いつもの世話を続けられるようにした。ニルスが話し始めたのは、それを自分の目で見届けたあとだった。
「俺が運ばなければ、親方たちは」
ニルスの言葉に、修司は昨日の親方の声を思い出した。
俺が上へ行けと言った。あいつらは、俺に従っただけだ。
自分のしたことを、同じように抱えている者がいる。
「親方も、あなたのことを聞かれて、覚えていることを話してくれました。誰から何が届いたのかを、今、一つずつつないでいるところです」
修司は図の上を指した。
「あなたが話してくれた分だけ、ここが先へ進みました」
ニルスは自分の名が書かれた紙片を見た。しばらくして、水椀を両手で持ち直し、うなずいた。
聞き取りが終わると、イゾルデは部下へ仕事を分けた。資材小屋にいた者の確認、ニルスの家の調査、そしてエッカルトの所在。二通目の命令書を誰が運んだかについても、別の兵が調べている。
ニルスがグレーテの小部屋へ戻ったあと、ミレイユは新しく加わった紙片を見下ろした。
「今朝、兵がそのまま連れてきても、知らないと言い続けたかもしれませんね」
「どうでしょう。ただ、グレーテさんのことが心配なままでは、話せなかったと思います」
修司は空になった水椀を重ねた。
イゾルデが脅しの紙を包み直し、顔を上げる。
「人を守ることと、調べを進めることを、分けて考えすぎていました。こちらの都合で呼べば、話せる状態で来るとは限りませんね」
その言葉に、修司は短くうなずいた。
廊下の奥から、グレーテの声が聞こえた。
「その林檎は、傷んだところを除けば食べられるよ。そんな顔をして見ていたって、元には戻らない」
続いて、ニルスが何か答えた。声は小さくて聞き取れなかったが、朝のように祖母を急かしてはいなかった。
修司は少しだけ肩の力を抜いた。
そこへ、入口を守っていた兵士がやってきた。イゾルデを見つけると足を止め、声を低くする。
「副長。工事書記のエッカルトと名乗る男が来ています」
ミレイユの手から、紙片が一枚落ちた。
「こちらへ?」
「はい。石運びのニルスを迎えに来た、と。工事に関する急ぎの確認があるそうです」
イゾルデは椅子から立った。
「門前で待たせなさい。書面を持っていても、若者は引き渡さない。私が会います」
兵士が戻っていくと、彼女は修司へ視線を向けた。
「二人のそばを、お願いします」
「分かりました」
修司は廊下の奥へ歩き出した。小部屋の扉は開いていて、グレーテが畳んだ布の上に、ニルスの手が置かれているのが見えた。
机の上で名前を追っていた相手が、今は救護院の入口にいる。
修司は二人の部屋へ入り、窓のそばではなく、廊下から誰が来るかを見渡せる椅子へ腰を下ろした。




