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国を立たせる介護士 ~52歳で異世界召喚された外れ職《生活支援士》、寝たきりの老将から滅びかけた王国まで再建する~  作者: 狼賀亮一郎
第一部 グランフェル辺境領再建編

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第二十五話 北境の獅子、再び立つ

翌朝、ベルンハルトの部屋には、一本の杖が用意されていた。


 黒樫を削った太い杖で、握りの部分には革が巻かれている。クラウディアの命を受けた館の木工職人が、夜のうちに仕上げたものだった。


「長さは悪くないですね。」


 エヴァは杖をベルンハルトの右手に持たせ、肘と肩の位置を確かめた。


「けれど、これがあるから歩けると思わないでください。今日試すのは、立っていられるかどうかだけです。少しでも脈や呼吸に異常があれば中止します。」


「兵の前まで這っていけと言うのか」


「椅子で行ってもらいます」


 修司が答えると、ベルンハルトの眉間に深い皺が寄った。


「俺は立つと言ったはずだ」


「兵の前で立つためです。そこへ着くまでに力を使い切っては意味がありません」


「館から中庭までだぞ」


「二年間、寝台で過ごしていた方には、十分に遠い距離です」


 ベルンハルトが修司を睨む。だが、その横ではエヴァも腕を組み、アマーリエとクラウディアも黙って父を見つめていた。


 四対一で勝ち目がないと悟ったのか、老将は鼻を鳴らした。


「好きにしろ。ただし、兵の前では必ず立つ」


「そのために、まずここで試します」


 椅子は、これまで使ってきた背もたれの高いものだった。肘掛けの高さと足の位置を確認し、脚元には滑り止めの敷物を置く。立ったあとに疲れたら、すぐ座り直せるよう、椅子は決して遠ざけない。


 エヴァが診たところ、朝の脈と呼吸は安定していた。食事と水分も取れている。ただし、試せるのは短い時間に限るという。


「ベルンハルト様、ご自分で立つとき、どこへ力を入れるか分かりますか」


「脚だろう」


「脚だけではありません。少し前へ身体を倒して、両足へ重さを移します。そのあと、左手で肘掛けを押してください。右手の杖は、身体が上がってから支えに使います」


「面倒なものだな。昔は考えずに立っていた」


「皆、そうです。できなくなって初めて、立つのに身体中を使っていたと気づくんです」


 修司はベルンハルトの左側へ立った。右側にはクラウディア、後ろには侍女がつき、椅子が動かないよう支える。アマーリエには、正面から夫の顔色を見るよう頼んだ。


 持ち上げる者はいない。


 中心になるのは、あくまでベルンハルト自身の力だった。


「始めます。足を、もう少し手前へ」


 老将の両足が動く。右は素直に引けたが、左は途中で止まった。修司が踵へ手を添え、ベルンハルトが動かそうとする方向だけを助ける。


 視界に、淡い金色の線が浮かび上がった。


《生活動作把握――起立》


《本人動作――検出》


《不足支援――左下肢/体幹》


 足裏から膝、腰、背へと伸びる線は、初めて技能を使った頃より太くなっていた。寝台の上では途中で途切れていた左脚の光も、今はかすかながら腰までつながっている。


 しかし、周囲の手から伸びる線は、それぞれ違う方向へ揺れていた。


 クラウディアは父を倒すまいとして、まだ動き出してもいない肩を強く支えている。侍女は椅子が後ろへ動かないか気にしていた。アマーリエは夫の顔ばかりを見て、足元の変化に気づいていない。


 誰も間違ってはいない。ただ、支える瞬間がそろっていなかった。


 修司は息を整えた。


《共同目標――安全な立位》


《支援者間接続――四名》


《連携支援――接続》


 金色の線が、ベルンハルトを中心に重なった。


 以前なら、この人数をつないだだけで頭の奥が大きく揺れていた。今もこめかみに圧迫感はある。それでも、何を見ればいいのか、どこまでつなげばいいのかが分かる。


 修司はクラウディアの手へ目を向けた。


「今は軽く触れるだけで。前へ倒れる動きを止めないでください」


「分かった」


「奥様、呼吸と顔色が変わったら教えてください。椅子はそのまま」


 全員がうなずいた。


「ベルンハルト様。立つのは俺たちではありません。ご自分でお願いします」


「くどい」


 老将は左の肘掛けを握った。


「では、身体を前へ。鼻を、つま先より少し先へ出すつもりで」


 大きな上体が傾いた。


 両足へ重さが移る。ベルンハルトが肘掛けを押し、腰がわずかに浮いた。


 だが、左膝が震えた。身体が後ろへ戻りかけ、クラウディアの腕に力が入る。


「そのまま座ります」


「まだだ」


「一度座ります」


 修司たちは老将の動きを妨げず、腰を椅子へ戻した。


 ベルンハルトは荒くなった息を整えながら、杖の握りを睨んでいた。


「半分も上がらなかった」


「半分近く、ご自分の力で上がりました」


「慰めはいらん」


「事実です。次は、左膝が揺れる前に俺が支えます。クラウディア様は、上へ引かずに身体が前へ進むのを助けてください」


 エヴァが銀杖を胸元へ当てる。


「脈が戻るまで休むわ。二度目を試せるかは、そのあと私が決める」


 ベルンハルトは不満そうだったが、逆らわなかった。


 窓の外から、中庭に兵が集まる音が聞こえてくる。鎧の擦れる音。号令。二年間、老将が遠ざけていた音だった。


「待たせているな」


「待たせておけばいいのです」


 クラウディアが言った。


「父上を二年待った者たちです。あと少しくらい、誰も文句は言いません」


 ベルンハルトは娘を見た。それから、目を閉じて呼吸を整えた。


 やがてエヴァが許可を出した。


 二度目。


 足を引き、上体を前へ倒す。左手で肘掛けを押し、両脚で床を踏む。


 修司の視界で、金色の線が一斉に輝いた。


《本人の残存能力――最大活用》


《過剰介助――なし》


《連携支援――安定》


 修司は左膝が崩れる方向だけを支えた。クラウディアの手が、父の身体を引き上げるのではなく、前へ進む動きに沿う。侍女は椅子を固定し、アマーリエは夫の呼吸を見守った。


 ベルンハルトの腰が上がった。


 曲がっていた膝が、ゆっくり伸びていく。右手の杖が床を捉えた。


 老将は大きく息を吐き、自分の足で立った。


 背中は、かつてのように真っ直ぐではない。両脚は震え、修司とクラウディアの支えも必要だった。それでも、誰かに抱え上げられた姿ではなかった。


「立てた……」


 アマーリエが口元を押さえた。


 クラウディアは何も言わなかった。父を支える手を離さぬまま、涙をこらえるように唇を噛んでいる。


「何秒だ」


 ベルンハルトが尋ねた。


「時間を競うのは、今日はやめておきましょう」


「兵の前で、二言は話せるか」


 エヴァが厳しい顔で老将を見る。


「短く。途中で私が止めたら、すぐ座ること。それが守れるなら」


「三言にしろ」


「二言半ね」


 老将の口元に、久しぶりの笑みが浮かんだ。


 中庭には、辺境騎士団の兵たちが整列していた。


 北壁の守備隊、救護院の警備に当たる者、火災で南倉庫へ駆けつけた者たち。全員を持ち場から離すことはできないため、集まったのはおよそ二百名だったが、その背後には館の使用人や救護院の者たちも並んでいる。


 正面の石段には、無理に上らなくて済むよう低い木台が組まれていた。椅子を置く場所まで緩やかな板を渡し、後ろから侍女たちが押し上げられるようにしてある。


 老将の支えを隠すためではない。


 必要な支えを使っても、皆の前へ出られるようにするためだった。


 クラウディアが先に台へ立った。隣にはイゾルデ、少し後ろにエヴァと修司が控える。


 館の扉が開き、アマーリエに付き添われたベルンハルトが、椅子に座ったまま姿を現した。


 ざわめきが起こった。


 二年前の灰冠砦以来、老将を見ていなかった兵も多い。痩せた頬、白くなった髪、毛布を掛けた脚。その姿は、彼らが記憶する北境の獅子とは違っていた。


 それでも、一人の老兵が胸へ拳を当てた。


 次いで、その隣の兵が同じ姿勢を取る。


 波が広がるように、二百の拳が一斉に胸甲を打った。


 重い音が、中庭を揺らした。


「我が君に、敬礼!」


 イゾルデの号令が響く。


 ベルンハルトは椅子に座ったまま、兵たちを見渡した。


 恥じるように毛布で脚を隠すことも、支えている者を下がらせることもしなかった。


「顔を上げろ」


 声は、まだ大きくなかった。


 だが、兵たちのざわめきは一瞬で消えた。


「俺は、二年のあいだ、お前たちの前から逃げていた」


 クラウディアが父を見た。


「灰冠砦で息子アルベルトを失い、負った傷を理由に寝台へ身を隠した。その間、この領地で起きていることを見ようとしなかった」


 自らの非を認める言葉に、兵たちは息を詰めた。


「その隙に、北壁へ届くはずの石が盗まれ、戦死者の家族へ渡るはずの物資まで売られた。マルクス・レーゲンは、記録の偽造と物資横流し、南倉庫への放火を命じた疑いで拘束した。罪は証拠と証言を尽くして裁く。関わった者を一人残らず調べるが、憶測だけで罰することは許さん」


 ベルンハルトは一度、息を継いだ。


 エヴァが銀杖を握り直す。修司にも、老将の右脚の震えが大きくなったのが分かった。


 それでも、ベルンハルトは杖を床へ突いた。


「立つぞ」


 小さな声だった。


 修司は左側へ入り、クラウディアが右側につく。椅子の後ろでは侍女が両手を構え、エヴァが正面から呼吸を見た。


 何をするのか悟った兵たちの間に、動揺が走った。


 修司は、周囲の音を意識から外した。


《共同目標――兵士の前に立つ》


《本人動作――起立》


《支援者間接続――四名》


《連携支援――接続》


 今度は、光が揺れなかった。


 ベルンハルトが上体を前へ倒す。左手で肘掛けを押し、両足に力を込める。


 修司たちは、足りないところだけを支えた。


 老将の腰が椅子から離れた。


 一度、左膝が折れかける。修司がその方向へ身体を入れると、クラウディアが同じ瞬間に父の右肘を支えた。杖の先が石床を強く打ち、ベルンハルトは踏みとどまった。


 そして、二百の兵士の前に立った。


 中庭から、音が消えた。


 二年の寝たきりで、老将の身体は衰えている。杖がなければ立っていられず、娘と異世界人の支えも借りている。


 だが、その眼光だけは、灰冠砦で北境を守った男のものだった。


「よく見ろ」


 ベルンハルトの声が、中庭の奥まで届いた。


「これが今の俺だ。一人では立てん。杖を借り、娘に腕を預け、この者たちの手を借りて、ようやく立っている」


 右手の杖が、もう一度床を打つ。


「だが、支えられて立つことを、俺はもう恥とは思わん」


 修司の胸が熱くなった。


「灰冠砦で俺を生かしたのは、息子アルベルトと、命を懸けて道を開いた兵たちだ。この二年、グランフェルを立たせ続けたのは、ここにいる我が娘と、お前たちだ。誰一人、自分だけの力で立っているわけではない」


 ベルンハルトが、クラウディアへ顔を向けた。


「クラウディア・グランフェル、前へ」


「はい」


 父を支えたまま、彼女は半歩前へ出る。


「これよりグランフェルを率いるのは、我が娘クラウディアである」


 中庭がどよめいた。


「アルベルトの代わりではない。俺の名を借りる領主代行でもない。灰冠砦から民を逃がし、俺が伏せていた二年のあいだ北壁を守り、腐った根を自ら断った者として、正式に俺の後継者と定める」


 クラウディアの青灰色の目が、大きく見開かれた。


 彼女には、知らされていなかったのだ。


「父上、私は――」


「これは、死んだ兄の役目を押しつける命令ではない」


 ベルンハルトは娘を見つめた。


「お前が、お前として積み上げたものを認める。受けるかどうかは、自分で決めろ」


 クラウディアは、整列する兵たちを見渡した。


 その視線が、イゾルデ、救護院の者たち、館の使用人、アマーリエへ移る。最後に、隣で立つ父へ戻った。


「お受けします」


 声は震えていなかった。


「兄上の代わりとしてではなく、クラウディア・グランフェルとして。この領地に暮らす者を守り、北壁を立て直します」


 最初に剣を抜いたのは、イゾルデだった。


 刃を空へ向けるのではなく、胸の前へ垂直に掲げる。騎士団が主へ忠誠を誓う姿勢だった。


「北境の獅子と、その後継者に忠誠を!」


 二百の剣が、一斉に鞘を離れた。


「北境の獅子に忠誠を!」


「クラウディア様に忠誠を!」


 声が石壁にぶつかり、幾重にも返ってくる。


 ベルンハルトは、そのすべてを立ったまま受けた。


 修司の視界には、老将を中心に無数の光が見えていた。


 技能でつないだ光ではない。


 それでも、兵から兵へ、父から娘へ、死んだ者から生きている者へ、何かが確かに受け渡されていくように見えた。


「タカセ」


 ベルンハルトが、声を落として呼んだ。


「はい」


「まだ、あと半言ある」


 エヴァが険しい顔をしたが、老将は兵たちの前へ向き直った。


「そして、この男の職を外れと呼んだ者に告ぐ」


 ベルンハルトの左手が、修司の肩へ置かれた。


「俺を立たせたのは、聖女でも大魔導師でもない。人の暮らしを支えることしかできぬと笑われた、一人の《生活支援士》だ」


 兵たちの目が、一斉に修司へ向いた。


 修司は逃げ出したくなった。


 人前に出るのは得意ではない。まして、二百人の騎士に見つめられるなど、元の世界では一度もなかった。


「俺一人ではありません」


 それでも、声を出した。


「エヴァさんが身体を診て、奥様とクラウディア様、侍女の皆さんが毎日支えました。食事を作った人も、椅子や杖を作った人もいます。ベルンハルト様ご自身が、立とうとしたから立てたんです」


「聞いたか」


 ベルンハルトが笑った。


「自分の手柄まで皆で分けねば気が済まぬらしい。まことに、支援しかできぬ男だ」


 どこかで笑いが起こり、張り詰めていた中庭へ広がった。


 それから、再び胸甲を打つ音が響いた。


「生活支援士タカセに、敬礼!」


 誰が最初に叫んだのか、修司には分からなかった。


 二百の拳が、もう一度胸を打つ。


 耳を震わせる音の中で、修司は、自分が授かった職の名を初めて誇らしく思った。


《共同目標――達成》


《連携支援――終了》


《技能熟練度――上昇》


《本人主体の支援効果が向上しました》


 文字が静かに消える。


「では、座ります」


 修司が言うと、ベルンハルトが露骨に顔をしかめた。


「今、この場で言うことか」


「今だからです。次も立つのでしょう」


「……そうだったな」


 老将は抵抗しなかった。


 杖を支えに膝を曲げ、修司とクラウディアに助けられながら、ゆっくり椅子へ腰を下ろす。倒れ込むのではなく、最後まで自分の力を使って座った。


 エヴァがすぐに脈と呼吸を確かめ、アマーリエが水の入った杯を差し出す。


 ベルンハルトはそれを自分の手で受け取った。


 二年前に倒れた北境の獅子は、誰かの支えを借りながら、自分の足で再び立った。


 そのときだった。


 北壁の方角から、低い角笛が鳴り響いた。


 一度。


 二度。


 そして、短く三度。


 中庭にいた騎士たちの表情が変わった。


 歓声が止み、抜かれていた剣が一斉に鞘へ戻る。イゾルデは台の端まで進み、北の物見塔を見上げた。


「敵襲警報です」


 クラウディアが父の前へ出る。


 北の空に、赤黒い煙が一本立ち上っていた。


 さらにその隣へ、二本目の狼煙が上がる。


 伝令の馬が、館の門を駆け抜けた。


「北方より急報!」


 泥にまみれた兵が馬から転がるように降り、膝をつく。


「灰冠砦の北、黒森より魔獣の大群が出現! 先遣隊の報告では、数、およそ三千!」


 中庭に、冷たい風が吹き抜けた。


「《灰冠の群れ》です!」


 クラウディアの顔から、先ほどまでの驚きが消えた。


 グランフェルを背負う者の目で、北の狼煙を見据える。


 その隣で、椅子へ戻ったベルンハルトが、杖を強く握った。


「来たか」


 北境の獅子が再び立ったその日に、北境を呑み込む災厄が動き始めた。


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