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国を立たせる介護士 ~52歳で異世界召喚された外れ職《生活支援士》、寝たきりの老将から滅びかけた王国まで再建する~  作者: 狼賀亮一郎
第一部 グランフェル辺境領再建編

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第十五話 夜を引き継ぐ者たち

目を開けたとき、記録室の窓の外は暗くなっていた。


 修司は長椅子の上で身体を起こし、首筋へ手を当てた。短い仮眠のせいで背中はこわばっていたが、こめかみを刺していた痛みは引いている。椅子の脇には、布で包んだパンと、水の入った木椀が置かれていた。


 廊下の向こうから、低い話し声が聞こえる。荷車が次々と到着していた昼の騒ぎは収まった。それでも救護院の一日は、まだ終わっていなかった。


 十四人が運び込まれ、五十七人になった。傷を塞ぐことができても、今夜を安全に越せると決まったわけではない。


「起きられましたか」


 扉を細く開け、クラウディアが顔を覗かせた。頬には小さな当て布が残っている。粉に汚れた外套は着替えていたが、目の下には濃い影があった。


「館から交代の者を呼びました。病人の世話をしたことのある侍女を二人。それから、駐屯所の治癒術師が一人来ます」


「ありがとうございます。こちらの治癒術師と、順に休めますね」


「エヴァは、まだ休もうとしません」


 修司はパンを一口かじり、水で流し込んだ。焦って食事を抜けば、明け方には自分の判断も鈍る。それを何度も経験しているからこそ、今はこの一口を省けなかった。


「一緒に話してもらえますか」


 礼拝室では、エヴァがマティアスの寝台の横に座っていた。銀の杖を握る手から力が抜け、時折、顔を上げ直している。そのたびに瞼が重そうに下がった。


「次に来る治癒術師へ、引き継ぎましょう」


 修司が声をかけると、エヴァは首を横へ振った。


「腹の奥の出血は止めました。でも、まだ安心はできません。私が処置したのですから、私が最後まで見なければ」


「どこを見て、どんな変化があったら呼ぶのか。それを次の人へ伝えてください。エヴァ先生にしか分からないままでは、誰も代われません」


 エヴァの目に、苛立ちに似た色が浮かんだ。


「説明している間にも、変わるかもしれないのです」


「だから、寝台のそばで引き継ぎます」


 修司はマティアスへ視線を落とした。毛布の下で胸が上下し、呼びかけると薄く目を開ける。今の状態をエヴァが確かめ、新しく来た者も同じ姿を見る。そのうえで言葉を交わせば、帳面だけを渡すより伝わることが多い。


 クラウディアが、エヴァの前へ静かに立った。


「今夜、あなたが必要になる場面はまだあります。そのときに働けるよう、まず休んでください。休む場所は、すぐ隣に用意しました」


 エヴァは二人を見比べ、やがて銀の杖を膝へ置いた。


「……引き継いでからです」


「はい。そこまでは、一緒に」


 間もなく、駐屯所から来た治癒術師が礼拝室へ入った。三十代ほどの男で、外套を脱ぐなりエヴァの隣へ座り、昼に行った処置と、今夜注意するべき変化を一つずつ確かめていく。


 ミレイユはその話を書き取りながら、途中で筆を止めた。


「すべてを一枚に書くと、また読みにくくなってしまいます」


「詳しい内容は、今の帳面に残してください。寝台のそばへ置く紙には、今の状態、変化したら伝えること、誰を呼ぶか。この三つを大きく」


 修司は余白へ枠を引いた。


 分かっている人が書く説明は、どうしても細かくなる。けれど、それを読むのは眠気の残った交代要員かもしれない。何かが起き、慌てている人かもしれない。最も大切な情報が、細かな文字の中へ埋もれていてはいけなかった。


「寝台の場所だけではなく、名前も大きく書きましょう。今日は何人も場所を移っています」


 ミレイユはうなずき、マティアスの名を書き直した。魔法の指示や医療上の注意はエヴァに確認してもらい、それ以外の生活上の支援を別の枠へ収める。


 その紙を見ながら、交代の治癒術師が自分の受け持つ内容を言い返した。エヴァが一か所を訂正し、男がもう一度確認する。


 それを聞いて初めて、エヴァは寝台の横から立った。


「呼ばれたら、すぐに戻ります」


「そのために休んでください」


 彼女を見送ったあと、修司は廊下の長椅子へ腰を下ろした。館から来た侍女たちは、救護院の手伝いから布や水差しの置き場所を教わっている。イゾルデが入口の兵士と話し、交代で訪れる者の名を確かめていた。


 足場の縄に切れ目があったことは、まだ一部の者しか知らない。負傷者の家族を追い返すわけにはいかないが、誰が入ったか分からなくなることも避けなければならなかった。


「入口は私たちが守ります。あなたは中を頼みます」


 イゾルデが通りすがりに言った。


「助かります。俺たちだけでは、そちらまで目が届きません」


 修司が答えると、彼女はわずかに口元を緩め、入口へ戻っていった。


 夜が深まるにつれ、救護院は静かになった。


 静かだから安全とは限らない。修司は灯りを絞った大部屋を歩き、眠っている者の呼吸や掛布の様子を見て回った。礼拝室の重傷者には別の担当がついている。そちらが気になるからと、元からいた四十三人を後回しにすることはできなかった。


 ロルフは右手を毛布の外へ出したまま眠っていた。寝台のそばには、馬の絵を描いた紙が置かれている。修司は水椀が台の端へ寄っているのに気づき、起きたときに手が届き、落とす心配のない位置へ移した。


 日本の施設でも、こんな静かな時間があった。


 今頃、あの施設では誰が廊下を歩いているのだろう。


 考えかけて、修司は足を止めた。帰る方法も分からないまま、ここで肩書きをもらい、夜勤まで始めている。その事実が、不意に胸の奥へ重く沈んだ。


 だが、隣の食堂から押し殺した声が聞こえたため、その思いを追うことはできなかった。


「まだ……下にいる」


 仮の寝台で休んでいた若い石工が、毛布を蹴り、身体を起こそうとしていた。足首には治療後の固定が残っている。昼の記録で、トーマという名を見た覚えがあった。


「トーマさん。ここは救護院です」


「違う。梁をどけないと。レンツが下に……」


 トーマの視線は、修司を通り越して壁の向こうへ向いていた。寝台から下りようとして、痛みに顔を歪める。それでも腕の力で身体をずらそうとする。


 修司はそばへ寄り、視線の高さを合わせた。


「足場からは出ています。俺の声は聞こえますか」


 若者は答えず、激しく息を吸った。


 恐怖なのか、痛みなのか、それとも身体の異常があるのか。修司だけでは決められない。廊下にいた侍女へ治癒術師を呼んでもらい、自分はトーマのそばを離れなかった。


 そこへ、礼拝室から別の声が飛んだ。


「マティアスさんの様子を、もう一度見てください!」


 館から来た侍女が足を止める。布を運んでいた手伝いも礼拝室を振り向き、二人が同じ方向へ動きかけた。


 昼にはうまく回った仕組みが、夜の交代と二つの呼び声でほどけ始めている。全員が心配な方へ集まれば、もう片方から目がなくなる。


「礼拝室は、担当の治癒術師をお願いします。食堂には、エヴァ先生を呼んでください」


 修司は相手の顔を見て、一人ずつ頼んだ。


「私はエヴァ先生を」


「私は礼拝室へ伝えます」


 返事を聞いてから、修司は意識を絞った。


《連携支援――接続準備》


《役割共有を確認》


 接続するのは、異変のあった二人を支える担当者と、連絡を運ぶ少人数だけだった。救護院全体の状態を見ようとはしない。今は、誰がどこへ向かい、誰がそばに残るのかが分かればよい。


《連携支援――接続》


 細い金色の線が、廊下を二つに分かれて走った。侍女たちは互いの行き先を確かめて動き、呼ばれた治癒術師が礼拝室へ入る。修司はそちらの姿を見送ると、目の前のトーマへ向き直った。


 壁の向こうの身体の状態まで、技能が教えてくれるわけではない。


 それでも、引き受けた人がいると分かる。その分だけ、修司は目の前の一人へ集中できた。


「レンツさんが気になるんですね」


 名前を繰り返すと、トーマの目が初めて修司を捉えた。


「俺が、先に降りたから」


「レンツさんも、ここへ運ばれています。どこで休んでいるか、今、確認してもらいます」


 小走りに来たエヴァがトーマの様子を確かめる。その後ろからミレイユも帳面を持って現れた。


「レンツさんなら、食堂の入口側です。腕の治療を受けて、今は眠っています」


 修司はトーマへ、その言葉をゆっくり伝えた。


 毛布を掴んでいた指が、少し緩む。


「下には、いないのか」


「はい。二人とも、救護院にいます」


 若者は何度か瞬きをして、それから声を出さずに泣き始めた。エヴァは診察を続け、修司は泣きやむようには言わなかった。差し出した手をトーマが握ったので、そのまま待った。


 しばらくして、礼拝室から手伝いの女性が戻ってきた。


「治癒術師が確認しました。今はあちらで様子を見ています。エヴァ先生は、こちらを続けてよいそうです」


「分かりました」


 エヴァが答えたとき、修司の視界に短い文字が浮かんだ。


《担当間の引継ぎを確認》


《支援経路――維持》


 頭へ押し寄せる情報は少なく、光の線も細いままだった。昼には九人をつなぐ接続を長く保ち、痛みが出るまで続けてしまった。今は必要な相手を選び、伝わったことを確かめて離す。その違いが、身体にはっきり分かった。


 トーマの呼吸が落ち着き、エヴァが次の見守りを侍女へ頼んだところで、修司も技能を止めた。


《連携支援――終了》


 消えた光のあとに、二人の担当者が残っていた。


 夜半を過ぎ、交代の手伝いが巡視へ出ると、修司は裏口近くの長椅子で一息ついた。冷えた指をこすっていると、湯気の立つ椀が差し出された。


「厨房に残っていた汁物です」


 クラウディアだった。修司の隣へ座り、自分の椀を両手で包む。領主代行の執務机も、従う兵士もない場所で見る彼女は、頬の当て布のせいもあって、いつもより疲れて見えた。


「父が、食卓へ戻りました。北壁の工事も進み始めた。ようやく立て直せると思ったところで、こんなことが」


 クラウディアは椀の中を見つめたまま言った。


「私が現場へ行った日に、十四人です」


 修司には、彼女の責任がないと言い切るだけの情報はなかった。犯人も、工作が行われた時刻も、まだ分からない。


「今日、交代の人を呼んでくださったのは、クラウディア様です」


「それで事故が消えるわけではありません」


「はい。でも、その人たちが今、五十七人を見ています。明日の判断をするためにも、あなたまでここで力を使い切らないでください」


 クラウディアは修司を見た。責められることにも、励まされることにも備えていたような表情が、少しだけ緩んだ。


「タカセは、こういう夜に慣れているのですね」


「慣れていても、怖いですよ。静かな夜ほど、何かを見落としていないか気になります」


「それでも、休めるのですか」


「次に見てくれる人へ、きちんと渡せたら。夜勤は、朝まで起きていることが目的ではありませんから」


 修司は温かい汁を飲み、ようやく少しほどけた指で椀を持ち直した。


「朝の人へ、生きた暮らしを渡す仕事だと思っています」


 クラウディアは何も言わず、隣で同じように椀へ口をつけた。


 その後、彼女も用意された小部屋へ下がった。修司は次の担当へ巡視の内容を伝え、短く休みを取りながら、救護院の夜をつないだ。


 夜明けには、窓の外が薄い灰色に変わっていた。


 マティアスは呼びかけに目を開け、トーマは眠ったまま朝の見回りを迎えた。重傷の三人は引き続き治癒術師の観察が必要だったが、五十七人の名が書かれた記録板から、消す名前はなかった。


 誰も大声では喜ばなかった。朝の担当が一人ずつ状態を確かめ、夜の担当が昨日との違いを伝える。その声を聞いて、修司はようやく、自分の役目を渡せると思った。


 記録室へ戻ろうとしたところで、入口からイゾルデが入ってきた。


 手には、折り畳まれた一通の書面がある。


「クラウディア様を。足場の点検について、確認したいことがあります」


 間もなく現れたクラウディアの前へ、イゾルデは書面を広げた。


「現場の資材小屋に保管されていました。作業の前に、石工の親方が受け取ったものです」


 ミレイユが横から文字を読み上げた。


「第三塔修繕用足場、領主代行の命により検分済み。資材搬入および上段での作業を許可する……」


 書面の下には、獅子と城壁の印が押されていた。修司が胸へ下げている木札と、同じ紋章だった。


「親方は、領主側の点検が終わったと考えたそうです。ですが、守備隊の点検担当は、この指示が出たという時刻には現場へ入っていません」


 クラウディアは書面を手に取り、長く黙った。


「私は、修繕を命じました。点検を済ませたという、この通知を出した覚えはありません」


「印を確かめます。書いた者と運んだ者も」


 イゾルデが答える。


 偽造なのか、誰かが勝手に出したのか。それはまだ分からなかった。けれど、切られた縄だけを調べても、事故の全体には届かないことが見えてきた。


 修司は机の上へ目を落とした。


 一方には、夜を越すためにミレイユと書いた申し送りの紙がある。その隣には、十四人を危険な足場へ上がらせたかもしれない書面が置かれていた。


 人は、紙に書かれたことを信じて動く。


 だからこそ修司は、何が先に目へ入り、何が相手へ伝わるかを二十年近く考えてきた。


 今、その同じ力が、誰かの手で逆向きに使われた可能性があった。


「ミレイユさん。この書面に、誰の確認を受けたのかは書かれていますか」


 若い書記官はもう一度紙を見て、ゆっくり首を横へ振った。


「検分済み、としか」


 イゾルデが書面を取り上げ、証拠を包む布へ丁寧に戻した。


 救護院の朝の仕事は、すでに始まっている。


 この朝を迎えられない者が出ても構わないと考えた人間が、外にはいる。


 誰がこの紙を書き、誰の手で現場へ届けたのか。確かめるべきことは、まだ残っていた。

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