第十六話 二枚の命令書
昼前に目を覚ました修司は、まず窓の外を見た。
救護院の裏庭では、洗った布が風に揺れていた。干し綱の下を、水桶を抱えた手伝いの女性が通っていく。夜中に何度も聞いた苦しげな声は、今は聞こえない。
身体を起こすと、膝へ掛けられていた毛布が床へ滑り落ちた。拾おうとして腰をかがめ、思わず顔をしかめる。夜のうちには気づかなかった疲れが、眠ったあとになって出てきていた。
枕元には、朝の引き継ぎで使った紙が畳んで置かれていた。その上に、ミレイユの几帳面な字で一行だけ書き添えてある。
『起きたら先に食事を。エヴァ先生からです』
修司は小さく笑い、毛布を畳んで椅子へ置いた。
食堂へ向かう途中、大部屋の入口からロルフが見えた。寝台の上で上体を支えられ、向かいの患者へ何かを話している。昨日までより小さな声だったが、周囲が騒がしかった夜を越えても、彼のために作った支えは片づけられていなかった。
新しく運ばれてきた者の世話が増えても、元からいた者の暮らしは続いている。それを見届けてから、修司は食堂へ入った。
パンを食べ終える頃、イゾルデが姿を見せた。
「食事の途中ではありませんね」
「今、終わりました」
「では少し、手を貸していただきたい。石工の親方から話を聞くのですが、あなたにもいてほしいのです」
修司は椀を置いた。
「傷の具合は?」
「エヴァ殿の許しは得ています。ただし短く、疲れたらそこで終わりにするという条件です」
昨夜の縄の切れ目と、明け方に見せられた書面が頭へ浮かんだ。修司は自分の木札に触れ、イゾルデのあとに続いた。
親方は礼拝室の奥にある寝台で、背へ厚い布を当ててもらっていた。食卓で守備隊長とやり合っていたときの声はなく、頬には剃り残した髭が伸びている。
寝台の横にはエヴァがいた。ミレイユは少し離れた小卓で帳面を開き、イゾルデの部下が扉の外へ下がる。ほかの患者へ聞こえないよう、声を抑えての聞き取りだった。
「先ほどお話ししたとおり、足場の縄に、人が手を加えた疑いがあります」
イゾルデの言葉に、親方の顎がこわばった。
「俺が切ったとでも」
「そうは言っていません。あの日、誰が現場へ入り、何を伝えたのかを調べています」
「俺が上へ行けと言った。あいつらは、俺に従っただけだ」
親方は掛布を握った。イゾルデが次の言葉を待っても、同じことを繰り返すばかりだった。
修司は空いた椅子へ腰を下ろした。
「今、誰のことが気になっていますか」
親方の目が、ゆっくりこちらへ向いた。
「……若いのが二人いた。俺のすぐ下で、石を受けていた」
「トーマさんと、レンツさんですか」
親方がうなずいたので、修司はエヴァを見た。彼女は今朝の状態を、親方に分かる言葉で伝えた。二人とも治療を受けており、今すぐ仕事へ戻せるわけではないが、命を脅かす状態にはないという説明だった。
親方の指から、少しずつ力が抜けた。
「トーマさんも、昨夜はレンツさんのことを気にしていました」
「あいつは、俺の言うことを聞いて先に降りたんだ」
「それも、あとで聞かせてください。今は、作業を始める前のことだけで大丈夫です」
修司は親方の返事を待った。間を埋めようとして質問を重ねれば、何を答えればよいのか分からなくなる。本人の中で整理できていない話を、聞く側の都合だけで順番どおりに取り出すことはできない。
やがて親方が、寝台の脇に置かれた書面の写しへ目を向けた。
「それを持ってきたのは、石運びの若い衆だ。俺が、資材小屋の番をさせていた」
ミレイユが筆を動かす。
「その人が、どこから受け取ったかは?」
イゾルデが尋ねた。
「使いの者だと言っていた。館から来たと聞いたが、俺はそいつの顔を見ていない」
「紙を見て、すぐに作業を始めたのですか」
「いや。点検の兵が来ていないから、下で石を選別させていた。急かされたって、荷を上げる前には見なきゃならん」
親方の声に、初めて以前の頑固さが戻った。
「だが、そこに点検は済んだと書いてあった。俺が排水溝へ行っている間に来たのかと思ったんだ。だから、荷を上げさせた」
修司は書面へ目を落とした。
親方は、点検が不要だと考えたのではなかった。必要だからこそ待っていたところへ、終わったと知らせる紙が届いたのだ。
「若い衆の名を教えてください。次は、その者に確かめます」
イゾルデが言ったところで、エヴァが親方の肩へ手を添えた。
「今日はここまでです。続きは、休んでからにしましょう」
「まだ話せる」
「話せることと、休まなくてよいことは別です」
親方は口を閉じた。修司は立ち上がり、寝台の脇へ寄せてあった水椀を、本人が取りやすい位置へ置き直した。
「覚えていないところを、無理に埋めなくて大丈夫です」
「それでも、調べられるのか」
「分からない部分は、ほかの人の話と照らし合わせます。あとから思い出したことがあれば、また教えてください」
答えたのはイゾルデだった。
記録室へ戻ると、机の半分が紙で埋まっていた。
現場にいた者の名前、資材の出入り、守備隊の勤務、館から出した指示。ミレイユが書き留めたもののほかに、イゾルデの部下が集めてきた報告もある。どれも必要な記録なのだろうが、一枚を読んで次へ移るたび、修司の頭から前の時刻が抜け落ちそうになった。
クラウディアも机の前にいた。頬の当て布は小さくなっていたが、書面を見る目は厳しい。
「印は、まだ確認が終わっていません。館のものに似せて押したのか、印そのものを不正に使ったのかも」
彼女は明け方の書面を示した。
「ただ、この通知を作らせた記録はありません。私が確認した正式な作業日程では、守備隊の点検を待ってから荷を上げることになっています」
「点検の担当者は、なぜ来なかったのでしょう」
修司の問いに、イゾルデが別の紙を差し出した。
「西門の搬入口へ回っています。石材を積んだ荷車が着くので、そちらを先に検めろと。担当者は口頭で受けた指示ではなく、勤務変更の書面を持っています。今、取りに行かせました」
「その荷車は?」
「来ていません。少なくとも、鐘が鳴って救難へ走るまでは」
クラウディアが顔を上げた。
「点検する者を、現場から遠ざけた……?」
「その可能性があります。ただ、荷車が本当に遅れたのかどうかも確かめます」
イゾルデは別の報告へ手を伸ばした。点検担当の証言を確かめるには、門の記録がいる。親方の証言を確かめるには、資材小屋にいた者の話がいる。机に積まれた紙のどこかに、照らし合わせるべきものがあるのに、すぐには取り出せなかった。
修司は、その手元を見ていた。
昔、机の上へ何枚もの修正原稿を広げたことがある。依頼主から戻った赤字と、営業が電話で受けた変更が食い違い、どこまで直せば印刷へ回せるのか分からなくなる。締め切りだけは動かないのに、「それは前の指示です」という一言で、終わったはずの作業が振り出しへ戻った。
誰が、いつ、何を変えたのか。そこを確かめずに手を動かすと、直した箇所を次の原稿で元に戻してしまう。
「この報告を、小さな紙に書き分けてもよいですか」
修司が言うと、ミレイユは新しい紙を取り出した。
「何を書けばよいでしょう」
「まず、誰の話か。それから、その人が実際に見たことと、人から聞いたことを分けてください。時刻が曖昧なら、曖昧なままにします」
机の上にあった証拠の書面には触れず、修司は使ってよい紙だけを小さく切り分けた。短い定規を当て、紙がずれないよう指で押さえる。その動作は、画面の上で仕事をするようになる前から、身体に馴染んでいた。
ミレイユが親方の話を読み返し、一枚ずつ書く。修司は机へ大きな紙を広げ、上から下へ時間が進むよう、朝の鐘、作業開始、崩落の位置を置いた。右には第三塔、左には西門。館で出された指示は、別の列へ置く。
「ここは、順番が逆です」
ミレイユがすぐに言った。
「資材小屋から親方へ紙が届いたのは、親方が排水溝から戻ったあとです。その前に持ってきたのは、荷揚げ用の道具でした」
「では、この二枚を入れ替えましょう」
修司は紙片を動かした。線を引き直すことも、長い文章を最初から書き直すこともいらない。
イゾルデが、門番からの報告を一枚置いた。
「担当者が西門へ来たのは、この間です。朝の鐘のあと。荷を上げ始めるより前になる」
「そこまでは、門番も見ているのですね」
「そうです。到着は二人が確認している」
修司は木炭を取り、その紙片の周囲を実線で囲んだ。親方が使いの者を見ていない部分は囲まず、誰の目で確かめる必要があるかを余白へ残す。
紙片が並ぶにつれて、机の上に二つの場所の朝が現れてきた。
第三塔では、親方が点検を待っている。その間に、点検を担当する兵は西門へ向かっている。そして親方のもとへ、点検が終わったと知らせる紙が届いた。
実際に足場を確かめた人の紙片だけが、どこにもなかった。
「ここへ、本当なら点検の記録が入るはずですね」
修司が指した空白を、クラウディアは見つめた。
「片方は、誰かが自分の代わりに点検したと思っていた。もう片方は、点検より先に命じられた仕事をしていた」
そのとき、扉が叩かれた。
イゾルデの部下が二通目の書面を運んできた。点検担当者が持っていた勤務変更の指示だった。ミレイユが原本を別の机へ置き、その内容を読み上げる。
「第三塔の検分は別員にて実施する。担当者は西門へ赴き、到着予定の石材を検めること……」
クラウディアの指が、机の縁で止まった。
「別員とは、誰ですか」
「名前は、ありません」
イゾルデが原本を確かめる。守備隊の指示を装ったその紙には、領主代行からの命による変更だと記されていた。
クラウディアは、はっきりと首を横へ振った。
「私は、これも命じていません」
ミレイユが新しい紙片へ書き写した。修司は、それを西門へ向かう矢印の手前に置いた。
最初の一枚は、待っている職人を足場へ上げた。
二枚目は、その足場を確かめる兵士を、別の門へ動かした。
修司は並んだ二枚を見て、背中が冷えるのを感じた。書かれている仕事は違う。受け取る相手も違う。別々に渡されれば、それぞれの持ち場では、ただの作業指示に見えてしまう。
「縄だけではなかったのですね」
ミレイユが言った。
イゾルデは答える代わりに、内容を書き写した二枚の紙片を指で押さえた。
「これを運んだ者を、それぞれ別に調べます。まだ、同じ者が運んだとは限らない。西門への石材搬入が、本当に予定されていたかも確認しなさい」
部下がうなずく。
「それと、点検担当と親方が互いの指示を知らなかったことを、記録に残してください。片方だけの落ち度として処理してはいけません」
クラウディアの言葉に、イゾルデは姿勢を正した。
修司は椅子の背へもたれた。視界に金色の線は出ていない。技能の文字も、一度も浮かばなかった。机の上にあるのは、切り分けた紙と、ミレイユの字と、ここにいない人々から集めてきた話だけだった。
「このまま残しておけますか」
イゾルデが尋ねた。
「紙片が動かないよう、仮留めしましょう。確かめられたことが増えたら、そこだけ直せます」
「部下たちにも、これを見せたい。どこを調べるべきかが、一度に分かる」
ミレイユが糊を取りに行った。修司は定規を置き、指先についた黒い粉を払った。
昔は、こんな作業を一日中していた。文字の切れ端を揃え、余白を取り、見る人の目が迷わないように並べる。何度直しても、完成した紙面を見て、その手間に気づく人は少なかった。
今、イゾルデはそこから目を離さず、部下へ渡す調査の指示を組み立てている。
「タカセ」
クラウディアに呼ばれ、修司は顔を上げた。
「父の食卓で描いてくれた図も、こうして作っていたのですね」
「あのときは、もう少し単純でしたけど」
「私には、ばらばらの報告でした。あなたには、最初からこの形が見えていたのですか」
「いいえ。並べて、間違えて、ミレイユさんに直してもらいました」
ちょうど戻ってきたミレイユが、糊の壺を持ったまま笑った。
「二か所、入れ替えました」
「そうでしたね」
修司も笑い、それから机へ視線を戻した。
「間違っているところを、誰かが指で示せるようにしたかったんです。頭の中に置いたままでは、ほかの人は直せませんから」
クラウディアは、空白の残る図をもう一度見た。
「では、分からないところも、このまま残しておきましょう」
彼女は点検担当者の名がない場所へ、そっと指を置いた。
「分かったつもりにならないために」
夕方近く、修司は親方の寝台へ戻った。
エヴァが水を飲ませ終えたところで、親方は修司を見ると、待っていたように尋ねた。
「あの兵は、仕事を放り出したのか」
「西門へ行くよう、紙で命じられていたそうです。あなたとは、違う紙を受け取っていました」
親方は黙った。修司も、誰に責任があるかを先回りして言わなかった。
「詳しいことは、イゾルデさんから説明があります。ただ、親方が一人で勝手に作業を始めた、という調べ方にはしないそうです」
長い息が、親方の口から漏れた。
「あの紙に、印があったからな」
親方は天井を見上げた。
「グランフェルの印があれば、俺たちの領主が確かめたことだと思うだろう」
修司はすぐには答えられなかった。
胸に下げた木札にも、同じ獅子と城壁が彫られている。その印があったから、見知らぬ五十二歳の男が救護院へ入り、話を聞いてもらえた。印だけで人の信頼を得たわけではなくても、最初の扉を開いてくれたことは確かだった。
誰かは、その信頼を使って人を危険な場所へ向かわせた。
廊下へ出ると、クラウディアが窓のそばに立っていた。親方の声は、彼女にも聞こえていたらしい。
「私の名で、作業が始まったのですね」
「二枚の紙を出した人を、今、調べています」
「ええ。だから、それは調べさせます」
クラウディアは修司へ向き直った。
「あの人が信じた印は、私が預かっているものです。何が分かって、何がまだ分からないのか。それを話すところまで、ほかの者に任せるわけにはいきません」
彼女は寝台のある部屋へ入っていった。修司はあとを追わず、廊下で待った。
中から、クラウディアが椅子を引く音が聞こえた。寝台のそばへ腰を下ろし、低い声で親方へ語りかけている。
しばらくして、入口の方からイゾルデが戻ってきた。手にしていたのは、新しく届いた門の記録だった。
「西門への石材搬入は、昨日の予定にはありませんでした」
修司は顔を上げた。
「遅れていたのでは、なかった?」
「荷車そのものが、手配されていません」
イゾルデは、親方の部屋へ目を向けてから声を落とした。
「それから、書面にある時刻を正式な作業日程と照らし合わせました。第三塔へ資材を上げる時刻は、前日の夕方に繰り上げたばかりでした。一通目は変更後の時刻に荷を上げさせ、二通目はそれに間に合うよう、点検の兵を西門へ動かしています」
「古い予定では、なかったんですね」
「ええ。日程を変更したとき、誰へ知らせたのか。館の記録を確かめます」
修司は記録室の方を振り返った。
あの紙片の並びに、今度は前日の夕方を書き足さなければならない。
誰かは、変わったばかりの予定を知っていた。ただ縄を切って逃げたのではない。グランフェルの仕事がどう動くかを知ったうえで、その順番へ二枚の命令書を差し込んだのだ。




