第二十五話 北境の獅子、再び立つ
翌朝、ベルンハルトの部屋には、一本の杖が用意されていた。
黒樫を削った太い杖で、握りの部分には革が巻かれている。クラウディアの命を受けた館の木工職人が、夜のうちに仕上げたものだった。
「長さは悪くないですね。」
エヴァは杖をベルンハルトの右手に持たせ、肘と肩の位置を確かめた。
「けれど、これがあるから歩けると思わないでください。今日試すのは、立っていられるかどうかだけです。少しでも脈や呼吸に異常があれば中止します。」
「兵の前まで這っていけと言うのか」
「椅子で行ってもらいます」
修司が答えると、ベルンハルトの眉間に深い皺が寄った。
「俺は立つと言ったはずだ」
「兵の前で立つためです。そこへ着くまでに力を使い切っては意味がありません」
「館から中庭までだぞ」
「二年間、寝台で過ごしていた方には、十分に遠い距離です」
ベルンハルトが修司を睨む。だが、その横ではエヴァも腕を組み、アマーリエとクラウディアも黙って父を見つめていた。
四対一で勝ち目がないと悟ったのか、老将は鼻を鳴らした。
「好きにしろ。ただし、兵の前では必ず立つ」
「そのために、まずここで試します」
椅子は、これまで使ってきた背もたれの高いものだった。肘掛けの高さと足の位置を確認し、脚元には滑り止めの敷物を置く。立ったあとに疲れたら、すぐ座り直せるよう、椅子は決して遠ざけない。
エヴァが診たところ、朝の脈と呼吸は安定していた。食事と水分も取れている。ただし、試せるのは短い時間に限るという。
「ベルンハルト様、ご自分で立つとき、どこへ力を入れるか分かりますか」
「脚だろう」
「脚だけではありません。少し前へ身体を倒して、両足へ重さを移します。そのあと、左手で肘掛けを押してください。右手の杖は、身体が上がってから支えに使います」
「面倒なものだな。昔は考えずに立っていた」
「皆、そうです。できなくなって初めて、立つのに身体中を使っていたと気づくんです」
修司はベルンハルトの左側へ立った。右側にはクラウディア、後ろには侍女がつき、椅子が動かないよう支える。アマーリエには、正面から夫の顔色を見るよう頼んだ。
持ち上げる者はいない。
中心になるのは、あくまでベルンハルト自身の力だった。
「始めます。足を、もう少し手前へ」
老将の両足が動く。右は素直に引けたが、左は途中で止まった。修司が踵へ手を添え、ベルンハルトが動かそうとする方向だけを助ける。
視界に、淡い金色の線が浮かび上がった。
《生活動作把握――起立》
《本人動作――検出》
《不足支援――左下肢/体幹》
足裏から膝、腰、背へと伸びる線は、初めて技能を使った頃より太くなっていた。寝台の上では途中で途切れていた左脚の光も、今はかすかながら腰までつながっている。
しかし、周囲の手から伸びる線は、それぞれ違う方向へ揺れていた。
クラウディアは父を倒すまいとして、まだ動き出してもいない肩を強く支えている。侍女は椅子が後ろへ動かないか気にしていた。アマーリエは夫の顔ばかりを見て、足元の変化に気づいていない。
誰も間違ってはいない。ただ、支える瞬間がそろっていなかった。
修司は息を整えた。
《共同目標――安全な立位》
《支援者間接続――四名》
《連携支援――接続》
金色の線が、ベルンハルトを中心に重なった。
以前なら、この人数をつないだだけで頭の奥が大きく揺れていた。今もこめかみに圧迫感はある。それでも、何を見ればいいのか、どこまでつなげばいいのかが分かる。
修司はクラウディアの手へ目を向けた。
「今は軽く触れるだけで。前へ倒れる動きを止めないでください」
「分かった」
「奥様、呼吸と顔色が変わったら教えてください。椅子はそのまま」
全員がうなずいた。
「ベルンハルト様。立つのは俺たちではありません。ご自分でお願いします」
「くどい」
老将は左の肘掛けを握った。
「では、身体を前へ。鼻を、つま先より少し先へ出すつもりで」
大きな上体が傾いた。
両足へ重さが移る。ベルンハルトが肘掛けを押し、腰がわずかに浮いた。
だが、左膝が震えた。身体が後ろへ戻りかけ、クラウディアの腕に力が入る。
「そのまま座ります」
「まだだ」
「一度座ります」
修司たちは老将の動きを妨げず、腰を椅子へ戻した。
ベルンハルトは荒くなった息を整えながら、杖の握りを睨んでいた。
「半分も上がらなかった」
「半分近く、ご自分の力で上がりました」
「慰めはいらん」
「事実です。次は、左膝が揺れる前に俺が支えます。クラウディア様は、上へ引かずに身体が前へ進むのを助けてください」
エヴァが銀杖を胸元へ当てる。
「脈が戻るまで休むわ。二度目を試せるかは、そのあと私が決める」
ベルンハルトは不満そうだったが、逆らわなかった。
窓の外から、中庭に兵が集まる音が聞こえてくる。鎧の擦れる音。号令。二年間、老将が遠ざけていた音だった。
「待たせているな」
「待たせておけばいいのです」
クラウディアが言った。
「父上を二年待った者たちです。あと少しくらい、誰も文句は言いません」
ベルンハルトは娘を見た。それから、目を閉じて呼吸を整えた。
やがてエヴァが許可を出した。
二度目。
足を引き、上体を前へ倒す。左手で肘掛けを押し、両脚で床を踏む。
修司の視界で、金色の線が一斉に輝いた。
《本人の残存能力――最大活用》
《過剰介助――なし》
《連携支援――安定》
修司は左膝が崩れる方向だけを支えた。クラウディアの手が、父の身体を引き上げるのではなく、前へ進む動きに沿う。侍女は椅子を固定し、アマーリエは夫の呼吸を見守った。
ベルンハルトの腰が上がった。
曲がっていた膝が、ゆっくり伸びていく。右手の杖が床を捉えた。
老将は大きく息を吐き、自分の足で立った。
背中は、かつてのように真っ直ぐではない。両脚は震え、修司とクラウディアの支えも必要だった。それでも、誰かに抱え上げられた姿ではなかった。
「立てた……」
アマーリエが口元を押さえた。
クラウディアは何も言わなかった。父を支える手を離さぬまま、涙をこらえるように唇を噛んでいる。
「何秒だ」
ベルンハルトが尋ねた。
「時間を競うのは、今日はやめておきましょう」
「兵の前で、二言は話せるか」
エヴァが厳しい顔で老将を見る。
「短く。途中で私が止めたら、すぐ座ること。それが守れるなら」
「三言にしろ」
「二言半ね」
老将の口元に、久しぶりの笑みが浮かんだ。
中庭には、辺境騎士団の兵たちが整列していた。
北壁の守備隊、救護院の警備に当たる者、火災で南倉庫へ駆けつけた者たち。全員を持ち場から離すことはできないため、集まったのはおよそ二百名だったが、その背後には館の使用人や救護院の者たちも並んでいる。
正面の石段には、無理に上らなくて済むよう低い木台が組まれていた。椅子を置く場所まで緩やかな板を渡し、後ろから侍女たちが押し上げられるようにしてある。
老将の支えを隠すためではない。
必要な支えを使っても、皆の前へ出られるようにするためだった。
クラウディアが先に台へ立った。隣にはイゾルデ、少し後ろにエヴァと修司が控える。
館の扉が開き、アマーリエに付き添われたベルンハルトが、椅子に座ったまま姿を現した。
ざわめきが起こった。
二年前の灰冠砦以来、老将を見ていなかった兵も多い。痩せた頬、白くなった髪、毛布を掛けた脚。その姿は、彼らが記憶する北境の獅子とは違っていた。
それでも、一人の老兵が胸へ拳を当てた。
次いで、その隣の兵が同じ姿勢を取る。
波が広がるように、二百の拳が一斉に胸甲を打った。
重い音が、中庭を揺らした。
「我が君に、敬礼!」
イゾルデの号令が響く。
ベルンハルトは椅子に座ったまま、兵たちを見渡した。
恥じるように毛布で脚を隠すことも、支えている者を下がらせることもしなかった。
「顔を上げろ」
声は、まだ大きくなかった。
だが、兵たちのざわめきは一瞬で消えた。
「俺は、二年のあいだ、お前たちの前から逃げていた」
クラウディアが父を見た。
「灰冠砦で息子アルベルトを失い、負った傷を理由に寝台へ身を隠した。その間、この領地で起きていることを見ようとしなかった」
自らの非を認める言葉に、兵たちは息を詰めた。
「その隙に、北壁へ届くはずの石が盗まれ、戦死者の家族へ渡るはずの物資まで売られた。マルクス・レーゲンは、記録の偽造と物資横流し、南倉庫への放火を命じた疑いで拘束した。罪は証拠と証言を尽くして裁く。関わった者を一人残らず調べるが、憶測だけで罰することは許さん」
ベルンハルトは一度、息を継いだ。
エヴァが銀杖を握り直す。修司にも、老将の右脚の震えが大きくなったのが分かった。
それでも、ベルンハルトは杖を床へ突いた。
「立つぞ」
小さな声だった。
修司は左側へ入り、クラウディアが右側につく。椅子の後ろでは侍女が両手を構え、エヴァが正面から呼吸を見た。
何をするのか悟った兵たちの間に、動揺が走った。
修司は、周囲の音を意識から外した。
《共同目標――兵士の前に立つ》
《本人動作――起立》
《支援者間接続――四名》
《連携支援――接続》
今度は、光が揺れなかった。
ベルンハルトが上体を前へ倒す。左手で肘掛けを押し、両足に力を込める。
修司たちは、足りないところだけを支えた。
老将の腰が椅子から離れた。
一度、左膝が折れかける。修司がその方向へ身体を入れると、クラウディアが同じ瞬間に父の右肘を支えた。杖の先が石床を強く打ち、ベルンハルトは踏みとどまった。
そして、二百の兵士の前に立った。
中庭から、音が消えた。
二年の寝たきりで、老将の身体は衰えている。杖がなければ立っていられず、娘と異世界人の支えも借りている。
だが、その眼光だけは、灰冠砦で北境を守った男のものだった。
「よく見ろ」
ベルンハルトの声が、中庭の奥まで届いた。
「これが今の俺だ。一人では立てん。杖を借り、娘に腕を預け、この者たちの手を借りて、ようやく立っている」
右手の杖が、もう一度床を打つ。
「だが、支えられて立つことを、俺はもう恥とは思わん」
修司の胸が熱くなった。
「灰冠砦で俺を生かしたのは、息子アルベルトと、命を懸けて道を開いた兵たちだ。この二年、グランフェルを立たせ続けたのは、ここにいる我が娘と、お前たちだ。誰一人、自分だけの力で立っているわけではない」
ベルンハルトが、クラウディアへ顔を向けた。
「クラウディア・グランフェル、前へ」
「はい」
父を支えたまま、彼女は半歩前へ出る。
「これよりグランフェルを率いるのは、我が娘クラウディアである」
中庭がどよめいた。
「アルベルトの代わりではない。俺の名を借りる領主代行でもない。灰冠砦から民を逃がし、俺が伏せていた二年のあいだ北壁を守り、腐った根を自ら断った者として、正式に俺の後継者と定める」
クラウディアの青灰色の目が、大きく見開かれた。
彼女には、知らされていなかったのだ。
「父上、私は――」
「これは、死んだ兄の役目を押しつける命令ではない」
ベルンハルトは娘を見つめた。
「お前が、お前として積み上げたものを認める。受けるかどうかは、自分で決めろ」
クラウディアは、整列する兵たちを見渡した。
その視線が、イゾルデ、救護院の者たち、館の使用人、アマーリエへ移る。最後に、隣で立つ父へ戻った。
「お受けします」
声は震えていなかった。
「兄上の代わりとしてではなく、クラウディア・グランフェルとして。この領地に暮らす者を守り、北壁を立て直します」
最初に剣を抜いたのは、イゾルデだった。
刃を空へ向けるのではなく、胸の前へ垂直に掲げる。騎士団が主へ忠誠を誓う姿勢だった。
「北境の獅子と、その後継者に忠誠を!」
二百の剣が、一斉に鞘を離れた。
「北境の獅子に忠誠を!」
「クラウディア様に忠誠を!」
声が石壁にぶつかり、幾重にも返ってくる。
ベルンハルトは、そのすべてを立ったまま受けた。
修司の視界には、老将を中心に無数の光が見えていた。
技能でつないだ光ではない。
それでも、兵から兵へ、父から娘へ、死んだ者から生きている者へ、何かが確かに受け渡されていくように見えた。
「タカセ」
ベルンハルトが、声を落として呼んだ。
「はい」
「まだ、あと半言ある」
エヴァが険しい顔をしたが、老将は兵たちの前へ向き直った。
「そして、この男の職を外れと呼んだ者に告ぐ」
ベルンハルトの左手が、修司の肩へ置かれた。
「俺を立たせたのは、聖女でも大魔導師でもない。人の暮らしを支えることしかできぬと笑われた、一人の《生活支援士》だ」
兵たちの目が、一斉に修司へ向いた。
修司は逃げ出したくなった。
人前に出るのは得意ではない。まして、二百人の騎士に見つめられるなど、元の世界では一度もなかった。
「俺一人ではありません」
それでも、声を出した。
「エヴァさんが身体を診て、奥様とクラウディア様、侍女の皆さんが毎日支えました。食事を作った人も、椅子や杖を作った人もいます。ベルンハルト様ご自身が、立とうとしたから立てたんです」
「聞いたか」
ベルンハルトが笑った。
「自分の手柄まで皆で分けねば気が済まぬらしい。まことに、支援しかできぬ男だ」
どこかで笑いが起こり、張り詰めていた中庭へ広がった。
それから、再び胸甲を打つ音が響いた。
「生活支援士タカセに、敬礼!」
誰が最初に叫んだのか、修司には分からなかった。
二百の拳が、もう一度胸を打つ。
耳を震わせる音の中で、修司は、自分が授かった職の名を初めて誇らしく思った。
《共同目標――達成》
《連携支援――終了》
《技能熟練度――上昇》
《本人主体の支援効果が向上しました》
文字が静かに消える。
「では、座ります」
修司が言うと、ベルンハルトが露骨に顔をしかめた。
「今、この場で言うことか」
「今だからです。次も立つのでしょう」
「……そうだったな」
老将は抵抗しなかった。
杖を支えに膝を曲げ、修司とクラウディアに助けられながら、ゆっくり椅子へ腰を下ろす。倒れ込むのではなく、最後まで自分の力を使って座った。
エヴァがすぐに脈と呼吸を確かめ、アマーリエが水の入った杯を差し出す。
ベルンハルトはそれを自分の手で受け取った。
二年前に倒れた北境の獅子は、誰かの支えを借りながら、自分の足で再び立った。
そのときだった。
北壁の方角から、低い角笛が鳴り響いた。
一度。
二度。
そして、短く三度。
中庭にいた騎士たちの表情が変わった。
歓声が止み、抜かれていた剣が一斉に鞘へ戻る。イゾルデは台の端まで進み、北の物見塔を見上げた。
「敵襲警報です」
クラウディアが父の前へ出る。
北の空に、赤黒い煙が一本立ち上っていた。
さらにその隣へ、二本目の狼煙が上がる。
伝令の馬が、館の門を駆け抜けた。
「北方より急報!」
泥にまみれた兵が馬から転がるように降り、膝をつく。
「灰冠砦の北、黒森より魔獣の大群が出現! 先遣隊の報告では、数、およそ三千!」
中庭に、冷たい風が吹き抜けた。
「《灰冠の群れ》です!」
クラウディアの顔から、先ほどまでの驚きが消えた。
グランフェルを背負う者の目で、北の狼煙を見据える。
その隣で、椅子へ戻ったベルンハルトが、杖を強く握った。
「来たか」
北境の獅子が再び立ったその日に、北境を呑み込む災厄が動き始めた。




