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国を立たせる介護士 ~52歳で異世界召喚された外れ職《生活支援士》、寝たきりの老将から滅びかけた王国まで再建する~  作者: 狼賀亮一郎
第一部 グランフェル辺境領再建編

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第十七話 話せる場所

グレーテの布を畳む手が止まったのは、朝食の片づけが終わる頃だった。


 窓から離した小卓には、洗い上がった布が数枚置かれていた。グレーテは椅子へ座り、一枚ずつ端を揃えている。その向かいで水差しを替えていた修司は、彼女が入口を見つめたまま動かなくなったことに気づいた。


「ニルス。どうしたんだい、その顔は」


 戸口に、二十歳ほどの若者が立っていた。粗い上着の裾に乾いた泥がつき、片手には小さな籠を提げている。入口の兵士へ名を告げて入ってきたところまでは、修司も見ていた。


 ニルスは籠を卓へ置いた。中には林檎が二つ入っていたが、ひとつは底に強く押しつけられ、皮が裂けていた。


「迎えに来た。帰ろう、婆ちゃん」


「何を急に。今日は仕事じゃないのかい」


「いいから。荷物はあとで取りに来る」


 ニルスがグレーテの腕へ手を伸ばしたので、修司は声をかけた。


「立つときには、まだ支えが要ります。急に引かないでください」


 若者の手が止まった。


「……あんたは」


「ここで生活の手伝いをしている、タカセです」


「この人が、椅子へ座れるようにしてくれたんだよ」


 グレーテはそう言ってから、孫の手を見た。


「帰るなら、私にも話をおし。ここへ入るときだって、二人で相談したじゃないか」


 ニルスは答えなかった。大部屋の入口へ目を向け、それから窓の外を見た。グレーテを起こそうとしていた手が、膝の横で強く握られている。


 修司は若者を挟み込む位置に立たないようにして、卓の脇へ椅子を引いた。


「先に座りませんか。グレーテさんを家へ連れて帰るにしても、今の身体でどう移動するか、治癒術師に確かめる必要があります」


「そんな時間はない」


「何か、ここにいては困ることがありましたか」


 ニルスの唇が動いた。だが言葉になる前に、廊下から兵士の声がした。


「石運びのニルスは、こちらに来ていますか」


 若者の肩が跳ねた。


 入ってきたのは、イゾルデの部下だった。戸口で足を止め、若者の顔を確かめる。


「昨日、家へ伝言を残した。第三塔で受け取った書面について、副長がお話を聞きたいそうだ」


 ニルスは椅子の背を掴んだまま、うつむいた。


 修司は、昨日の親方の話を思い出した。資材小屋の番をしていた若い石運び。その若者が、例の通知を親方へ運んだという。


 名前は帳面に書かれていたが、目の前にいるグレーテの孫と結びつくのは、これが初めてだった。


「俺は、渡しただけだ」


「その前に誰から受け取ったかを、確かめたい」


「知らない。使いだと言われた」


 兵士が何か言いかけたところで、修司は手を上げた。


「ここには、ほかにも休んでいる方がいます。話をする場所を移せませんか」


 兵士は室内を見回し、うなずいた。


「副長を呼んでくる。逃げずに待っていてくれ」


 彼が戸口へ戻ると、ニルスの膝から力が抜けた。椅子へ腰を落とし、籠を引き寄せる。その手は、細かく震えていた。


 修司には、震える理由までは分からなかった。罪を隠しているのか、疑われることを恐れているのか。それとも、ほかに何かあるのか。身体の様子を見ただけで、人の心へ答えをつけることはできない。


 グレーテが、畳みかけの布を卓へ置いた。


「私の顔を見てごらん」


 ニルスは顔を上げなかった。


「帰らなければならないのは、私のためかい」


 しばらくして、若者は小さくうなずいた。


 修司は近くの手伝いへ声をかけ、大部屋を見ていてもらうことを確かめてから、ニルスへ向き直った。


「グレーテさんを一人にはしません。ここで言いにくいことなら、隣の記録室で聞けます」


「兵には……」


「危険があるなら、守る人には伝える必要があります。ただ、何を誰に話すのかは、あなたにも説明します」


 聞き出すためだけに、誰にも言わないと約束することはできなかった。


 ニルスは顔を上げ、初めて修司をまっすぐ見た。それから上着の内側へ手を入れ、何度も折り曲げられた紙を取り出した。


「昨日、帰ったら、これが……」


 差し出された紙には、短い一文が書かれていた。


『紙の出所を話せば、救護院のグレーテが次だ』


 修司は息を止めた。


 紙の端は湿って柔らかくなり、折り目の重なるところは擦り切れかけていた。修司が読んでいる間も、ニルスはその端を離そうとしなかった。


「婆ちゃんは、何も知らない。俺が紙を運んだことも」


「ニルスさん。この紙を、イゾルデさんに見せてもよいですか」


「見せたら、あいつらは」


「家へ戻っても、そこが安全だとは、まだ分かりません」


 若者は答えなかった。


 修司は声を落とした。


「俺一人では、守りきれません。だから、守ることを仕事にしている人に頼みたいんです」


 グレーテが、孫の手のそばへ自分の手を置いた。紙を奪おうとはせず、ただそこに置いて待つ。ニルスは祖母の指を見つめ、やがて一度だけうなずいた。


 イゾルデが来ると、修司は記録室で紙を見せた。若者も同行したが、扉は細く開け、大部屋にいるグレーテの姿が見えるようにしてあった。


 イゾルデは読み終えても、すぐには質問しなかった。部下を呼び、短く指示を出す。


「グレーテ殿と、この若者のそばへ一人ずつ。面会者は本人との関係を確かめてから通しなさい。ほかの患者の家族を、一律に追い返すことはしないように」


「御意」


「二人の家も調べます。まず、ほかに住んでいる人がいるかを確認して」


 ニルスが首を横に振った。家は二人きりで、祖母がここへ入ってからは自分だけだという。


 イゾルデはそれを記録させ、若者へ向き直った。


「家へ戻るより、警護をつけられるここにいてほしい。グレーテ殿にも、事情を話します」


「婆ちゃんにまで?」


「あの方が知らずに外へ出たり、知り合いだからと誰かを通したりすれば、守るのが難しくなります。何に気をつけるか、ご本人にも分かっていただく必要があります」


 ニルスは唇を噛み、それから小さく頭を下げた。


 話を聞いたグレーテは、長い間、卓の上の布を見ていた。


 気丈な声で孫を迎えた老女の顔にも、恐れが浮かんでいた。乾いた指が布の角を折り、伸ばし、また折る。


「部屋を替えるのかい」


「廊下の奥の小部屋です。出入り口が一つなので、人の出入りを確かめやすい。エヴァ殿にも来ていただきます」


 イゾルデが説明すると、グレーテは部屋の奥を見た。ロルフや、いつも話をしている老人たちの寝台が並んでいる。


「そこへ行ったら、ずっと一人かい」


「ニルスさんにもいてもらえます。手伝いの方も来ます」


 修司が答えると、彼女は小さく息を吐いた。


「じゃあ、この布も持っていっておくれ。何もせず、扉を見ているだけでは、余計なことを考える」


「分かりました。卓も、一緒に使えるようにします」


 グレーテはそこでようやく、移ることに同意した。


 小部屋の支度が整うまでの間に、エヴァが彼女の状態を確かめた。昨日より悪いところはないが、急がせて廊下を歩かせることは避けたいという。


 大工が取りつけた運搬用の棒を備えた椅子を、兵士たちが運んできた。ベルンハルトを食卓へ迎える際に使ったものと同じ工夫で、救護院でも一脚用意していた。移動は兵士に任せ、グレーテには普段の椅子からこちらへ移ってもらう。


「俺が、抱える」


 ニルスが前へ出た。


「家でも、俺がやっていたから」


 グレーテの脇へ差し入れようとした腕を、修司は言葉で止めた。


「今は、自分で動けるところが増えています。ニルスさんには、椅子が動かないよう押さえていてもらえますか」


 若者は祖母を見た。グレーテがうなずいたので、運搬用の椅子の後ろへ回る。修司はいつもの手伝いの女性と目を合わせ、エヴァの確認を待った。


《生活動作把握》


 グレーテの身体に、細い光が重なった。椅子の縁へ置いた手、足元へ下ろした体重。そのつながりは弱いものの、どこで支えを必要としているかは、以前よりはっきり見分けられる。


 ただし、見えたからといって、本人を急がせてよいわけではない。


「グレーテさん。準備ができたら教えてください」


 彼女は新しい椅子を見て、手の位置を確かめた。


「いいよ」


 修司は、そばにいる者へ意識を絞った。


《連携支援――接続》


 金色の光が、グレーテを支える二人と、椅子を押さえるニルスの間へ伸びた。若者の手が、驚いたように動きを止める。


 修司には、手伝いの女性が支えを受け持った瞬間が分かった。自分の手へかかる重さだけではなく、相手がどこまで受け止め、どこをまだ待っているのかが、重なる光を通して伝わってくる。


 以前なら、確かめるために一度動きを止め、言葉を重ねていたところだった。


「そのままで、大丈夫です」


 グレーテが息を吐く。修司たちはその動きを妨げず、足りないところだけを支えた。二人が違う方向へ引くことも、先に腰を下ろそうとして慌てることもなく、彼女は隣の椅子へ身体を収めた。


 ニルスは、まだ背もたれを握っていた。


「……婆ちゃん、そんなふうに動けたのか」


「ここで毎日、少しずつやっていたんだよ」


 グレーテは息を整えながら答えた。その声には、わずかに誇らしさが戻っていた。


 エヴァが顔色と呼吸を確かめる。座り直す必要がないことを見届け、修司は接続を切った。


《連携支援――終了》


 こめかみに痛みはなかった。光が消えたあとも、相手の手へ合わせて動いた感覚が残っている。使う相手と時間を絞れば、次の仕事へ向かう余力を残して終えられる。修司は自分の呼吸を確かめ、椅子の周囲から足元の布を片づけた。


「今のは、あんたの魔法なのか」


 ニルスが尋ねた。


「俺たちが支えるタイミングを、合わせました」


「俺にも、分かった。そっちが動くまで、待っていればいいって」


 修司はうなずいた。若者の手は、もう祖母を急いで抱き上げようとはしていなかった。


 兵士たちが椅子を運び、ニルスが布の籠を抱えてあとを追う。小部屋には寝台も用意され、グレーテが休みたくなったときの介助を、いつもの手伝いが引き受けた。


 修司が卓の高さを確かめていると、グレーテに袖を引かれた。


「あの子の話を、聞いてやっておくれ」


 修司は彼女の顔を見た。


「私は、ここで待っているから」


 扉の外には兵士が立ち、室内には手伝いが残った。ニルスは二度振り返ってから、修司とともに記録室へ戻った。


 イゾルデとミレイユが待っていた。机の上には、昨日作った紙片の図が広げられている。第三塔と西門の間には、まだ埋まっていない空白があった。


「最初に、訂正してもいいか」


 ニルスは椅子へ座る前に言った。


「朝、知らない使いだと言った。あれは、違う」


 イゾルデは筆を持つミレイユを一度見て、それから若者へうなずいた。


「では、知っているところから話してください」


 ニルスによれば、通知を受け取ったのは崩落当日の朝だった。資材小屋の前にいると、工事の帳面を扱う書記が一人で訪れた。これまでにも賃金や荷の受け取りの書類を運んできた男で、初めて会う相手ではなかった。


「館からの使いだ、親方へ急いで渡せと言われた。それで、持っていった」


「書記の名は?」


「エッカルト」


 ミレイユの筆が止まった。


「北壁の工事書記の、エッカルトですか」


「うん。あの人だ」


 イゾルデが、ミレイユへ顔を向けた。


「面識が?」


「資材の支払いを照合するときに、何度か。工事の日程変更も、彼のところへ届けられています」


 昨日の夕方から追っていた線が、ひとつにつながった。


 それでもイゾルデは、すぐに犯人だとは言わなかった。


「彼も、誰かから預かった可能性はある。まず、受け渡しの事実を確かめます。ニルス、その場を見ていた者はいますか」


「小屋の裏で、荷馬車から縄を下ろしていた人が二人。俺が紙を受け取るところまで見たかは、分からない」


「それでよいです。こちらで聞きます」


 ミレイユが、紙片へエッカルトの名を書き込んだ。修司はそれを、資材小屋から親方へ伸びる線の手前へ置いた。


 まだ実線で囲むことはしない。今あるのはニルスの証言であり、ほかの者が見たことや、書記自身の話と合わせて確かめなければならなかった。


「昨日は、なぜ家へ来た兵に会えなかったのですか」


「町の外へ、空の荷車を返しに行っていた。戻ったのは日が落ちてからだ。戸に伝言が挟んであって……その下に、この紙もあった」


 ニルスは、布の上に置かれた脅しの紙を見た。


「誰が書いたかは、分からない。でも、話すなと言われて、怖くなった。あの足場みたいに、婆ちゃんまで何かされたら」


 声が途切れた。修司は水椀を若者の前へ置き、飲むまで次の質問を待ってもらった。


 技能を使って、正しい答えを引き出したわけではない。


 祖母のいる場所を本人と相談し、警護を頼み、いつもの世話を続けられるようにした。ニルスが話し始めたのは、それを自分の目で見届けたあとだった。


「俺が運ばなければ、親方たちは」


 ニルスの言葉に、修司は昨日の親方の声を思い出した。


 俺が上へ行けと言った。あいつらは、俺に従っただけだ。


 自分のしたことを、同じように抱えている者がいる。


「親方も、あなたのことを聞かれて、覚えていることを話してくれました。誰から何が届いたのかを、今、一つずつつないでいるところです」


 修司は図の上を指した。


「あなたが話してくれた分だけ、ここが先へ進みました」


 ニルスは自分の名が書かれた紙片を見た。しばらくして、水椀を両手で持ち直し、うなずいた。


 聞き取りが終わると、イゾルデは部下へ仕事を分けた。資材小屋にいた者の確認、ニルスの家の調査、そしてエッカルトの所在。二通目の命令書を誰が運んだかについても、別の兵が調べている。


 ニルスがグレーテの小部屋へ戻ったあと、ミレイユは新しく加わった紙片を見下ろした。


「今朝、兵がそのまま連れてきても、知らないと言い続けたかもしれませんね」


「どうでしょう。ただ、グレーテさんのことが心配なままでは、話せなかったと思います」


 修司は空になった水椀を重ねた。


 イゾルデが脅しの紙を包み直し、顔を上げる。


「人を守ることと、調べを進めることを、分けて考えすぎていました。こちらの都合で呼べば、話せる状態で来るとは限りませんね」


 その言葉に、修司は短くうなずいた。


 廊下の奥から、グレーテの声が聞こえた。


「その林檎は、傷んだところを除けば食べられるよ。そんな顔をして見ていたって、元には戻らない」


 続いて、ニルスが何か答えた。声は小さくて聞き取れなかったが、朝のように祖母を急かしてはいなかった。


 修司は少しだけ肩の力を抜いた。


 そこへ、入口を守っていた兵士がやってきた。イゾルデを見つけると足を止め、声を低くする。


「副長。工事書記のエッカルトと名乗る男が来ています」


 ミレイユの手から、紙片が一枚落ちた。


「こちらへ?」


「はい。石運びのニルスを迎えに来た、と。工事に関する急ぎの確認があるそうです」


 イゾルデは椅子から立った。


「門前で待たせなさい。書面を持っていても、若者は引き渡さない。私が会います」


 兵士が戻っていくと、彼女は修司へ視線を向けた。


「二人のそばを、お願いします」


「分かりました」


 修司は廊下の奥へ歩き出した。小部屋の扉は開いていて、グレーテが畳んだ布の上に、ニルスの手が置かれているのが見えた。


 机の上で名前を追っていた相手が、今は救護院の入口にいる。


 修司は二人の部屋へ入り、窓のそばではなく、廊下から誰が来るかを見渡せる椅子へ腰を下ろした。

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