第十四話 崩れた足場
翌日の昼、救護院では修司がいないまま食事の配膳が始まっていた。
正確には、修司は救護院の中にはいる。ただし、四十三人分の寝台が並ぶ大部屋へは入らず、廊下を挟んだ記録室でミレイユの帳面を読み返していた。
昨日の終わりに「明日は俺がいなくてもできるか試す」と言った以上、心配だからと様子を見に行っては意味がない。何かあれば呼んでもらうことだけ決め、配膳の流れは手伝いの者たちへ任せていた。
それでも、廊下の向こうから呼び声が聞こえるたび、修司の意識はそちらへ引かれた。
「東の三番、準備できました」
「西の六番、水を先にお願いします」
「南の二番は、エヴァ先生の確認待ちです」
声は行き交っているが、怒鳴り声も、慌てて走る足音もない。《連携支援》の光が見えなくても、昨日作った役割と手順は動いていた。
しばらくして記録室の扉が開き、ミレイユが顔を覗かせた。
「全員、食事を始めました。最後の方の煮込みも、まだ温かかったそうです」
「俺がいなくても、できましたね」
「はい。でも、少しくらい残念そうな顔をなさってもよいのではありませんか」
「どうしてです?」
「タカセさんがいなくても、できてしまったのですよ」
「それが一番うれしいんです」
修司が答えると、ミレイユは不思議そうに首を傾げ、それから小さく笑った。
その瞬間、救護院の外で鐘が鳴った。
昼を知らせる穏やかな鐘ではない。短く三度、間を置いてさらに三度。建物の空気を切り裂くような、鋭い音だった。
ミレイユの表情が変わる。
「救難の鐘です」
廊下を走る足音が近づき、扉が勢いよく開いた。現れたのはイゾルデだった。外套の肩へ石の粉をつけ、息を切らしている。
「北壁第三塔の足場が崩れた。兵士と石工、合わせて十四人が負傷している。先に動かせる者から、こちらへ運び込む」
昨日まで補修の順番を巡って争っていた現場で、事故が起きたのだ。
「エヴァ先生は?」
「すでに治癒術師を集めている。最初の荷車は、まもなく到着する」
修司は椅子から立ち上がった。
十四人が一度に運び込まれれば、救護院の寝台は足りない。通路を塞げば、元からいる患者の食事や排泄の支援も止まる。負傷者だけを見ていては、四十三人の生活が崩れてしまう。
「ミレイユさん。記録板を見て、一人で椅子へ移れる人と、少ない介助で移れる人を確認してください。ただし、食事中の人を急がせないでください」
「はい」
「イゾルデさん。空いている食堂と礼拝室へ、動かせる寝台を運べますか。重傷者は入口に近い礼拝室へ入れます。どこへ運ぶかはエヴァ先生に決めてもらいます」
「分かった。兵を六人回す」
「救護院の手伝いの方には、清潔な布と湯、水差しを一か所へ集めてもらいます。誰か一人は大部屋に残って、今いる四十三人を見てください」
指示を出しながら、修司は記録板の余白へ礼拝室と食堂の簡単な見取り図を描いた。入口から最も近い場所、治癒術師が動ける通路、使用する道具を置く場所を太い線で示す。
かつて撮影現場へ立ち会ったときも、限られた場所へ商品、照明、背景、モデル、撮影機材を収めなければならなかった。誰かが思いつきで物を置けば、カメラマンの動線を塞ぎ、撮影全体が止まる。扱うものは違っても、人と道具が集中する場所ほど、先に通り道を作る必要がある。
「紙の上では、ずいぶん簡単に片づくのだな」
図を見たイゾルデが言った。
「実際にこのとおり動くかは分かりません。駄目ならすぐ変えます」
「分からないと言いながら、迷いはしないのですね」
「迷っている時間に、荷車が来ますから」
外から馬の嘶きと車輪の音が響いた。
最初の荷車が到着した。
扉が開くと、冷たい外気とともに血と土の匂いが流れ込んできた。担架に乗せられた兵士の胸当ては大きくへこみ、呼吸のたびに喉から細い音が漏れている。その後ろでは、腕を布で吊った石工が自分の足で歩き、頭から血を流す若い兵士が仲間へ肩を借りていた。
「重い者から礼拝室へ!」
エヴァが声を上げた。
白い法衣の袖をまくり、銀の杖を握っている。普段の疲れた表情は消え、運び込まれる者を一目見るたびに、迷いなく行き先を指した。
「胸を打った者と、腹を挟まれた者は赤い布を。骨折や深い裂傷は黄。自分で歩けて、出血の止まっている者は白い布をつけ、食堂で待たせてください」
治療の優先順位を決めるのは、修司ではない。修司はエヴァの言葉が運ぶ者全員へ届くよう、見取り図へ赤、黄、白の印を描き加えた。
「赤は礼拝室の手前、黄は奥です。白は食堂。運び終えた兵士は入口へ戻り、次の担架を受け取ってください!」
人々の動きが、三つの流れへ分かれた。
二台目の荷車から降りてきたクラウディアを見て、イゾルデが目を見開く。
赤銅色の髪には石の粉がかかり、左の頬には浅い傷が走っている。濃紺の外套の裾も裂けていたが、彼女は自分より先に担架を降ろそうとしていた。
「クラウディア様! なぜ現場に」
「作業の進みを確認していました。私は大丈夫です。それより、石工の親方が足場の下敷きになっています」
「まず、あなたもエヴァ先生の確認を受けてください」
修司が言うと、クラウディアは反射的に首を横へ振った。
「この程度の傷で、治癒術師の手を止めるわけにはいきません」
「治療を優先しろとは言っていません。重傷ではないと確認してもらうだけです。あなたが途中で倒れれば、イゾルデさんも兵士の皆さんも、そちらへ動かざるを得なくなります」
クラウディアは言葉を返しかけたが、イゾルデが強くうなずくのを見て諦めた。
「分かりました。確認だけ受けます」
エヴァは短時間で瞳と呼吸、身体の動きを確かめ、頬の傷へ布を当てた。
「打撲はありますが、骨や内側の臓器に異常はありません。今日は走らず、重い物を持たないでください」
「承知しました」
「そして私の見える場所にいてください」
エヴァの念押しに、クラウディアは苦笑した。
三台の荷車から、十四人が次々と運び込まれた。救護院の中には叫び声と治癒術の光が満ち、湯と布を求める声が重なる。
修司の視界にも、無数の細い線が現れ始めた。
《緊急支援要求を検出》
《直接接続候補――十五》
《現在の安定接続範囲を超過しています》
すべてへつなげば、前と同じことになる。
修司は負傷者ではなく、流れの中心にいる者を選んだ。エヴァ、二人の治癒術師、イゾルデ、ミレイユ、三人の手伝い。そして自分。
《直接接続参加者――九》
《安定接続上限に接近》
《短時間運用を推奨します》
「エヴァ先生。治療の流れが整うまで、技能を使います」
「お願いします。ただし、警告が出たらすぐ切ってください」
《共同目標――負傷者の安全を確保し、治療を必要な順に届ける》
《連携支援――緊急接続》
淡い金色の光が、礼拝室と食堂を結んだ。
エヴァの判断がミレイユの記録へ届き、記録された印がイゾルデの兵士へ伝わる。治癒術師が布を求める前に手伝いの者が動き、使い終えた担架は入口へ戻される。
修司の技能が傷を治しているのではない。エヴァたちの魔力が増えたわけでもない。それでも、誰かが同じ指示を何度も叫び、必要な道具を探し、行き先を尋ねる時間が減った分だけ、治癒術師は患者へ集中できた。
「赤の二人、治療開始。黄の三人は出血を抑えています」
ミレイユが伝える。
「白の者は六人。うち五人は意識もはっきりしています」
「残る一人は?」
「自分で歩いてきた石工です。外傷は脇腹の打ち身だけですが、名前を二度聞き返しました」
その言葉に、修司は食堂へ目を向けた。
白い布を腕へ巻かれた男たちが、壁際の長椅子へ座っている。その中で、五十歳ほどの石工が身体を丸め、両手を脇へ挟み込んでいた。大きな出血はなく、服にも小さな破れしかない。しかし顔色は蝋のように白く、額には寒い室内には不釣り合いな汗が浮かんでいる。
「お名前を教えてください」
修司が膝をついて尋ねる。
「マティアスだ。さっきも、あの娘に言った」
「ここがどこか、分かりますか」
「救護院だろう。俺は平気だ。親方を先に……」
答えはできている。だが息が浅く、言葉の間が少しずつ長くなっている。
介護施設でも、本人が「大丈夫」と言うから大丈夫とは限らなかった。転んだ直後は会話できていても、時間がたつにつれて顔色や反応が変わることがある。介護士が病名を決めることはできない。それでも、いつもと違う変化を見つけ、医療職へ正確に伝えることはできる。
修司はマティアス一人へ意識を絞った。
《生活状態把握――対象限定》
《対象――マティアス》
《外見情報と身体状態に不一致を検出》
《循環低下》
《支援優先度の再確認を推奨します》
技能にも、病名は表示されなかった。
だが、それで十分だった。
「エヴァ先生! マティアスさんを確認してください。大きな傷は見えませんが、顔色が悪く、汗が出ています。受け答えも先ほどより遅くなっています」
「白の者は後だ!」
別の治癒術師が叫ぶ。
「優先順位を変えるかどうかを決めるのは、エヴァ先生です。俺は変化を伝えています」
修司は声を荒らげず、しかし退かなかった。
エヴァは胸を負傷した兵士の処置をもう一人の治癒術師へ引き継ぎ、食堂へ駆けてきた。銀の杖をマティアスの腹へかざした瞬間、その表情が変わる。
「内側で出血しています。折れた肋骨が、腹の奥を傷つけている」
「そんな……俺は、歩いて」
「話さないでください。礼拝室へ運びます。赤へ変更!」
ミレイユが板の白い印を消し、赤へ書き直す。イゾルデが兵士を呼び、マティアスの身体を担架へ移した。
《支援優先度――更新》
《変更情報を共有します》
金色の線を通して、全員の動きが一斉に変わった。
礼拝室の手前が空けられ、湯と清潔な布が運ばれる。エヴァは深く息を吸い、銀の杖を両手で握った。緑の光がマティアスの腹部へ沈み込む。
修司には治癒術の細かな仕組みは分からない。ただ、エヴァの顔から急速に血の気が失われていくことだけは見えた。
彼女へ魔力を与えることはできない。
だからこそ、余計な負担を近づけない。修司は手伝いの者へ目配せし、ほかの患者からの呼びかけを別の治癒術師へ回した。イゾルデは入口を塞ぐ兵士たちを下がらせ、ミレイユはマティアスの変化と治療開始の時刻を記録する。
やがて、エヴァの杖から放たれていた光が弱まった。
「出血は止まりました。まだ動かさないでください。今夜は、必ず誰かがそばで状態を見て」
言い終えたエヴァの身体が揺れた。
修司が腕を支える。
「座ってください」
「まだ、赤が二人います」
「二人とも別の治癒術師が処置しています。今、エヴァ先生が倒れれば、次の判断をする人がいなくなります」
エヴァは悔しそうに唇を噛んだが、用意された椅子へ腰を下ろした。
そのとき、修司のこめかみに鋭い痛みが走った。
《接続時間が推奨値を超過》
《支援者疲労の増大を検出》
《接続終了を推奨します》
まだ混乱は完全には収まっていない。だが行き先は決まり、役割も共有された。ここから先まで技能でつなぎ続ける必要はない。
「接続を切ります。あとは、板と声で続けてください」
《連携支援――終了》
金色の線が消える。修司は一瞬ふらついたが、壁へ手をつき、倒れずに踏みとどまった。
「タカセさんも座ってください」
ミレイユに言われ、修司はエヴァの隣へ腰を下ろした。
「人の心配をしている場合ですか」
エヴァが弱い声で言う。
「同じ言葉を、そのままお返しします」
二人は顔を見合わせ、疲れたまま小さく笑った。
日が傾く頃には、十四人全員の治療方針が決まっていた。
マティアスを含む三人は今夜も目を離せない状態だったが、すぐに命を失う危険は越えた。五人は骨折や深い傷の治療を受け、残る六人も救護院で一晩経過を見ることになった。
救護院の記録板には、新しく十四人分の名前が書き足された。
四十三人だった支援対象は、五十七人になった。
「事故の原因は、古い縄ですか」
修司が尋ねると、礼拝室の入口にいたイゾルデが答えなかった。
彼女の手には、足場から回収された太い縄が握られている。切れた部分は毛羽立っておらず、片側だけが不自然なほど平らだった。
「これは、重さに耐えられず切れた跡ではありません」
イゾルデは、刃物で半ばまで断たれた縄を修司とクラウディアへ見せた。
「誰かが先に切れ目を入れた。人が乗り、最も被害が大きくなるときに切れるように」
クラウディアの表情から、食卓で見せた娘の柔らかさが消えた。領主代行の青灰色の瞳が、冷たく細められる。
「このことは、まだ公表しないでください。現場を封鎖し、今日の作業に関わった者と、資材を保管した者を確認します」
「御意」
イゾルデが胸へ拳を当てた。
修司は、五十七人の名が並んだ記録板を見た。
傷ついた者を支える仕組みを作り始めたばかりなのに、その外では誰かが、意図的に新しい傷を生み出している。
崩されたのは、北壁の足場だけではない。
グランフェル領が立ち直ろうとする、その足元を狙う者がいた。




